PROFILE

山平恵子さん(No.103/上場企業社外取締役・ダンススクール運営)

■1960年生まれ、大阪府出身。1983年神戸大学工学部卒業、クボタハウス株式会社(現サンヨーホームズ株式会社)入社。2011年取締役常務執行役員、2013年取締役専務執行役員。2015年、社長に就任。2017年サンヨーホームズ コミュニティ株式会社会長を経て、2019年退職。スペイン人の夫と結婚し、上新電機株式会社など3社の社外取締役を務めるかたわら、夫が主宰するダンスシアタースクール「SKB Company」の運営する

■家族:夫

■座右の銘:「願いはかなう」
この言葉を信じて人生を歩み、60代の今、「意思は具現化する」と実感している

会長職を辞し、58歳で結婚。夫はスペイン出身のダンサー

男女雇用機会均等法施行の3年前、女性総合職第1号として地元・大阪に本社を構えるクボタハウス(現サンヨーホームズ )に入社。54歳で社長になりました。関連会社の会長を経て2019年、58歳でサンヨーホームズを退職し、上新電機株式会社の社外取締役に就任。現在は3社の社外取締役を務めています。

36年勤務した会社を退職すると同時に、結婚もしました。夫のフランシスコ・ザビエル・ギジェンはスペイン・バルセロナ出身。元バルセロナ社交ダンスチャンピオンで、スペインバレエ団にも所属し、ヨーロッパや日本で数多くの舞台に立った経験のあるダンサーです。1994年に来日し、私とは彼が名古屋で開催したショーを見に行った縁で知り合いました。

現在は、夫が主宰するダンスシアタースクールの運営や彼のマネジメントもしています。彼はダンサー、モデル、振付師、ストレッチ・ウォーキングコーチなどさまざまな顔を持ち、教室も複数あるので、私も常にマルチタスク状態。一方で、社外取締役の仕事もありますから、毎日が新鮮どころか毎秒新鮮(笑)。楽しいです。

結婚式は夫の実家近くの教会で挙げました。夫の隣が大好きだった亡き義母。近親者のみの式でしたが、夫は6人兄弟なので大人数に!

置かれた場所で咲くのも大事だけど、“植え替え”も必要

ベストセラーのタイトルになった「置かれた場所で咲きなさい(置かれた場所であきらめず、最善を尽くす)」という言葉がありますが、私は基本的には置かれた場所で咲こうとするタイプ。若手社員時代の私に、60代になった自分がこんなに変化に富んだ日々を過ごしていると知らせたら、驚くに違いありません。

大学で建築を学んだ私がクボタハウス に就職したのは、建物を作りたかったからです。今なら何ら不思議ではない話でしょう。でも、当時は就職担当の先生から「建設会社に女性が行っても、男性と同様の仕事はできない。民間企業より公務員の方がいいんじゃない?」と助言される時代でした。

最初に配属されたのは、住まい方、収納、間取りなどの基礎研究を行う研究部。朝、フロアの社員60人分のコップを洗ったり、サンプルの布の切り貼りをする仕事からスタートしました。上司も女性総合職の扱いに戸惑っていたのでしょう。私が作成した図面を上司がこっそり修正し、「なぜフィードバックをしてくれないんだろう」とカチンときたのを覚えています。一方、同期の男性たちは裁量権のある仕事を次々と任されていました。

同じ新入社員研修を受けたのになぜこんなに扱いが違うのか。理不尽さを感じ、毎日のように父にぼやいたものです。私が7歳の時に独立し、町工場の経営をしていた父は、こう言って私をなだめながら、いつも話を聞いてくれました。「世の中は思い通りにはならないもの。でも、一生懸命やっていたら、見ている人は見ているよ」。

父の言葉にうなずき、20代は目の前にある仕事を一生懸命やりました。転機はその父を私が32歳の時に亡くしたこと。父は老後のことを考えてちゃんと貯金もしていたのに、それを使うこともなく病気発覚からわずか半年、63歳で亡くなりました。人生の儚さを知り、「生きている間にやりたいことをやらないと」という思いから、「置かれた場所で咲くのも大事だけど、“植え替え”も必要」という思いを新たにしました。

入社数年目に求人誌『とらばーゆ』の募集広告に掲載された写真。
女性総合職はフロアにひとりでした

理不尽な思いをしても、会社を辞めようとは考えなかった

振り返れば、初めての「植え替え」のタイミングがやってきたのは、父の他界の1年前でした。当時私は研究部から商品開発部に移り、企画した住宅を世に出して行くことに面白さを感じていました。ただ、私自身には原価計算などの建築事務的な仕事を与えられることが多く、「事務仕事が得意な訳でもないのになぜだろう?」と疑問を覚えたんです。

そこで、部署のトップに手紙を書いて面談を申し込み、「商品の企画、設計の仕事をやりたいし、できる」と直訴しました。すると、すぐに変化はなかったものの、1年ほどしてグループの業務を統括するポジションに配置されたんです。グループリーダーは私とは別にいましたが、その方はクボタ本社からの出向者で、現場のことは私を信頼して任せてくれました。

