結婚後は介護と子育てで怒涛の日々を送り、一時期は4世代同居で家庭を切り盛りしていた守屋三枝さん。末っ子が幼稚園に入った41歳の頃に「自分には身に付いているものがない」と脱力感に襲われます。そこから「人生の後半を自分らしく生きるにはどうしたらいいか」を考え始めました。社会保険労務士を目指して学校に通い、44歳のときに資格を取得。開業後はキャリアカウンセラーの勉強もして、仕事に強みを加えました。一方、48歳で乳がんを経験し、50代、60代では再び介護が始まります。それでも仕事を手放さず、71歳の現在も現役で活躍している守屋さん。40歳からの学びが生涯現役につながったライフシフトの過程をうかがいました。

PROFILE

守屋三枝さん(NO.133)

■1954年山梨県生まれ。夜間大学に在学中から企業でアルバイトとして、卒業後は3年間正社員として勤務。27歳で結婚し、30代は介護と子育てに追われる。ひと段落ついた42歳のときに社会保険労務士の勉強を開始。44歳で資格を取得し、45歳で守屋社会保険労務士事務所を開業。48歳からキャリアカウンセラーの仕事も始め、企業研修トレーナーとしても活動。50代から再び介護が始まるが、仕事と両立し、現在も現役で活躍中。

■家族:夫、長男、次男、長女、義母

■座右の銘:「困りごとは、いいことの始まり」「自分の努力と人様の支援で解決できないことは、天命と受け入れる」 「その状況下で最良を目指す」 

結婚後、介護と子育ての怒涛の日々

私の人生を振り返ると父の話から始めなければなりません。小学生のとき、父が交通事故で頭を打ち、障害を抱え、働けなくなったのです。母の話では、体は動くものの、医師からは「社会的には子どもと同じだと思ってください」と言われたそうです。でも母(当時37歳)は前向きで明るい人。公務員として働き、大黒柱となって家族を支えてくれました。母が、高校卒業後は家を出ることを勧めてくれ、兄、姉、私の3人とも上京しました。

東京では母の親友の小規模な会社で働きながら、夜間大学に通いました。そのお宅を2年後に出て、在学中から一般企業のアルバイトで総務勤務となり、卒業後は正社員として、資材部、秘書室での仕事を経験しました。女性は縁故で入社する人がほとんどで、親元から離れて暮らす私が採用されたのは異例でしたが、面接担当者が役員を説得して採用してくださったのです。そんな経緯もあって、一生懸命働いていたのですが、当時は25歳までに結婚退職をするのが当たり前の時代です。ちょうどそのころ、母が、家の新築を決意したので、その手伝いもしたく、26歳で退職、いったん実家にもどり1年後に結婚。東京・大森での暮らしが始まりました。

しかし半年後、父が脳出血で半身不随になってしまいます。母(当時55歳)の「あと1年だけ勤めたい」との希望で、姉と兄嫁と私が交代で介護に山梨に通うことになりました。その後、29歳で長男、31歳で次男が誕生。子どもの手が少し離れた頃、今度は義父が脳出血で倒れてしまいました。34歳の時です。そこから義両親、義祖父も合わせた7人家族での生活が始まりました。同居が始まって2年後には義祖父が脳梗塞で倒れ、介護は3人目に。まだ介護保険もない時代だったので、義母と一緒に在宅介護をし、半年後に義祖父を見送りました。

山梨の実家で夏休み。自分の子どもと兄の子どもと。

家庭が落ち着いた40歳、自分は空っぽだと悩む

腕白な息子たちを個性を尊重してくださる私立の小学校に入れ、介護が落ち着いた頃、37歳で3人目を出産します。けれど、娘が幼稚園に入った40歳を過ぎた頃、3ヶ月くらい何をしても力が入らなくなりました。私の30代は介護と子育てに追われ、これを極めたとか、何かが身に付いたとかがまったくありません。自分は空っぽだと悩むようになったのです。何をしたいのか、何をしたら私はうれしかったりやりがいを感じれるのだろう?ママ友とのランチや習い事をしてみても心は満たされません。おしゃれやファッションにもあまり興味がないタイプです。考えてたどり着いたのは、「人に関わる仕事で生涯現役で働きたい!社会とつながっていきたい!」という思いでした。

