メイクアップアーティスト、まつ毛&眉毛サロンの経営、ファスティングマイスター、蕎麦屋オーナーを経て、現在は料理教室を主宰している岡田サリーさん。ライ麦パン「ロブロ」の研究も行っていて、来年にはパン工房をオープン予定です。岡田さんは結婚、出産、離婚、再婚、死別を経験しつつも、これまで家族に囲まれて暮らしてきましたが、58歳のときに「お母さん卒業」を宣言。家族の世話をする役割を終えて、三浦半島に移住し、ひとり暮らしを満喫しています。地域活動にも関わり、最近は三浦市長の後援会の役員も務め、地域交流を深めています。波乱万丈な人生でもいつも前向きに人生を進めてきた岡田さんのライフシフトの過程をうかがいました。

PROFILE

岡田サリーさん(NO.147)

■1964年生まれ。ハワイの高校を卒業後、メイクアップアーティストとして活躍。2004年、東京・広尾に業界初の「まつ毛と眉毛の専門店・ジューシーアイズ」をオープン。ファスティングで20キロの減量に成功したことから、エキスパートファスティングマイスターの資格を取得し、ファスティング講座を実施。2023年、鎌倉・極楽寺に手打ち蕎麦屋「手繰」をオープン。同年、三浦半島に移住し、「サリ飯家庭料理教室」を開催。現在はライ麦パン「ロブロ」の普及に努め、工房オープンの準備中。

■座右の銘:手放せば入ってくる。すべて大丈夫になる。

絵を描くことが好きでメイクアップアーティストに

私のルーツをたどると、祖父はパリで絵を描いていた日本人の画家でした。そこでデンマーク人の祖母と結婚し、父(タレント・俳優のE・H・エリック)が生まれました。祖父の血筋なのか、私も物心つく前からいつも手に筆やペンを持っていて、小学校の授業中はずっと何か描いているような子どもでした。中学校に入ると美術部に入部し、絵を描くことを続けていたのです。

下着メーカーの広告で父と共演。子ども時代はTVや雑誌に出ることも多かった。

父は有名人でしたが、家ではその印象と逆で両親のいざこざが絶えず、小学校6年生のときに母が家を出てしまったんです。食事も自分たちで用意しなければならなくなり、マスコミにも追いかけられ、「日本にいたくない」と思うようになった私は、高校入学のタイミングで一番上の姉夫婦が住んでいたハワイに移住しました。
 
ハワイではヨットの中で暮らしていましたが、豪華なセレブの生活ではなく、どちらかと言えばヒッピーなヨット暮らしです。ヨットで旅をしながら滞在している人も多く、そこで世界中の旅人たちと触れ合いながら過ごしました。お金がたくさんなくても、自分らしくいられる心地よさがあり、「本当の豊かさは物質的な物じゃないんだ」と悟りました。これが私の生き方の原点になっています。

ハワイの姉夫婦は日本から来る撮影のロケーションコーディネーターをしていました。私もお手伝いとして、お弁当を運んだりしながら撮影現場を見て、裏方の仕事に憧れるようになりました。当初は照明の仕事がしたかったのですが、女性は体力的に難しく、姉から「サリーは絵を描くのが好きだし、ヘアメイクの仕事をしたら?」と勧められました。撮影現場でプロの方からも「人をきれいにして喜ばれるいい仕事よ」と背中を押してもらい、ヘアメイクアップアーティストになることを決意。高校卒業後は日本で専門学校に通い、卒業後、再びハワイに戻ったとき、師匠となる著名なメイクアップアーティストに出会いました。彼から「日本で自分のアシスタントになりなさい」と言われ、事務所に所属してアシスタント業務を1年経験。そこからフリー契約になり、21歳のときに独り立ちしたのです。

メイクアップアーティストとしてバリバリ活動していた頃。

3人の娘を育てるために起業したまつ毛専門サロンが大繁盛

独立してからは雑誌の表紙モデルのメイクなど、やりがいのある仕事をたくさんさせてもらいました。一方、プライベートではCMディレクターと出会って、猛烈なアプローチを受け、24歳のときに結婚。長女を妊娠し、出産後は約2年間、子育てに専念しました。仕事を諦めたくない気持ちは強かったのですが、撮影の仕事は朝5時集合というのもざらです。小さな子どもを抱えながら続けるのは難しい現実がありました。
 
転機になったのは、子どもが通う幼稚園のママ友たちから「メイクを教えて」と頼まれたことです。プロとしてできて当たり前のメイク技術を、一般の方に教えると驚くほど感謝されました。それからは「顔の形やパーツは100人いたら100通り。誰もが自分で再現できるメイク方法を編み出そう」と決め、骨格やメイク理論を徹底的に研究。手作りのオリジナルテキストを完成させました。それがテレビ局の目に留まり、番組の「変身メイクコーナー」などでレギュラー枠を持つようになったのです。本も出版し、メディアで私の名前も知られるようになりました。

