東京・平和島のフルーツパフェ店「Safi」のオーナーである鈴木瑞穂さん。空き家となった元質屋だった古い実家を改装して2022年にオープンし、行列ができる人気店になりました。「Safi」ではアートも楽しむことができ、カフェの2階を使って展覧会も開催しています。もともと美術館や科学館での仕事に長らく携わってきましたが、このまま会社員を継続することに疑問を感じ仕事をストップ。その後、「おばあちゃんになるまで働きたい」という思いから、会社員に戻るのではなく、フルーツパフェ店を開業することをひらめきます。全くの未経験でしたが、老舗フルーツパーラーや地域コミュニティ施設でアルバイトを行い、スキルを身に付け、人脈を広げました。最初から完成されたお店を作るのではなく、アジャイルなアプローチで夢を実現した鈴木さんのライフシフトをうかがいました。
鈴木瑞穂さん(NO.117/フルーツパフェ専門店「Safi」のオーナー)
■1974年生まれ、東京都出身。大学時代に原美術館のカフェでアルバイトを経験。大学卒業後はデンマークの家具メーカーに就職し、結婚を機に5年で退職。その後、横浜トリエンナーレ2001のミュージアムショップでのアルバイトを経て、2003年に森ビルに転職。森美術館のミュージアムショップ運営に携わる。2012年に日本科学未来館に転職するが、任期満了の5年で退職。父と姉の介護を経て、フルーツパーラーで1年半、ものづくり特化型インキュベーション施設「KOCA」で1年アルバイトを行い、2022年にアートギャラリーを併設したフルーツパフェ専門店「Safi」をオープン。
■家族:夫、長男、次男
現代アートが好きでミュージアムショップに勤務
高校時代から現代アートに興味があり、大学入学が決まった日に北品川にあった原美術館に電話をしました。「アルバイトを募集していませんか」と尋ねて、美術館内のカフェで働けることになったんです。原美術館は邸宅として建てられた洋館を再生していて、当時は家族経営でした。現代美術を中心に展示・イベントを行っていて、カフェを併設している美術館はまだ珍しかった時代です。カフェではアーティストの作品をモチーフにしたケーキを作るなど、アートと日常をつなぐ楽しさに触れました。このときの経験が今の私の原点になっていると思います。
高校と大学では中国文化を学んでいましたが、インテリアに関わる仕事に興味があり、卒業後はデンマークの家具会社に就職しました。デンマークと日本を行き来しながら日本にフランチャイズのショップを立ち上げる仕事で5年ほど働きました。その後、結婚を機に退職しましたが、アートの仕事をしたくて職探しをしました。美術を専門として学んでいない私が美術館で働くのは難しかったのですが、ちょうど第1回・横浜トリエンナーレのミュージアムショップでアルバイトの募集があったので応募し、お店の立ち上げから関わって働きました。
その際、私の働きを見ていた方が、六本木ヒルズの森美術館オープンにあたって声をかけてくださいました。森ビルの文化事業部で正社員としての採用となり、森美術館で働くことになったのです。ミュージアムショップの運営を担当し、70名ほどのアルバイトスタッフさんを抱える大所帯で大変ではありましたが、店舗運営の基礎を身に着けることができました。
子どもを2人出産し、育児休暇を取りながら母の助けを借りて働いてきましたが、ちょうど10年経った頃、森ビルが日本科学未来館にミュージアムショップを作ることになりました。その立ち上げを任されたのですが、日本科学未来館は科学だけでなく、アート、文化、社会の領域を横断した内容の展示があり、面白い人たちがいっぱいいたんです。そこで森ビルを退職し、日本科学未来館で働くことにしました。もともと私は森ビルの社員だったわけですから、不義理な転職でした。でもどうしても日本科学未来館で働きたかったので、「申し訳ありません」と謝罪をして辞めたのです。日本科学未来館は自分とはバックグランドの異なる理数系の優秀なメンバーといくつものプロジェクトを抱え、これまでの経験を活かしながら仕事の幅を広げることができました。
3年間で祖母、母、父、姉の4人を介護
一方で、未来館勤務時代に家族の介護が始まりました。もともと私の実家では祖母、母、父、姉が暮らしていたのですが、母がすべてを仕切っていました。その母が病気になったため、祖母と母の介護、家事全般を私が担うことになったのです。姉は頼れる人ではなかったので、私がやるしかありません。実家から自転車で10分ほどの場所に住んでいましたが、子どももまだ小学生でしたし、自宅、職場、実家を行き来する日々でした。夫や子ども達もサポートしてくれましたが、任期を満了するタイミングで仕事を辞めることにしたのです。
祖母が亡くなった後、2週間後に母が亡くなり、姉も乳がんで亡くしました。父も3年後に亡くなりました。祖母は病院で、母はホスピスで、姉は自宅で、父は老人ホームで看取り、もうすべてを経験した感じです。この連続介護の3年間は記憶がないくらい大変でしたが、なかには介護が10年以上続くご家族もいらっしゃいます。私の場合は3年だったのでなんとか1人で乗り切れたという思いです。
