三重県四日市市で暮らす元電気工事士の斎藤勝さん。2020年に家族とともに自宅で始めた工房「G3sewing」がTwitterで注目を集め、看板商品の「がま口バッグ」の注文が全国から殺到。月100個のバッグ製作に励む日々を送っています。82歳でミシンに出合うまではほぼ寝たきりだった斎藤さんが自分の人生を取り戻せたのはなぜだったのでしょうか。

PROFILE

斎藤勝さん(No.105/G3sewing がま口バッグ職人)

■1937年、三重県生まれ。1955年高校の電気科卒業後、家業のラジオ店を継ぐ。1979年に電化製品の修理専門会社を開業するが、取引先とけんか別れして無職に。自ら設計したオゾン発生器の製造・販売、スナック経営など職を転々とし、2004年ごろから大病続きで70代はほぼ寝たきりの生活を送る。2019年、三女からミシンの修理を頼まれたのをきっかけに裁縫を始め、2020年7月、孫が作ったTwitterアカウント「G3sewing」でがま口バッグ職人としてデビュー。フォロワー数は6万2000人を超える(2023年2月現在)。

■家族:妻、娘3人・息子1人、孫7人、ひ孫1人

ツイッター HP

父譲りの職人気質。誰かの真似だけはしたくない

斎藤さんの起床は毎朝5時。自室に設けた作業スペースで7時からミシンに向かい、昼食や休憩をはさみながら18時過ぎまで作業に没頭する。がま口バッグの場合、1個の製作に要する時間は約1時間。体調のいい日は1日7、8個ほど作り、妻の陽子さんが検品、三女の千里さんが商品管理や発送などを担当している。

「G3sewing」は会社ではないが、全体の管理をする三女が「社長」で検品や包装を担当する妻が「専務」。製作担当の斎藤さんは「工場長」と呼んで役割分担している

離れて住む千里さんは毎日午前9時ごろ工房に顔を出すが、早朝に斎藤さんからの電話で起こされる日もある。斎藤さん曰く、「夜、ベッドで横になっているとアイデアがぱっと頭に浮かぶんです。縫い合わせた生地に金具をもっとラクに取り付ける方法とかね。そういう時は忘れないようメモをして、起きたらすぐに試してみないと気が済まないんですよ」。横で千里さんが「性分なんでしょうね。祖父譲りの職人気質ですから」と苦笑いする。

斎藤さんの父・茂さんは終戦直後に三重県でラジオ店を開業。発明の才に富み、テレビの普及前に東京・秋葉原で部品を仕入れてテレビを作って新聞社の取材を受けたこともある。斎藤さんも小学生のころから茂さんに連れられ、夜行列車で秋葉原に向かった。

「親父の腕は確かでしたが、私には何も教えてくれませんでした。中学を卒業したころ、『テレビを組み立てたい』と言ったら、父が部品を買ってきて床に放り出しましてね。途中まで一生懸命組み立てたのに、席を外した隙にバラバラに壊されてしまいました。『なんでや』と怒ると『そんなもん、自分で考えろ』と言われ、悔しくて涙が出ました。それからは私も『親父になんて聞くものか』と意地になりましてね。いまだに誰かの真似だけはしたくありません」

41歳で起業するも、取引先の方針に納得できず無職に

高校は電気科に進学。電気製図が得意で近鉄大阪車両部よりスカウトがあり、卒業後は近鉄で働くつもりだったが、茂さんに反対され断念。長男として祖父母、両親、きょうだい7人の生活を支えるため実家のラジオ店を継いだ。

「本当は嫌でした。でも、近鉄に入社すると言ったら、私がいないところで親父がお袋を殴ったんです。それで仕方なく家業を継いだのですが、『親父が引退するなら』と条件をつけました。私は『変わっている』とよく言われますが、親父は私に輪をかけた変わり者。理不尽なことを言うお客さんがいると、精魂込めて修理したラジオをぶつけて『持ってけ』と言うような人でしたから、とても一緒には働けないと思いました」

ラジオ店「斎藤ラジオ相談所」を父・茂さんから継いだころ。店の評判は良く、メーカーから「優良修理店」として認定された

高度成長期の家電ブームもあってラジオ店は繁盛。1959年の伊勢湾台風では店舗全壊の憂き目にあったが、新たに店を建てて持ちこたえ、31歳の時に陽子さんとお見合い結婚。3女1男に恵まれた。

70年代半ばになると家電量販店の台頭で個人店の経営は厳しくなっていった。電気工事士の資格を持ち、技術に自信のあった斎藤さんは41歳でラジオ店を廃業し、電化製品の修理専門会社を開業。大手スーパーと契約を結んで家電の修理、配達、取り付けまでを請け負い、仕事は順調だったが、開業3年目にぱたりと仕事がなくなった。「取引先の大手スーパーの方針転換に納得できず、けんか別れしたんです」

