Crew’s Life : 松岡さん、飯田さん。エンファクトリーは100点満点で何点?

 

「大人ベンチャー」で自分の可能性を広げたい

PROFILE

松岡永里子さん
ライフデザインユニット プロデュースチーム

副業はバルーン通販サイトの支援業務

「専業禁止!!」のエンファクトリー。松岡さんは2年ほど前から知人が開設しているバルーン通販サイトの関連業務をパラレルワークとして行っている。色とりどり、形もさまざまなバルーン(風船)は最近ギフトとして人気が高まっている。松岡さんはサイトのコンテンツの制作やディレクションとともに、売上げの数値分析なども行っている。
パラレルワークのきっかけについて本人が話す。「エンファクトリーというと、専業禁止が有名です。社外で人に会うと『どんな副業をしているのですか』と聞かれることが多かったのですが、私は当時何もやっていませんでした。やらなきゃまずいと思い、周囲に声をかけたら、知人から『ぜひ手伝って』と言われて始めました」
この発言からもわかるように、どこか肩の力が抜け、自然体なところがある松岡さん。エンファクトリーは3社目の職場だ。
高校生の時は電通で働きたいと思っていた。友人と話していて、広告をつくる仕事がかっこいいと思ったからだ。今はもうないが、『広告批評』という専門誌を愛読し、広告制作の大元締的存在のクリエイティブディレクターという職種を知る。それになりたいと思った。

 

 

納得いかないことだらけ、給料は我慢料

大学はマスコミに強い早稲田を選び、政経学部で、マスコミ就職に強いゼミに所属する。就活は大手広告代理店を軒並み受けた。電通には縁がなかったが、大手の一角に受かり、そこに決めた。2012年4月のことだ。
配属希望はマーケティングだったが、かなわず、営業に。しかしそこは、思い描いていた広告制作の世界とは大きく異なっていた。
クライアントには接待を重ねて仕事を取り、正しいか否かではなく、「声が大きい人」の意見が通る。「新人の足りない点」が厳しくチェックされ、「頑張ったこと」は評価されない。しかも、すぐ上の先輩は年が離れており、悩みを打ち明けられる相手もいない。
勤務は多忙というほどではなかったが、拘束時間は長かった。平日は目をつむるようにして働き、土日に思い切り遊んで発散した。
「私は営業に向いているのか、いや広告代理店で働いていいのか、そもそも働くことに不適格な人間ではないか、すごく悩みました。給料はほんとうに我慢料という意識だった」
転職は当然考えたが、3年は働かないと、経歴が評価されないと考えた。実際の転職活動を始めたのは、3年目の秋から冬にかけてだった。

 

ストレスは激減したが、別の問題が発生

転職サイトでよさそうな会社を探してみた。希望職種はとにかく法人営業以外。候補はいくつも見つかったが、いずれも給料の大幅ダウンが避けられない。我慢料は相場より高かったのだ。あまりダウンしない会社を探していくうちに、大手デベロッパーが見つかった。
実際に受験したのはその1社だけ。運よく合格し、広告代理店を退職した翌日から、そこのビル営業部で、一般職として働き始めた。2015年4月のことだ。
まず任されたのは、エリアによって異なるビルの賃料を調べる仕事だった。その数字が営業の賃料交渉の際、大きな武器になる。前任者に教えてもらいながらやり遂げる。それから営業の補佐として、各種資料の作成などに取り組む。さらに部長の補佐にもなった。部員の業務管理、部会の進行、査定評価などが主な業務だった。
「前の広告代理店と社風がまるで違いました。前と違って、強固な縦割り組織でした。社員は皆さん、紳士的で優しかった。仕事を頼んでくる時も、命令口調ではなく、お願いモードなんです。会社も立場も変わると、こんなに違うんだと。ストレスも大きく減りました。自分を偽らなくてもできる仕事がある。素の自分を受け入れてくれる組織がある。楽しかったです」
入社して1年ほどが経ったある日、部長に呼ばれた。意外な言葉を聞かされた。「君には期待している。女性社員のロールモデルになってほしい。ついては、この会社で自分が何をしたいか、昇進に向けてレポートを書いてほしい」
「部長はよかれと思って言ってくれたのだと思いますが、私はその気になれませんでした。前職ではまったく意識しなかった男女差別を感じていたからです。その事業部には女性の総合職は一人もおらず、女性は会議に出なくていいし、土曜出勤も基本的にありませんでした。多くの女性社員が『こういう会社だから』と割り切って仕事をしていました」
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エンファクトリーと二度目の出会い

