1964年の東京パラリンピックに通訳ボランティアとして参加したことをきっかけに、バリアフリー建築の道に進んだ吉田紗栄子さん。障がいや高齢をひとつの個性ととらえ、自立して豊かに暮らせる住まいを50年にわたって作り続けてきました。そんな吉田さんが神奈川県横浜市と、熊本県南阿蘇村で二拠点居住を始めたのは5年前、75歳のときでした。そこには自らも長く自立して暮らしていくための綿密な戦術がありました。

PROFILE

吉田紗栄子さん(NO.107 / 一級建築士 / (有)ケアリングデザイン一級建築士事務所 代表取締役 / (一社)ケアリングデザイン理事 / NPO法人高齢社会の住まいをつくる会 理事)

■1943年、東京都生まれ。大学在学中の1964年、東京パラリンピックに通訳ボランティアとして参加。大学卒業後、福祉建築の研究室を経て1969年に独立。バリアフリー建築の先駆者として活動を続け、「住まいのリフォームコンクール」高齢者・障害者部門優秀賞など数々の賞を受賞。2001年にNPO法人高齢社会の住まいをつくる会の理事長に就任。2013年、一般社団法人ケアリングデザインを設立し理事に就任。2018年、都内のマンションを売却、娘家族の住む熊本県南阿蘇と横浜市での二拠点生活を始める。共著に『バリアフリー住まいをつくる物語』(三輪書店)、『50代リフォーム・素敵に自分流』(経済調査会)、共訳に『Rooms for care』(JID)がある。

■家族:夫、娘夫婦、孫4人

■座右の銘:失ったものを数えるな、残されたものを最大限活かす
「パラリンピックの父」と呼ばれるイギリスの医師、ルードウィヒ・グットマン博士の言葉。住宅を設計するときだけでなく、人生全体がこの言葉で支えられている。足りないものがあれば知恵を使って何とかしよう、人でも物でもよいところに目を向けようといったポジティブな姿勢を貫くのに役に立っている。

(有)ケアリングデザイン一級建築士事務所
(一社)ケアリングデザイン

横浜のマンションと南阿蘇の古民家ではじめた二拠点生活

横浜市の山下公園にほど近い築50年のヴィンテージマンション。ここが一級建築士・吉田紗栄子さんが選んだ「働き続けるための拠点」だ。5年前から、娘家族が住む熊本県南阿蘇村に購入した古民家と行き来する二拠点生活をしている。

「20年前に、ひとり娘が結婚相手の故郷の南阿蘇に移住して農業を始めたときから、私たち夫婦の終の棲家は南阿蘇と決めていました。農業は土地から離れられない仕事。私たちが近くにいかないと、いずれ遠距離介護になって娘たちに負担をかけてしまいますからね」。

10年前に娘たちの家から1キロのところに古民家を購入。そして75歳を機に「もうこれ以上、年齢を重ねたら動きがとれなくなる」と考えて、それまで住んでいた都内のマンションを売却。フルリモートワークが可能な夫は完全移住、吉田さんは東京での仕事が多いため、リムジンバスで羽田空港に出やすく、多少の土地勘もあった横浜に拠点を設けた。

「このマンションは古いけれど、構造がしっかりしていて共用部分の段差も少なく、杖が必要な私にもストレスフリー。室内は入居前にリノベーションしました。バリアフリーはもちろん、家具の配置で転倒事故を防止したり、車いすのゲストを招けるような工夫もしています」。バリアフリー建築の専門家としての豊富な経験と、当事者としてのニーズを随所に反映した、長く自立して暮らせる快適な空間に仕上がった。

リノベーションした横浜のマンション。奥の眺めの良いスペースが吉田さんの仕事コーナー。家具の配置を工夫して手すりなしで移動できる。

1964年のパラリンピックで出会ったバリアフリー建築

吉田さんが建築の世界に興味を持ったのは、小学生のころ。「親戚に日本女子大学の住居学科を卒業した人が嫁いできて、その方がかっこよくて、私も同じ学科に行きたいと思ったんです。その後、高校時代に父がイタリアに転勤になって1年間ローマに住んだときに、建築のすばらしさに触れたことも大きかったですね」

