ライフシフター・インタビュー
これまでの常識や役割意識にとらわれず、自分の価値軸を大切にして人生を選択している人たちを「ライフシフター」と定義して、日本中から(ときには海外からも)発掘し、紹介するコーナーです。ライフシフトのキーワードか、ライフシフトした年代で検索できます。あなたのロールモデルを見つけてください。

1997年筑波大学卒業後、日本語教師アシスタントとして渡豪。何もできない自分に衝撃を受け、英語を猛勉強して現地大学院を修了。州立高校に勤務後、結婚を機に渡英。英語教育機関に職を得て安定した日々を送っていたが、30代後半から農業や日本のIT企業で営業を経験。3カ国での経験を糧に、世界規模で語学学校を展開するカプランのロンドン本社で管理職を務めている。

1980年神奈川県生まれ。早稲田大学商学部卒後後、ハウス食品株式会社に入社。3人目の子どもができたのをきっかけに1年間の育児休暇を取得する。その間に長野県佐久穂町に短期移住。豊かな自然と日本最初のイエナプランスクール大日向小学校に出会い本格的に移住。復職後、2拠点生活も経ながら「自分がやりたいものは何か?」を見つめ直して退社。2020年6月、佐久穂町に「カレー屋ヒゲめがね」を開店する。

2000年、サイバーエージェントに新卒一期生として入社。営業部門、新規事業立ち上げを経て、2006年に投資事業部門に異動しベンチャーキャピタリスト(VC)の仕事に出合う。社内VCとして活躍する一方、3人の子どもの母として忙しい日々を送るが、VC仲間のひと言をきっかけに独立を決意。2016年6月、iSGSインベストメントワークスを設立し、取締役 代表パートナーに就任した。

1993 年、日本生命に同志社大学第一号の総合職として入社。3 年間勤務後、韓国留学を経て 26 歳で結婚。2 人の子どもを抱えての再就職に苦労したことから「自分は自分で雇う」と自宅の 一室でネットショップ「リトルムーン」を立ち上げ、人気サイトに育てる。ネットでのトラブルに悩んだ 30 代後半を超え、40 歳から社会貢献活動を開始した。48歳で 2 度目の起業に挑戦、食品 ロス削減事業『ロスゼロ』を立ち上げる。

1974年鳥取生まれ。中央大学商学部経営学科卒業。在学中にITベンチャー設立。マザーズ上場目前まで成長するも、2002年に売却。2003年ソニー入社後、デジタルコンテンツの新規事業開発で活躍し、2008年より米国赴任。米国在住のまま2012年より楽天執行役員を経て、「二度としない」と心に決めていた起業を決意。2016年5月にシリコンバレーにてHOMMA, Inc.創業した。カリフォルニア州サウス サンノゼ在住。

1964年生まれ、新潟県新潟市出身。劇団員、アパレルメーカー勤務を経て、2008年スタイリストとして独立。同時に神奈川県葉山町に事務所を構え、2019年に父を看取ったのち、2020年からは住まいも葉山に移し、母とのふたりの暮らしを始める。ファッション業界でキャリアを築く一方、2015年慶應義塾大学文学部通信教育課程卒業。総合政策学部編入学後、2018年4月より、同大学大学院修士課程在籍。大学生の息子の父でもある。

1999年お茶の水大学卒業。セブン&アイ、帝人に計16年勤務。夫の海外赴任で滞在した米国でMBAを取得。2018年スタートアップの世界に入り、ヘルスケア分野でふたつの事業に携わる。2020年4月、民間企業によるインキュベーションの仕組みを利用して更年期夫婦向けコミュニケーションサービス「wakarimi」を立ち上げ、「複業」「リモート勤務」で事業責任者を務めている。2児の母、滋賀県大津市在住。

大学で学んだ造園学をきっかけにコミュニティづくりに関心を持ち、シェアハウスで共同生活をはじめる。偶然同じ時期に入居した女性と結婚し、以来移住とパーマカルチャーが目標になる。長男が生まれ、高齢出産の大変さを目の当たりにして仕事より家庭を選んで勤めていた会社を退社。移住計画を進めて2020年6月、千葉県鴨川の棚田のある農地へ。築100年以上の古民家を改修しながら半農半Xの立場で何ができるか探求中。

