PROFILE

前内眞智子さん(No.80)/株式会社サロンドロワイヤル 代表取締役社長

■1955年愛媛県生まれ。1978年、同志社大学文学部卒業。中学校の教員として2年間勤務後、夫の前内治男氏が2代目社長を務める前内製菓株式会社(現・株式会社サロンドロワイヤル)入社。営業や通信販売事業をおもに担当する。2012年、3代目社長を継承。女性活躍推進、業務効率化などの経営改革を進める一方で、2012年にオープンした京都本店を拠点に高級チョコレートとしてのブランドを確立。2019年にはチョコレートの世界的祭典「サロン・デュ・ショコラパリ」で、サロンドロワイヤルが「世界を代表するショコラティエ100」に選出される。2017年7月、岩手県陸前高田市、東京大学(生産技術研究所、大学院農学生命科学研究科)と協働で陸前高田市の農業再生と地方創生を目指す「ピーカンナッツプロジェクト」に参画。翌月、陸前高田市を本拠地とするゴールデンピーカン株式会社を設立。ピーカンナッツの日本での普及にも尽力している。

■家族:夫、長男、長女

■座右の銘: 「大人(たいじん)になる」
「大人」とは「度量のある人」のこと。儒教の教書『大学』から学び、会社経営の根幹に据えている。3代目社長に就任し、社員が幸せに働け、「持続可能」な組織を作るにはどうすればいいかを追求する過程で、この言葉にたどり着いた。

株式会社サロンドロワイヤル
ゴールデンピーカン株式会社

 

親に勧められるまま、お見合い結婚。嫁ぎ先がたまたま「チョコレートの会社」だった

突然の病に倒れた夫のピンチヒッターとして、57歳の時に「サロンドロワイヤル」の社長に就任し、もうすぐ8年になります。義父・前内実治が大阪で製菓業を創業したのは1935年のこと。当初は焼き菓子中心でしたが、戦後、日本ではまだまだ新しかったチョコレート製造にフロンティアとして参加。当時発売された「サイコロチョコレート」は、日本国内はもちろん台湾にも輸出される大ヒット商品となりました。

現在のサロンドロワイヤルの代表作「ピーカンナッツチョコレート」

私が夫と結婚した時、すでに義父は亡くなり、夫は2代目社長に就任して12年目でした。夫と出会ったきっかけは、お見合いです。私は愛媛で生まれ育ち、京都の大学を卒業後、中学校の英語科教員として勤めはじめたばかり。親に勧められるままにお見合いをして、仲人さんから「人柄のいい方ですよ」と言われ、結婚してしまいました。主体性はなかったです(笑)。夫の会社のことも何も知りませんでした。嫁ぎ先がたまたま「チョコレートの会社」だった、という感覚です。

教員になったのは、何かしら、社会の役に立てる仕事をしたかったから。教育という人を育てる仕事に夢を持っていました。結婚後も続けるつもりでしたが、結婚してすぐに授かった長女が1歳の時に、思いがけないことが起こりました。このころ夫の会社はOEMを主力に事業を展開していたのですが、売り上げの約9割を占めていた案件を失い、経営難に。夫をサポートしなければ立ち行かない状況になり、教員を退職しました。

結局、人が強くなれるのは、すべてを捨てた時

教員を続けた方が、生活は多少安定したかもしれません。でも、安定を求めて、会社を潰してしまっていいかと言えば、そうではありませんでした。結婚後、夫と暮らし、「この人は仕事が好きなんだな。チョコレートが好きなんだな」と感じました。夫はチョコレートをつくる家に生まれ、何十年もその世界で生きてきた人です。今、会社が潰れたら、夫も潰れてしまう。そうならないために、私にできることがあるのなら、やろうと思ったんです。

追い詰められた状況でしたが、「背水の陣」という言葉は本当ですね。結局、人が強くなれるのは、すべてを捨てた時なんです。生産量を自社でコントロールしにくいOEMから、自社ブランド確立へと会社が事業の転換を図る中、私は営業を担当。店舗のほかに、観光地のお土産物としてBtoBの取引先を開拓する一方、通信販売に力を入れて販路を広げていきました。その間に長男も生まれ、子どもが幼いころは目まぐるしい毎日でしたね。仕事が忙しい時期は、睡眠時間が3時間という日もありました。保育園のお迎えが遅くなり、子どもたちには「もっと早く迎えに来てほしかった」と後々まで言われました。

体力的には厳しかったけれど、苦しいと思ったことはないですね。むしろ、楽しみながらやっていました。自分が考えたことを実行し、少しずつではあるけれど、成果として目に見えるものになっていく。それが楽しかったです。