松岡さんは割り切れなかった。そんな時、エンファクトリーの加藤社長から、「その後、どうしていますか」というメールが入った。実は転職活動をしていた際、登録していた転職サイトでエンファクトリーを見つけ、軽い気持ちで「興味がある」とメッセージしたところ、加藤社長から直々に連絡があり、面談したことがあった。デベロッパーに入る前のことだ。
「エンファクトリーのサイトに『大人ベンチャー』という言葉があり、それに惹かれたのです。当時のベンチャーといえばギラギラした肉食系のイメージ。私には合わないと思っていたところでした。ところが、エンファクトリーは違った。サイトに掲載されている社員の写真とプロフィールを見ても、感じがよさそうでした。でも結局、踏み切れなかった。とんとん拍子で決まったデベロッパーのほうに決めてしまっていたのです」
加藤社長に改めて会い、話を聞くと、今度は入りたいと思った。年下の松岡さんに対しても、決して偉そうにせず、対等に話してくれる姿勢も好ましかった。「その後は上司となる人と当たり障りない面談が一度あっただけ、これまでの経歴だけで志望動機も聞かれず」に入社が決まる。履歴書を提出したのも入社後だった。

 

マネジャーも経験し、再び法人向け営業も

2016年9月に入り、まず3年間は「専門家事業」の担当になる。専門家事業とは弁護士、医師、フィナンシャルプランナーなど、さまざまなジャンルの専門家と、相談ごとを抱えた人を引き合わせるマッチングサービスで、そのウェブメディアの制作に携わる。
入社して2年が経った時、同事業のコンテンツチームのマネジャーに。メンバー5人のマネジメントを任された。
この1月からは新しく創設されたライフデザインユニットに所属し、オンライン上でチーム、プロジェクト、イベントなどをつくり、コミュニケーションを行える独自システム「チームランサーエンタープライズ」と、社員がベンチャー企業で働き経験を積ませる越境型研修「複業留学」のいずれも法人向け営業を担当する。2名のエンジニア、1名のデザイナー兼カスタマ―サクセス、それに松岡さんともう1人、計2名の営業という5名で構成されるプロデュースチームの一員だ。

 

会社は我慢の場ではない

エンファクトリーで働いてみての感想はどうだったのか。「月曜日が来るのが嫌ではなくなった。同じ法人向け営業ですが、これが以前と最大の違いです。仕事の中身と密度は明らかに増えましたが、自分で判断したことが形になる。自分が正しいと思った行動がとれる。会社は我慢の場ではないということが実感できました。自己効力感が明らかに高くなりました」
そのエンファクトリーの日々に点数をつけてもらうと、75点だという。「悪くはないですが、伸び代がある数字です。何はともあれ、いま取り組んでいる『チームランサー』と『複業留学』の事業を軌道に乗せたいんです。『複業留学』の営業を通じ、人事やキャリアの知識不足を痛感したので、キャリアコンサルタントの国家資格の勉強を重ね、つい最近受験したところです。資格に合格し、事業も単月黒字化できれは、点数がぐんと上がる気がします」
働くことを別の言葉で言い換えてもらうとどうだろう。「昔は我慢と同義でした。今は自分の可能性を広げてくれること」
松岡さんには夢がある。「姉の子どもにあたる甥っ子が障害を持って生まれてきたのです。彼が大きくなって働きたいと思った時、その場を用意できる自分でいたい。私は幸い健康に恵まれ、何不自由なく育ってきたので、他人のためになる仕事に就くことが私の使命ではないかと考えるようになりました」

 

フラットでやりたいことが追求できる、クリエイティブメンバーがいきいきと働く組織をつくりたい

PROFILE

飯田康介さん
CTO

 

