尾原和啓さん(No.77)/フューチャリスト 藤原投資顧問 書生
1970年、大阪府生まれ。京都大学大学院工学研究科応用システム専攻人工知能論講座修了。人工知能を研究。1994年、マッキンゼー・アンド・カンパニーにてキャリアをスタートし、NTTドコモのiモード立ち上げ支援などに携わる。退職後、リクルート、ケイ・ラボラトリー(現・KLab 取締役)、コーポレート・ディレクション、サイバード、リクルート(2回目)、Google、楽天(執行役員)、Frindge81(執行役員)などにおいて事業企画、投資、新規事業に従事。経産省対外通商政策委員、産業総合研究所人工知能センターアドバイザーなどを歴任。現職の藤原投資顧問は14職目となる。2015年4月よりシンガポール・バリ島をベースに人と事業を紡ぐ「カタリスト(触媒)」として活動。ボランティアでTED日本オーディション、Burning Japanに従事するなど、西海岸文化事情にも詳しい。『アフターデジタル オフラインのない時代に生き残る』『どこでも誰とでも働ける――12の会社で学んだ“これから”の仕事と転職のルール』『ネットビジネス進化論 何が「成功」をもたらすのか』など著書多数。初めての単著『ITビジネスの原理』(2014年発行)は韓国語、中国語版にも翻訳されている。2020年7月8日新刊『あえて数字からおりる働き方~個人がつながる時代の生存戦略』発行予定。
■家族:妻、娘(14歳)
■座右の銘: “We are called to be architects of the future, not its victims(僕たちは未来の建築家として召されているのであって、被害者として召されているのではない)”
富士山の気象観測所や南極米観測基地にも採用されている「ジオデシックドーム」の考案者として知られるバックミンスター・フラー(米国出身の思想家、発明家、建築家)の言葉。「ここ1年の座右の銘です。多分、来年は違うことを言っていると思います(笑)」と尾原さん。
成長期の娘に「喉が乾く場所」を経験させたくて、家族でバリ島に移住
楽天の執行役員を退任後、2015年4月からシンガポールとインドネシアのバリ島を拠点に書籍の執筆や講演をしたり、顧問企業のアドバイザーを務めています。東南アジアに拠点を移したのは、当時9歳だった娘に、日本以外の環境で学ぶ選択肢を与えたいと考えたからです。
経済状況の差から起きる「教育格差」が深刻化していると言われますが、一方で、今は教育の「無料革命」も起きています。YouTubeや無料のオンライン大学プラットフォームで世界の一流大学の最先端の授業が公開されていて、言葉さえわかれば、誰でも24時間見ることができる。僕は仕事でさまざまな国に行くのですが、例えば、ベトナムのハナイ工科大学でAI関連の講演をしたりすると、僕自身が経験してきたビジネスの話はメモを取りながら聞いているのに、テクノロジーの話になったとたん、上の空(笑)。「スタンフォード大学の○○先生の授業をオンラインで聞いて、知ってるよ」と言うんです。ベトナムに限らず、東南アジア各国でそういうことが起きているんですね。
かたや、日本の学生に「オンライン大学で、面白い授業知ってる?」と聞いても、答えてくれる学生は200人にひとりいるかどうかです。この差は何か。英語力も影響しているけれど、突き詰めて考えれば、「喉の渇き」の違いです。
東南アジアでは政府による教育環境の整備が進んでいない国も多く、喉が渇いているがゆえに、吸収力がものすごい。通信料の低価格化が進んでいる影響もあって、インターネットを駆使して世界中から一番いい情報を見つけ出し、それを理解するための語学力も身につけて、みんなで共有して貪欲に成長しようとするんです。
ところが、日本は中途半端に教育環境が整っているために、喉が渇かない。「喉が渇かない不幸」があるんですね。この状況を「不幸」と考えるかどうかは人それぞれです。でも、ITで世界がつながって、国境の壁がフラットになり、国際間の労働力のシェアも当たり前になった今、これまで「島国」で守られていた日本人一人ひとりにも、「国際競争力」という言葉がよりリアルになってくるのは事実です。
娘には、成長期に「喉が渇く場所」を経験させ、世界中のいろいろな人たちと議論できる力をハイスピードで培ってほしかった。そこから先、どこで生きていくかは彼女の自由、と考えていました。
移住当初は「なんでパパはこんなところに私を連れてきたの?」と泣かれたりもしましたけどね。東京の友だちとはインターネットを介してつながれるし、少しずつバリでの暮らしにも慣れて、今では英語もインターネットの使いこなし方も僕よりもハイレベルです。拠点を移してからも僕は仕事であちこち飛び回っていて、家を守ってくれている妻には本当に感謝しています。移住も、妻が賛成してくれなければできませんでした。