1955年愛媛県生まれ。中学校の教員を経て、夫が2代目社長を務める(株)サロンドロワイヤルに入社。2012年、夫が突然病に倒れ3代目社長を継承する。女性活躍推進などの経営改革を進めるとともに、「世界を代表するショコラティエ」に育てる。2017年には「産官学」で陸前高田市の農業再生と地方創生を目指す「ピーカンナッツプロジェクト」に参画。ゴールデンピーカン(株)を設立し、ピーカンナッツの日本での普及にも尽力している。

1970年。東京生まれ。信州大学経済学部卒。総合化学企業BASFに入社。国内営業、ドイツ本社でのグローバルマーケティングなどの業務を歴任し、最終的には日本法人の常務執行役員、副社長執行役員として経営実務を担う。2018年、退職して長野県松本市に移住。人材紹介業、経営顧問、安曇野市・産業支援コーディネーターなどを通して、地域の中小企業が抱える経営課題の解決支援を行うかたわら、革職人としても活動。

1966年生まれ、愛知県出身。30歳で作詞家デビューを果たし、派遣社員などをしながら活動を続ける。34歳で入社したITベンチャーで「広報」の仕事に出合って充実した日々を送り、正社員にも登用されるが、「会社に寄りかかりたくない」と37歳で独立。現在の仕事は、広報・PRのコンサルティング、ライティング、音楽専門学校の講師、作詞、女性コミュニティの運営など。「複業」を学びの機会として意識的に続ける。

1970年生まれ。京都大学大学院で人工知能を研究。阪神淡路大震災でのボランティア活動をきっかけに「プラットフォーム(仕組み)づくり」に関心を持つ。マッキンゼー、Google、リクルート、楽天などで事業立上げ・投資にかかわる。娘の教育環境を考え、45歳のときに楽天の執行役員を辞してバリ島に移住。現在はバリ島、シンガポールを拠点に顧問企業のアドバイザーを務める一方、執筆や講演活動も行っている。

1980年、東京生まれの埼玉育ち。明治大学商学部卒業。International University of Monaco修士課程修了。大学を卒業後証券会社に入社して7年間トレーダーとして働いたのちにモナコに留学して学位を取得する。星野リゾートでホテル経営を学び、いったん証券会社に勤務後、34歳のときに競売物件だった長野県渋温泉の老舗旅館「小石屋旅館」を購入。外国人旅行者向けの宿泊施設として改装して再オープンする。

1991年、日本長期信用銀行入行。退職後、米国に留学し、大学で国際関係論を学んだ後、ビジネススクールでMBAを取得。1998年に帰国後は、マッキンゼーなど外資系大手企業でのキャリアを歩むも、それまでの職場とは違う環境に魅力を感じ、2008年に東京糸井重里事務所(現・(株)ほぼ日)に入社。取締役CFOとして10年間活躍した後、退職し、「ジョブレス」を宣言。1年3カ月の自分と向き合う期間を経て、オンライン 1on 1 を提供するエール株式会社の取締役に就任した。

1981年、営業職として富士ゼロックスに入社。2000年、40歳で外資系企業に移り、GE、エルメスで人事責任者を務める。50歳を機にソーシャルセクターの活動に軸足を移すも、一度は挫折。55歳で再トライし、2団体の運営に携わった後、60歳で仲間とともに女性のリーダーシップ開発を支援する一般社団法人ポテンシアを設立。働く女性のライフキャリア支援を行う株式会社LiBの取締役も務めている。

1986年東京大学経済学部卒業後、日興證券に入社。25歳でハーバード・ビジネススクールに社費留学しMBA取得。留学先で知り合った夫と結婚後、20代後半で長男、長女を出産。育児と会社勤務の両立に難しさを感じ、33歳でインド紅茶の輸入・ネット通販会社を起業。38歳のときに子育てのために長野県に一家で移住した。55歳で紅茶の会社を事業譲渡し、現在は地方活性化や家業のイノベーション創業を支援する「巴創業塾」を主宰。

26年間勤務したサントリーを49歳で退職し、株式会社ギリーを設立。人と人を結ぶ「案内人」としてビジネスコーディネーター業務を手がける一方で、完全紹介制・完全登録制の「ギリークラブ」など複数の活動を主宰。「ギリークラブ」は、開始後18年間で2100回以上開催しており、現在も年100回以上実施している。「技術職でもクリエイター職でもなかった自分が『案内人』という不安定な仕事を長年楽しく続けてこられた理由は、“人”にある」と語る。