修理専門会社時代の家族写真。このころは財布に余裕があり、「仕事帰りに一杯」という日もあった

無職になって数カ月は新聞配達のアルバイトで食いつないだ。「このままではいけない」と思っていたころ、図書館で見かけた本でオゾンに関心を持ち、独学でオゾン発生器の製造に成功。商社と組んで販売を始めると全国各地で評判になり、「これで食っていける」と胸をなでおろした。

ところが、しばらくすると大手の会社に仕事を奪われ、売り上げが低迷。その矢先、バブル経済が崩壊した。契約がすべてキャンセルになり、53歳の時に事業を撤退。その後はスナックなど飲食店の経営をしたが、借金がかさみ、57歳で店を畳んだ。

68歳からは病気の連続。気力を失い、死ぬことばかり考えていた

45歳で無職になったころ、4人の子どもたちは小学生。家計は常に火の車で、料金を払えず水道を止められたり、留守番中の子どもたちが借金取りの対応をすることもあった。それでも「つらくはなかった」と千里さんは当時を振り返る。

「小学生のころ、休日には家族みんなでよく出かけました。食材調達も兼ねていたと後に聞きましたが、潮干狩りに行ったり、川で魚釣りをしてバーベキューをしたり……。楽しい思い出はたくさんあります。家族の仲が良かったのは、母のおかげだと思います。父は子育てのことは完全に母任せ。母は働きにも出て苦労したはずですが、父の悪口を一切言わず、『お父さんのおかげで生きているんだよ』と私たちに言い聞かせていました」

両親の愛情を疑ったことはなかったし、斎藤さんが苦労して働く姿を見て「父がいつも一生懸命生きていることはわかっていました」と千里さん。とはいえ、一家にはお金の苦労が常につきまとい、千里さんが結婚したころには斎藤さん夫婦の仲が悪くなっていた。千里さんたちきょうだいが斎藤さんに金銭的な援助をするようにもなり、家族はそれぞれ複雑な思いを抱えていたという。

そんななか、斎藤さんは68歳から立て続けに病気に見舞われる。大腸憩室症で大腸を半分摘出し、大動脈乖離で意識不明に。ようやく退院したと思いきや胆石症や痛風を患い、糖尿病も発症。病気が原因でうつ病になり、家出や自殺未遂をしたこともあった。

「年金は月3万円しかないのに、医療費だけでその倍は必要なんですよね。お金は子どもたちが出してくれましたが、自分が生きているだけでみんなに迷惑がかかる。死にたい、死にたいとそればかり考えました」

82歳で初めてミシンを踏み、「面白いやないか」と思った

70代は入退院を繰り返し、80代になったころの斎藤さんは「詩吟の詩を思いついてメモをする時に立ち上がるくらいで、ほとんどの時間をベッドの上で過ごした」という。趣味の詩吟は40代で始めて師範免許を取り、150人ほどの生徒を教えた腕前。病気になってからも細々と続けていた。ただ以前のようには歌えず、活力の源とまではならなかったようだ。

高齢の両親がふたりだけで暮らすのを心配した長女が家を建て、斎藤さんは70代後半からそこで暮らしていた。精神的に不安定で、些細なことで怒り出す時もあり、家族にとっては「ややこしい存在」だったという。中でも千里さんは父親を敬遠して両親の家から足が遠のきがちだったが、たまに行くと斎藤さんはいつもパジャマ姿。「やはり気になっていた」そうだ。

そんなある日、千里さんはミシンの修理を斎藤さんに依頼する。「私の本業は英語教室の先生なのですが、生徒の子どもたちが壊したCDプレイヤーを父がいとも簡単に修理してくれたことがありました。父ならミシンも直せるだろうし、機械を触るのは好きだから、その間だけでも元気になってくれたらと思ったんです」

斎藤さんがミシンを触るのは初めてだったが、あっという間に修理。そこまでは千里さんの読み通りだが、予想外の展開があった。動作確認にために千里さんが上糸と下糸のかけ方を教え、試し縫いをしてもらったところ、斎藤さんが「何か縫いたい」と言い出したのだ。

初めてミシンを踏んだ時のことを斎藤さんはこう話す。「糸巻きをセットして布に抑え金を下ろし、スイッチを入れたら、バラバラだった布がピュッと縫えていく。面白いやないか、と思いました」

