商社パーソンとしてロンドン、ミラノに駐在していた三浦陽一さんに転機が訪れたのは45歳のとき。長男、長女とは年が離れた次女が誕生し、娘が成人になるまで働けるよう定年のない仕事へのシフトを考えるようになりました。50歳で退職し、靴メーカーで1年半修行した後、52歳のときに起業。イタリアの靴を中心とした輸入エージェントとして事業をスタートさせます。63歳のときには出張経験を活かし、イタリア旅行のためのガイドブックを執筆。さらに英語通訳案内士の資格を取得し、67歳から通訳ガイドとしても活躍しています。昨年はイタリア語通訳案内士資格も取得されました。いくつになっても学びと挑戦を続ける三浦さんのライフシフトを辿ります。

PROFILE

三浦陽一さん(NO.126)

■1950年千葉県生まれ。東京育ち。慶應義塾大学卒業後、総合商社の丸紅に勤務。7年間のロンドン、5年間のミラノ駐在を経験し、50歳で退職。靴メーカーに転職後、52歳で起業して輸入会社「リナ・エ・ジュンコ・インターナショナル」を立ち上げる。イタリア出張をこなしながら、67歳で英語通訳案内士資格を取得。通訳ガイド活動を開始。73歳でイタリア語通訳案内士資格も取得。中小企業海外展開支援や大学での講義も担当。一般社団法人ディレクトフォース会員。著書に「イタリア㊙️旅行術」。趣味は山、鉄道、旅、テニス、ピアノ。

■家族:妻、長男、長女、次女

■座右の銘:失敗を恐れずチャレンジする

■著書:「イタリア㊙️旅行術」(新装改訂版が2025年3月に発売)

45歳で次女が誕生し、定年のない働き方へシフト

大学時代に就職先を丸紅という商社に決めたのは、海外で仕事がしてみたい、取り扱うものにしばられず、いろんなことをやりたいと思ったからでした。30年間働く中で、ロンドンに7年間、ミラノに5年間駐在しました。「商社に入る人は英語ができる」と思われがちですが、私はそこまで得意でもなかったのです。しかし入社後、毎日英語を使ううちに、徐々に話せるようになり、ミラノに駐在したことでイタリア語も身につきました。

1979年に初めて英国出張へ。

入社当時は、今のように転職が一般的な時代ではありません。「定年まで勤める」と決意はしてませんでしたが、「途中で起業する」ことも考えていませんでした。しかし、ミラノに駐在中に転機が訪れました。45歳で2人目の娘を授かったのです。当時、高校生の長男、小6の長女とは一回り以上年が離れた次女の誕生でした。そうなると娘が成人するまでに定年を迎えてしまいます。当時の会社は定年を迎えるとほとんどの人がリタイアしており、定年のない働き方ができる起業を考え始めたのです。

ミラノ駐在によって、イタリアでネットワークが広がり、オンオフがはっきりしているイタリア的な生き方に共感していました。イタリア人のクリエイティブな発想の原点は、長期休暇を取ることでインプットする時間があるからだと思ったのです。起業するならイタリアに関わることをしたいという思いがありました。とくに靴関係の事業を担当していたことから、イタリアからの輸入代行のビジネスを思いつきました。日本の小さな小売店やセレクトショップなどでは、自力で輸入業務を行うことが難しい傾向があります。そういったお店を支援するビジネスなら、一つ一つは小さくても、いくつか集めれば一人で続けられる事業になると考えました。

1987年、ロンドン支店勤務時代。

90歳まで税理士として働いた父がお手本

会社を辞めることは、妻には反対されると思ったのでギリギリまで話しませんでした。退職直前になって「会社を辞めて、起業するから役員になって欲しい」と伝えたのです。もちろん妻は驚き、あきれていましたが、おそらく「どうせ反対してもやるときはやるんでしょ」と思ったのでしょう。結果的に会社は20年経った今でも続いているので、妻も受け入れてくれています。

父親にも辞めることを伝えましたが、反対されると思っていました。でも意外にも「いいね」と言われ、驚いたのです。父は国税局を定年退職後、90歳まで税理士として働いていました。公務員として働いた期間と税理士をしていた期間がちょうど同じ長さだったのです。90歳まで自分のペースで働き、ネットワークを活かして仕事をしている姿を見てきたのが、自分のキャリアを考える上でお手本になっていると思います。

