PROFILE

武藤麻代さん(No.63)/合同会社オールスプラウツ 代表取締役・講師・ワークショップデザイナー

■東京都生まれ、51歳。大学卒業後、就職情報会社を経て25歳で約1年間カナダ・バンクーバーに留学。帰国後、留学カウンセラーなどを経て医療系企業2社にトータル13年間勤務。41歳のとき、がんを発症。患者として医療における課題と食の大切さを痛感したことをきっかけに、食と医療をテーマにしたヘルスケア教育の事業化を決意。43歳、立教大学大学院ビジネスデザイン研究科入学。働きながら学び、MBA取得。翌年『学びの食卓』プロデュースを立ち上げる。外資系外食企業に勤務しながら活動を続け、2018年4月、50歳で合同会社オールスプラウツを設立し、独立。ワークショップデザイン・企画開発、イベント運営に注力するかたわら、食育スペシャリストとして日本型の食事を基礎とした食育セミナー研修、食・体質改善指導を行っている。

■座右の銘:「遊び心を忘れない」

合同会社オールスプラウツ 

■学びの食卓プロデュースイベント
週末の田舎暮らし体験プログラム「長野立科でワイン葡萄をつくる”中村さんちに行こう!”」(5月26日開催)

 

人生をかけて情熱を注げるものが見つからない。20代から抱え続けた悶々とした気持ち

私が社会に出たのは1986年の男女雇用均等法施行から間もないころ。世の中で女性の活躍が謳われながら、実際はまだ環境が整っておらず、就職して3年ほどで結婚退職する女性が多い時代でした。大学の友人たちもそういう道筋をたどる人たちが多かったのですが、「違う道があってもいいんじゃない」という思いが私には学生時代から強くあって。また、バブル景気でお祭り騒ぎの余韻が残る日本の雰囲気にどこか疎外感や違和感のようなものがあり、新卒で入社した就職情報会社を3年で退職してバンクーバーに1年間ほど語学留学をしました。

留学したことはとても良かったと思っています。語学留学だったこともあってさまざまな国の人たちと学ぶなかで、いろいろな感性があるということを肌で感じることができた。いろいろな考え方があり、いろいろな生き方があっていいんだ、もっと自由に生きていいんだということがわかって、すごく楽になったんです。一方で初めて海外で暮らしたことで、日本の良さも見えた。それで帰国後は身につけた語学力を少しでも生かそうと留学カウンセラーをしたりしていたのですが、今ひとつ仕事に手ごたえを感じられなくて。そんななか、結婚を考えていた彼ががんになり、私が29歳の時に他界。その後3年ほどは生きるしかばねのようでした。息はしていて、食べてもいて、仕事もしているけど、生きた心地がしないという感じ。

それでも、ようやく再び人を好きになれたり、趣味で小さな劇団に所属して芝居に打ち込んだりするうちに少しずつ立ち直っていきました。医療機器メーカーで働きはじめたのはこのころです。医療という世の中の核となって役立つ分野で、自分も何かをしたいと考えて仕事に打ち込みました。ただ、私が担当していたのは営業推進やマーケティングといった領域でしたので、ジェネラリストの自分に何ができるのかという思いはありました。振り返れば、20代、30代は自分の人生をかけて情熱を注げるものが見つからず、悶々とした気持ちを抱え続けていたような気がします。

41歳でがんを発症。“Reborn(生まれ変わり)”のために必要だった「空白の1年間」

どこか不安定だった私が自分の中に軸を取り戻した感覚を持てるようになったのは、41歳でがんを発症したことがきっかけでした。今思えば、29歳で大切な人を亡くし、何となく全てを真摯に受け止められない自分に、神様が「ちゃんとしなさい」と教えてくれたような気がします。

がんの発症は青天の霹靂でしたが、当時の私は深夜まで残業してタクシーで帰宅する毎日。病気になってもおかしくない生活だったかもしれません。突然の告知に戸惑う間もなく、セカンドオピニオンを受け、治療方法を選択し、入院、手術、職場復帰。そのプロセスはひと筋縄でいくものではありませんでしたが、私の場合はありがたいことに医療系の会社に勤務していたこともあって納得のいく情報を得、医療スペシャリストとの信頼関係を築きながら、自分の意思で選択して治療を受けられたという感覚を持つことができました。とはいえ、入院中にさまざまな患者さんと触れ合う中で、医療スペシャリストと患者さんのコミュニケーション、情報の非対称性、パターナリズムといった日本の医療の課題も感じずにはいられませんでした。医療の現実はまだまだ厳しいと実感したんです。

