性格的に会社員は向かないと考え、大学時代から起業を志していたという平井靖さん。けれども常識を学ぶために就職をし、転職や出向で7社を渡り歩きながら、53歳まで会社員を続けることになります。満を持して起業に踏み切ったのは、子どもが学校を卒業するタイミングでした。最初の2年間は準備期間として起業セミナーに通って経営について学び、気になる分野の調査・研究を行った結果、バーチャル展示会の事業を始めることに。55歳で会社を立ち上げましたが、6年間は鳴かず飛ばずでとうとう資金が底をついてしまいます。その後、コロナ禍が追い風となってV字回復を果たしますが、90歳まで働くという信念のもと、事業をあきらめなかった平井さんのライフシフトをうかがいました。
平井靖さん(NO.123/セキュアロジック株式会社代表取締役社長)
■1959年生まれ、東京都生まれ。東洋大学社会学部を卒業後、1983年に共同印刷に入社し、プログラミング業務を担当。1988年にDDIに転職し、ツーカーセルラーへ出向。会社設立と通信系システムの開発に携わる。1998年に日本ヒューレット・パッカードに転職し、プロジェクトマネージャーとして日本テレコムへ出向。2008年からソフトバンクBB、2010年からSBIホールディングスに勤務し、それぞれ大学の設立に携わる。2012年に退職し、2014年にセキュアロジック株式会社を立ち上げる。インターネット上にバーチャル展示会システムを構築する事業を展開。
■家族:妻、長男、長女、次女
■座右の銘:なし
大学卒業後、起業を断念しサラリーマンに
僕は小さい頃から理科の点数がよく、高校時代も相対性理論や量子力学の本を読んでいました。でも勉強はまったくしなかったので、成績は学年で最下位でした。2年間浪人をしましたが、その間に200冊ほど本を読み、心理学に興味を持って東洋大学社会学部の2部に入学しました。その後、2部から1部へ移る編入試験に合格し、授業でコンピュータと出会ったのです。
コンピュータは統計処理で使ったのですが、3桁までしか計算できないことが不満でした。そこで1年間で学ぶプログラミングの本を1週間で読んで、何桁でも計算できるプログラムを独自で開発したのです。すると教授が「君はコンピュータの仕事が向いている」と就職先を推薦してくれました。
じつは性格的に「サラリーマンには向いていない」と思っていたので、就職せずに起業をすることを考えていました。しかし父親から「お前みたいに常識のないやつは会社に入って常識を学ばないとダメだ」と諭されて、就職することにしたのです。
大学卒業後は共同印刷に入社し、情報システム部に配属されました。5年ほど働き、職場で出会った妻と結婚することになりました。すると妻の家族からは「結婚するならもっと給料の高い職場に転職して欲しい」と言われたのです。やりがいのある仕事ができるなら転職することにまったく抵抗はありませんでした。共同印刷を退職し、29歳のときにDDI(第二電電)に転職しました。
最初は営業開発部で業務支援プログラムの開発などを担当していましたが、営業の勉強がしたくなって希望を出し、東北支店で1年半ほど営業として働きました。その後、海外青年協力隊に興味を持ち、紛争地域でシステム開発をすることも考えるようになりました。最終面接まで進んだのですが、ちょうど新会社への出向の話が来て、そちらを選んだのです。
新会社はDDIと日産が共同出資してできたツーカーセルラーです。通信システムを開発する仕事でしたが、会社の設立にイチから携わることができました。「いずれは自分も独立して会社を作りたい」という気持ちが強くなったのはこの頃です。それでもすぐに独立しなかったのは、結婚して子どもができて、生活の安定を第一に考えたからでした。
ステップアップ転職を繰り返し7社で働く
ツーカーセルラー時代、日本ヒューレット・パッカードのサーバーを入れてシステムを開発していたのが縁で、日本ヒューレット・パッカードの本部長から誘われ、転職したのが39歳のときです。そこから日本テレコムに出向し、通信回線の課金システムの立て直しを担当しました。そのプロジェクトがひと段落したときに、そこで身に付けた技術が活かせるソフトバンクBBに自分を売り込んで、また転職することになりました。
