「会社で何かやらかしたの?」。鹿島建設で一級建築士としてホテルなどの大型プロジェクトに従事していた山崎博史さんが、46歳のときにSUP(スタンド・アップ・パドルボード)ツアーなどを行う水辺の事業者として独立したとき、会社の上司も同僚も家族も大変驚いたそうです。山崎さん自身も安定した大企業を離れる決断をするまでには長い葛藤がありましたが、30代から始めた週末活動で得た仲間と「手ごたえ」が背中を押してくれました。自分にしかできないと思える「ライフワーク」に出合った山崎さんのライフシフトを伺いました。

PROFILE

山崎博史さん(NO.129)

■1968年千葉県生まれ。大学卒業後、鹿島建設に入社。建築設計本部に22年間勤務。主にホテル、学生寮、集合住宅、大型個人住宅などレジデンシャル系物件を担当。2004年、週末活動として都市の水辺活性化活動を行うユニット「BOAT PEOPLE Association」を結成。2012年、横浜に仲間と「水辺荘」共同設立。2015年に鹿島建設を退職し、合同会社チャートテーブル設立。2016年、一般社団法人水辺荘設立、代表理事に就任。(一社)大岡川川の駅理事、所有資格に一級建築士、小型船舶一級操縦士、旅行業務取扱管理者(国内)、SIJ(日本サップ指導者協会)公認インストラクター。

■家族:妻、長女

■座右の銘:ライフワークのある人生を

水辺荘
Koajiro SUP Tours

安定した大企業での仕事と生活にテーマを見つけられずモヤモヤ

小さい頃から街の風景や建設現場、大工さんの仕事を見るのが好きで、プラモデルを作ったり、近所の森に秘密基地を作ることが好きな子供でした。高校生になると「街やライフスタイルに影響力のある仕事がしたい」と漠然と思うようになり、自然な流れで大学は建築学科へ。そして鹿島建設へ就職しました。安定した大企業で、設計事務所に比べると給料や職場環境もよく、希望した設計職への配属も約束されていたため、企業ブランドで決めてしまったところがあります。生粋の昭和の企業人である父や、専業主婦だった母も大変喜んでいました。ただ、振り返ってみるともっと自分の趣向や適性をよく考えて就職すべきだったなと反省しています。本来は社会的ステータスやビッグプロジェクトには興味が薄く、もっとパーソナルな事を探求するタイプ。それなのに入社後はブランド企業の業界での立ち位置、安定感や仕事環境の良さ、日々の忙しさに引きずられて、骨太なテーマを伴ったライフワークを始めるのに時間がかかってしまいました。

僕たちの年代は、同僚に今のように転職や起業する人があまりいなかったことも、なかなか会社を辞められなかった理由のひとつです。父も親戚も企業人として定年どころかその後も長く企業で働いていました。なので僕が46歳で22年勤めた会社を辞め、ステップアップした転職ではなく、自営業者として独立したとき、両親はなかなか理解できなかったようです。会社の同僚からは「何かやらかしたんじゃないか」と噂されたほどです(笑)。

会社では設計士として建築設計本部に所属し、主にホテル、学生寮、集合住宅、大型個人住宅など、好きなレジデンシャル系物件を担当していました。ただ大学の卒業設計は東京の運河の再開発提案で、水辺に興味があったのですが、残念ながら水辺のプロジェクトに関わることは2物件しかありませんでした。湾岸のタワーマンションの開発にも関わりましたが、水辺は景色や開放感を楽しむためのもの、または大型開発をしやすいという位置づけでした。生活やコミュニティーの場、舟運、水上アクティビティーのエントリースポットとして護岸や運河を活用することは法的にも権利的にも難しかったのです。

在職中も未開拓でポテンシャルを秘めた水辺への興味は持ち続けており、資料や本を読みあさったり、大学研究者や水辺に関わる方々と交流して、水辺の可能性を探っていました。ロンドン、パリ、アムステルダム、ベネチアなど先進国の他、ベトナム、インド、香港などの新興国も、運河や河川、港を生活環境として積極的に活用しており、BARGE船(はしけ)やナローボートを転用したホテルやレストラン、住宅、ボート貸切プライベートツアーなどが多数あります。品川天王洲、大阪などの水面特区以外に東京でも合法的に水上活用や小さな事業ができる方法はないのか妄想し、仲間とリサーチしたり議論したりしていました。

