博報堂を55歳で退職し、人材開発会社を立ち上げた石原洋子さん。同時に静岡県下田市で貸別荘の経営を開始し、東京と下田の二拠点で生活されています。縁もゆかりもなかった下田の町を夫婦で気に入り、将来的には根を下ろすつもりで家を建て、余った土地に貸別荘を作りました。飲むことが大好きな石原さんは、地元のお店で友だちを増やし、下田の人々のコミュニティに溶け込んでいます。博報堂でやりがいのある仕事を任されていたものの、自分らしく長く仕事を続けていくために55歳で辞めることは以前から決めていたという石原さん。ライフシフトの軌跡をうかがいました。
石原洋子さん(NO.122/株式会社mimosa 代表取締役)
■1968年生まれ、東京都出身。上智大学卒業。1992年に博報堂に入社。営業やクリエイティブ戦略企画、子会社の設立などを経験。2016年から人事局に所属、2019年に人材開発戦略局ネクストキャリアデザイングループでシニア専門チームを立ち上げた。2020年にはキャリアコンサルタントの国家資格を取得。2022年からはキャリア開発グループで、新人からシニアまでのキャリア開発領域を統括。2024年4月に退職。現在は人材開発領域での仕事+下田で貸別荘の女将をしている。
■家族:夫、犬2匹(千代子と奈々)
■座右の銘:はい、よろこんで!
どんな仕事も面白がって成長してきた
私は父親の仕事の関係で、中学・高校はイギリスで過ごしました。現地の小さな女子校に通っていましたが、最初の1年は英語ができず、周りの人とコミュニケーションが取れず、マイノリティとして差別をされることもあり、中学2年生で胃潰瘍になるほどストレスを抱えていました。英語が話せるようになってから今度は自分がどこの国の人間なのかが次第にわからなくなってきてしまい、自身のアイデンティティを取り戻すために大学進学は日本を選んだのです。
つらい経験でしたが、自分が差別される側となって、弱者の立場を経験できたことで、「物事を相手の立場から見る」ことができるようになったと感じています。困っている人に手を差し伸べる、人の役に立ちたいという気持ちがより強くなり、のちに「人のキャリアを応援する」という仕事に就きたいと思えたのも、多感な時期に「自分が何者なのか」がわからなくなり自信喪失の時期が長くあったということが大きく影響していると思います。

イギリス時代。高校3年生のとき教室で(左奥)。
広告業界に興味を持ったのは、大学時代、CMの撮影現場で外国人モデルの通訳のアルバイトをしたことがきっかけでした。1秒の映像を撮るのに何十人ものスタッフが集まり、何時間もかけて撮影するのを目の当たりにしました。この撮影にたどり着くまでにものすごい時間と労力をかけてマーケティングなどが行われているはず、と思いそのプロセスを見たくなったのです。
就職は希望通り博報堂に入社することができ、40歳まで営業を担当していました。尊敬できる仲間に囲まれ、どんな仕事も面白がって、居酒屋の接客ではないですが、「はい!よろこんで」という姿勢で、成長してきたと思います。35歳のときに労働組合の委員長を経験したのですが、クライアントのことを最優先する営業とは全く違う視点で、会社と従業員の関係性をよりよくすることを考えるようになりました。40歳の時にそれまでの環境を変えたくなり異動を希望し、クリエイティブ戦略企画や子会社の設立といった業務を担当するようになりました。希望した部門ではありませんでしたが、会社法やPLとBSの関係など、学ぶことがいっぱいで思いのほか新鮮で楽しく、子会社を成長させていくことに邁進しました。
キャリアを応援する仕事の面白さに目覚める
46歳のときに青天の霹靂で人事局に異動になりました。国内グループ人事部長として、60社以上あるグループ会社の人事からいろんな領域の相談を受けるという仕事でした。ここでは労働法を学びつつ、人事の業務をゼロから学びました。