テレビの仕事が増えていく一方で、夫婦仲は悪化していきました。夫の仕事はバブル崩壊とともに傾き、私が家計を支えるようになると、夫からのモラハラが激しくなってきたのです。次第に夫は心のバランスを崩し、暴言が激しくなって、私は限界に達しました。当時、3人の娘がいて、末っ子はまだ1歳10か月。でもある日、あまりの恐怖から娘たちを連れて、何も持たずにすぐ上の姉(タレントの岡田美里)のところに逃げたんです。このとき私の全財産は8万円でした。

「これからはシングルマザーとして子どもたちを養って生活していく」と腹をくくり、メイクレッスン業に精を出しました。テレビに出演していたおかげで知名度もあり、多くの生徒さんが来てくださったのがありがたかったです。夫には「養育費も慰謝料も一切いらないから離婚してほしい」と伝え、のちに離婚が成立。その後、彼は亡くなりましたが、私は娘たちを育てるために、前を向いて走り続けるしかありませんでした。

安定した収入を得るために、まつ毛と眉毛の専門サロンを始めたのが40歳のときです。姉が「まつ毛エクステというものがあるらしい」と聞きつけ、日本で技術を教えている数少ないサロンを探し出し、私が習得に行ったのです。まだ「まつ毛エクステ」という言葉を誰も知らなかった時代です。どうやって宣伝しようか考えていたところ、ちょうどテレビの取材があり、その後、予約で電話回線がパンクするほどの反響がありました。今振り返ると、私が日本にまつ毛エクステを流行らせた一人だったと自負しています。41歳のときに正式に独立開業し、スタッフを雇い、技術を教え、2店舗目も出店。事業は順調でした。

広尾で日本初のまつ毛エクステ専門店をオープン。シングルマザーとして必死だった。

再婚した夫との幸せな日々も長くは続かなかった

一方、プライベートでは、運命の男性との出会いがありました。3年間の交際後、「この人となら間違いない」と確信して再婚。結婚を機に鎌倉に引っ越し、東京のサロンに通勤していましたが、東日本大震災後は、高台にある古い民家を買って、DIYをしながら暮らしました。ローンの契約者は経営者の私で、頭金はフリーのデザイナーだった夫が出してくれました。

再婚した夫と娘たちと鎌倉の家での幸せな日々。

とても幸せな結婚生活でしたが、家を買ってから1年後、夫にがんが発覚。そこからわずか半年で夫は旅立ってしまったのです。48歳でした。あまりに突然だったため私は茫然自失となり、東京のサロンで仕事をする意欲を失いました。右腕だったスタッフに無償で店を継承し、私は鎌倉の自宅で料理教室を始めることにしたのです。そのタイミングでひとり暮らしをしていた高齢の母を引き取り、末娘と3人での暮らしがスタートしました。その後、長女夫婦も子どもとともに引っ越してきて、一緒に暮らすようになり、悲しみの中でもにぎやかな生活を送っていました。

その後、コロナ禍となり、料理教室はできなくなりましたが、当時、私はファスティングにより7か月で20kgほどやせることに成功していました。周囲から「どうやって痩せたの」と聞かれることが多かったので、ファスティングの指導資格を取得。オンラインでファスティング指導を配信し、コロナ禍でも事業として成り立たせることができました。振り返ると、家庭運はありませんでしたが、仕事運にはずっと恵まれてきた私です。

コロナ禍が落ち着いてくると、今度は「79歳まで家のローンを払いながら、家族のために働き続ける人生でいいのだろうか」と考えるようになりました。私が住んでいた鎌倉の七里ヶ浜エリアはファミリーで行動する人が多く、夫を亡くした後、なんとなく違和感や寂しさを感じるようにもなっていたのです。

ちょうどその頃、コロナバブルで地元の地価が急騰し、自宅の相場も上がっていることがわかりました。「じゃあ家を売って、住み替えよう」と決意し、見つけたのが三浦半島の古民家です。じつは小さい頃、三浦半島に別荘があって、二拠点生活をしていたので、なじみのある土地でした。海にも近く、外観も内装もすぐに気に入って、「ここを買います」とその日のうちに仮押さえするほどでした。一方、強気価格で売りに出した鎌倉の家は、友人家族が買いたいと言ってくれ、とんとん拍子に売却も決定。ローンをすべて完済でき、三浦半島の家を買っても現金が手元に残って、安心して移住することができたのです。

一目で気に入った三浦半島の築88年の古民家。ひとり暮らしに程よい大きさ。

「家族解散」を宣言し、三浦半島でひとり暮らしをスタート

三浦半島への引っ越しを決めたとき、家族には「ママは正式に『お母さん』を卒業して、我が家は解散にします!」と宣言しました。一緒に暮らしていた娘たちは「ママの人生だから、好きにしなよ!」と賛成してくれ、それぞれ家を借りて、解散となりました。58歳のときです。さらに自宅の売買で手元にお金が残ったので、鎌倉・極楽寺に蕎麦店「手繰」もオープン。娘婿が日本料理店で働いていて、蕎麦打ちの才能があったため、お店は彼に任せることにしました。