じつは33歳頃、「円高がこわい!」という新聞記事で物価高により日本での生活に苦しむタイの留学生・モンコンさんのことを知りました。「こんなに優秀な学生を志半ばでタイに返すのは日本の恥だ」と思い、新聞社に連絡をして「この留学生を支援したい」と伝えました。最初は訝しがられましたが、なんとか本人につないでもらうことができ、週に1回ほどうちにごはんを食べに来てもらうことになったのです。兄も協力を申し出てくれ、彼のために部屋を借りて食費の支援を2年間続けてくれ、姉は衣服の支援をしてくれました。他にも日本の支援者がいて、彼は無事、留学生活を終え、帰国後はタイで外交官として活躍してくれました。

このように私は昔から「誰かの役に立つ」ことに喜びを見出すところがありましたが、性格的に、ボランティアには限界を感じていたのです。お金をいただかないボランティアは、気持ちの上で大きな責任を感じず、すぐに辞めてしまいそうでした。きちんとお金をもらって責任を持つ仕事がしたかったのです。

社労士という目標を見つけ、勉強することが楽しかった

仕事探しをはじめますが、会社に勤めるという選択肢はありませんでした。当時は義父が出かける際の送迎、さまざまな家事、食事はきちんと作って家族の健康を支える役目がありました。そのため何か資格を取れば、家族を大切にしながら自分のペースで仕事がしやすいのではないかと考えたのです。そして、あみだくじをたどるようにして見つけたのが社会保険労務士の仕事でした。「この仕事は、企業と働く人の最良の接点を探すお手伝い!これまでしてきた大家族が仲良く暮らす工夫が活かせるのでは?だって、家族は組織の最小単位だもの、私の天分が活かせるかも!」と。目指すは生涯現役ですから年齢を問わず、ずっと続けられる仕事なのも魅力でした。この仕事に出会えたとき、人生の鉱脈を探りあてたような高揚した気持になったのを覚えています。

それから通信教育で1年間勉強しましたが、勉強が面白くて面白くて、毎月テキストが届くのが楽しみでした。ただ通信教育だけでは合格するのは難しいと悟り、2年目からは通学コースに。子どもの教育にもお金がかかる時期で、専業主婦にとって授業料の20万円は大きかったですが、だからこそ「絶対に受かるぞ!」という気持ちで、より一層勉強に励めたと思います。会社で毎日遅くまで働いていた夫も協力的でした。試験前の3日間は有給休暇を取って、家事と家族の世話をやってくれました。試験の当日は「ここで義父か倒れたら私は試験に行けない」と思って、逃げるように家を出たのを覚えています。こうして44歳のときに無事に社労士の資格を取ることができました。

仕事はまずは近くの社労士さんのお手伝いから始め、その後、友人の紹介などで複数の会社とご縁ができました。45歳のとき義父の所有する自宅隣の建物を事務所として守屋社会保険労務士事務所を開業。初めて報酬をいただいたときは、やりがいとともに大きな責任感で身が引き締まりました。

48歳のときには強みを広げるためキャリアカウンセラーの資格も取得し、面談など企業研修の仕事も引き受けるようになりました。仕事のスタンスとしては、どちらかといえば利益を追求するよりも、困っている人の役に立ちたいという思いの方が強いです。コロナ禍では顧問先飲食店の助成金支給申請を無報酬で行っていました。