希望がかない、30代は意気揚々と仕事をしました。住宅の商品開発は安全性やコストを慎重に検討しながら進めるので、当時は企画から商品発売までに1年はかかりました。その間、社内のあらゆる部門からの問題提起を受け、クリアしていくのが商品開発部の役割。困難なことも多々あり、忙しい毎日でしたが、やりがいがありました。

一方で、同期の男性が次々と管理職に昇進する中、私にはなかなか機会が巡ってきませでした。2000年、40歳になる年のこと。大きな組織改革があり、グループ長に新たな人材が抜擢されることになり、「次は自分だ」と思いましたが、登用されたのは2年後輩の男性たちでした。

後日、私ではなかった理由を上長から「女性の部下になる男性社員がかわいそうだと考えた」と聞かされ、「2000年になってもこんなことが起きるのか」と呆然としました。さすがに心が折れそうになりましたが、辞めようとは思いませんでした。

現状に不満を持ち、納得できないまま、そして、まだこの先にやりたいことがこの会社にあるという状態で転職するという考えはなかったからです。辞めるとすれば他にやりたいこと、やるべきことを見つけた時にしようと決めていました。

商品開発チームを取りまとめていたころ。現場説明会の会場にて

「植え替え」が昇進の道を開き、47歳で課長に就任

その私が一度だけ、後先も考えず「辞めます」と言ったことがあります。商品開発部を離れ、全国の支店の人材教育、高額住宅専門の企画、医療・福祉施設の商品化プロジェクトといった経験を重ねて、意欲的に仕事をしていた46歳の時。医療・福祉施設プロジェクトが成長して各支店に関連部署が新設されることになり、「支店で設計業務を担当してほしい」と内示がありました。

通常なら受けるところですが、同居の母が要介護状態で、認知症の症状も出はじめていました。設計業務を担当すると、母に何かが起きた時にお客さまや営業部門に迷惑をかけてしまうと考え、やむを得ず退職を願い出たんです。

本気で転職先を探すつもりでしたが、慰留され、経営戦略室(異動当時は営業戦略室)へ。この2回目の「植え替え」が、昇進の道を開きました。経営戦略室では経営陣とやりとりする業務が増えたことから、仕事ぶりに目を留めてもらえたのだと思います。翌年、47歳で課長になりました。

背景には、親会社の株式譲渡による「サンヨーホームズ 」の誕生(2002年)もあったかもしれません。経営陣が刷新されて組織風土が変わり、かつてに比べ、風通しがよくなっていました。

ステージ3のがんに。死を身近に感じ人生観が変わった

課長に就任した翌年、プライベートでも大きなできごとがありました。体調に少し異変を感じ、検査を受けたところ、ステージ3のS状結腸がんが見つかったんです。手術は無事に終わりましたが、ステージ3のS状結腸がんの5年生存率は7割ほど。5年目の検査で再発がなく今はこの通り元気ですが、手術後は定期検査のたびにドキドキしました。

母の認知症も進み、この時期はやりきれない気持ちになることも少なくありませんでした。仕事で医療・福祉施設プロジェクトにも関わり、認知症患者には否定的な態度で接してはいけないと学んでいるはずなのに、自分の親となると「しっかりしてよ」と言ってしまう。49歳の時に母を見送りましたが、もっと優しくしてあげたかった、という思いが今もあります。

大変と言えば大変な時期でしたが、早期ではないがんが見つかり、死をそこに感じたことが私の人生観をすっかり変えました。再発への恐怖心を抱えつつではあったものの、「生きている間に起きることは大したことじゃない。やっぱり、やりたいことはやらないと」と思うようになり、物事にあまり動じなくなったんです。

2008年11月、S状結腸がんの手術で入院した時の写真

40代後半から一気に出世。現在の夫との出会いもあった

がんの手術を境に、後輩が課長職についた悔しさや、ポストへの思いも別人になったかのように消えました。生きていることだけで喜びを感じ、肩の力も抜けて、自分の仕事を自然体でやっていこうと思うようになったんです。

不思議なもので、その途端に昇進のお話をいただくようになりました。初めての管理職就任から3年後に執行役員に。常務執行役員、専務執行役員を経て54歳で社長に就任しました。その後、58歳で退職するまでの9年間は、東証一部上場、中部電力との合弁会社の設立、新規事業立ち上げなど得難い経験をいくつもさせていただき、本当に密度が濃かったです。

2013年4月東証二部、2014年4月に東証一部に上場した

とりわけ執行役員時代は仕事が面白くてたまりませんでした。これは田中康典社長(現取締役会長)の存在が大きかったと思います。田中社長は「仕事に性別は関係ない」と公言し、会社の行く先にかかわるような仕事を私にもどんどん任せてくれました。会社をどう成長させるのかをみんなで必死に考え、アイデアを具現化していくことがすごく楽しかったです。

