PROFILE

中原阿里さん(No.93)/「ラッセルコーチングカレッジ」代表 プロフェッショナルコーチ・弁護士

■1968年生まれ、島根県出身。奈良女子大学文学部英語英米文学科卒業。広告代理店、メーカー社長秘書を経て25歳で結婚。29歳で離婚後、給食調理員、大学病院の医事課などを経て、関西学院大学大学院司法研究科修了。2009年に弁護士登録。10年間の弁護士勤務を通して、法的な勝ち負けと幸福度の相関性の低さに気づき、「心のあり方がすべて」と心理学や組織論などを学び、国際プロコーチ資格を取得。2019年、「ラッセルコーチングカレッジ」設立。現在は経営者や医師を対象としたエグゼクティブコーチや、コーチングスクールの運営に携わる一方、弁護士として活動している。

■家族:娘(26歳)

■座右の銘: 「人類の諸目標のうち唯一の合理的な目標は幸福である(アリストテレス)」
「さまざまな経験を経た今、深くうなずける言葉です。この言葉が古代ギリシャの時代から語り継がれていることを思うと、何だか感激します」と中原さん。

ラッセルコーチングカレッジ

 

台風で降りしきる雨の中、裸足で婚家を飛び出した

島根県出雲市に生まれ、小学校から高校まで通学路は田んぼのあぜ道でした。父は公務員、母は元教師。母はとても躾に厳しく、ほめられた記憶がありません。「とにかくここを出たい」という一心で、奈良女子大学に進学しました。卒業後は広告代理店に1年間勤務し、「秘書に」と誘われてメーカーに転職。25歳の時にお見合いで出会った経営者と結婚して、憧れの「寿退社」をしました。時はバブル末期、既婚女性の半数が専業主婦だったころです。

29歳で離婚、40歳で弁護士になるも「幸せ」を見失っていた日々。 心について学び、50歳でコーチングスクールを開業。(中原阿里さん/ライフシフト年齢50歳)

前職のクライアントに声をかけられて転職した企業の社長秘書時代。出張で台湾へ。

すぐに娘を授かり、子育ての日々は忙しくも充実していました。私は学ぶことが好きで、何かをやり始めると、止まらなくなってしまうタイプ。娘のためにとお菓子作りを独学で始め、毎日ケーキを焼いていたら、近所の方から「教えて」と言われ、教室を開いて10数人の生徒さんに教えたりしていました。

大阪大学の大学院にも科目履修生として通い、児童心理学や発達心理学も学びました。「娘にとってより良いかかわりができれば」と気軽に通いはじめましたが、学ぶうちに「もっと学びたい」と思いました。学びが、自分自身の心を理解することにつながっていったからです。

当時ははっきりわかっていませんでしたが、厳しい親のもとで常に否定されて育った私には、十分な自己肯定感が育っていませんでした。働いてきた業界や時代の雰囲気もあって、当時の私は常に明るく振る舞っていましたが、心の底にはいつも「私はダメな人間なんだ」という思いがありました。自分が親となったとき,そのことときちんと向き合う必要があったのだと思います。

このころ、犯罪被害者や外国人支援のボランティアにも携わりました。それまで自分が見てこなかった社会の側面を見て、さまざまなことを感じ、考えたこの経験は、後の私のキャリアにも大きく影響を与えました。

専業主婦として赤ちゃん期の娘の成長を見守り、学びも得られた時間は豊かだったと感謝しています。一方で、二世帯住宅の「嫁」として暮らす生活は息苦しいものでもありました。義母は完璧に家事をこなす立派な人。同じようにできなかった私は、できない自分を責めて苦しみました。

義母とケンカすれば良かったんだ、と今では思います。「私にはできません」と言えればよかった。でも、「私が悪いのだから」と何も言わず、がまんすることしか知りませんでした。それは,実家で実の母親に何も言えなかった昔の私と同じでした。精神的に追い詰められ、気づいたら、台風で降りしきる雨の中、裸足で家を飛び出していました。