父を老人ホームに預けたあたりから、少しずつ自分の時間がとれるようになり、次にやりたいことへの構想を考えるようになりました。もともと「おばあちゃんになっても働いていたい」という思いがありましたが、定年がある会社員だとそれは難しいですよね。なりたいイメージは商店街の小さな喫茶店をきりもりする洒落たおばあちゃんでした。自分が経営するお店であれば、おばあちゃんになっても自分のペースで、現役で働くことができます。
また私はファッション雑誌「Olive(オリーブ)」を読んで育った“オリーブ少女”です。オリーブに登場する女性たちは、おしゃれで、カフェなどのお店をやりながら自分らしく生きていて、昔から「いつか私もお店屋さんをやりたい」という気持ちを持っていました。
じゃあ何のお店をしようかと考えたとき、焼き菓子などのスイーツ店だと極めるのに時間がかかり、長年やってきた人にかなわないと思いました。一方でよく子どものためにジェラートを手作りしていて、それがとても美味しくできたのを思い出しました。でもジェラートだけでは客単価が低いので採算がとれるか心配です。そこでフルーツをのせてパフェのお店を作ればいいのではと思い立ったのです。とはいえフルーツの仕入れや保存法、上手に切る方法などはまったくわからないので、まずはフルーツパーラーでアルバイトをして学ぶことにしました。
フルールパーラーでのバイトでパフェづくり修行
老舗フルーツパーラーの求人を見つけて応募したのは45歳のときでしたが、バイトでしたし、すんなり採用されました。最初は下働きからスタートし、フルーツを扱わせてもらうのはずっと先のことだろうと思っていました。でも、そのお店では初日からフルーツを切らせてもらえ、とてもラッキーでした。フルーツによって切り方、追熟方法などが違いますが、基本からしっかり教えてもらえ、すぐにパフェを作らせてもらえるようになったのです。
40も半ばになって若い人たちに指導されることを嫌がる人もいるかもしれませんが、私は修行の身でしたしまったく抵抗はありませんでした。バイトなので言われたことをやっていればよく、社員ほどの責任がないのもラクでしたし、学生時代に戻ったようで楽しかったです。
1年半のバイト生活で、春夏秋冬の果物を経験し、パフェを作るために必要なことを学ぶことができました。たとえば旬の桃と終わりの桃では硬さも味も違うといったことがわかり、切り方、盛り付け法などを身に付け、お店を始めるにあたって自信がつきました。
地域とのつながりがあれば個人事業主でもやっていける
私がフルーツパーラーを開こうと思ったもう一つの理由に、自宅のある平和島が大田市場に近かったということもあります。大田市場には全国からフルーツが集まってくるため、旬の美味しいフルーツを手に入れやすいと思ったのです。また、大田市場に近いとはいえ、平和島の街にフルーツがあふれているわけではありません。将来的に平和島がフルーツの街として盛り上がれば面白いなという思いもありました。
また、お店は地域の人たちに支えられて成り立つものだと思いますが、私は当時、地域とのつながりがありませんでした。地元ではありますが、長く会社員をやってきて、地域のことには関わってこなかったのです。お店を始める前に地域でバイトをして、地域の人と仲良くならなければと思いました。ちょうど、ものづくり特化型インキュベーション施設「KOCA」の求人を見つけて、またバイト生活が始まりました。
「KOCA」は東京・蒲田をベースに活動するクリエイターの拠点で、京急線高架下の場所を活用していることから名付けられています。ここで私は運営スタッフとして働き、たくさんのクリエイター達と知り合うことができました。まだできたばかりの組織だったので、マニュアルや契約書を作ったり、人と人をつなげてビジネスに結びつけたりするのが業務内容でした。それまではずっと会社員だったので個人事業主という働き方に不安があったのですが、出会った人たちを見て、つながりがあれば協力し合うことができ、自分もやっていけそうだと安心できました。
建築家のアドバイスで昭和な実家を改装してカフェに
お店を始めるにあたっては、スキルや人脈だけでなく、考え方の転換も必要でした。会社員のときは組織としてどう動くのがいいのかを常に考えて、自分がやりたいことなんて表に出さない人間でした。好きな分野で働いていたとはいえ、言われたことをやって、結果を出すことが仕事であり、自分らしさを求められることなどありません。でも、自分でお店をやるなら、自分の個性を活かしてやりたいことを追求していかなければならず、これまでとは真逆の思考でビジネスを進めていくのが新鮮でした。
店舗については、最初は実家を活用することは念頭にはなかったのです。でも、家族がみんな亡くなって空き家になってしまったので、実家を建て直してお店を作ろうという方向に変わりました。ただ、建て直すとなると、億単位で費用がかかります。そうなると一部をアパートなどにして人に貸し、そこから建築費用を回収するしかありません。でも、それだとなんだかつまらないなと思ったんです。