じつは丸紅を辞めた後、すぐに独立はせず、修行と起業準備を兼ねて、イタリアと関わりの深い靴メーカーで1年半働きました。そこで取引先に「起業してこんなことをやってみたい」と話をすると、「取引してもいい」と言ってくれる会社があり、「やっていけそうだ」という確信が持てたのです。

52歳で輸入会社「リナ・エ・ジュンコ・インターナショナル」を立ち上げ、会社の名前は娘二人の名前からつけました。法人にしましたが、社員は雇っていません。収入は商社時代より減りましたが、食べるのに困ったことなく、恵まれていたと思います。ある会社とは20年以上も取引が続き、「足を向けて寝られない」と思うほど感謝しています。

一方で商社時代の同僚と会うと、自分の年金が少ないことに気づきました。早期退職しているので、当然ながら定年退職した人よりは厚生年金が少なくなっています。でも定年後も稼ぐ力を身に付けることができたので、後悔はしていません。

2024年、4年半ぶりのミラノ出張時。

10年ごとに壁にぶつかり、新しいことに挑戦

起業してから11年経った63歳のときには本を出版しました。何事もそうですが、同じことをやっていると10年ぐらいで壁にぶちあたります。輸入エージェントの仕事は円安になると大きな影響を受けるため、何か別の新しいことにも挑戦する必要性を感じていました。そこで起業家が集まるビジネススクールに通うことにしたのですが、学んだのは「自分は何が得意か棚卸しをする」ということでした。あらためて得意なことを見直してみると、「イタリアとの関係を見える形で出す」ことで、本を出そうと思ました。

電子書籍なら誰でも出版できる時代なので、自分で執筆して本を完成させることができました。しかし、それを見た人が出版社を紹介してくれ、あらためて紙の本として出すことになったのです。数多い出張から積み重ねた旅行のノウハウをまとめた「イタリア マル秘旅行術」(メイツ出版)を出版できたのは63歳にときです。おかげさまでこの本は多くの方に読んでいただき7刷までいきました。2019年には改訂版をだし、さらにアップデートしたものを今年3月に出版しました。

執筆したガイドブックは10年以上も改訂を重ねるロングセラーに。

英語とイタリア語の資格を取得し、通訳ガイドに

67歳からは通訳ガイドの仕事も始めています。輸入ビジネスの仕事は年齢とともに海外出張が負担になるので、「英語という武器を使って何かできないか」と考えるようになったのです。英語の通訳案内士の資格を取得し、昨年は73歳でイタリア語の通訳案内士資格の試験にも合格できました。3回目の受験でやっと合格できたのです。

通訳ガイドの仕事は数社のエージェントを通じて依頼されます。たまに以前のお客様からの紹介で直接依頼が来ることもあります。 海外の人たちとコミュニケーションを取ることは非常に楽しく、自分のペースで仕事をスケジューリングできるのがいいところです。輸入ビジネスが円安で苦戦する時期には、インバウンド観光が増えるため、バランスも取れています。

海外の方は日本の意外なところに興味を持っていらっしゃるのが面白く、毎回発見があります。事前に相手のバックグラウンドがわからないため、いつも会って話す中で興味や希望を探ります。盆栽に興味がある方、貴族の町である京都より、武士の文化が残る金沢や高山に魅かれる方、高野山の奥の院が気に入った方など、琴線に触れる場所は国や人によって違うのです。ガイドの仕事は歩けなくなったらできませんが、もともと山登りをしていたこともあり、今でも歩くのは早いほうで、体力的には問題ありません。

通訳ガイドとしてイタリアからの観光客を岐阜・高山に案内。

「つなぐ」役割として海外展開支援や大学講師としても活動

思えば起業してからは「つなぐ」という言葉が私のキーワードになっています。国と国をつなぐ、人と人をつなぐ、そして年齢を重ねた私たちの経験を若い世代につなぐことです。8年前に「ディレクトフォース」という社団法人に参画し、大学でキャリア教育の授業もしています。年に何回か起業の話をするのですが、学生からの反応は良く、「起業してみたい」という若者が意外と多いことに驚き、頼もしく感じています。

昨春からは、日本貿易振興機構(JETRO)の中小企業海外展開支援のコンサルタントとしても活動を始めました。海外貿易の経験を活かし、現在は金沢、仙台、鳥取の会社を担当しています。

仕事の割合としては、輸入ビジネス、通訳ガイド、海外展開支援がそれぞれ同じくらいで、時期によって忙しさが変わってきます。月曜から金曜までぎっしり働いているわけではなく、フレキシブルな働き方をしています。家事も手伝わないと妻から怒られます(笑)