人事もとても楽しかった一方、人事という仕事の性質上、以前の業務と比べると自身の裁量が狭まり、少し窮屈に感じることもありました。そんなときにシニアのキャリア開発のプロジェクトに参加することになり、これがとても面白かったのです。外部の専門家の話を聞きに行くなど勉強し、シニアのキャリア開発専門の組織を作ることを会社に提案をしました。するとその企画がすんなり通ってしまったのです。ちょうど50歳のときです。
じつは私は就職活動の際、博報堂のほかにリクルートにも応募していました。その面接の際に「少子高齢化に向けてシニア向けの就職情報誌を作りたい」と話していたのです。シニアのキャリア開発の企画書はスラスラ書けて、自分の中にストンと腹落ちした感じがあったのですが、学生時代から考えていた分野だったということ気づいたのはつい1年前。とある講義をするために自分の人生の棚卸をしたときでした。さらに40歳の時の異動も「人材開発」を希望していました。50歳で人材開発部門でシニアを担当することになり、結果として「伏線を回収した」形になったことに驚いています。
組織が発足すると、社員のキャリアを応援する仕事の面白さに目覚め、「天職に出会ってしまった!」という気持ちでした。その後、キャリアコンサルタントの資格も取得し、学び続けること自体も楽しくて、退職したらこの仕事で生きていこう!と思えたことはとても幸運でした。
思えば、営業のときは得意先を応援し、組合では社員を応援し、社員の代表として社員を幸せにすることをずっと考えてきました。とくにシニアの人たちと話すと、スキルも実力もあるのに自信をなくしているケースもあり、「どうにか元気になって仕事・人生を楽しんでもらいたい」という思いが強くなりました。昔から「ケツ叩きのプロ」と言われてきたのですが、自信をなくしたシニアの人たちに「あなたたちは1歩外に出ると、ものすごい重宝されるポータブルスキルを持っているんですよ」と伝えて、やる気を取り戻してもらえるよう働きかけました。
特にシニア社員は会社の再雇用が終わる65歳までのことしか考えていないということが多いのですが、人生100年時代、むしろ65歳以降の人生を考えることのほうが重要です。そこで「会社はいつか卒業する。だけど人生は続く。」というコピーを元コピーライターのメンバーに書いてもらい、セミナーやワークショップを通じて社内で啓発を行ってきました。
私はシニアの皆さんに「この先何十年も人生があるので、いくつになっても遅くはないんです。今は準備期間だと思えば、なんでもできるじゃないですか」と伝えてきました。ワークショップを受講した方の中には「このままじゃいけない」と気づき、その後のフォロー面談を何回もやったケースもあります。行動を起こせない方ももちろんいるのですが、「何かやらなきゃ」と気づく方を増やすことができたのではないかと自負しています。

55歳で博報堂を退職した日。たくさんの花束をもらった。
55歳で下田に移住することを決意
プライベートでは30代後半で同期だった今の夫と再婚同士で結婚しました。子どもが欲しかったのですが、流産を繰り返し、出産を断念したのが42歳のときです。ちょうどこの頃、夫が大学院で「公共経営学」を学んでいたこともあり、「会社を辞めたら東京ではないところに住もう」と考えるようになりました。 何度も流産を繰り返したことで、心のどこかで「この生活を変えないといけない」と思っていたのかもしれません。東京での生活が充実していた一方で、東京に対して「お腹いっぱい」になった感覚もありました。
私は西新宿で生まれ、小学生のときは逗子、中高はイギリスの田舎で暮らし、父の実家の浦賀にもよく行きました。浦賀や逗子での生活はとても好きだったので、自然が多く、できれば海の近くに住みたいという気持ちはずっと持っていました。夫も東京で生まれ育ちましたが、福井の敦賀に縁があり、海の近くに住みたいということは二人に共通していました。