あの日、なぜ飛び出したのか、傘もささず裸足だったのか、まったく覚えていません。我に返れば、2歳の娘を抱え、職もなければ、お金もない。しばらくは友人宅や親戚の家に身を寄せていましたが、住む家すらない状況でした。自分に呆れましたが、嘆く余裕もありません。当面の生活費を稼ぐためにアルバイトを始め、受験予備校の受付事務や、試験の採点など見つけた仕事を一つひとつやりました。

夫とは話し合いの末、離婚。養育費はもらわずに娘を育てようと決め、安定して働ける就職先を探しました。当時は求人の年齢制限も法的に禁止されておらず、29歳のシングルマザーが子育てと両立しながら働ける仕事は、今以上に限られていました。

人と向き合うことの意味を学んだ、医療事務の仕事と義母の看取り

安定していて残業もなく、「子育てしやすい」と考えて選んだのは、地方公務員の給食調理職。1年の勤務で転職を決意、大阪大学医学部附属病院に非常勤職として勤務することになりました。医事課での、医療事務が仕事でした。

業務は受付や受診科とのやりとり、診療報酬明細書の作成や診断書の発行手続きなど多岐に渡り、私にはすべてが初めてのことばかり。覚えるのは大変でしたが、仕事があることをありがたいと感じる気持ちの方が大きかったですね。だから、任されたことをただ一生懸命やりました。

29歳で離婚、40歳で弁護士になるも「幸せ」を見失っていた日々。 心について学び、50歳でコーチングスクールを開業。(中原阿里さん/ライフシフト年齢50歳)

大学病院で働いていたころ。夜は内職、休日は畑仕事をして節約し、貯蓄にも励んだ。

そのうちに担当以外の業務を相談されることが増えました。ある時,面識のない医師から頼みごとをされた際に,私に相談した理由を尋ねると、「中原さんなら何とかしてくれると聞きまして……」と。「こんな自分でも、頼っていただける」ということがすごく楽しく、幸せでした。

阪大病院に訪れる患者さんは1日に3000人ほど。大学病院ですから、何年も通い続けている人もたくさんいました。日々の業務で患者さんの病状や、家族構成、生活保護適用の有無といった個人情報に触れることも多く、これだけの方たちがさまざまな病を抱え、社会的にも大変な思いをしているということを目の当たりにしました。

他方、外来の待合室に座っている方々がどれほどの病気なのか、外見からはたいていわからないんですよ。院内を普通に歩ける方なら、患者さんかどうかすらわからない。「これだけの方々が痛みや苦しみを抱えながら、ちゃんと人生を生きている。人が生きるってこんなに豊かなことなんだ」と心を動かされました。そして、患者さんに接するときは、「病を抱えた人」ではなく、ひとりの人として向き合うようにしていました。

だから、34歳の時、ある患者さんにいただいた言葉は忘れられません。「中原さん、いる?」とカウンターを訪ねてくださり、「あなた、すごく良くしてくださるわよね。今日はそれを言おうと思って来たのよ」とおっしゃったんです。名札を見て名前まで覚えてくださっていたのです。大きく励まされました。

そのころ、仕事以外でも、人と向き合う意味を学んだできごとがありました。元義母が癌になり、本人から「手伝いに来てほしい。あなたといると、安心するのよ」と連絡があったんです。私には「娘と元夫家族の関係を断ってはいけない」という思いがあり、離婚後も娘は元夫と仲良くしていました。元義父母にも可愛がってもらっていましたので、「私で良ければ」と即座に答えました。

その日から、終業後に手伝いと看護に通いました。元義母は体は弱っていましたがはっきりした口調は変わらず、私の作った料理の味が濃いとか、しっかり文句を言うんです(笑)。でも,この時はその言葉も全く気になりませんでした。、義父母には,私が勝手に出ていって離婚してしまい,心労をかけてしまったという思いがありました。その「罪ほろぼし」をしたかったのかもしれません。数か月後、元義母を看取った時、最後の日々を一緒に過ごさせてもらったことを心からありがたいと感じました。