持ち続けてきたのは、「人を笑顔にするプラットフォームをつくりたい」という思い
意外に思われるかもしれませんが、僕は移住するまで仕事以外で海外に行ったことがありませんでした。英語も苦手だったし、もっと言えば、アメリカ人の「アメリカ イズ ナンバーワン」的な雰囲気が苦手でした(笑)。後にグーグルで働き、それは偏見だとわかったのですが…。
大学院で人工知能について学んだ後、マッキンゼー・アンド・カンパニーに入社したのも、外資系に入りたかったわけではありません。僕はこれまでにマッキンゼー、リクルート、グーグル、楽天など13社で仕事をしてきましたが、ずっと持ち続けてきたのは、「人を笑顔にするプラットフォームをつくりたい」という思いです。その原点は、1995年に起きた阪神淡路大震災でのボランティア活動にあります。大学院1年生のときでした。
震災が起きたとき、僕が住んでいた大阪・十三は被害が少なかったのですが、高校時代を過ごした神戸が大変なことになっていると聞き、すぐに東灘区の避難所で物資運搬のボランティア活動を始めました。そのときに、情報が混乱して、避難所に必要な物資や人材が行き渡らなかったり、多過ぎるということが起きたんですね。そこで、神戸大学の学生さんたちと一緒にボランティア団体を立ち上げて、情報を1カ所に集め、避難所ごとのニーズと、物資やボランティアのマッチングをする仕組みを作ったところ、支援がスムーズに行えるようになりました。
神戸で僕たちがやった情報の「仕組みづくり」は、今で言う、プラットフォームをつくること。仕組みをつくるだけで、誰かを笑顔にすることができると知って「すごいな」と感じ、この経験をもっと深められるのではと考えて、マッキンゼーに入社したんです。
マッキンゼーでは入社1年目にNTTドコモの「iモード」プロジェクトに志願し、形のないところからプラットフォームの立ち上げに携わりました。今皆さんが日常的に使っている「絵文字」は当時プロジェクトチームで最年少だった栗田穣祟さん(現・ドワンゴ専務取締役兼niconico代表)が開発しましたが、ドットを入力したのは僕です(笑)。当時ドコモの部長だった松永真理さん、夏野剛さんといった方々と同じチームで仕事をさせていただいた日々は、ほかでは得難い経験でした。
社会に出て間もない僕が、そんな経験をできたのは、インターネットがまだ普及していない中、IT関連の専門知識があったからです。僕はたまたま小学校4年生でパソコンに出合い、中学時代に始まったパソコン通信で人とつながる面白さを知りました。さらに、大学に入学した時期にアカデミックな世界を中心にインターネット回線がつながれ、サーバーの管理を経験。阪神淡路大震災では、国内のパソコン通信使って情報を集め、インターネットを通じて海外の支援者と連携するような活動もしました。ITに関するいくつかの分野の経験を、深くではないけれど、広く持っていたことで、それぞれの分野の専門家とみんなをつなぐ「翻訳者」のような役割を果たすことができ、「iモード」でも少しなりとも貢献できたんです。
その後、リクルートで紙媒体からWeb媒体への転換をお手伝いしたり、グーグルで「Android」の国内ビジネス開発、楽天では無料電話アプリを提供するイスラエルのViber社の買収後統合などさまざまな会社でプラットフォームづくりに携わりました。
転職というのは「自分の持つ強みを相手にGIVEし、成長するためのもの」
日本を離れるまでに、僕は12回転職を経験しています。よく会社選びには、そこで何がしたいかという「目的」が大事と言われますよね。その通りですが、僕の考えでは、転職というのは「自分が培ってきた強みを相手にGIVEしながら、自分を売り込んでいき、そのバランスの中で成長するためのもの」。きちんと「GIVE」をして、給料以上の仕事をする限りは、スキルや人脈、知識、肩書きなど「この会社でコレを手に入れたい」という「手段としての転職」もアリだと思っています。
僕がグーグルに入ったのは「手段としての転職」、楽天は「目的のための転職」でした。グーグルで手に入れたかったのは、英語で仕事をする力です。先ほどお話したように、僕にはもともと海外志向がありませんでした、転機は、2007年に韓国サムスンが日本市場から一時撤退したことです。サムスンは日本でのブランド力を上げたいと進出に力を入れていました。そのサムスンが日本以外の市場では好調だったのに、日本を見限るように撤退を決めたことが僕には衝撃でした。さらに、翌年にはリーマンショックが起き、外国の投資の「ジャパンパッシング(日本飛ばし)」が始まりました。
僕は、新しいプラットフォームを作るお手伝いをすることを強みにしてきたのに、日本に閉じこもっていたら、新しいことができなくなってしまうかもしれない。苦手な英語を何とかして、グローバルで通用する力をつけなければと思いました。でも、語学学校から始める余裕はありません。英語で仕事をせざるを得ない環境に身を置いて学ぶしかないと考えました。