海の近くで、食べ物が美味しくて、気候が温暖な場所という3つの条件で探し始め、休みの日には会社の先輩が移住した奄美大島や瀬戸内などに遊びに行って移住場所を探していました。途中で犬を飼い始めると、飛行機に乗れなくなり、車で行ける場所ということでたどり着いたのが伊豆半島の下田でした。縁もゆかりもない土地でしたが、文化があり、人も優しい下田を気に入り、「55歳になったら移住しよう」とふたりで決めたのです。
博報堂は定年について、「55歳で早期退職する、65歳まで働く、60歳で定年退職する」という3つの選択肢の中から選べる制度になっています。55歳のときに選択をするのですが、私はこの先、長く、自分らしく仕事を続けていくために55歳で会社員は卒業することを50歳くらいから決めていました。最後の5年間は会社への恩返しの思いを持って、人材開発の仕事を行っていました。
会社員を辞めた後に何をするか、ぼんやりと考えていたことが明確になったのは、52歳のときにライフシフト・ジャパン主催のワークショップ「LIFE SHIFT JOURNEY」を受講したことがきっかけでした。シニアの方に受講してもらうためのリサーチでまずは自分で受講してみたのですが、自分らしく仕事をする、人材開発の領域でビジネスをする、仲間を大切にする、好きな場所で地域貢献をするといった想いがはっきりしたのです。ありたい未来を描くワークはすべて下田の写真で埋め尽くされました。そしてその未来を実現するためのスモールステップとして、東京のマンションを売却し、以前祖母が住んでいた私の実家の二世帯住宅に移り、下田の物件を探すことを夫婦で話し合う、と書いたのです。ワークショップの後、夫婦や両親ともしっかり話し合い、数か月でマンション売却のめどが立ち、下田で土地が見つかり、購入することができました。言霊といわれますが、言語化したことで人生が大きく動き出しました。
下田には70代後半の女将さんが元気にやってらっしゃる「賀楽太」という名物居酒屋があります。そこに12年前に夫婦で初めて入ったのですが、「明日、シュノーケリングをして東京に戻ります」と言ってお店を出ようとすると、女将さんが「海で食べられるからこれを持っていって」とおかずの詰め合わせをタッパーに入れてくださいました。そして1年後にそのタッパーを返しにお店に行き、そこから女将さんとのお付き合いが始まりました。お店に行くと地元の方をたくさん紹介してくださり、どんどん友だちの輪が広がって、下田の物件の情報もそこでできた友だちが教えてくれたのです。

お祭りの日に居酒屋「賀楽太」の前で、下田で住む地区のオリジナル浴衣を着て。
貸別荘の経営は地域貢献のため
下田の家は終の棲家にするために平屋にし、大きな庭を造ったのですが、それは2匹の愛犬のためでした。私たち夫婦の生活は犬を中心に回っているといっても過言ではありません。子供をあきらめた私たちにとっては娘のようにかわいい存在で、一緒に寝て、旅行にも行き……という生活がもう9年目に入ろうとしています。

同名のチワワが多かったため、チョコから改名した千代子(9歳・右)と夫の実家から引き取った奈々(11歳・左)。
貸別荘を建てることは最初から考えていたわけではありません。購入した土地が広くて、自分たちの家を建てるだけでは持て余してしまうことがわかり、貸別荘を建てて下田に遊びに来てもらう人を増やすことにしたのです。
これまで下田に来るときは、犬と一緒に泊まれる貸別荘を選んでいました。「犬を連れて行くときにこれがあると便利」といった理想の貸別荘の姿が自分の頭の中にあり、それを具現化できる場所にしようとワクワクしました。
別荘での飲食の提供はしないことにしました。素泊まりなら、食事は下田の飲食店でとることになります。町の素晴らしさや美味しいお店が多いことを知ってもらえ、地域貢献にもつながると思いました。貸別荘は私たち夫婦が下田にいるときしかオープンしないので、ビジネス的には赤字です。利益のためではなく、下田の素晴らしさを知ってもらうための拠点と考え、趣味を兼ねた副業的な位置づけとなっています。
夫は私より2年早く辞めて、会社を作って仕事をしています。下田に来るタイミングを合わせ、犬を連れて二人で車で向かいます。下田滞在中にどうしても東京で仕事があるときは、電車で上京し、どちらかが下田に残って犬の面倒を見られるようにしています。