タイの留学生モンコンさんが帰国する際、タイ料理店に招いてもらった。

乳がんを罹患するも“頑張った40代”が力になる

一方、キャリアカウンセラーの資格取得直後、これから活動していこうとワクワクしていた矢先に、乳がんがみつかったのです。がんが判明した直後に、キャリアカウンセラーの仕事につながる研修の案内が届きました。この研修は2週連続で週末に受講することが条件で、最初の週に参加しなければ次にはつながりません。乳がんがどこまで悪いのかまだわからなかったのですが、1回目の研修に参加しないと次につながらない、とにかく行けるところまで行こう、と初回に参加しました。先を見据えて、その研修はなんとしても受けたかったのです。2回目の研修後、手術を行いましたが、このとき諦めずに受講したおかげでその後キャリアカウンセラーの仕事を長く続けることができました。

ただ、当時は娘がまだ11歳で、もし予後が悪かったらと考えると、娘のことが一番気がかりでした。夫と息子二人は、もし私がいなくなっても寂しいけど、困ることはない、でも、娘は…。父親と兄二人がいても、男性には相談しにくいこともでてくる年齢です。そこで尊敬する姉に「もし私に何かあったら、娘を高校卒業まで育てて欲しい」とお願いしました。姉からは「全部引き受けるから、安心して病気を治しなさい」と返事がありました。そのとき心を覆っていた雲がパーッと消え、何があっても大丈夫だと不安がやわらいだのを覚えています。漠然と困っているのではなく、何が困りごとの原因なのか、それを突き詰めて潰していけば、たいがいのことは乗り越えられる!このとき大きな気づきを得ました。

幸い全摘手術でがんは緩解し、今も元気にしています。病気がわかったとき、「もし結果として、長く生きられなくても、夢中で走ってきた40代があって本当によかった!自分で考え、自分で決めて、仕事をしたんだもの!」という思いでした。本気で“死”と向き合ったことで、生きていく上での“腹が据わった”ように思います。

50~60代は介護と仕事を両立

50代半ばからは義父の介護が本格的に始まりました。仕事を辞めずに介護と両立できたのは自営業だったからでしょう。実家の父は70歳で亡くなっており、母が山梨で一人暮らしをしていたので、そちらも様子見にときどき行っていました。あるとき一泊の予定で山梨に行ったものの、母の状況が悪く3泊せざるを得ませんした。突然の長逗留、気持ちも重く帰りましたが、帰宅すると長男が「お母さん、おかえり。うちは全然困らなかったよ。ごはんの支度は弟にさせたし、洗濯と掃除は妹にさせたから。俺は何もしなかったけどね(笑)。ねっ、おじいちゃんもおばあちゃんも、ちっとも困らなかったよね!山梨のおばあちゃん一人じゃ困るから、またしょっちゅう行ってあげなよ」と言うんです。私の心情を察して、義父母の前でこんな風に言ってくれたのでしょう。子どもは言葉で何かを教えなくても、行動を見て育ってくれるのだと息子の気遣いに感謝の思いでいっぱいでした。

また、私が長年の介護から学んだのは行政には遠慮しないことです。義父は、不自由な身体の自分を受け入れられず、介護保険証が届いたときに破り捨てていました。いよいよ、介護支援が必要になった際、介護保険証がないため介護申請ができません。区役所に行くと再発行に2週間かかると言われました。「それではとても間に合わない、何とかなりませんか」と粘るとその場で再発行してくれたのです。それを持って地域包括支援センターに直行、その日のうちにケアマネさんを派遣してくれて助かりました。義父は医師とすぐ喧嘩をするので、主治医もいませんでしたが医師の意見がないと介護申請はできません。そこで連れて行けそうな近くの医院を探して、事前に父の性格を手紙に書いて持っていきました。その結果、診察のときに義父の機嫌を損ねることなく、診療がうまくいったということもあります。介護をスムーズに行うには、根回しも必要です。そして、困ったら素直に、遠慮せず、怖がらず相談すると動いてもらえるものだと思います。