「職業婦人になりなさい」。上司の言葉が心に響いた、35歳のとき

35歳で医療事務の仕事を辞め、弁護士を目指したのは、任期の区切りが直接のきっかけです。他部署で働く選択肢もありましたが、上司の言葉が心に響いて立ち止まりました。任期途中に出向していた国立民族学博物館の教授から、「君は、職業婦人になりなさい」と言われたんです。

私はもともとキャリアに対する意識が低く、シングルマザーとして働きはじめてからも、自分がこれからも働き続けていくんだという強い気持ちはありませんでした。そんな私を心配し、教授は「責任を持ち、社会の一員として働いていくんだよ」と言ってくださったのでしょう。

確かに、このままではいけないと思いました。非常勤の仕事は不安定で、職を失うリスクも高い。それによって娘に不自由をさせることがあれば、親として申し訳が立ちません。また、離婚以来、母子家庭として公的なサポートにも助けられていましたから、社会に恩返しをしたいという思いもありました。

29歳で離婚、40歳で弁護士になるも「幸せ」を見失っていた日々。 心について学び、50歳でコーチングスクールを開業。(中原阿里さん/ライフシフト年齢50歳)

娘とのピクニック。お金をあまり使わなくても楽しい思い出になるよう、休日は自然の中で子どもを遊ばせる時間を大切にした。

ただ、最初から「弁護士になろう」と考えたわけではありません。社会人になってこの方、仕事やボランティアを通し、世の中には病気や差別、貧しさなどさまざまな苦しみを抱えた人たちがいることを知り、その度に自分が何も知らなかったことにがく然としました。

とくに、医療事務の仕事では、病気を抱えながらさまざまな事情から医療費を払えず、苦しんでいる人たちを目の当たりにしました。何とかしてそうした方々の支えになりたい」という思いが芽生えましたが、病院のカウンターでできることには限りがあります。

もどかしく感じていた時に知ったのが、2004年4月に創設された「法科大学院(ロースクール)制度」。この制度によって、法曹養成に特化した教育を行うロースクールを修了し、司法試験に合格すれば、大学の法学部を卒業していなくても弁護士への道が開かれると知り、コレだと思いました。弁護士になれば、「人を幸せにするための力」を得られると考えたんです。

コツコツと貯めた貯金の額を確かめると、約700万円。ちょうど3年間のロースクールとその間の生活費をまかなえる額でした。今思えば無謀ですが、「1回で合格すれば、なんとかなる」と、有り金をはたいてロースクールに進学。平均睡眠3時間で猛勉強する日々を続けて司法試験に合格し、40歳で弁護士になりました。

「40歳で弁護士に」と驚かれることもありますが、私の場合は、その年齢だったからこそ司法試験を突破できました。「落ちたら、娘を路頭に迷わせてしまう」と勝手に思い込み、寝るほうが怖くてひたすら勉強したんです。楽観的な性格だったら、あのエネルギーは出なかったと思います。

過労で2年に1度入院。激務が習慣化し、「幸せとは何か」を見失っていた

念願の弁護士になり、最初は希望にあふれていました。ところが、弁護士としての日々は覚悟していた以上にしんどいものでした。当然ですが、弁護士のもとを訪れる方たちは全員トラブルを抱えています。通勤中のバイク事故で植物人間状態になった息子さんを毎日見舞う高齢のお母さん、万引きや薬物犯罪を繰り返す人、労働訴訟で会社と何年も戦い続ける人…。そこには相手への怒り、不安、不満など負の感情が渦巻いていました。

29歳で離婚、40歳で弁護士になるも「幸せ」を見失っていた日々。 心について学び、50歳でコーチングスクールを開業。(中原阿里さん/ライフシフト年齢50歳)