これまで10年ごとに新しいことに挑戦してきましたが、次の10年後は80代になります。頭がまだボケておらず、体が動くなら、きっと何かやるだろうと前向きに未来を見据えています。今はパソコンさえあればできる仕事もあり、体が動かなくなったら、動かなくなったなりのことができるはずだと柔軟に考えています。

70歳からピアノに挑戦し、趣味の時間も楽しい

会社に縛られない身になってからは、仕事ばかりしているわけではなく、旅行や趣味も楽しんでいます。もともと鉄道オタクですし、好奇心旺盛で趣味が多いのです。70の手習いで昨年から始めたことも2つあります。1つがピアノです。私以外の家族は全員ピアノが弾けるので、自分だけが弾けないことに少し悔しさを感じていました。あるとき高校のクラス会で友人がクラリネットを始めたと聞いて、それなら自分もと「明日からピアノを始める」とその場で宣言しました。スマホのアプリ「シンプリーピアノ」を使ってピアノを弾き始めて、もう2年目になります。まだ家の外で弾いたことはないですが、少なくともドレミファがどこにあるかはわかるようになりました。

もう1つ始めたことは新たな言語学習です。「ロゼッタストーン」というプログラムで、何言語を選んでも9600円というプログラムがあり、トルコ語を勉強しています。トルコ語は実は日本語と構造がとても似ているのですが、やはり実践で使わないとなかなか身に付けられません。いつかまたトルコを訪れて、トルコ語で会話をしてみたいと思っています。

健康管理については、ガイドの仕事自体が歩くので良い運動になります。デスクワークの日も必ず1時間から1時間半は外に出て、速足で歩くようにしています。以前は水泳もよくしていました。食事は3食きちんと摂り、お酒は少し飲みますが、タバコは吸いません。私のような年代では、リタイアして極端に朝早く起きる人と、その逆のパターンの人がいます。しかし、毎週、ToDoリストを作って、仕事を続けることで規則正しい生活が送りやすくなっています。

趣味の登山でキリマンジャロにも登頂。

失敗を恐れず、小さく生んで大きく育てる

すでに子どもたちはみんな成人し、経済的にはがんばって働く必要はなくなりましたが、私が複数の仕事を続ける一番の理由は、単純に面白いからです。自分が楽しめて、人の役に立ち、そしてお金ももらえる。こんないいことはありません。お金がもらえれば使う楽しみもあり、社会の循環にも貢献できます。

サラリーマン時代は、やりたくない仕事もやらなければなりませんでしたが、自分で仕事をしている以上は、仕事を選ぶことができます。ストレスのある仕事をわざわざ選ぶ必要はないのです。起業して最も良かったと思うことは、通勤電車に乗らなくて済むことと、くだらない会議に出席しなくて済むことです。この2つだけでストレスが全然違います。自分がストレスなく働いて、お金ももらえるのは、これ以上ない喜びです。健康で、楽しみながら仕事ができることが、人生においての最良の選択だと実感しています。

私は50代で起業しましたが、振り返ると良いタイミングだったと思います。気力体力も十分でしたし、60代になってからだと、50代のようなフットワークの軽さは維持できなかったでしょう。

一方で起業に成功したのは、小さく生んで大きく育てるという考えだったからだと思います。起業しても途中で廃業した人を見ていると、最初から大きく広げすぎなのが原因ではないかと思います。また、ずっと同じことをやり続けるのではなく、壁にぶち当たったときは次なる芽を育てていくことも大切です。

日本人は失敗を恐れる人が多いですが、失敗を恐れてチャレンジしないのはもったいない。後になって「あの時にこれをやっておけばよかった」と後悔しても遅いのです。失敗しても、命を失ったり、全財産を失ったりしない限り、そこから学んで次に活かすことができるはずです。私は大学でも学生に「失敗を恐れずチャレンジしよう」と伝え続けています。

取材・文/垣内栄

 

*ライフシフト・ジャパンは、数多くのライフシフターのインタビューを通じて紡ぎだした「ライフシフトの法則」をフレームワークとして、一人ひとりが「100年ライフ」をポジティブに捉え、自分らしさを生かし、ワクワク楽しく生きていくためのワークショップ「LIFE SHIFT JOURNEY」(ライフシフト・ジャーニー)を個人の方及び企業研修として提供しています。詳細はこちらをご覧ください。