新しい部署を作り、長になってほしい

エンファクトリーでCTO(最高技術顧問)をつとめる飯田康介さんは、実は入社して1年も経っていない。2020年5月に入ったばかりだ。コロナ禍のため、メンバーとの顔合わせもままならず、リモートワークの日々。初めて出社したのは9月だった。後述するが、オールアバウトに勤務していたことがあり、加藤社長とは旧知の仲で、誘われたのが入社のきっかけだ。
CTOを担いながら、クリエイティブユニットの長を務める飯田さんが話す。「クリエイティブメンバーが活躍できる場を作って欲しい、というのが入社にあたっての加藤からの要請だったのです。クリエイティブメンバーが所属する横断組織を立ち上げ、その長もやってほしいと」
しかし、いきなり転職してきた人がCTOで、おまけに新しい組織の長として舞い降り、「よろしく!」とやっても、うまく行かないのは過去の経験からわかっていた。「『社長からはそう言われているけれど、自分としては、必要性も含め、フラットに考えています。皆さんの意見を聞かせてください』と伝えた。それも対面ではなくリモートで。自分が作りたいのは、上下の関係がなく、全員が同じ方向を向いて各自任されたロール(役割)をこなしていくことによって回っていく、ホラクラシー型の組織。将来は職種に縛られず各自が希望するロールを選べるような組織にしたい。そんな話をしたら、皆が共感してくれ、安心しました。入社2カ月後の7月にクリエイティブユニットという組織が無事、立ち上がりました」
飯田さんが続ける。「自分はこの業界で転職を繰り返し、いろいろな会社を見てきました。エンファクトリーはピュアで素直な人が多く、若干年齢も高めなので大人の雰囲気がある会社」

雷の研究からシステムエンジニアへ

その飯田さんの多彩なキャリアを紹介してみよう。
大学は理系ではあったが、専攻は情報工学ではなく電気工学。当時は公務員並みの安定が約束されていた東京電力に入るのが理想的なキャリアだった。研究で取り扱ったのは高電圧分圧器。高電圧をそのまま測定することはできないため、分圧して測定器で測定するために、正しく分圧できるよう分圧器を調整する研究をしていた。そのまま行けば、電力会社への道まっしぐらだったが、教授に命じられ、C++を使ったシミュレーション結果のビジュアル化や研究室内のLAN構築、メールサーバー構築やホームページの作成に勤しむ。そのうち、高電圧分圧器の研究より、そっちが面白くなる。
大学院の修士課程を経て就職したのは、メーカー系のSIer。同じ研究室の仲間は教授推薦を通じ電力会社へ。一人だけ、システムエンジニアの道に入った。
ところがここを2年で辞めてしまう。「今となっては若気の至りですが、東京本社で働きたかったのに、配属先が水戸というのがどうしても納得がいかなくて」。異動希望を出しても通らず、転職を決意する。
メーカー系SIerでは社内向けの業務システム担当だったが、もっと不特定多数の人が使うtoC向けサービスに携わりたいと考えていたため、Web系スクールで勉強をしつつ、転職活動に臨むが、うまく行かない。そこで今までの経験を生かせる企業に転換し、賃貸住宅大手の情報システム部へと身を転じる。
ここは2年弱で退社する。新しいシステムを設計できると思ったら、既存のものの保守点検の仕事ばかりが押し寄せてくるからだ。ただし、「今考えると、ただ自分にステークホルダーをコントロールするスキルがなかっただけだと思う」と飯田さんは語っている

 