日本ヒューレット・パッカードに入るときも、ソフトバンクBBに入るときも、転職エージェントを通していないので、報酬の交渉は自分で行ってきました。前職よりも年収20%アップを実現してきたので、家族は転職に反対することはありませんでした。ステップアップ転職ができたのは、今いるところで一生懸命仕事をし、技術を磨いてきたことが、 社外の人に評価されたのだと自負しています
ソフトバンクBBでは、光回線のサービス拡充のためのシステムを構築していましたが、社長の孫正義さんから「サイバー大学の立ち上げを担当して欲しい」と言われ、新しい仕事が始まりました。サイバー大学にIT総合学部を作るため、文科省への申請書関係を担当し、大学設立業務をイチから経験しました。その後、SBIホールディングスの北尾吉孝社長と知り合い、今度はSBI大学大学院の設立に携わるため、ソフトバンクBBを辞めて、最後の転職をしたのが51歳のときです。
2年間の準備期間で経営者マインドを学ぶ
SBI大学大学院は、経営者を育成する方針でカリキュラムを作るため、僕自身も起業や経営のやり方を実践的に学ぶことができました。ちょうど子どもが学校を卒業したタイミングだったので、「今度こそ自分で会社を作ろう」と考え、53歳で退職しました。起業という大学時代からの夢を実現するため、最初の2年間は準備期間として、起業セミナーなどに通いながら、経営者マインドを学んだり、財務の基礎的な勉強を行いました。
長い間、サラリーマンをしていると従業員思考が身についてしまっています。経営者という立場は、誰かに相談しても決定するのは自分です。従業員思考ではなく、自分の責任でものを決める思考になってから起業するべきだと考え、準備期間を設けたのです。働きながら起業セミナーに通うこともできましたが、僕の場合は仕事を辞めても生活していける状況だったので退職を選びました。
いくつになっても社会貢献ができることをしたいと考えており、退職後のんびり老後を過ごすという発想はありません。現世でできる限り魂を磨いて次の世代へつなげたいという思いがあり、90歳まで現役で働くことが目標です。事業内容も50年後の社会に役立つものを見据えて検討しました。当初は太陽光発電やIT農業のサブスクライバー事業を考え、調査のため展示会に出入りしていました。そのときに「年に3日間しかやらない展示会に何百万円もかけて出店しても、売り上げにつながらない」という話を聞き、「バーチャル展示会」のシステムを思いついたのです。リアルな展示会は場所が限定されるため、情報の伝達に限界があります。仮想空間という考えが広まりはじめていたので、バーチャル展示会は50年後には当たり前になっているはずだと考えました。
失敗と思われた起業がコロナ禍で躍進
2014年、55歳のときにセキュアロジックを立ち上げ、事業をスタートさせました。バーチャル展示会システム「エアメッセ」は、クラウド内に企業ブースを作り、来訪者にさまざまな情報を提供、商品などに誘導できるサービスです。VRゴーグルを必要とせず、パソコンやスマホだけで、バーチャル展示会を体験できます。この画期的なシステムを構築すればすぐに出展企業へ食い込めるのではと安易に考えていましたが、これが大失敗でした。初めの6年間は、営業をしたり、神奈川県のビジネスオーディションに応募したりしましたが、受注は微々たるものでした。
私が設立に関わったSBI大学大学院では、「競合がいて、市場がある程度確立している分野でなければ投資してもらえない」という教えがありました。にもかかわらず、競合がいない冒険心たっぷりな分野で起業してしまったのが失敗の一因だと思っています。50年先を見据えた事業だったので、タイミング的に早すぎたのでしょう。政策金融公庫からお金を借りていたので、毎月返さなければならないですし、生活費も必要です。とうとう資金が底をつくというところまできたので、IT系の仕事でアルバイトをしながら生活費を稼ぎ、会社はなんとか残していこうと画策していました。
ところがその直後、コロナ禍でリアルな展示会ができなくなったことから、突然、問い合わせが殺到するようになったのです。妻にも手伝ってもらって対応するほどの忙しさで、その後、渋谷に事務所を構えて、人を増やしました。事務所に寝泊まりして受注をこなし、稼いだ額は半年間で1億9000万円にものぼりました。そこから会社の認知度も上がって、大手企業からの依頼も増えていきました。失敗だと思われた起業でしたが、コロナ禍で時代が追いついてくれたことは運がよかったのだと思います。