1991年、電通入社。31歳で電通と米国ジェムスター社のJV、IPGを共同創業。日本初の電子番組表「Gガイド」の開発に携わり、「Gガイド」サービスの市場化を実現。事業を成長させるが、IPG社長の退任を機に、49歳で電通を退職。知財戦略を核に起業家経営者として生きていくと決め、ドローン関連の知財戦略・知財マネジメントを手がけるDRONE iPLABを2017年に共同創業。同年11月、DiPLとの資本業務提携を機にエアロネクストに参画、代表取締役CEOに就任。

1987年生まれ。仏教を身近なものとして育つ。法律を学ぶ「かっこよさ」を知り法学部・ロースクールで学び司法試験に合格、弁護士となり法律事務所に入る。一方、学生時代に浄土宗の修行をして僧侶となる。弁護士としては約3年半にわたり、主に民事・家事事件を扱う。2017年、法律事務所を退職。弁護士資格を返上。2018年、大本山増上寺に入職。浄土宗開宗850年の記念事業として重要文化財改修の企画立案やファンドレイズなどを担当する。

編集者、文筆家。少女時代から憧れていた出版社に勤務し、女性誌の編集者として無我夢中で仕事をしてきた。しかし、40代になったころから「人生100年時代の今、定年後も働き続けたいけれど、このままでいいのだろうか」と焦りを感じるように。ある出会いをきっかけに大学院に通いはじめたところ、学びの面白さに目覚め、退職。研究に専念する日々を経て、「40代前後の女性の支援」というライフテーマを見出した。

クラウドファンディング事業を手がけるスタートアップで全国の企業の資金調達を支援するなかで、地域企業の深刻な人材不足に課題意識を持つ。30代後半には自分の業績が低迷。「自分の居場所はこの会社しかない」という思いが自らを苦しめたと気づき、複数の居場所や選択肢を感じることの大切さを実感。2017年、退職し、地域企業と、「副業」「複業」で地方で働きたい人材のマッチングサービス事業を手がけるJOINS株式会社を創業。

新卒で広告会社に就職し、コピーライターやマーケティングプランナーとして広告制作に携わっていたが、クライアントに振り回される毎日に疑問を感じるように。ある国際協力NGOに寄付をしたことをきっかけに、NGOで働くことに興味を持つ。5年以上迷ったが、2011年に国際協力NGO「ジョイセフ」に転職。2015年に「国境なき医師団」に入団し、現在はマーケティング業務とクリエイティブ開発のほか、人道教育プログラムの開発を担当。

トヨタの人事部門で5年間、人間関係諸活動に関わる仕事を担当。巨大企業のさまざまな層の人々と話して理解し合う活動を行った。2018年、ブラジル支社に赴任するも4ヵ月で退社を決意。2019年4月、北海道厚真町のローカルベンチャースクールに参加するために移住する。5月厚真町でマドラー株式会社設立。レガシー×テクノロジー、都会×地方、ベテラン×ワカモンという社会の両端を越境し、かき混ぜて結びつける仕事をはじめる。

小学生時代から海外に憧れ、大学の英語学科への進学を希望していたが、家庭の事情でかなわず、短期大学の栄養学科に進学。卒業後、情報サービス関連会社に勤務。30歳を前に「夢をあきらめ続けたくない」と基礎から英語を学び直す。外資系企業勤務を経て、パートナーに伴い32歳で憧れの海外移住。38歳でコーチングに出会い、39歳でパーソナルライフコーチとして活動開始。現在は仏・ブルターニュ地方で充実した日々を送る。

学生時代は、古典教師を目指していたが、株式会社リクルートに入社。人事、営業、研究事業を経験した後にプロ・コーチとして独立。自身が死の危険に瀕したことを契機に、森での生活から得られる自然の治癒力に気づき、2006年より「森のワークショップ」をスタートさせる。2011年、アメリカ先住民族の儀式「ビジョンクエスト」により、自らのミッションは「ガイド」と知り「森のリトリート」をメイン事業とする株式会社 森へ、を設立。

合同会社オールスプラウツ代表取締役。医療機器メーカーに勤務していた41歳の時にがんを発症。患者としての体験をきっかけに食と医療をテーマにしたヘルスケア教育の事業化を決意。43歳で立教大学大学院に入学。勤務しながら学び、MBA取得。2014年1月『学びの食卓』プロデュースを設立、2018年4月に法人化。ワークショップデザイン・企画開発、イベント運営に注力するかたわら、“大人の食育コンサルタント”として活動している。