夫婦関係はお互いに自立して、困ったときは可能な限り助け合うことが大事だと思っています。ふたりで1つの旅をしているわけではなく、それぞれ自分の旅があって、その旅の仲間として1番近くにいる、そんなスタンスでよい関係が築けています。

犬と一緒に宿泊できるゲストハウスは2~3名向き(最大4名まで)。駅徒歩5分で近隣には美味しい店も豊富
自分のペースで生涯現役で働きたい
東京で立ち上げた会社は、企業向けの人事・人材開発領域でサービスを提供するのが主な業務です。たとえばシニアのキャリア開発に手がつけられていなくてプロの意見を聞きたい、研修をしてもらいたい、評価制度の相談をしたい、といったことにも対応しています。博報堂で人材開発にいた5年間の最後の2年は、新人からシニアまで全部の領域を見ていました。新人のオンボーディング、年代別研修、キャリアワークショップ、講師、プランニングと幅広く担当してきたので、お客様に合わせてサービスを提供できます。組織の中でキャリアアドバイザーをやることの本質は、「社員を元気にすることで、結果として組織を元気にすること」だと思っています。その流れをいろんな会社でどうやったら作れるかを微力ながらお手伝いしていきたいと考えています。
金銭面では、もちろん不安がなかったわけではありませんが、早く貸別荘業を始めたかったので、ハローワークには行かず、失業手当ももらわずにすぐに準備に取り掛かりました。「独立してどこからも仕事の声がかからなかったらどうしよう」という心配もありましたが、ありがたいことに先に博報堂を辞めて他の会社に転職した後輩たちが縁をつなげてくれ、仕事をスタートすることができています。
東京での仕事は相変わらずの「はい、よろこんで!」精神で「お声がかかればなんでもやります!」というスタンスですが、あくせく働くのではなく、自分のペースで働くことに決めています。たとえ収入が減っても、夫や愛犬と一緒に過ごす時間を増やしたかったのです。下田は自営業の人が多くて、農業や飲食店など年齢に関係なく、マイペースでイキイキと仕事をされています。そんな下田の人たちを見ていると世界が広がり、生涯現役とはこういうことなんだと実感し、55歳からの自分の働き方、生き方を考えるヒントになりました。
一方で、やりたいことがないのに「早期退職で退職金が上積みされるから」というだけの理由で定年前に辞めるのはおすすめしていません。その先の長い人生、やりたいことがないと確実に退屈してしまいますし、健康に生きるためにも必要です。やりたいことを見つけるには、自分の中の軸が何かを言語化しておくことが大事だと思います。私の場合は、人に対しての貢献、会社や社会に対しての貢献、下田で暮らすといった軸がはっきりしていたので、行動に移すことができました。そして軸があれば、やりたいことは変わっていってもいいと思います。
キャリアカウンセリングを行っていると、自分のことは意外とわかっていない人が多く、やりたかったことを諦めていたり、心の奥底に封印してしまい、そのこと自体に気づいていない人が少なからずいます。軸を見つけるためには、まずは自分の通ってきた道を棚卸ししたりして、自分自身を理解する必要があります。「LIFE SHIFT JOURNEY」のようなワークショップに参加したり、キャリアの専門家と話す機会を持つのがよいと思います。

下田・入田浜。家から車で5分のところにある美しいビーチ。この町でずっと暮らしていく。
(取材・文/垣内 栄)
*ライフシフト・ジャパンは、数多くのライフシフターのインタビューを通じて紡ぎだした「ライフシフトの法則」をフレームワークとして、一人ひとりが「100年ライフ」をポジティブに捉え、自分らしさを生かし、ワクワク楽しく生きていくためのワークショップ「LIFE SHIFT JOURNEY」(ライフシフト・ジャーニー)を個人の方及び企業研修として提供しています。詳細はこちらをご覧ください。