そんなときにグーグルが日本でモバイルを立ち上げるという話を聞き、自分の経験を売り込んだんです。入社時の僕の英語は本当につたなかったのですが、日本でモバイル事業を立ち上げた経験があるのは希少だったので、その知識やスキルを「ギブ」することで成長の交換をよくでき、僕史上最長の38カ月も在籍してしまいました。
グーグルはものすごく楽しい場所でした。でも、ふと、自分が「日本のモバイル事業の良さを外国に切り売りする人」になっているなと気づいたんですね。外国人を相手に、「日本のモバイル決済がいかにすごいか」とか「絵文字とは」といったことばかりを語っているなと。
同じ日本の魅力を語るなら、日本企業が日本の強みを生かして海外に出ることを手伝いたい。そう考えていたときに、リクルート時代からお世話になっている高橋理人さん(元・楽天執行役員)に誘っていただいて三木谷浩史さんとお会いする機会があり、すごく話が合ったんですよ。それで、「この人と働いてみたい」と思って入社しました。
日本を離れるにあたっての最大のハードルは、独立によって「表に出る」こと
バリ島で暮らすことにしたのは、楽天で働きはじめ2年たったころです。僕は2011年から「TED(講演会の開催や配信を通して、世界各国の「知」をシェアする米国の非営利団体)」のローカル東京版の活動をボランティアでお手伝いしていて、ジョン・ハーディーさんがバリ島に作ったインターナショナルスクールのセッションに参加しました。「グリーンスクール(緑の学校)」という名のその学校の、竹で作られた校舎の話をきいて、ここで娘を学ばせようと決めました。
だからといって、楽天の執行役員を辞めてバリ島に移り住むなんて、それが僕のちょっとおかしなところ。それでも「尾原だから、仕方ない」と送り出してくれた皆さんには、ありがたくて、感謝の言葉が見つかりません。
バリ島には “Bali find me(バリが私を見出す)”という言葉があります。“I found Bali(私がバリを見つけた)”じゃないんです。今思えば、僕がバリ島にやってきたのは、まさに“Bali find me”で、必然的な出会いでした。背景はふたつあります。ひとつは、プラットフォームが「当たり前」の世の中になりつつあること。2015年9月に「Facebook」の月間ユーザー数が15億を超えたのが象徴的です。
世界で最も人口の多い中華人民を超える「Facebook国」が生まれるほど、プラットフォームは人々の生活と切り離せないものになっています。そういう時代に自分がやるべきことは、新しいプラットフォームを作っていくことではないのかもしれない、という思いが日本を離れる少し前からありました。当たり前になったゆえに見えにくくなったプラットフォームの良さや、プラットフォームの持つ可能性をみんなに伝えていくことのほうが、大事なんじゃないのかなと。
同時に、自分の経験を自分のものだけにしてはいけないという思いもありました。なんたって、尾原家の家訓は「ノブレス・オブリージュ」です。3代続く医者の家庭で育ち、父は「自分が医者になれたのは、たまたま。だから、自分の技能を皆さんに還元しないと」と開業医として日々医療に励み、地域の皆さんに惜しまれながら亡くなりました。その「血」が僕にも流れています。
僕が80年代のパソコン通信の時代から日本のプラットフォームづくりの最前線に身を浸すことができたのは、たまたま時代や環境に恵まれたから。そのおかげで学べたことを言葉にして、次の世代の方に“ペイ・フォワード(Pay forward)”しないと申し訳ない。そんな気持ちから、楽天時代に『ITビジネスの原理』という本を書かせてもらい、ありがたいことに、今では執筆や講演で毎日が忙しくなっています。
執筆や講演というのは、僕自身がプラットフォームになって、表に出るということ。実は、僕にとってこの「表に出る」というのが、日本を離れるにあたっての最大のハードルだったんです。僕はずっと「裏方」としてプラットフォームづくりを手伝ってきて、そこが自分の強みだと思っていたし、「裏方」が好きでした。
なぜ好きかと言うと、「裏方」って自由なんですよ。「役者」が舞台からいなくなったら大変だけど、「裏方」は舞台を作り終えて、「じゃあ、撤収して次に行きます!」と軽やかに言える。おまけに、僕がお手伝いさせてもらった「役者」たちは「裏方」を上手に使ってくれました。気持ちがいいこと、この上ないんです。