初出社の当日、会社がなくなる

次に入ったのが自動車関連の情報サイトを運営する会社だ。「ついに、やりかったインターネット業界の仕事につき、スタートラインに立った気がしました。担当したのは日本最大級のクルマSNSの運用・保守です。上場前で業績も伸びていたので、社内の雰囲気もよく、楽しく働けました。」
そんなに楽しい職場をなぜ辞めたのか。「同じ会社で働いていた上司が独立することになり、『一緒にやらないか』と誘われたのです。僕と僕の上司、僕の同僚とその上司、4人が揃って辞めたのです。ちょうど結婚を控えており、妻には反対されたのですが、説得しました」
ところが、その話は煙のように消えてしまう。あてにしていた大手企業からの大口の仕事が立ち消えになり、設立間もない新会社が存続不可能になったのだ。その新社長には結婚式のスピーチまで依頼していた。「入社初日に出社したら、その人から『お金がない。ごめん』と。既に同居していた妻には真実を伝えられず、会社に行ってくると嘘をつき、新会社でも仲間になるはずだった4人で集まり、今後の身の振り方について話をしていました」
さすがに無職のまま結婚式を迎えるのは避けたい。それまでの人脈を辿り、ほうぼうを探すと、迎え入れてくれる会社が見つかった。それが、オールアバウトだった。「エンファクトリーが分社した直後でしたが、加藤さんが古巣にやって来て、新卒中途問わず、新人が出社した初日にはランチに連れて行ってくれていました。私もご馳走になり、そこで気に入ってもらえたのだと思います。以後、数年に一度くらいのペースでお会いし、情報交換をするようになったのです」。2011年9月のことだった。

 

 

反面教師から大いに学ぶ

オールアバウトは2年弱で退社。どうしても新しいことへのチャレンジが捨てきれず、広告代理店の子会社のベンチャー企業に転職する。ファッションSNSを立ち上げたいという社員に会い、以前SNSの運用をしていた話をしたら互いに意気投合し、「是非飯田さんの力を貸してほしい」と言われ、入社を決めた。
SNS運用経験があったのでマネタイズが難しいのは知っていたが、事業会社化するには黒字化が必須だった。1年間、2人3脚で頑張ったが黒字化できず、その事業も終わりかと思ったが、幸いなことに親会社に事業が移管され、飯田さんも同社に転籍する。「ここで新しくCTOとして来た人が強烈な人で、天才肌。コミュニケーションに難がある人でしたが、よくも悪くも、その人から大いに学ばせてもらいました」。
その後大手クラウドソーシングサービス運営する会社を経て、価格調査会社に移る。「ここでやったのが、組織改革とレガシー環境の刷新です。そのやり方は先の天才CTOを参考にしました。今振り返ると調子に乗っていたのだと思います。根回しせずにドラスティックに変えてしまいメンバーから総スカンを食ってしまった。あわてて軌道修正、今では感謝されています。エンファクトリーでのクリエイティブユニット立ち上げがうまくいったのも、この時の教訓が生きているからです」

 

もし数年に一度の情報交換がずれていたら……

さらにクラウド労務ソフト会社を経て、小売り支援会社に移る。
「ここでは経営メンバーに近いところで仕事をしました。VPoE(Vice President of Engineering)であるとともに、人事まわりにも興味が出てきていたので、CHRO(人事責任者)として考課制度の刷新や人の採用、組織開発を行いました。一方で人が足りていなかったので管理部のマネジャーを兼務し、バックオフィス業務の最適化を担当しました。もう他は移らない、ここが最後の職場という気持ちでやっていました」
ところが、2020年1月、創業社長が親会社の意向で変えられてしまう。それは、飯田氏はじめ、主要メンバーがごっそり退社という、ベンチャー企業でよくある事態を引き起こした。
その直後に、エンファクトリーの加藤社長との数年に一度の情報交換があり、「それならばうちに来てくれ」と言われ、快諾。エンファクトリーにCTOとして入社することになったのだ。

 

働くとは社会における存在意義そのもの

以来、半年(取材は11月)しか経っていないわけだが、現在の日々に点数をつけてもらった。「50点ですね。働き方には満足していますが、皆がいきいきと働けるチームづくりという自らの強みがまだ発揮できていないという思いがあります」
このエンファクトリーは飯田さんにとって実に10社目だ。そんな飯田さんに、働くことを別の言葉で言い換えてもらうと、「社会における自分自身の存在意義そのもの」という答えが返ってきた。
自ら起業することは考えないのだろうか。「考えたことはあるのですが、自分は社長向きではないと思い、諦めました。こう見えて組織で働くことが好きです。社長と一緒にやる参謀役があっているのだと思います」
一匹狼になりがちなエンジニアをまとめ、組織化する。1+1を2ではなく、5にも10にもしていく。エンファクトリーで強みを発揮できたら、飯田さんはまた次に移るのだろうか。