出資者を募るより銀行に事業資金を借りる
現在はコロナ禍も落ち着き、以前ほどのペースでの受注はありません。世の中の変化のスピードは早いので、企業の展示会に限らず、大学のオープンキャンパス、子供の図画コンクールの展示会、バーチャル商店街などにも対応しています。
我々のようなベンチャー企業だと出資者を募るところも多いですが、時代のニーズに合わせて柔軟に事業を展開していくためには、出資者がいないほうがラクです。出資者がいるとそこに相談しないと決断できない状況になり、スピード感がなくなってしまうのです。事業資金は銀行から借りるのがよいと思います。銀行でお金を借りる場合、事業計画書を見せなくてはいけないので、プロからチェックされるというメリットもあります。それが通れば、少なくとも事業が成功する可能性が高いということです。50、60代でも事業計画がしっかりしていればお金は貸してもらえます。
また「起業したくてもやりたいことが見つからない」という人も多いですが、自分が得意な業種で、ちょっとだけ視点をずらしたところでニッチな事業を見つけると進めやすいと思います。業界の知識があり、やり方もある程度習熟している分野で1歩踏み出したほうが、地に足のついた事業計画が立てられます。また、事業計画書は社会貢献性があることも大切です。「早期にお金を儲けてイグジットしよう」といった発想で書いた事業計画では、信頼性も得られません。50年後に事業が伸びているか、当たり前になっているかどうかという視点で検討するのがいいと思います。
90歳まで働くため筋トレや合気道で老化を防止
僕は90歳まで現役で働き続けて、100歳を超えて生きるつもりですが、そのためには老化を遅らせる必要があります。人間の体は使わないところはどんどん萎縮していくので、40歳の時から筋トレを続けていて、ベンチプレス100Kgを目指して週2回通っています。持久力や体の柔軟性も意識しています。最近は瞬発力や応用力を養うために「心身統一合気道」に入門して、合気道も習い始めました。また脳が萎縮しないよう、絶えず新しいことにチャレンジしていくことも大事だと思います。仕事を続けることは頭を使い、脳の活性化につながるので、起業して定年がない働き方ができるのはよかったと思います。富士山に登るときは、裏山に登るのと違って、それなりに装備して登りますよね。それと同じことで、100歳まで生きようとするなら、毎日それなり装備して生きることが大切だと思います。
一方、この年になると仕事一辺倒ではなく、家族との時間も大切にしています。妻とちょくちょく旅行に行っていますが、仕事と遊びのメリハリをつけ、働き方の自由度を高められるのも起業の魅力だと思います。
また、起業して経営者になったからには勉強し続けることは欠かせません。著名な経営者は皆さんすごく本を読んでいますし、いろんな形で情報収集をされています。僕は思想家の中村天風の研究を15年ほど続けています。若い頃から「アイデアはいいけど辛抱が足りない」と言われてきましたが、天風の本を読み、実践セミナーに参加したおかげで、経営に対する考え方がしっかりしました。「信念を持って積極的に経営をしていく」という気持ちを持ち続けることができ、資金が尽きたときにもあきらめずに事業を続ける原動力となりました。大谷翔平さんもメジャーに行く前に天風の本を熟読していたと話題になりましたが、松下幸之助氏や稲盛和夫氏も天風に学んでおり、経営者に響く言葉がたくさんあります。「どこまでもまず人間をつくれ。それから後が経営であり、あるいはまた事業である」という天風の言葉を肝に銘じ、90歳まで事業を進めていきます。
(取材・文/垣内 栄)
*ライフシフト・ジャパンは、数多くのライフシフターのインタビューを通じて紡ぎだした「ライフシフトの法則」をフレームワークとして、一人ひとりが「100年ライフ」をポジティブに捉え、自分らしさを生かし、ワクワク楽しく生きていくためのワークショップ「LIFE SHIFT JOURNEY」(ライフシフト・ジャーニー)を個人の方及び企業研修として提供しています。詳細はこちらをご覧ください。