弁護士として仕事が増えてきたころ。大手保険会社による弁護士満足度調査で3年連続1位を獲得。顧客満足をテーマとするセミナーの講師依頼も多かった。

さまざまな方々と出会って私が出した結論は、法的な勝ち負けと「人の幸せ」は関係ないということです。裁判で勝っても、「次はどうやって相手を傷めつけてやろう」と考える人もいれば、完全敗訴で無一文になっても「やるだけのことはやった。これから新たな一歩を踏み出そう」と前を向く人もいる。幸せかどうかは「心のあり方次第」だと思いました。

弁護士になる前は、法律のプロとしてのスキルが「人を幸せにするための力」になると考えていました。だけど、法律のプロとしてのスキルを提供するだけでは、相談に来てくれた方を幸せにできない。やはり人に向き合うことが大事で、深い信頼関係を築けた時ほど相手の満足度が高いし、事件の解決もスムーズに進む。そう思い至り、顧客の感情に寄り添い、受け入れることを心がけました。そのうちに「中原さんに依頼したい」と言ってくださる方が増え、5年たったころには、年間100件以上の事件に携わるようになりました。

一方、依頼件数に反比例して私自身の幸福度、すなわち「ウェルビーイング」は下がって行きました。一人ひとりの顧客に向き合うというのは私にとって弁護士の仕事のやりがいでもありますが、負荷はかなりかかります。心身ともにコンディションを整えていなければ、当事者の負の感情に巻き込まれてしまいます。

ところが、当時の私は朝8時から夜中まで働き詰め。土日も休めませんでした。弁護士2年目から事務所を共同経営していたため、顧客業務以外にも経営、教育、採用育成、外部から依頼されたセミナーなどやるべきことがあまりに多かったのです。ストレスと過労から突発性難聴や胃腸炎を患い、2年に1度は入院していました。

おそろしいことに、私はその状況の危うさに気づいていませんでした。激務が習慣化し、物事を立ち止まって考えられなくなっていたのです。依頼に応えなければ−−−−。それだけしか考えられず、入院中も病室にパソコンを持ち込んで仕事を続けました。主治医に頼み込んで一時外出の許可をもらい、裁判所に向かったこともあります。身も心も疲れ切り、生来のネガティブな気質も顔を出して、深い沼にはまり込んだようでした。

転機は6度目の入院です。48歳の時、激しい腹痛に倒れ、救急車で病院に運ばれました。盲腸が破裂し、大腸の壊死が進行していました。手術後しばらく起き上がれず、2カ月の療養生活を強いられ、ようやく「あれ? 私は何のために働いていただろう」と。洗脳から解けた人というのは、こんな感覚なのかなと思いました(笑)。「人を幸せにしたい」と言いながら、「自分の幸せ」を見失っていたことに気づいたのです。

「自分の幸せ」の実現と、肩書きや職種は関係ない

では、「自分の幸せ」とは何か。それはやはり、「人の幸せに貢献すること」だと思いました。人の役に立とうとすることで、私自身の心も満たされると実感していたからです。でも、「人の幸せ」は「心のあり方」次第で、法的な勝ち負けと「人の幸せ」は関係ない。弁護士を続けていて、本当に人を幸せにできるんだろうか。このころから、「ウェルビーイング」という言葉に惹かれるようになりました。

答えが出ず、50歳の時に就職活動を始めました。「とにかく弁護士を辞め、別の道を見つけよう」と思ったのです。そんな時、人生の師と仰ぐ方から「弁護士であれ、何の職業であれ、あなたが思っていることに向けて行動すればいいんじゃない?」と言われ、目が覚めました。

言われてみれば、「人の幸せに貢献すること」と肩書きや職種は関係ありません。弁護士を辞めて別の仕事に就いたとしても、自分が「人の幸せ」にどのように貢献したいのかが見えなければ、同じことの繰り返しになるだけです。「人の幸せ」が「心のあり方」次第とわかったのなら、私がまずやるべきは、「心」を理解し、そこに自分がどう貢献できるのかを突き詰めること。それは弁護士を辞めなくてもできる、と思い至りました。

