20代のときからやりたいことをアグレッシブに叶えてきた中林友美さん。看護師として3年間勤務した後は、「海外で暮らしたい」とワーキングホリデーへ。その後、「もっと患者さんの心に寄り添いたい」と大学で心理学を、大学院で看護学を学び、36歳のときに再び看護師として働き始めます。副看護師長にまでなりましたが、息子さんが難病で倒れ、骨髄移植が必要な状態に。そこから働き方を見直し、家族最優先で生きるため、退職して独立。現在は看護師向けのお金とキャリアの研修講師や執筆活動、個人相談などを行っています。また、認知症の母親の介護を経験したことから、介護を抱え込みすぎる「やさしい娘たち」への意思決定支援も開始。最近は睡眠に関する相談業務も行い、やりたいことにすぐ挑戦する姿勢は50代になっても変わりません。中林さんのライフシフトの過程をうかがいました。
中林友美さん(NO.146)
■1971年生まれ。1994年、看護専門学校を卒業後、看護師として病院に勤務。3年で退職し、ワーキングホリデーを経て、大学・大学院で学ぶ。2003年、東京家政大学文学部心理教育学科卒業。2005年、富山医科薬科大学大学院医学系研究科成人看護学(慢性期)修了。2007年から国立研究開発法人国立がん研究センター東病院に勤務。2018年に退職し、2019年にフローレンスFPオフィスを開業。看護師向けのお金とキャリアの研修講師、執筆、個人相談などを行っている。日本睡眠科学研究所認定スリープマスターとしても活動。
■家族:夫、息子
■座右の銘:やらない後悔より、やる後悔
https://fpsdn.net/fp/tnakabayashi/看護師を3年で辞め、海外で暮らす夢を叶える
私は小さい頃、家族で出かけるとなると誰よりも早く玄関に行って靴を揃えたり、机の上を整理整頓したりしていました。よくしゃべる姉に比べて存在感が薄かった私は、「この子は気が利く子だ」と褒められたかったのだと思います。そんな私を見て母が「そんなに気が利くなら看護師に向いているわよ」と言いました。母は女性でも長く続けられる仕事として、看護師を勧めたのだと思います。私は母の言葉を真に受けて、その頃から看護師を目指すようになりました。
一方、私は機械いじりが好きな子どもでした。そのため工学系に進みたいと思ったこともあったのですが、通っていた女子校の先生から「女性が工学部に行っても、トイレがなかったり、大変なことが多い」と諭されました。母からは「看護師も機械に触れる機会が多い仕事よ」と言われたこともあり、高校卒業後は国立の看護専門学校へ進学することにしたのです。
看護専門学校は3年で卒業となりますが、1年目はなんと留年してしまいました。真面目に授業には出ていたものの、家では一切勉強していなかったのです。反省して猛勉強するようになると、成績も上がり、卒業後は第一希望の病院に就職することができました。22歳の時です。

しかし、当時の私は、看護師になることとは別に、もう一つ夢がありました。それは海外で暮らすことです。もともとロックやハードロックが大好きで、アメリカやイギリスの音楽への憧れがありました。私は看護専門学校時代、東京都の奨学金を借りていましたが、都内の病院で3年以上勤務すると返済が免除されます。そのため条件を満たした3年後のタイミングで退職し、ワーキングホリデーでニュージーランドへ向かいました。現地ではホストマザーを手伝う形で他のお宅の掃除を請け負う仕事を少しした程度でほとんど働かず、貯めたお金を使い切って、ニュージーランドに8ヶ月、オーストラリアに3ヶ月、フィジーに1ヶ月滞在しました。
楽しく過ごしていたある日、ホストマザーに「あなたの夢は何?」と聞かれました。「海外に住むのが夢です!」と無邪気に答えると、「それはもう叶えているじゃない。あなたの夢は何?」と問い返されたのです。その瞬間、「私の人生ってまだまだこれからだったんだ!」とハッとしました。旅先で出会った様々な国の人たちと話す中で、病院という狭い業界しか知らなかった私は「自分は世界のことをまだ何も知らないんだな」と痛感することも多かったです。そこから「もっと世の中のことを勉強したい」「患者さんの話をもっと聞けるようになりたい」という思いが芽生えたのです。病院で働く看護師は、いつも忙しくしていて、患者さん一人ひとりの話をじっくり聞く時間はなかなか取れません。それなら臨床心理士のように、話を聞くことのプロフェッショナルになろうと思い、心理学系の大学への進学を決意しました。