また、高校時代は千葉でサーフィン、大学時代はヨット部に所属し葉山の合宿所で海生活を楽しんでいました。就職後も知人のつてでいろいろなヨットにクルーとして参加させてもらったりしていました。そんな経緯で湘南や三浦半島エリアで遊ぶことが多く、プライベートな時間に海で活動する人たちや場所との繋がりができていきました。28歳で結婚し、30歳で子どもを授かってからは妻の実家近くの大船に移り、ヨットに乗る機会は減ってしまいましたが、手軽なサーフィンを再開したりしていました。一方、東京の運河と関わるきっかけも模索し続ける中、「身近な都市部の水辺を活用していきたい」というレアな妄想を抱いた仲間と出会うことができました。ここから自分の中にライフワークと言えるテーマが見え始めたのです。

ヨット部だった学生時代。

36歳で本格的に水辺の活動をスタート

36歳のときに妄想仲間と「BOAT PEOPLE Association」を結成し、土日や会社帰りに集まって、熱気のあるディスカッションやリサーチ、イベント企画の活動をするようになりました。水上や水辺での建築は法律上、難しいものがあります。そこで水上や水辺を活用し、仮説的に現代アートの枠組みの中で活動することが多くなりました。メンバーはまちづくり系NPO職員、建築家、大学研究者、会社員、河川・港湾・都市整備行政職員、アート業界人といった、会社の仕事では出会えないような人たちばかりです。この頃から企業に属さない生活への興味が大きくなっていきました。

2005年には、縁あって横浜市が創造都市政策として推進している現代アートの祭典「横浜トリエンナーレ2005」に出展しました。部外者の立ち入りが難しい港湾護岸を使って作品を展示することが許可され、BARGE船を転用した海に浮かぶ水上ギャラリーを実現できました。その後も現代アートや街づくり系イベントで予算付きの様々な企画やシンポジウムに参画しましたが、事業ではなく、アートユニット、リサーチユニットとしての活動です。手応えはありましたが、お膳立てされた一過性のイベントであり、人々の意識に影響を与えられても、地域環境を変える動きまでには至りません。そんな経緯から「水辺を変えていける、継続性のあることをやりたい」という新たな想いがわいてきたのです。仲間の何人かは同じ想いでしたが、ちょうど国交省が博報堂と「ミズベリング」という、国交省管理の河川やダム湖を活用していくプロモーション組織を立ち上げました。一部のメンバーはそのプロジェクトに参画することになりましたが、僕は会社員だったため参画は難しい状況で不自由さを感じていました。

横浜トリエンナーレ2005に出展。BARGE船をギャラリーに。

その頃、会社の仕事で秋葉原ワシントンホテル建て替えプロジェクトを担当しており、神田川に面して開放的なテラスを設置した飲食テナントスペースを作ることに成功しました。当時、都市河川に面してテラスを設ける事例はまだ少なかったのですが、水辺への執着でなんとか先行事例を作れ、地主であるクライアントやオペレーターである飲食テナントさんも喜んでくれました。個人的には大きな達成感を感じていたのですが、テラスに関する社内の反応はあまりなく、マネージメント業務が増えてきた状況などからそろそろ次のフェーズに進むべき時期なんだろうなと思いはじめたのです。

ホテル建て替えプロジェクトで実現させた神田川沿いのテラス。

横浜市の政策にのっかり「水辺荘」をスタート

ほどなくして横浜・大岡川に公共桟橋とその近傍に小さな空きスペースがあるという情報に行きつきました。この桟橋でどんな活動をしていったら継続的な賑わいやコミュニティーが形成できるのかを考え、桟橋から川に出る手段として誰もが参加しやすいSUPでの運河ツアーとスクーリングを思いつきました。その頃はちょうどSUPが話題になり始めた時期で、インフレータブルSUP(空気で膨らますタイプ)なら、小さなスペースで収納できるのも魅力でした。

横浜市のアートによる街づくりの枠組みで、川に面した小さなスペースを安価に借りることもできました。また、アートコミッション横浜という文化芸術財団が地域に新たなコミュニティーを育む活動についての助成活動募集をしており、「SUPを使った桟橋利活用から川のある街のコミュニティーを形成してゆく」案で当選。自費を持ち出すことなく活動用のSUPや関連備品を揃える予算もできました。