建築家の方に相談すると「家を建て替えず、600万円くらいの費用で改装してお店にしたほうがいい」とアドバイスされました。いきなり建て替えるのではなく、最小限のリスクでスタートして、アジャイルでいくという方法です。とはいえ、うちは文化的な家庭ではなかったので、しゃれたところはなく、築60年の質蔵があるような古い昭和の家です。私はダサい実家が好きではなかったのですが、周りにいるアーティストや建築家たちからは、古いものを壊して、新しいものを買い替えるのではなく、そこにあるものの本質的な美しさを見出してくれることを学びました。大田区の補助金を使えば費用も抑えられます。
こうして建て替えからリノベーションに方向転換し、建築家と一緒にどこを改装してどこを残すかを考え、空間づくりを始めることにしたのです。何より環境にも負荷がかかりません。それほどお金をかけていないので、子どもが引き継いだときに壊してくれてもいいですし、子どもに負担がかからないということも考慮しました。
「KOCA」の仕事をしたことで大田区在住のアーティストとつながりができたことも、お店づくりを大きく前進させてくれました。質蔵を作品を見れる場所にすることにしたのです。森美術館でも展示されていて存じ上げていたアーティスト・東恩納裕一さんとKOCAで再び出会い、作品制作をお願いして、お客さまは作品のある空間でパフェを食べれるようにしました。
2階は昭和のままの古びた空間だったのですが、東恩納さんが美術館のホワイトキューブではなく、かつての住人の残り香のある空間のほうが面白いと言ってくださり、当時の空気を残したままでアートを展示する場所として生まれ変わりました。東恩納さんとは意気投合し、時々きまぐれに展示をおこなうHeimlichkeitNikai(ハイムリッヒカイトニカイ)を共同主催しています。ギャラリー名はドイツ語のheimlichkeit(ひっそりっと隠れた)は、会場の元質店であった古家(heim:家)が奥まった路地にあることに由来します。
ゲスト作家を迎えてこれまで2回ほど展覧会を開催し、この春にも展覧会を企画しています。それ以外でも機会があればアーティストの作品を展示し、イベントなども行っていくつもりです。実家の中はまだまだ納得していない部分がいろいろありますが、これからも手を加えながらここにしかない空間を作っていければと考えています。
フルーツパフェ店は春夏のみオープンでも収益が出る人気店に
おしゃれな街ではない平和島という場所で、しかも古い昭和の家でのパフェのお店をするというと、最初はまわりの人に反対されました。流行る要素がまったくないというのが一般的な考え方ですし、私もそう思っていました。でも、私は自分をあまり信用していないので、いつも誰かに意見を聞いてみることにしています。地域の不動産会社の人や建築家、アーティストに相談したことで、実現する方法が見えてきたのです。
2022年にオープンしたフルーツパフェ店「Safi」は、春夏のみのお店ですが、おかげさまで人気店となり、2年目には前年の約3倍のお客さんが来てくださいました。旬の果物を主役にしたメニューがウリで、パフェ評論家の方が絶賛記事を書いてくださり、アーティストも集ってくれます。ママ友が大田市場の青果店の経営者なので、そこからすごくいいフルーツを仕入れることもできています。会社員時代よりも月収ベースでは収入もアップしました。
もともとは1人でのんびりやっていくイメージをしていましたが、今となってはとても無理で、ママ友に手伝ってもらって2~3人体制でやっています。彼女たちもお店に愛着を持ってくれて、「人生後半のやりがいを見つけた」と言ってくれるのがうれしいです。会社員をやっているとなかなか地域の魅力に気づけないのですが、地域に溶け込むと、自転車で行ける範囲のスモールシティの楽しさに気づきました。
春と夏しか営業しないのは、パフェのシーズンだからというわけではありません。私は病気のため手術をしており、秋冬は術後のアフターケアのためにお休みをしていたのです。ケアが終わったら秋冬もオープンしようと計画していたのですが、思いのほか半年だけ働くというスタイルが気に入ってしまいました。パフェは果物の美味しい季節だけの限定オープンにして、秋冬はお店を貸し出すという方法もありますし、今度、どうするかについてはまだ決まっていません。
でも完成された空間ではなく、無理をして頑張って作り上げたというより、自分が好きなことと、これまでの経験、地域の人たちとのつながりによってできたお店だからこそ、お客さんも居心地の良さを感じてリピートしていただけるのではないかと思っています。まだ発展途上ではありますが、お店づくりを楽しみながら、これからも自分のペースで、おばあちゃんになっても働き続けていきたいと思っています。
(取材・文/垣内 栄)
*ライフシフト・ジャパンは、数多くのライフシフターのインタビューを通じて紡ぎだした「ライフシフトの法則」をフレームワークとして、一人ひとりが「100年ライフ」をポジティブに捉え、自分らしさを生かし、ワクワク楽しく生きていくためのワークショップ「LIFE SHIFT JOURNEY」(ライフシフト・ジャーニー)を個人の方及び企業研修として提供しています。詳細はこちらをご覧ください。