夫が突然病に倒れ、3代目社長を継承。1年目に大きな挫折を経験した

オリジナル商品の評判が地元・大阪から少しずつ広がり、2010年には初の自社ブランド店舗をオープン。その年に発売した「ピーカンナッツチョコレート」がヒット商品となり、かねて念願だった京都店オープンを数カ月後に控えた2012年4月、夫が脳内出血で突然倒れました。一命を取り留めたものの、右半身が不自由になり、急遽私が社長を交代することに。長男、長女も家業を手伝ってくれていましたが、まだ若く、スムーズな事業継承のためには、私がやるしかなかったからです。

想像もしていなかった展開に、最初は戸惑いの日々でした。経営経験はなく、チョコレートの製造についても知らないことだらけ。社長就任直前の肩書きは「専務」でしたが、常に「サポート役」でしたし、営業や販売促進を担当してきて、製造についてはノータッチでした。それでも、やらざるを得ないならば一生懸命やろう。そう腹を据えて社長に就任しましたが、1年目にして挫折がありました。注文数に生産能力が追いつかず、バレンタイン商品のお届けが間に合わないという大失敗をしてしまったんです。

お客さまからのクレームの嵐で、製造現場は大混乱。社員の退職にもつながりました。「経営者失格や!」と言われ、返す言葉がありませんでした。手痛い失敗でしたが、この経験がなければ、今の当社はなかったと思います。お客さまからの信頼を取り戻し、社員との信頼関係を再び築くには何をすべきか。そう考えた末に出した答えが、「社員にとって働きやすい環境を作ること」です。お客さまももちろん大事ですが、先に社員が働きやすい環境があってこそ、いい商品をお客さまに届けられると考えました。

社員が働きやすい環境を作るための大きな取り組みのひとつが、女性技術者の養成です。チョコレートの製造現場は「職人」の世界。「男性にしかできない技術がある」という理由から、主要な作業は男性社員が担当し、女性は「サポート」と決まっていたのが従来の当社でした。でも、本当に女性にチョコレートは作れないんだろうか、と思いました。女性にも主要な仕事を任せれば、生産能力が上がり、社員全体が余裕を持って働けるようになるのでは、と。

しかし、私ひとりの力では組織を変えることはできません。そこで、40年以上当社で働いてくれていた当時の工場長を「女性の力も生かせる組織を作らないと、会社が立ち行かなくなります。力を貸してください」と説得し、協力を取りつけて、女性の技術者を育てていきました。一方、外注化を取り入れたり、商品アイテム数を取捨選択して業務量を減らし、社員が生活と仕事を両立しやすく、女性も働きやすい環境を整備。その結果、7年経った今、繁忙期でも残業はほぼゼロで、生産能力は改革前の4倍になりました。また、女性社員の数も増え、社員約80名のうち、7割ほどが女性です。

試行錯誤した末にわかったのは、「お金」では社員を幸せにできないということ

2019年秋、サロンドロワイヤルはパリで開催される世界最大のチョコレートの祭典「サロン・デュ・ショコラ」に出展し、新作「結〜Musubi」が好評を得るとともに、同展25周年を記念して権威あるチョコレート愛好家クラブ「クラブ・デ・クロカー・ドゥ・ショコラ(CCC)」が発表した「世界を代表するショコラティエ100」に選ばれました。同展への参加は2017年から3回目です。

チョコレートの祭典「サロン・デュ・ショコラ」にて

世界に冠たる高級チョコレートの開発に力を入れてきたのは、「サロンドロワイヤルを社員一人ひとりにとって誇りを持てる会社にしたい」という思いからです。社長就任後、組織改革を進め、社員が働くための外的環境は3年ほどで整いました。アルバイト社員の正社員登用も進め、全体的に待遇も向上させました。ところが、社員の士気は期待したほどには上がりませんでした。ギャップを埋めるために、試行錯誤した末にわかったのは、「お金」では社員を幸せにできない、「心」を満たさなければ、ということでした。

世界を目指すようになって社員の士気が上がり、会社の業績も伸びました。そうなると、一人ひとりの顔つきも変わり、自分だけでなく、一緒に働くメンバーのことも考えるようになります。その姿を見られるようになって初めて、小さな一歩を感じています。

失敗を繰り返し、自分のできないことがよく見えるようになった

社長就任後、私自身に何か変化があったかというと、とくに思い当たりません。父がよく言っていた、「随所に主となる」という言葉があります。「いつ、いかなる場所にあっても、そこを自分に与えられた場所として、力の限りを生かす」という意味で、私自身も小さい時からそうあるよう育てられました。社長になってからも、やるべきことを淡々とやってきただけです。「仕事をする」とか「働く」というより、会社を潰してはいけない、社員を守らなければ、とそれだけでした。そのためには、何としてもやり抜く。これは今も同じです。

ひとつだけ変わったと言えば、自分が物事をわかっていないということがよくわかりました。失敗を繰り返して、自分のできないことがよく見えるようになり、周囲に率直に「あなたの力が必要なんです。助けてください」と言えるようになった。自分のできないことを人にお願いするのは、つまらないプライドを捨てること。それができるようになったのは、大きなことでした。