こうして2012年に「水辺荘」をスタートしました。タイミングよく、桟橋と空き家とインフレータブルSUP、助成金、同じ想いを持った仲間という5つの要素が揃ったことで実現に至りました。水辺荘は、SUPで川へ出ることで「水辺という公共の場を体験し、川とまちとの繋がりを体感」し、次のステップとして「新たな都市の可能性や公共空間に対する意識が芽生えるきっかけ」をつくることを目的としています。また会員同士が集まって日常的にパドリングを楽しみ横浜ならではのライフスタイルを確立することを目指したり、会員がSUPや川、街でパーソナルなアクションを起すことを応援できる「水辺のサードプレイス」の役割も果たしていきたいと考えました。SUPを事業の柱にしていますが、アイデアはスポーツ振興や観光振興というよりアートや街づくりを趣旨とした横浜市の創造都市政策に乗っかって活動を始めた感じです。

水辺荘のある長屋と桟橋。

退職するまで3~4年は葛藤の日々

こうして水辺荘が徐々に動き出すと、会社の仕事は僕でなくても代わりはいる、でもこの独特の水辺活動ができるのは自分しかできないし始めた責任もある、地域に根ざした活動をしながら定年まで転勤の可能性も高い企業にいるのは無理がある、という思いが強くなっていきました。とはいえ建築の仕事はスパンが長く、1つのプロジェクトで3〜5年かかることもざらです。関わっているプロジェクトに迷惑をかけてまで辞めるのははばかられ、しかも建築設計の仕事は一品生産のダイナミズムや達成感もあり決してつまらないわけではない、やめてSUP事業で生計を立てられるのか…。「新たなフェーズに移りたい」と思いはじめてから5年、とにかく一旦退職しようと考え始めてから3~4年は決断ができませんでした。

ようやく決心がついたのは、東京オリンピックを見据えた大型案件のコンペが入りはじめてきた時でした。奇遇にも大好きな羽田の水辺の計画でしたが、過酷な大型プロジェクトに呑み込まれてしまうとすべてが中途半端な結果となり、仕事も自分の人生も残念なことになる、辞めるなら今しかないと思いました。46歳のときでした。なかなか上司に言い出せなかったですし、転職でもなく起業と言えるほど華々しいものでもなく、不祥事を起こしたわけでもないので、退職の理由を理解してもらうのに多少時間がかかりましたが、なんとか円満退職ができました。

妻は会社の1つ先輩の同い年で、元は同じ本社設計部の同僚ですので僕がリーダーシップのある出世頭ではないことはわかっていましたし、「定年まで会社にはいたくない」と常々話していました。妻も「ビジョンがあり生計を立てる見込みがあるなら辞めれば」と条件付きですが反対することもありませんでした。ところが、まさか本当に辞めるとは思っていなかったようで、辞めたときは大変驚いていました。また、当時高校生だった娘は、父親が会社を辞めることに大きなショックを受けたようでした。妻も総合職として働いているので、経済的にすぐに困窮する状況ではありません。同僚には都心のブランドマンションを購入したり、自分で設計した家を建てたり、高級車や建築家っぽいビンテージカーに乗っている人も多かったですが、僕ら夫婦はそういったキラキラした生活への意欲は薄かったと思います。それよりは都心から離れた湘南での生活のほう魅力的で、個人的には収入よりも何かカルチャーを生み出しながら生活をやりくりしていきたいという思いが強かったです。

退職後は、退職金を頭金にして逗子に築37年の中古テラスハウスを購入。フルリノベーションして、住宅の権利は妻にすべて譲りました。離婚したら僕には何も残りません(笑)。妻はその住宅を気に入ってくれたものの、ローンも組んでもらったため「おかげで私は定年まで辞められなくなった」と恨み言を言われることもよくあります。今は娘が社会人になって家を出ており、妻と2人暮らしです。当然買い物に行ったり、夕食の準備をしたりなどの家事は積極的に僕がやりますが、清掃などまったく足りないそうです(笑)。