念願がなって日本女子大学住居学科に入学し、建築を学んでいた1964年、東京パラリンピックが開催された。吉田さんは友人に誘われて通訳ボランティアとして参加し、バリアフリー建築に出合うことに。「日本にバリアフリーのバの字もなかった時代。自衛隊の人たちが選手村にやってきて、段差にスロープを付けたり、ドアを外して車椅子が通れるようにしたりする様子をみて、こういう建築分野があるだと初めて知りました」。

そして衝撃を受けたのが、担当したイタリア選手団の明るさだった。大会期間中、選手村で選手たちと生活をともにしたが、「みんな健常者と同じように生き生きとしていました。たまたま車いすに乗っているだけ、障がいはひとつの個性にすぎないと知ったのです」

選手村でイタリア選手団と。車椅子でも不自由なく過ごす姿をみて、バリアフリー建築の力を実感した。

海外では当たり前のバリアフリー建築を日本でも

東京パラリンピックでの経験は、吉田さんの一生を決めることとなった。「海外では当たり前のバリアフリー建築を日本でも」。そう考えて、大学卒業後は福祉建築の研究室に入り、設計実務を行いながら、海外にも視察に行き、多くを学んだ。

「今でも忘れられないのは、最初のクライアントの住宅。日本の住宅は昔から尺という独特の寸法が使われているにもかかわらず、海外の事例集を見てそのままの寸法で設計して大失敗をしてしまって。本当に申し訳なかったです」

先駆者だからこその失敗をしながらも、経験を積み、28歳で独立。「パラリンピックの父」と呼ばれるイギリスの医師、グットマン博士の「失ったものを数えるな、残されたものを最大限活かす」という言葉を冷蔵庫に貼って、現在までの50年間、ひとりひとりの「個性」に向き合ってきた。

手掛けたバリアフリー住宅や施設は100件以上。パラリンピック元日本代表・近藤秀夫さんの住宅は、増築・改築・新築などで合計5回携わり、「最後は加齢による身体の変化も配慮しながら設計したので、家の中で自由に動けるようになって要介護度が下がっちゃったよと文句を言われたりしました」と笑う。

家庭は60点、仕事も60点。でも合計すれば120点

吉田さんが唯一、仕事のペースを落としたのは、出産してからの3年間。「まだ3歳児神話が根強く残っていた時代でしたからね。それに知人の紹介で知り合った夫は、とにかく自由が好きな人。縛られたくないから仕事をしている女性と結婚したかったようで、私が働くことには大賛成でしたが、子育ては私任せでした」。

娘が3歳になってから保育園に預けて仕事を再開したが、つねに綱渡り。現場に連れて行かざるをえないこともしばしばだった。そんなときに支えになったのが沢村貞子さんの「家庭は60点、仕事も60点。でも合計すれば120点」という言葉。命にかかわる食事には気を使ったが、掃除や洗濯の手を抜いても死なないと、完璧を目指さずにやってきた。

専業主婦だった母親からは「あなたを職業婦人に育てた覚えはない」と言われ続け反発もしたが、60歳を過ぎたころ「ほかの人は仕事がなくなる年齢になっても、あなたはよく続いているわね」と言われ、はじめて認められた気がしたという。

何度も受験に伴走できないからと、娘は小学校からエスカレーターの学校へ。自身の経験から高校時には留学にも送り出した。

ひとつひとつの仕事に真剣に向きあうことが、長く続けるコツ

「母親に限らず、よく50年も続いているわねと驚かれることがありますが、建築はひとつとして同じ土地はないし、クライアントはひとりひとり違うから飽きることはなかったですね」と吉田さん。そして目の前の仕事に真剣に向き合い満足してもらえれば、次のお客様を紹介してもらえる。そうやって注文が途絶えることはなく、これまでコンスタントに仕事を続けることができたという。