新たな作品に次々と挑戦し、めきめきとミシンの腕を上げた

ミシンに興味を持った斎藤さんに、千里さんは「これなら簡単に作れるんちゃう?」と自分が作った聖書カバーを見せた。斎藤さんはすぐに聖書カバーを分解して仕組みをチェック。型紙も起こし、あれよと言う間にデビュー作を完成させた。「私は機械をバラすのが好きで、何でもバラすんです。技術屋の本能なんでしょうね」

「もっと作りたい」と意欲を見せた斎藤さんに千里さんが布を渡し、「聖書カバーを4枚作って」と依頼。数日後に「できた」と言われて見に行くと、そこには18枚もの聖書カバーが。「唖然としました」と千里さん。「でも、寝たきりだった父が楽しそうにミシンをかける姿を見るのがうれしくて。『もっと何か』と言われるたびに、父が作れそうなものをふたりで考えました」

聖書カバーの次はコースター、ポーチ、裏地つきポーチ、ファスナーつき財布と斎藤さんは新たな作品に次々と挑み、ミシンの腕はめきめきと上達。縫い方の基礎は千里さんが教えたものの、その後は自分で技術を磨いた。「糸調子の合わせ方も自分で機械を触りながらやってみないと加減がわからないですからね」とこともなげに言う。

ミシンを始めて半年ほど経ったころには、ポケットやファスナーのついたトートバッグを作れる腕前に。それだけでは飽き足らなくなった斎藤さんに、千里さんが「作って」とお願いしたのが「がま口バッグ」だった。

「最初は『がま口財布』から作ってみたのですが、カーブの縫い方や金具のつけ方が難し過ぎて、とんでもない仕上がりに。娘に『下手』と言われ、落ち込みました。でも、私はやりかけたことを途中でやめるのが嫌いなんです。『上手になって、ぎゃふんと言わせてやる!』と職人魂に火がつきました」

ミシンに向かう斎藤さん。初心者時代から黒いアームカバーをつけるのがお決まりのスタイル

家族の協力のもと、SNSで発信した「がま口バッグ」が大人気に

ミシンとの出合いで活力を取り戻した斎藤さんだが、没頭し過ぎて朝5時からミシンをかけるなど家族には悩みごとも少なくなかった。千里さんによると、とくに悩ましかったのが材料費。「月3万」の年金生活を送る斎藤さんのために最初は千里さんが材料を提供していたが、金銭的に苦しくなっていった。

すると、斎藤さんはカーテンやクッションカバーなど家にあるものを次々とリメイク。「母の自転車カバーまで切り刻み、家族は呆れるやら腹立たしいやら。でも、父の情熱は感じました」と千里さん。そこで娘3人で相談し、新型コロナウイルスの特別給付金からそれぞれ5万円を出し合って、15万円を材料費として「投資」することに決めた。

「上手にできたものは家族が通う教会のお店に置いてもらったり、手作り品の販売サイトに出品していましたが、まったく売れませんでした。だから、資金回収の見込みはゼロ。不謹慎ですが、『これだけ布があれば、毎日楽しくミシンをかけておとなしく死ぬだろう』なんて姉たちと話して笑い合っていたんです」

一方、斎藤さんはがま口バッグを作れるほど腕を上げていた。「売っても恥ずかしくない」と思えるレベルの作品を前に、「少しでもお金になれば生活が潤い、両親ともに明るい気持ちになれるのでは」という思いも千里さんにはあったという。

その話を息子さんにしたところ、SNSを使うことを勧められ、息子さんの手ほどきを受けてTwitterで「G3sewing」のアカウントを作成。斎藤さんの姿とともに作品を紹介すると大きな反応があり、全国から注文が舞い込むようになった。

「G3sewing」の収入で生活にゆとりが。孫にお小遣いをあげるのが一番の楽しみ

2020年7月にTwitterデビューし、最初の1カ月で届いた注文は800件。千里さんと息子さんは斎藤さんの体調に配慮して最初はその事実を知らせず、少しずつ数を伝えていた。「でも、父があまりにも注文数を心配するのでしばらくして打ち明けました。すると、案の定、翌朝早く起きて作りはじめて体調を崩しました」と千里さん。

「待ってくれる人に早く届けないと」という思いが強く、無理をしがちな斎藤さん。最初は製作のペースをつかめなかったが、家族みんなで何度も話し合い、受注や生産の体制を整備。孫たちも「おじいちゃんが効率よく作業できるように」と裁断や接着芯の貼りつけなど下準備を買って出てくれて、気づけば、チーム「G3sewing」ができていた。

最初に受注した800件分の商品は1年半かけてお客さんのもとに届け、次の800件分を届け切ったのが2021年10月。以後は1カ月に1回予約を取り、毎月100個を目標に1個1万円ほど(生地の柄によって変動)のがま口バッグを作っている。