こうして三浦半島に移り住んだものの、最初の1年は、正直、寂しく退屈でした。飲み友達もできず、ひとりで家にぽつんといるだけの日々。寂しさを紛らわせるため、「極楽寺に古民家を借りて、料理教室をやろう」と考え、娘の家の向かいにある物件を借りる計画を立てました。しかし、リノベーションを依頼した友人が病んでしまい、道具を置いたまま現場に半年以上も来ない状態に。このとき「これは神様から『そこじゃないよ』と、NOのサインを出されているんだな」 と気づき、執着を捨てて諦めることにしたのです。

するとまさにその直後から、三浦半島での暮らしが劇的に変わり始めました。それまでの1年間、ほとんど友達ができなかったのが嘘のように飲み友達が一気に増え、ご近所コミュニティが広がったのです。今では毎朝15人ほどで近くの公園でラジオ体操を楽しむまでになりました。三浦市長とも親しくなり、後援会の役員にも就任し、地域がより良くなるようなアイデアを提案させてもらったりもしています。

自宅では料理教室を毎月開催していますが、遠くは青森や広島、ときにはブラジルからわざわざ飛行機に乗って通ってくださる生徒さんもいます。募集開始からわずか2分で満席になってしまうので、ありがたいことに予約がとれない料理教室と言われるようになりました。うちを「三浦半島の伊勢神宮」と呼ぶ方もいて、パワースポットのような居心地の良さを感じていただけるのがうれしいです。

手軽で映えると人気になった「サリ飯」教室。月に数回、開催している。

そして今、私が最も情熱を注いでいるのが「ロブロ」というデンマークのライ麦パンの研究です。ライ麦は食物繊維が豊富で、GI値が低く、血糖値も上がりにくく、ビタミンやミネラルも豊富なスーパーフードです。日本ではまだあまり知られていないので、ロブロを広めるのはデンマークにルーツを持つ自分の使命だと感じています。

とはいえ自宅でのロブロの料理教室は人数に限りがあるので、近くに工房を作って、通信販売することを計画中です。内装が整ったらワインとスモーブロ(オープンサンド)を出す店にする予定で、来年3月の開業を目指し、今は資金調達や打ち合わせを進めています。

焼きあがったロブロ(上)と、スモーブロ(下)。サリ飯同様に、色鮮やか。

執着を手放せば、いいものが入ってくる

私の人生を振り返ると、悪いことが起きた分だけ、その後に大きな幸運が巡ってくるというサイクルを何度も経験してきました。物事を決めるとき、メリットだけでなくデメリットも当然あります。でも私は、デメリットを考えることにあまり時間を使いません。「うまくいかなかったらどうしよう」といったマイナスの発想がそもそもないんです。私の座右の銘は「すべて大丈夫になる」。なるべく自分が引き寄せたい未来だけを想像するようにする。自分の周りにある目に見えないサポートや神様に対して、常に「ありがとうございます」と感謝の言葉を口にする。その癖をつけていると、本当にそちらの方向に物事が進んでいく気がします。

人生に悩んでいる人と話をすると、執着を手放せないパターンが多いことを感じます。「家があるから」「パートナーがいるから」と今の人生から動けない。でも現状を変えるには、セーフティゾーンから抜け出して、動くしかないんです。手放せば手放しただけ、いいものが入ってくる。これは私自身、何度も繰り返し経験してきたことなので、もはや確信になっています。子どもや親、夫の世話をするばかりで自分の人生を生きていない女性は、もったいないと思います。人生が長くなった今、50代でお母さんを卒業しても、そこからまだ何十年もあります。

今、私の中には10年計画があります。ロブロの事業を軌道に乗せることはもちろん、いずれは自分のライフスタイルをまとめた本を出したいと考えています。単なるレシピ本ではなく、自分の考え方や生き方を綴った一冊です。60代からでも新しいことを始められるんだと、これから同じような岐路に立つ人たちにエールを送りたいと思っています。

私のキャリアは、ヘアメイクから始まり、まつげ&眉毛サロン経営、ファスティング指導、そば屋経営、料理教室、そして今のロブロの研究へ。一見バラバラに見える仕事の数々ですが、つなぎ合わせてみると、私はいつも「人が心地よく集まれる場所」を提供してきたのだと気づきました。事業の中身は変わっても、そこに集う人たちが心地よくなってくれること、美味しいと思ってくれること。それが私のミッションなのでしょう。

幼い頃、家族で過ごした三浦の海を再び楽しむ日々。

(取材・文/垣内栄)

*ライフシフト・ジャパンは、数多くのライフシフターのインタビューを通じて紡ぎだした「ライフシフトの法則」をフレームワークとして、一人ひとりが「100年ライフ」をポジティブに捉え、自分らしさを生かし、ワクワク楽しく生きていくためのワークショップ「LIFE SHIFT JOURNEY」(ライフシフト・ジャーニー)を個人の方及び企業研修として提供しています。詳細はこちらをご覧ください。

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