夫と出会ったのも、この時期です。実は私、課長に就任したころに劇団でお芝居の勉強を始めたんですよ。広報の業務などでお話しする機会が増え、発声や話し方を学ぼうと思ったことがきっかけでしたが、面白くなり、がんの手術後に本格的に習い、ちょこちょこと舞台にも立っていました。

そうした背景から、名古屋を拠点で活動していた彼と出会い、ダンスを習ったり、「大阪でもスクールをやったら?」と提案してその手伝いをしていたんです。そのうちに付き合うようになり、アーティストとして生きてきた彼と自分との視点の違いや、過去に出合ったことのない感性にひかれ、これからの人生を補い合って生きていけるのではと感じて結婚を考えるようになりました。

劇団の公演『私のラジオ』でのひとコマ。経営難を切り抜けようと奮闘するラジオ局に助言を与える社会学の教授を演じた

社長就任の話があったのは、ちょうどそんな時期。大役を果たすにはまずは仕事に集中しなければと思い、結婚は先延ばしにしました。思えば、私はいつも目の前の責任を果たすことを最優先にしてきました。ストイックに聞こえるかもしれませんが、意外とそうでもないんですよ。私にとってはそれが当たり前だっただけなんです。

ただ、そういう感覚を理解してもらうのはなかなか難しくて(笑)。過去におつき合いしていた人もいましたが、結婚には至りませんでした。夫はそういう意味でもめったにいない存在でした。

社長は「あがり」じゃない。「私にはまだ先がある」と思った

「自分がここでできることはやり切った。新しいことをやってみたい」という思いが生まれたのは、社長を2年間務めた後、関連会社の会長としてひと仕事を終えたころ。社長就任以降、現場の仕事に直接自分がかかわる機会が一気に減り、頭打ち感もありました。ゲームなら社長は「あがり」かもしれないけれど、「私にはまだ先がある」と思いました

また、会社役員を務めていれば、プライベートの時間は限られます。夫は結婚を前提に10数年基盤を築いてきた名古屋の教室をお弟子さんたちに任せ、大阪に拠点を移していましたから、そろそろ結婚をと考えていました。加えて、社長になってからは劇団をお休みしていましたが、お芝居やダンスは続けたかったので、夫と一緒に活動ができたらいいな、とも思っていました。

上新電機の社外取締役のお話をいただいたのは、ちょうどそんな時。36年間仕事をしてきたとはいえ、私には住宅業界での経験しかありません。転職をするにしても、別の業界で自分が役立つのかわかりませんでしたし、道義上同じ業界の別の会社に行くことは考えていませんでした。

でも、「女性の社外取締役」というニーズがあることを知り、「これだ!」と思いました。社外取締役の立場ならさまざまな業界で経営の経験を活かせますし、私も新たなことが学べます。また、女性である私が社外取締役として働くことによって、後進に道を開き、女性の活躍の一助となるかもしれないと考えたら、心が躍ったんです。

60代の今、ありのままに生きている

一方で、36年勤務し、社長まで務めたサンヨーホームズ には愛着がありました。それに、辞めなければ、65歳ぐらいまでは「安泰」だったかもしれません。故郷のような会社を飛び出すのは、私にとって冒険でした。

冒険の原動力は、夫との出会いだったと思います。私は自分の責任でやるべきことを日々やってきて、どちらかというと流れに任せる人生を生きてきました。一方、彼は自分の本質は何か、それを生かすべきものは何なのかを非常に深く考えていて、哲学的なところのある人。私が何かで迷っていると、「頭で考えるより、本当の自分に聞いてみろ」と言います。

褒められたいとか、見栄や地位、お金。人間はどうしても頭で物事を考えがちで、欲がらみの行動が多くなってしまいますよね。でも、そうではなくて、「心の底から喜びが湧いてくることをやるようにしないと、人生ワクワクしないし、楽しくないよ」というのが彼の考えです。

一緒に暮らす今は、内心「前も聞いた」と思いながら彼の話を聞いていますが(笑)、彼の言う通りだと思うんです。心の底から「新しいことをやってみたい」と思ったから、会社を辞めたことに悔いはありません。何より、肩の力がすっかり抜けて、ありのままに生きている感覚があります。

と言うのも、社外取締役は「組織の論理」に縛られることなく企業の成長に良かれと思うことを言える立場ですし、結婚も最初こそチューニング期間がありましたが、おたがい「大人」なので、きゅうくつさがありません。本当の自由が今訪れた、という感じです。

還暦からが本当の青春。親にも誰にも遠慮なく、本当の自由が待っています。そして、第2の青春を謳歌するには、心のままに、自分に正直に進んでいくことが大事だと思います。

(取材・文/泉 彩子)

 

*ライフシフト・ジャパンは、数多くのライフシフターのインタビューを通じて紡ぎだした「ライフシフトの法則」をフレームワークとして、一人ひとりが「100年ライフ」をポジティブに捉え、自分らしさを生かし、ワクワク楽しく生きていくためのワークショップ「LIFE SHIFT JOURNEY」(ライフシフト・ジャーニー)を提供しています。詳細はこちらをご覧ください。