バリアフリー建築に特化した専門性や先進性も吉田さんの強みだが、「それはたまたま。ただ私自身が42歳で変形性股関節症を患い、人に頼まなければ日常生活ができないという辛さを経験したことで、より一層、この仕事の意義を実感したことは原動力になっています。神様が私を当事者にしてくれたのかなと思いましたね」

もう一つ、吉田さんが大切にしてきたことがある。それはプロの力を借りることだ。「何でもできる人は自分で抱え込んじゃうけど、私はそうじゃないから人に頼むのが得意。大工さんや左官屋さんなど、それぞれのいいところを見つけてチームでやってきました。みんな私のことを設計屋さんって呼ぶんですよ。決して建築家先生じゃない。だからかな、困ったことがあったら必ず助けてくれる人があらわれました」

80歳を機に、「住まいの大切さを伝える仕事」へシフト

そんなふうにして長きにわたって建築の現場を楽しんできた吉田さんだが、昨年、視覚障がい者のための就業施設という大きなプロジェクトを終えて、いまは設計の仕事が一段落。一方で、執筆やメディア出演などの仕事が増えているという。

「定年のない自営業だけに、自分で区切りをつけていかないと、とは考えてきましたが、80歳を迎えたいま、そろそろ作る仕事から、伝える仕事へとシフトするタイミングなのかなと感じています」

特にこれから力を入れていきたいと考えているのが、(一社)ケアリングデザインの活動だ。50代以降の住まいや医療、ケアの空間を心地良くすることを目指して、2013年にインテリアデザイナーの小野由記子さんとともに立ち上げた。建築、インテリアデザインだけでなく、医療、看護、福祉などの専門家も集まって情報発信を続けている。

「キーワードの一つは“Good Over 50’s”。人生100年時代、誰しもが慣れ親しんだ家で長く自立して暮らしていきたいと考えていますが、そのためには50代から準備が必要ですし、住まいにできることはたくさんあるのです」

例えば、介護保険でできるリフォームは限られているので、金銭面で余裕のある50代のうちから、将来車いすになっても安心して暮らせるよう骨組みだけは改修しておく、加齢による五感の変化を正しく理解し、手すりといった“いかにも”な対策ではなく、色や照明などで美しく事故防止策を講じるといった提案だ。2022年には、こうした高齢社会の暮らしのデザインを総合的に学ぶための「Caring Design EXPERT講座」もスタートさせた。

「これからも求められれば作る仕事もしたいと思いますが、80歳になって見えてきた当事者としての景色も含めて、私の経験を必要な人に届けていきたいですね。だってみんな、わからないでしょう?80歳になった自分に起こる変化って」

健康、友達、好奇心、お金人生にはこの4つが大切

ではいまの吉田さんにはどんな景色が見えているのだろうか。
「やっぱり違いますね、70代とは。友人の訃報も多くなるし、80歳まで生きたらまあ頑張ったわよね、という感じでしょう?明日、死んでもおかしくない。でもあと20年生きるかもしれない。両方の準備をしなくちゃいけないところが難しい」。

75歳で都内のマンションを売却した際も、随分荷物を処分した。一方であと20年生きることを想定した戦術も緻密だ。「100歳まで、できるだけ自立して生きるという戦略を立てれば、戦術も見えてきます。私が大事だと考えているのは健康、友達、好奇心、そしてお金ね」

まず健康のために、食事は1日30品目を食べ、体操をする。ストレスはいろいろな病気を引き寄せるから、できるだけ排除する。「住まいをストレスフリーにすることもその一環。好きなものに囲まれて暮らしたり、きれいな景色を見たりね」。

そして友達。海外も含めて交友関係は広いが、月の2/3は横浜でひとり暮らしをしているため、頼りになるのは近所の友人だ。「マンション内に友達をつくるのは簡単ですよ。お茶をしにいらっしゃいませんか?とお誘いすればよいんです。そのためには人を招ける住まいであることが大事です」。