60代になると今度は姉に脳腫瘍が見つかり、余命を宣告されました。姉の夫も具合が悪くて、姉の面倒を見られる状態ではありません。姉の子ども2人も家庭があり勤め人で、とてもよく姉の対応をしていましたが、在宅介護はできません。コロナ禍の時期、施設に入れると短い余命の期間、子どもたちが面会できなくなってしまいます。そこで我が家の隣のマンションの部屋を契約してもらい、在宅介護のような形でサポートすることにしました。夜は私が週に2~3日、姉の息子が土曜日、あとの3~4日は私のママ友など3人に交代で泊まってもらって、姉を夜一人にしない体制を築いたのです。広いマンションなので、週末は子供たちの家族が泊りに来たり、にぎやかに過ごせました。公的な介護サービスも利用しながら、姉の子たちもお金は惜しまず、みんなで介護を行い、気持ちよく姉を見送ることができました。私は車イスを押して、2人で旅行に、ミュージカルに、歌舞伎にと方々に出かけました。できることは全部やる!精一杯介護ができて後悔はありません。

夫が定年退職後、義妹の暮らすドイツへ旅行。ドイツ・ヴィリッヒ市の市長・ハイエスさん宅にお招きいただく。旅行中は、子どもたちに交代で家に泊りに来てもらい、高齢の義母を見守ってもらった。

良き妻、良き母、良き嫁をやめてラクに

今はこどもたちも独立し、夫と94歳の義母と3人で暮らしています。私はずっと義両親と同居してきましたが、「みんなが気持ちよく暮らせること」を大切にしてきました。両親だけ気持ちよくて、嫁が我慢して気持ちよくないのはダメなんです。同居が始まった頃、暗い所で長男がしょんぼりと座っていたことがありました。そのとき、「私、どこを向いて暮らしているんだろう?親に気を遣ってばかりで、子どものほうを見ていなかった」と気づいたのです。若い頃は良き母、良き妻、良き嫁として褒められたい、認められたいという気持ちがありましたが、それらを少しずつ手放して、他人の評価を気にせず、我慢しないようになると、本当にラクに生きられるようになりました。

最近は自分の時間を持てるようになったので、一人旅も楽しみ、演劇や美術館に行くことなど東京にいるからこそできることをたくさんやろうと思っています。じつは義母は51歳の時、「私にもお休みをください」と言って、日曜日に社交ダンスと麻雀を習い始めました。義父が病気になってもやめることはなく、コロナ禍前まで続けていました。介護をしながらも楽しい時間を持つという義母の姿勢から、私も仕事や自分の好きなことを手放さないと学びました。

人生100年時代ですが、姉が突然74歳で亡くなったように私もいつ死ぬかはわかりません。終活も考えて、尊厳死協会にも登録し、延命措置はしないように子どもたちにも伝えています。最期まで自宅で暮らせるよう足腰だけは鍛えておくつもりです。

研修講師の仕事は卒業しましたが、社労士の仕事は80歳くらいまで続けたいと思っています。顧問先の困ったの相談にお応えしたり、若い経営者たちとの意見交換などやりがいを感じています。じつは夫は定年になる前から税理士の勉強を始め、10年がかりで資格を取得しました。今は、事務所に社会保険労務士と税理士の看板を掲げ、机を並べて働いています。最近は児童養護施設出身の子どもたちの支援団体「夢の宝箱」というNPO法人と寄付がきっかけで関わりを持ち、夫が経理の支援をし始めています。若い人たちに社会の仕組みを伝えたり、何か私にできる「社会貢献」はないか考えている最中です。

事務所の前で夫と。

取材・文/垣内栄

 

*ライフシフト・ジャパンは、数多くのライフシフターのインタビューを通じて紡ぎだした「ライフシフトの法則」をフレームワークとして、一人ひとりが「100年ライフ」をポジティブに捉え、自分らしさを生かし、ワクワク楽しく生きていくためのワークショップ「LIFE SHIFT JOURNEY」(ライフシフト・ジャーニー)を個人の方及び企業研修として提供しています。詳細はこちらをご覧ください。

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