それからは取りつかれたように文献を読み、「ウェルビーイング」をテーマにしたさまざまな学びの場に参加し、人と会って勉強しました。臨床心理学、発達心理学、行動経済学、マインドフルネス、コンパッション、交流分析、傾聴…。個人だけでなく組織の視点からも「心」と「ウェルビーイング」を理解したいと、経営学や組織論といったMBA科目も学びました。

なかでもしっくりと来たのが「コーチング」です。経営学の本で、欧米の経営者が「コーチ」を複数つけているという話を読んだことから、「社会に求められている仕事なんだ」と関心を持ちました。

コーチングの本質は「人の可能性を無限ととらえ、その人自身の中にある答えを引き出し、成長に導くこと」。学びを深めるにつれ、コーチングは一人ひとりが自分の「心」を知り、「幸せ」であるための鍵となるものだと実感し、2019年に「ラッセルコーチングカレッジ」を開きました。テーマは「ウェルビーイングをつなぐ」です。

スクールという形でさまざまな人たちが「ウェルビーイング」のためのコーチングを学べる場を作ることによって、コーチングの考え方が広まって、コミュニケーションのインフラになり、社会全体の幸福度も高まれば素晴らしいな、と思ったのです。

変化に対して身構えなくなった理由

現在は運営するスクールで講座を開くほか、経営者や高度専門職の方々のパーソナルコーチ、企業向け研修の提供などコーチング関連の業務が6.5割、弁護士の業務が3.5割という比率で仕事をしています。「ウェルビーイング経営」のアドバイザーの依頼も増えています。

29歳で離婚、40歳で弁護士になるも「幸せ」を見失っていた日々。 心について学び、50歳でコーチングスクールを開業。(中原阿里さん/ライフシフト年齢50歳)

コーチングのクラスの様子。2020年、コロナ禍でスクールを完全オンライン化した。

スクールの生徒さんのバックグラウンドはさまざま。企業の経営者や人事担当者,管理職もいれば、介護職、障がい者支援に携わる方、専業主婦の方もいます。全員に共通するのは、「ウェルビーイング」とは何かを真剣に考え、「自分の幸せ」と「人の幸せ」をつないでいくことを目的として学んでいること。何しろテーマは「ウエルビーイングをつなぐ」ですから,私自身も同じ目的を共有するひとりとして、皆さんから刺激を受けています。

「心」やコミュニケーションについて集中的に学んだことや、コーチングの仕事を始めたことによって、弁護士の仕事もやりやすくなったと感じています。例えば、コーチングは相手の話を聴くことから始まりますから、「聴き方」が鍛えられます。「聴き方」を身につけたことで、顧客の感情を以前より受け止めやすくなりました。一方、弁護士として顧客に向き合ってきたことが、コーチングの仕事にもつながっています。

「人生100年」と言われる時代。私は折り返し地点を過ぎたところです。この先、コーチングや弁護士の仕事をいつまで続けるのか,先のことはわかりません。また,今後の人生が必ずしもいいことばかりとは限らないし,正直いって不安になるときもあります。長生きすればそれだけ,いいことにも大変なことにも出会うでしょう。

でも、「ウェルビーイングをつなぐこと」が「自分の幸せそのもの」と確信してからは変化に対して身構えなくなりました。「ウェルビーイングをつなぐ」ために、私が見つけた方法がたまたま弁護士やコーチングだっただけ。この先何が起きても、自分らしく生きる方法はその時にまた見つかるだろうと」と気楽に考えるようになったからです。人生のあらゆる目標の先には,いつだって「ウェルビーイングな姿」があるだろうと信じられるようになりました。

これまでの人生、さまざまな転機がありました。40歳で弁護士になったこともそのひとつですが、振り返れば、仕事が変わっただけ。人生の幸福度とは無関係でした。私の人生を変えたのは、あの6度目の入院。「幸せ」とは何かを見つめ直し、「自分の幸せ」、言い換えれば、「人生の目的」が見えた。その光に照らされて歩けるようになったのが最も大きなライフシフトだったと思います。

取材・文/泉彩子