29歳で女子大生になり心理学を、33歳で大学院で看護学を学ぶ
看護専門学校時代の学費は国立で安かったため、社会人入試で入った大学進学費用は両親が出してくれることになり、29歳のときに女子大生になりました。周りの友だちの多くは結婚していきましたが、自分のやりたい道へ進むことに迷いはなく、まったく焦りはなかったです。姉が23歳で結婚し、子どもを5人も授かっていたので、両親から結婚を急かされることもありませんでした。
大学での心理学の勉強は楽しかったのですが、当時、臨床心理士の資格取得のためには、大学卒業後、大学院で子どもの心理を学ぶ必要がありました。でも私は「大人の患者さん(特にがん患者さん)の話を深く聴くこと」を追求したかったので、進学先選びで行き詰まってしまいます。そんなとき、看護専門学校時代の恩師に偶然再会し、迷っていることを話すと、「あなたがやりたいことは、看護だと思うよ」と指摘されました。この言葉で「臨床心理士という資格自体にこだわらなくても、大学院で学びを深め研究できればいいんだ」と思い直し、富山の看護学の大学院に進むことを決めたのです。
さすがに大学院の学費と下宿費用は自分で責任を持ち、学費免除の申請や奨学金を活用しながらの生活でした。修士論文のテーマは「がんと診断された患者さんの心理的プロセスについての質的研究」です。もともとキューブラー・ロスの『死ぬ瞬間』や死生学など、人が死を迎えるプロセスに強い関心があったこと、看護師時代の配属が血液内科だったこととが結びついた形でした。

国立がん研究センターで心のケアに携わる
大学院修了後は、「医療コーディネーター」という仕事に興味を持ちました。患者さんに個別に寄り添い、治療法を一緒に考え、希望を叶えていく仕事です。そんなとき、がん患者さんを診ているクリニックで看護師を募集しているという話が舞い込んできました。抗がん剤治療のサポート、脱毛など副作用に関するケア、入院施設のないクリニックから病院へ紹介した際の付き添いなどの仕事です。まさにやりたいことだったので、すぐに働き始めましたが、週1回、クリニックが休診の日に国立がん研究センターの精神腫瘍科での研修に参加するようになりました。そこで診察に同席してがん患者さんの話を聞く経験を2年ほど積んだ後、「うちで働かないか」と声をかけられ、国立がん研究センター東病院へ転職することになったのです。36歳のときです。
国立がん研究センター東病院では、精神腫瘍科外来担当となり、うつなど何らかの心のダメージを負った患者さんのケアに携わりました。がんと診断されると、どんな状態の患者さんも、必ず命の危機に直面します。早期発見で見つかった人であっても、大なり小なりショックを受け、命が有限であることを突きつけられます。「命に向き合う真剣さ」ががん看護のだいご味だと実感していましたが、これまでのどこの職場よりも強く、こちらも真剣に向き合える環境にやりがいを感じていました。

プライベートでは38歳で結婚し、まもなく妊娠しました。出産後は3か月半で職場復帰し、育児短時間制度を活用しながら週3日勤務というスタイルで、仕事と子育てを両立しようと意気込んでいました。ところが、息子が生後11か月で、「チェディアック-東症候群」という日本国内に十数名しかいない非常にまれな難病であることがわかりました。一時は「今日が山場です」と言われるほどの危険な状態に陥り、「治療には骨髄移植しか道がない」と告げられました。あの時、玄関に残された、もう履けないかもしれない小さな靴を見て、茫然自失となったときのことを今でも鮮明に覚えています。
幸い、息子は骨髄バンク経由で素晴らしいドナーの方との縁に恵まれ、骨髄移植が成功し元気になりました。しかし、私は以前のように、組織の一員として、仕事に自分の生活のすべてを捧げる働き方には戻れなくなっていました。自分が産んだかけがえのない息子の生死をさまようほどの闘病生活がきっかけで、仕事を第一とする生活を改め、「これからは家族を優先した働き方をしたい」と思うようになったのです。11年間務めた病院を46歳で退職し、独立して患者さんの相談業務を行うことに決めました。