ところが、表に立ったら、そうはいきません。自分が書いたり、言ったこと一つひとつが衆目にさらされ、責任を負うことになります。日本にいるときはそれを不自由だと感じていました。でも、思い切ってやってみたら、できてしまうものですね(笑)。今でも表に出るのは好きではなくて、これは性格的にどうしようもないのですが、ちゃんと表に出てみたら、「ありがとう」と真正面から言ってもらえた。責任を引き受けることを、今は楽しめるようになりました。
「GIVE」を続けていくことが、結果的に自分を「何者」かに成長させる
バリ島との出会いのもうひとつの背景は、どこで暮らしても働け、離れた場所に住む仲間とつながっていられる時代になったこと。インターネットをめぐる環境が進み、格安航空会社(LCC)によって移動コストも低くなりました。どこでも働けるなら、心地良い環境でクリエイティビティを発揮しやすい場所で暮らしたい。そう思って世界を見渡してみたときに、バリ島のウブドゥが「第2のシリコンバレー」になるのではと感じたんです。
ウブドゥはもともと画家などアーティストが集う場所でしたが、2010年代前半から、僕が尊敬していたり、好きなソートリーダーたちがウブドゥに移り住むようになりました。今では、そうした「未来を作る人たち」がたくさん暮らしています。そういう人たちが集う場に飛び込み、未来を作るお手伝いをしてこそ僕でしょう、という思いもありました。
振り返ると、日本を離れるのは僕にとって大きなジャンプでした。海外で暮らすのは初めてですし、転職は何度も経験したものの、基本的には大きな組織の中でフラフラさせてもらっていたのが僕です。そんな自分が日本を離れ、独立して、果たして「何者」かになれるのか。決して自信があったわけではありません。
でも、バリ島やシンガポールを拠点にして5年経った今、仕事の幅も人とのつながりも以前より広がり、日本でこれまで一緒に働いてきた人たちともオンラインつながって、いつもキャッキャやっています。こんなに面白い人生ないですよ。フラフラと自由にやらせてもらいながら、組織も国境も越えて、「尾原っち、これ教えてくれない?」「尾原さん、こんなことをやってみませんか?」と仲間から声をかけてもらえるなんて。
海外で暮らしはじめて意外だったのは、日本から遠く離れるほど、日本人であることの有り難さを自覚するようになったこと。「ありがとう」って「有ることが難しい」ってことなんですよね。「有ること」の難しさって、近くにいる者同士だと感じにくいんです。でも、離れた場所に行くと、自分にとっては難しくないことであっても、相手にとっては「有ること」が難しいことだったりして、「ありがとう」と言われることが増えました。
最近だと、いろいろな国の人たちから「日本の新型ウイルス感染者数はなぜ少ないのか」と聞かれることがあります。そのときに、「日本には“けがれ”という概念があって、清潔にする文化が…」「一方で、“同調圧力”による良い面と悪い面もあって…」と情報を提供すると、日本人にとってはよく聞く話でも、ほかの国の人には「教えてくれて、ありがとう」と言われて、輪の中に入っていける。そこで教えてもらったほかの国の事情を、今度は日本の人たちに話すと、また「ありがとう」と言ってもらえます。
考えてみたら、僕は昔からそうでした。新しい場所に行っては、自分にとって「有ること」が難しくないものをGIVEし、「ありがとう」と言われることによって、自分の中にある、「相手とは違うもの」を見つける。それを繰り返してきたんです。
例えば、僕が新しい場所に行ったときにいつもやっていたのは、「みんなの手が回らないけど、自分にはできること」。社会人になったばかりのころは、会議の議事録をリアルタイムでとるということをよくやっていました。すると、当時はパソコンが得意な人が少なかったので、重宝され、いろいろな集まりに呼んでいただけるように。そこから情報や知識を得たり、人とのつながりが広がっていきました。
つまり、「ありがとう」と言ってもらうことは、自分の強み、人とは違うものを見つけていく行為。それは、最初は小さなことかもしれません。でも、人って「ありがとう」と言われるとうれしいから、ちょっと背伸びをしてでも、ほかの人には難しいことを「GIVE」しようとがんばったりする。そうやって「GIVE」を続けていくことが、結果的に自分を「何者」かに成長させるのだと思います。
僕にとって一番怖いのは、「老害」になること。以前、「老害」になっていそうな人と、そうでない人にインタビューをしたことがあるんです。もちろん、こっそりと(笑)。「老害」グループには「過去の栄誉にひたる」という共通点がありました。それで、ちょっとホッとしたんです。ありがたいことに、僕は飽きっぽいので、過去よりも未来が好き。人生のテーマは「ローリング・ストーンズ」です。そういう自分であり続ければ、いくつになっても変化を楽しみ続けられると思っています。
<お知らせ>
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