好奇心は得意技で、何かやりたいことがあれば、どこへでも気軽に足を運ぶ。「横浜にゴンドラができたときも、お友達を誘って乗ってきたの。おばあさん2人でキョロキョロして」と笑う。長くできる趣味もあるといいという。「私はハガキ絵が趣味なんです。陶芸とか残されても困るでしょう。ハガキ絵なら、私の死亡通知に使えるし(笑)」。

南阿蘇の自宅からの眺めのスケッチ。旅先にもハガキとクレヨンを持って出かける。

お金をもらう仕事だからこそクオリティが高くなる

最後はお金だ。「お金、かかりますよ。住まいの改修だけでなく、入れ歯だ、白内障の手術だ、補聴器だとかね(笑)。よいものは高いし、洋服など物はもういらないけど、楽しい経験はしたいし」。そのためには、経済的に余力のある50代のころからある程度、準備をしておくこと、そして何より長くできる仕事を見つけることが大切とアドバイスする。

「50代から準備すれば、いろいろ試せますからね。ヒントは子どものころに好きだったことにあるはず。やっぱりね、好きなことでないと続かない。私も子どものころからお人形の洋服を作ったりして、ものを作るのが好きでした。だから建築の仕事も続いているんだと思います。それと私はたまたまだったけれど、超高齢社会に向かっていく中で必要とされていく新しい仕事はたくさんあるはず。そういう視点で情報を集めてみるとチャンスがあると思います」

またお金に余裕があったとしても、仕事は続けたほうがいいと話す。「ゴルフ三昧じゃきっと満足できない。お金をもらう仕事は心構えが違います。仕事だからこそ能力を発揮できて、高いクオリティを達成でき、満足が得られるんじゃないかしら」

夢は南阿蘇の家のソファで死ぬこと

念入りに戦術をめぐらす吉田さんだが、将来の遠距離介護を避けるために選んだ南阿蘇での暮らしはというと、のんびりリタイアモードというわけにはいかないようだ。

「娘夫婦は4人の子どもを育てているので毎日の生活に必死。特に月の半ばは自主流通米の出荷業務があって大忙しなので、その時期に10日間ほど、孫たちの世話をしに行っている感じです。のんびりなんて、全然。山岳部出身の夫は、すっかり田舎暮らしに馴染んでいますけどね」と苦笑する。

とはいえそんな賑やかな暮らしも楽しいし、南阿蘇の自然には心癒される。そして南阿蘇の家にはお気に入りのソファベッドもある。「実はね、大学時代にインテリア雑誌で見て以来、ずっと憧れていたけれどついぞお目にかかることのなかったハンス・ウェグナーのソファベッドを手に入れたんです。偶然やっていたデンマークの家具フェアで見つけて。60万円もするので迷いに迷って、会期中、売れなかったら縁があったと思って買おうと決めて、最終日に電話したらまだありますって!」

窓辺に置いたハンス・ウェグナーのソファベッド。「半世紀も想い続ける私って長距離ランナーよね」と笑う

半世紀の歳月を経て、ついに手に入れたソファベッド。「このソファに座って阿蘇の自然を眺めていると、心からくつろげる。いまは横浜との2拠点暮らしが快適なのでできるだけ続けていきたいけれど、いずれはこのソファで死ぬのが夢なの」。

それはつまり、施設で介護されるのではなく、自分が愛する空間で最後を迎えたいという意味だ。「よく吉田マジックと言われるんです。吉田さんはなんでも夢が叶うわよねって。でも夢はあきらめなければ叶うでしょう。だからこれからも見える世界を実況中継しながら、心豊かな人生を目指していきます」

(取材・文/河野純子)

*ライフシフト・ジャパンは、数多くのライフシフターのインタビューを通じて紡ぎだした「ライフシフトの法則」をフレームワークとして、一人ひとりが「100年ライフ」をポジティブに捉え、自分らしさを生かし、ワクワク楽しく生きていくためのワークショップ「LIFE SHIFT JOURNEY」(ライフシフト・ジャーニー)を提供しています。詳細はこちらをご覧ください。