不確実な時代を生きる戦略が「拡張家族」。得意を活かしながら助け合って(町塚俊介さん/ライフシフト年齢25歳)

一方で、「病気は医者が治すもの」と受動的になりがちな患者さんや家族も少なくないことに気づきました。医療者と生活者のアンバランスな関係をフラットに変え、自分の体を自分で守る「生活者」がマジョリティになるような社会を実現するために、がん患者としての原体験をもつ私だからこそ何かができないだろうか。そんな壮大な夢を描いて起業を志し、ビジネスプランを作るために社会人大学院に通いはじめたのは43歳の時。これまでの私の人生で最も大きなライフシフトの始まりでした。

会社員として医療に携わり続けるのではなく起業したいと考えたのは、がんになり、これからどうするかを考えた時に組織の中で働き続けることがイメージできなかったからです。もしかしたら、どこかで組織で働くことにフラストレーションもあったのかもしれないですね。それは日々誰もが感じるようなものだったと思うんですけれども、がんを患って死と向き合ったことで、「一度死にかけた人間なんだから、これからは思い切って自分のやりたいように進んでみよう」と思ったんだと思います。なんて、まるで他人事みたいな口調ですが(笑)。

もはや2人に1人ががんになり、3人に1人ががんで亡くなる時代。がんを特別なものだとは思いません。でも、がんが一つのきっかけになって、人生の大切な転換ができたと感じています。もちろん、がんを患ったことをそんなふうに捉えられるようになるまでには時間が必要でした。がんの手術、リハビリ後は医療機器メーカーに復職しましたが、多忙な日々に戻る不安感もあり、一度休息をしようと退職。そこからの1年間は白紙の状態で、全く仕事をしませんでした。旅に出たり、近所をただぶらぶらと散歩したり。それまで職場と自宅を往復する毎日だったので、道端の花を見たり、気になるお店を発見したり、何気ない日常があまりに楽しくて。何もしない日々をさんざん過ごすうちに、さすがに少し動きたくなり、大学院に行こうかな、新しい仕事も探そうかなという気持ちになっていったんです。この空白の一年は “Reborn”のためになくてはならない時間だったと思います。

働きながら大学院へ進学。何かに取り憑かれたように学び続けた

立教大学大学院ビジネスデザイン研究科に入学したのは2011年4月。東日本大震災が起きて間もなく、社会全体が混沌とした時期でした。そのなかで、自分は新しいステージに進むんだと考えたら、「私も社会を変えなければ」とひとり使命感のようなものを抱いて入学したのを覚えています(笑)。

大学院の勉強は大変でした。「ビジネスのロジックを勉強して起業しよう」という単純な気持ちで入学したのに、大学院というところはアカデミックな文章をたくさん読まなければいけません。医療系の会社に再就職し、働きながら通っていたので、時間のやりくりにも苦労しました。自分で決めたこととはいえ、まさかこんなことになろうとはと思ったものです(笑)。でも、文献を通して新しい概念を自分の中に取り込んでいくことが新鮮で、何かに取り憑かれたように学び続けました。必須ではなかった修士論文も、教授に相談しながら調査研究を進めていく過程で「せっかくだから書いてみたら?」と勧めていただき、「書けますかね?」と言ってしまったのが運のつき。格闘の末、7万字を超える論文を執筆しました。ゼミの教授や同級生たちも熱のある方たちばかりで、みんな仲が良く、今もお世話になっています。人との出会いも大きかったですね。

不確実な時代を生きる戦略が「拡張家族」。得意を活かしながら助け合って(町塚俊介さん/ライフシフト年齢25歳)