収益化はこれからの課題

退職した年に、SUPツアーを企画したり販売する合同会社を設立し、ヨット乗りには有名な三浦市小網代湾に面する胴網海岸を拠点に三浦の海を堪能するKoajiro SUP Tours を開始しました。一方、水辺荘は、河川と公共桟橋を活用した事業を横浜市の無期限の社会実験として運用していく試みが始まった時期に合わせて一般社団法人化しました。水辺荘でSUPをする特徴は、湘南三浦エリアとは異なり、運河から市街地の街並みを眺めることができるところです。運河に出ると、陸からでは気づかない風景や街のシークエンスに出会えます。自力で水上を移動し、多様な横浜の風景に出会えるアーバンアドベンチャーなツアーは話題性があり、メディア取材も多数ありました。また建築系大学院や河川学会、建築学会など都市や公共性に関わる識者からの関心も高く、講義に呼ばれたり学会誌にも取材いただいています。

水辺荘の活動は、これまでガイドブックに載っていない場所を旅するような不安と期待が入り混じる感覚で、前例のないことをやってきました。自己責任でこんなにワクワクする経験は会社員生活の中ではなかなか経験できなかっただろうと思います。一方、収入面では、正直なところ退職する条件であった「生計が立てられる」という状況にはいまだ至っていません。個人を対象にしたサービスのみでは限界があると思うのですが、法人団体対応より個人のプライベートな時間に対するサービスの方が正直楽しいです。

日本では、公共スペースを使って事業をするのはまだ難しいですが、最近は公園や河川敷にカフェを建てて、事業者が公園や河川敷の管理運営も行うといった仕組みも出てきました。水辺荘も今後も積極的に行政や企業と連携した水辺に関わる新しい取り組みをしていかないと存続は危ういと思います。

水辺から横浜の風景を楽しむSUPツアー。

社外の人と積極的に交流し、視野を広げる

じつは自営業者として独立した当初は、冬のオフシーズンに副業として業務委託契約で建築の設計をやっていた時期がありました。企画・不動産取得・設計・運営パッケージで事業展開できる画期的な街づくり系会社があり以前から興味のあった企業でした。僕はそこでタイミングよく新しい仕組みの学生寮の基本計画を担当させてもらいました。とてもやりがいのあるプロジェクトでしたが、オンシーズンに両立できる内容の仕事ではなく、基本・実施設計業務との両立は断念しました。水辺の事業はいったん保留して、しばらくは建築をメインにして働くという選択肢もありましたが、自分がやるべきことは水辺の事業だとあらためて確認し、覚悟を持って設計の受託業務は辞めることにしました。

周りからは「1級建築士なのにどうしてSUPの仕事をしているんですか」とよく言われます。でも、建物を設計するところから、公共空間に繋がるきっかけづくりや水上空間の有効活用に移行しただけで一貫性はあるのです。昔から持っていた「都市や街の環境にコミットしていきたい、ライフスタイルを提案したい」というテーマからは外れていません。

独立してから10年になりますが、定年まで会社にいなくて多分良かったのだろうなと思います。様々な仕組みが整っており生活が守られている大企業の環境は安心できるけれど、囲い込まれて業界外の全く違う価値観に接しないまま時が経つと、気づいたときには視野が狭まってしまっています。僕の場合は水辺というテーマがあり、社外の人たちと過ごす時間が多くなっていたことで、テーマを深堀りしていくことができました。会員さんの中には、業界外の人と出会える場所として水辺荘を続けていただいている方もいます。SUPという手軽ですが奥の深いパドルスポーツを介して、港湾都市横浜の水辺環境を共有し、シビックプライドを育みながら、しがらみなく水辺仲間と付き合っていくことは豊かな人生につながっていくのではないでしょうか。

SUPはそこそこ身体を使いますが、サーフショップのオーナーだと、60~70代がざらにいるので、まだ働けそうです。壮大なビジョンはありませんが、水辺を楽しむという枠組みでできる範囲で様々な提案と実行を続けながら年を取っていけたらいいなと思っています。

取材・文/垣内栄

 

*ライフシフト・ジャパンは、数多くのライフシフターのインタビューを通じて紡ぎだした「ライフシフトの法則」をフレームワークとして、一人ひとりが「100年ライフ」をポジティブに捉え、自分らしさを生かし、ワクワク楽しく生きていくためのワークショップ「LIFE SHIFT JOURNEY」(ライフシフト・ジャーニー)を個人の方及び企業研修として提供しています。詳細はこちらをご覧ください。

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