千里さんによると、「G3sewing」に初めてまとまった収入が入った時、斎藤さんは真っ先に陽子さんにほしいものを聞き、指輪をプレゼントしたそうだ。「指輪をはめた母のうれしそうな顔が忘れられません」と千里さん。

月に数回は日帰りで温泉とランチを楽しむゆとりも生まれた。また、斎藤さんはお孫さんたちが生まれてこのかた生活が苦しく、「G3sewing」を始めるまではお年玉をあげることもできなかった。でも、今は「孫にお小遣いをあげるのが一番の楽しみ」だ。

音楽でも俳句でも何でもいい。昔好きだったことを思い出して

「病気でお金もなくて、死ぬことばかり考えていたけれど、G3sewingを始めてからは朝起きるたびに今日は何を作ろうかとわくわくします。体のあちこちが痛くても、ミシンをかけていると何ともないんです」と話す斎藤さんだが、病気が治ったわけではない。

2021年秋にはこれまでの病気に加えてリウマチを発症。2022年秋には大腸憩室で大量出血して病院に運び込まれた。「集中治療室に入る父に『G3sewingのことを頼む』と言われ、別れを覚悟しました。でも、気力で這い上がってきてくれたんです」と千里さんが話すと、「やっぱり、目標がありますから」と斎藤さんがすかさず言葉を繋ぐ。

「私の励みはお客さんからの“ラブレター”。お客さんから『励まされました』というお手紙をいただくんですよ。私の方が励まされているのに、ありがたいですよね。だから、ひとりでも多くのお客さんにいいものを届けたいんです」

そのために、以前はおろそかにしがちだった健康管理も大切にするようになった。規則正しい生活を心がけ、栄養補給を意識したり、家でできる軽い運動もしている。また、「G3sewingがずっと続くように」という思いから、かつては考えたことのなかった「継承」も意識するようになった。これまで縫製はすべて斎藤さんが手がけてきたが、最近は千里さんの夫がミシン修業に入り、少しずつ技術を教えている。

「私の父は何も教えてくれず、結果的に自分で学ぶことを覚えました。でも、本音を言えば、教えてもらえないことが悲しかったです。品物には作り手の気持ちが現れますから、楽しくないと、お客さんに喜んでもらえるものは作れません。だから、娘の夫には自分が教えられることはきちんと教えたいと思っています」

ミシンに出合い、家族がチームになって「G3sewing」をやる今が「一番幸せ」という斎藤さん。「80歳を過ぎてこんな毎日がやってくるなんて思いませんでした。『好きなことはこんなに人を元気にするのかとびっくりした』と家族に言われますが、その通りだと思います。ミシンには82歳まで触ったこともなかったけれど、私はモノを作るのが好きですから」

年齢を重ね、仕事を引退して生きがいを見失っている人には「音楽でも俳句でも何でもいい。昔好きだったことを思い出して、やってみてほしい」と斎藤さんは言う。

「好きなことをやれば前向きになり、新しいことに挑戦する意欲が湧いてきます。すべてはそこからだと思います。ありがたいことに私はこの年である程度のお金を自分で稼げていますが、お金もうけを目的にミシンを始めたわけではありません。趣味が面白くなって、楽しいからやり続けてきただけです。お金は後からついてきました」

もうひとつ、斎藤さんが大事にしているのは「孫と仲良くすること」。「若い人たちは何でも知っていてすごいです。“G3sewing”も孫のアイデアがなければ成り立ちませんでした。第一、若い人と話すと、心が若返ります。少し前に、孫がお古のパソコンをくれましてね。パソコンなんて縁のないものと思っていましたが、やってみたら面白くて。今は両手でキーボードを打てるようになりました。85歳の今、新しいことを教わるのが楽しいです」

Twitterを教えてくれたお孫さんと。留学中だが、夏休みや冬休みに帰国した時にはバッグの製作の下準備を手伝ってくれる

 


あちこちガタが来てるけど 心は元気! 80代で見つけた 生きる幸せ』(KADOKAWA)

 

(取材・文/泉彩子 撮影/原田崇 写真提供/G3sewing)

 

*ライフシフト・ジャパンは、数多くのライフシフターのインタビューを通じて紡ぎだした「ライフシフトの法則」をフレームワークとして、一人ひとりが「100年ライフ」をポジティブに捉え、自分らしさを生かし、ワクワク楽しく生きていくためのワークショップ「LIFE SHIFT JOURNEY」(ライフシフト・ジャーニー)を提供しています。詳細はこちらをご覧ください。