「食」や「医療」を軸とした場づくりを通し、人と人の縁をつなげていきたい

起業しようと決め、ビジネスプランを作っていく過程で、さまざまな医療従事者、患者さんやそのご家族たちと会う機会を重ねていきましたが、そのなかで突きつけられたのは、医療のスペシャリストでないとできないことと自分にできることの間にボーダーが存在するという当たり前の事実です。一方で、私って何がやりたいんだろう、私だからできることは何だろうと考えた時に、「“頑張らない食”というものをやってみたい」と思いました。がんを発症し、手術は無事終わって復職もしたもののさまざまな不安を抱えていた日々のなか、ひとつだけ、何かひとつだけ健康を取り戻すために無理せずできることをやろうと考えて、取り組んでみたのが「食の改善」でした。難しいことではなくて、栄養価の高い雑穀を知っていつものごはんに加えてみたり、オーガニックの食材店で「おいしそう」と思ったものを試してみたり。その繰り返しが、私に力を与えてくれました。だから、“頑張らない食”に関してなら、自分も皆さんに伝えられるし、伝えたいと思ったんです。

不確実な時代を生きる戦略が「拡張家族」。得意を活かしながら助け合って(町塚俊介さん/ライフシフト年齢25歳)

「食」と「医療」という軸が固まってからは、迷いがどんどんなくなっていきました。大学院を修了した1年後、将来の事業化を視野に入れ、団体『学びの食卓」プロデュース(以下、まなしょく)を設立。「食」を通した心と体のセルフメンテナンスと、生活者一人ひとりがジブンゴトとして医療を育む「医療育」を提案する場づくりをスタートしました。ほぼ同時期にフードビジネスについて学ぼうと外食企業に転職。「医療」や「食」に関する分野で少しでもできることを増やそうと健康経営アドバイザーや健康食育シニアマスターの資格も取りました。一方で、薬膳料理の先生や「家庭医」として地域の医療に携わっている医師などさまざまな方との出会いもあり、皆さんとコラボレートして週末にワークショップを開催するなど実践も重ねました。そのうちに食育セミナーの講師として呼んでいただくなど活動の幅が広がり、2017年10月に外食企業を退職。2018年4月に合同会社オールスプラウツを設立しました。

現在は「健康経営」のお手伝いとして企業の食育研修プログラムの企画・運営や食育の講師を中心に活動しています。まなしょくのワークショップ活動も5周年を迎え、これまで多くの方々と出会って刺激をいただいたり、励まされてきました。

不確実な時代を生きる戦略が「拡張家族」。得意を活かしながら助け合って(町塚俊介さん/ライフシフト年齢25歳)

「食」を通してみんなで心や体のメンテナンスについて考える場としてスタートしたまなしょくですが、実はここ最近は、単純に色んな人が集い食を囲む場づくりを手掛けてみようかなと思っているんです。食がそこにあると心が和んで、初対面の人たち同士でもフラットに話せる。食の大切さをその人なりに学ぶ場、食を起点に人と人の縁をつなぎコミュニティを作ることが私の役割になればと。過去の活動を通してより一層そのように感じるようになったので、将来的に少しそちらの方向にシフトチェンジしていこうかなと考えています。2018年冬から月の半分ほどは長野県・立科町で暮らすお試し生活を経て、今では活動拠点も東京・長野の2拠点に。人とのご縁もさらに広がっています。コミュニティで人が出会い、そこでつながりができて派生していけば、最終的には顔の見えるソサエティ(社会)ができる。日々の活動を通し、それを少しなりとも形にできているかなと感じられることが今の喜びです。

不確実な時代を生きる戦略が「拡張家族」。得意を活かしながら助け合って(町塚俊介さん/ライフシフト年齢25歳)

あっちこっち転んで、つまずいて。回り道ばかりしてきましたが、それがなければ今はなかったのかなとも思います。今回、取材をお受けするにあたり、昔のことを少し思い返してみようとがんを発症してからしばらくの間つけていたメモ書きノートを取り出してみました。先の見えない毎日のなかで何かを残しておきたくて、1日1ページだけと決めて書いていたノートです。久しぶりに開いたそのノートには、日々の些細なできごとからどこかで目にした偉人の名言といった雑多なメモとともに、決意表明のようなものや、一生懸命自分を鼓舞するコメントなどがとりとめもなく書かれていて。当時の感情が生々しく思い返されて、何だか可笑しかったり、愛おしさを感じたり。一方で、変わらない自分の思いを確かめることもできました。日々の雑記だった「メモ書き」が、今は、前に進んでいくための勇気をくれる「覚書き」になったような感じがしています。