48歳で独立、看護師向けのファイナンシャルプランナーに
がん患者さんからの相談は、体のことだけでなく、お金のことや仕事のことも多かったため、退職後はファイナンシャルプランナーとキャリアコンサルタントの資格を取得し、開業を決意しましたが、自分ならではの強みを模索する中で、ふとひらめいたのが「看護師向けにキャリアとお金の相談を受ける」という今の事業でした。そして2019年に「フローレンスFPオフィス」を開業し、本格的に相談業務を始めることになりました。看護師経験があり、ファイナンシャルプランナーとキャリアコンサルタントの資格がある私だからこそできる仕事だと確信したことが始まりです。
社会では看護師不足が課題となっており、60代以上の看護師に長く働いてもらうための支援ニーズも高まっています。また看護師は医療のことしか知らずに働き続けてしまいがちで、一般企業では当たり前の金銭感覚が養われないまま60代を迎えるケースが多いのも現状です。なかにはライフプランや老後資金の計画を立てないまま、感情の勢いだけで何かに大きなお金を投じて後悔してしまう方もいます。知的好奇心が旺盛な看護師だからこそ、やりたいことを持続可能な形で叶えるための資金計画を提案し、一緒に伴走することも私の仕事の一つです。
また、親の介護を抱え込みすぎる「優しい娘たち」のサポートや意思決定を支える活動も始めています。看護師は看護のプロゆえに、自分を支えてくれた親をきちんと介護しなければならないと思い込んでいる人が多いのです。特に独身で親と同居している看護師は、キャリアを犠牲にし、自分の身を差し出すようにして親の介護を担ってしまいがちです。私自身は認知症の母の介護に直面した際、施設のスタッフに日常のケアを任せたからこそ、最後まで「優しい娘」でいられました。もしすべてを自分で背負っていたら、同じ話を繰り返す母にイライラしてしまい、優しく接することが難しかったと思うのです。
看護師に限らず介護をする人みんなに伝えたいのは、「あなたの人生が長いだけでなく、親の人生も長い」ということです。80代、90代、時には100歳まで親が生きる時代に、自分の人生をどこまで差し出すのか。介護を頑張った人ほど「もっとできたはず」と後悔しがちなことも看護師時代に見てきました。それでも、後悔しない選択と、自分の人生を守る選択は、両立できるはずだと思っています。子どもに求められているのは、介護の主体を担うことではなく、さまざまな場面での方針の決定や同意書へのサイン、お金の采配といった「マネジメント」であることを、もっと知ってほしいと思います。

睡眠という新たなフィールドにも挑戦
興味を持ったことに突き進む私は、寝具メーカーの店頭で、睡眠に関するアドバイスをする仕事も始めました。睡眠時間が短いと認知症のリスクが高まるという研究もあります。母が晩年、韓流ドラマにはまり昼夜逆転生活を続けたことも一因で認知症を患ったことから、睡眠の大切さを痛感しています。人生100年時代、パフォーマンスを維持し、長く人生を楽しむためには、病気になる前の予防が不可欠です。良い睡眠のために自分に合った寝具や睡眠環境を整える大切さを看護師の立場から伝えられるのが、強みになっています。またインバウンドのお客様の接客では、ワーキングホリデーで培った語学力も活かせています。
振り返ると、看護学校、大学、大学院と学び続け、看護師、ファイナンシャルプランナー、キャリアコンサルタント、そして日本睡眠科学研究所認定スリープマスターという肩書も加わり、私のキャリアは複層的です。私は「来年は何をしているかわからない」ことにわくわくする性格です。組織の一員として同じ場所に留まり続けることは、私には向いていません。人生が長くなればなるほど変化も激しくなるからこそ、変化に強くあること、そして面白そうだと思ったら躊躇せずに飛び込む性質が活かされると信じて活動しています。人生100年時代、変化を恐れず、学び続け、自分の人生の舵を自分で握ること。そして、親や家族を愛しながらも、自分自身の人生を一番大切にすること。そんな「しなやかで強い女性」を増やすお手伝いを、これからも続けていきたいと思っています。

(取材・文/垣内栄)
*ライフシフト・ジャパンは、数多くのライフシフターのインタビューを通じて紡ぎだした「ライフシフトの法則」をフレームワークとして、一人ひとりが「100年ライフ」をポジティブに捉え、自分らしさを生かし、ワクワク楽しく生きていくためのワークショップ「LIFE SHIFT JOURNEY」(ライフシフト・ジャーニー)を個人の方及び企業研修として提供しています。詳細はこちらをご覧ください。
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