自分が社長になるなんて予想もしていませんでしたし、なりたいと思ったこともありませんが、以前に比べて、自分の世界が広がったのは確かです。社長になるまでは、あくまでも自分は「サポート役」という意識でした。でも、最終責任者になったからには自分で選択をしていく。「責任」と「自由」が表裏一体で、自分で選ぶということができるようになりました。「挑戦」ができるようになったというのは、社長になってよかったことです。

「女性の登用」はその「挑戦」のひとつだったと思います。私自身は「女性経営者」であることによって不利だと感じるようなことはありませんでしたし、あっても、性格上気づかなかったかもしれません(笑)。ただ、少数派だったり、弱い立場の人たちに気づきやすいところがありました。「女性がチョコレートを作れないというのは本当なんだろうか」「正社員とそうでない社員に能力の差はないんじゃないか」と。これは私自身が女性であることが影響しているのでしょう。

でも、社長になるまでは、自分にそれを言う権限はないと思っていました。たまたま社長という、その状況を変えられる立場になったことによって、「挑戦」できたんです。社会においてまだまだ「少数派」である女性が経営者になることによって、固定概念を覆せる可能性はより高くなるのではと思います。

2012年にオープンしたサロンドロワイヤル京都店

「隠居」を考えてもおかしくない歳からの、新たな挑戦

経営者としてこれまでで最も大きな挑戦は、岩手県陸前高田市、東京大学(生産技術研究所、大学院農学生命科学研究科)と「産官学」協働で陸前高田市の農業再生と地方創生を目指す「ピーカンナッツプロジェクト」への参画(2017年7月)です。当社は人気商品の「ピーカンナッツチョコレート」の材料として年間約100トンのピーカンナッツを消費しており、これは日本全体の輸入量の3分の1を占めていました。このことから、東京大学生産技術研究所が主催する研究会に2016年から参加していましたが、当初は勉強をさせていただいていただけでした。ところが、さまざまな変化の中でプロジェクトの存続が危ぶまれ、当社にお声がかかりました。

それはもう悩みましたよ。当時私は62歳。「隠居」を考えてもおかしくない歳です。また、大変責任のある大きな仕事ですから、プロジェクトの参画は荷が重く、周囲からも「正気の沙汰じゃない」と心配されました。それでも「やろう」と決めたのは、母校の創設者・新島襄の言葉「良心之全身ニ充満シタル丈夫ノ起リ来ラン事ヲ(良心が全身に充満した青年が現れることを望んでやまない)」が頭に浮かんだからです。日本で一番ピーカンナッツの知識を持ち、ピーカンナッツを求めている方たちを顧客に持つ会社は当社しかない。世の中に求められ、お返しできることがあるなら、良心に従って、受けて立つべきだと思いました。

もうひとつ、私を駆り立てたのは、2017年に初めて見た陸前高田市の光景です。東日本大震災から6年の時を経ても、目の前には何もなく、広大な土地があるだけでした。山を切り崩して宅地を造成し、残土を沿岸近くの低地に運んで市街地を整備する「かさ上げ」をするだけに、6年もの時間がかかっていました。復興までの道がまだまだ遠いことを知り、知らないというのはおそろしいことだと思いました。自分自身の無関心さと向き合うことを迫られたのです。

ピーカンナッツは栄養価と抗酸化作用が高く、世界的に需要が高まっており、収益性の高い農作物ですが、これまで日本ではほとんど栽培されていませんでした。陸前高田市での栽培が軌道に乗るまでに紆余曲折は覚悟していましたが、その激しいこと(笑)。それでも、陸前高田市は農林課が中心となって2020年4月22日、ようやく9品種90本の試験植樹にこぎつけられました。3、4年後には実がなる見込みです。新型コロナウイルスの影響で植樹に立ち合うことはできませんでしたが、いよいよかと喜びを感じるともに、私たちもピーカンナッツを日本に広めていくために力を尽くさなければと身の締まる思いでした。

アメリカ・アリゾナ州のピーカンナッツ農場で

2022年7月にはピーカンナッツの加工工場にショップや、イベントも開けるキッチンスペースを備えた施設も陸前高田市にオープンされる予定です。ピーカンナッツによって陸前高田市に多くの人が訪れ、あの何もなかった土地が元気を取り戻していく様子を見られたら、そんなに幸せなことはないです。
一方、サロンドロワイヤルはあと15年で100周年を迎えます。どんな形であれ、現役でそこを見届けたいですね。その先のことは、わかりません。本音を言えば、家でゆっくり好きな本を読むような生活ができたら最高ですね。自分の時間を、自分だけのために100パーセント使う。それは、私が密かに憧れてきた生活です。