経営者向けコーチングの会社を経営する傍ら、北鎌倉の古民家を舞台にして「栄縁」をテーマに「拡張家族」というコミュニティ運営を行う。妻と娘、6人の「家族」とともにシェアハウスで共同生活し、食事、子育てなどを助け合う。現在は、会社経営と3つのシェアハウス運営をしながら、食べ物を通じてコミュニティの生活を豊かにする料理人の修行をつづけ、延長線上に、衣食住が独立した経済システムで動く「村づくり」構想を進める。

カンボジア、キリロム高原在住、39歳、夫の別宮さんと同様、アクセンチュア株式会社でコンサルタントの仕事に従事2度目の産休後、アクセンチュアの教育休職制度を利用して、慶應義塾大学のビジネススクールに通い、MBAを取得する。ガードナージャパン株式会社を経て、2019年1月、キリロム工科大学に転職して、娘2人とともにカンボジア移住。現在は経営企画室で、スポンサー集めなどの仕事に関わる。

カンボジア、キリロム高原在住、42歳、アクセンチュア株式会社でコンサルタントとして13年間勤務。自動車会社などをクライアントとして業務改善の仕事に関わった後に、2017年10月、vKirirom Pte.Ltd.に取締役として転職し、カンボジアに移住。のちに妻の定松さんと2人の娘が合流。現在は、キリロム工科大学の運営全体に関わる。座右の銘は「理屈も感情も両方大切」。

株式会社リクルートで採用を中心とした仕事に関わり、その経験から「他人の人生と出会い、ともに歩く」ことのできる精神科医に興味を持つ。二番目の子どもが双子で生まれることがわかった32歳のとき、「集中して受験勉強できるのは双子が生まれる前の今しかない」と精神科医になることを決意し退社。1年後、滋賀医科大学に入学、37歳で医師免許を得る。将来は多くの人生と出会い「ともに歩く」地域医療スペシャリストを目指す。

日本アイ・ビー・エム株式会社を60歳で定年退職後、新聞の記事を見て、日本には女性たちが悲鳴を上げるほどに深刻な保育所の待機児童問題があることを知る。自身が家庭を顧みてこなかった反省もあり、保育士になって現場に入り、微力でも身をもって課題解決に挑戦することを決意。65歳で資格取得し、新設の保育所で保育士として勤務しはじめる。そのなかで得た、あり余るほどのリアリティを基礎にして、待機児童問題の解決策を思案中。

パナソニック(株)に勤務しながら、2012年に会社の活性化を図る若手主体の有志団体「One Panasonic」を立ち上げる。さらに、日本の大企業50社で共創や企業変革を推進する若手・中堅有志コミュニティ「ONE JAPAN」を設立。その活動で、日経ビジネス「2017年 次代をつくる100人」に選出。Business Insider JapanのGame Changer 2019 アワード受賞。2018年末、妻と同時に会社を辞め、2019年2月、日本一周と世界一周の旅に出る。

東京都在住。大学院で心理学を学びながら、シェアワーカーとして平日は民泊の掃除や家事代行、週末は民泊のゲストを迎えるという毎日を送っている。自身にとっては本当に自分の好きなことをしていて、それが不思議と収入につながっている感覚で、大学院卒業後も「新卒シェアワーカー」として生きていくことを決意。出会いを大切に、小さな信頼の蓄積のために1つ1つの仕事に対して常に120パーセントの集中力で臨んでいる。

NPO法人ArrowArrow事務局長、NPO法人二枚目の名刺 事業管理統括、任意団体ALTメンバー、自由大学キュレーター「ネオ・ファミリースタイル学」、フリーランス。大学卒業後、メディア業界でのハードワークを経て、東日本大震災を機にライフシフト。「なぜこの仕事をするのか」、クリアな答えのある場所に、複数かかわるというパラレルキャリアを選択。夫、娘の3人家族。

大学卒業後3年間、玩具メーカーに勤務後、フリーライターに。結婚・出産後も子育てをしながら、企業の媒体、雑誌記事などの仕事に携わる。2012年から息子のために朝のスープを作り始め、50歳で「スープ作家」に。スープレシピの開発、執筆やイベント、展覧会などで活動中。『帰り遅いけどこんなスープなら作れそう』(文響社)で第5回レシピ本大賞入賞。近著に『スープ・レッスン』(プレジデント社)。埼玉県在住。

株式会社牧野出版 代表取締役。1957年東京都生まれ、京都府在住。大学卒業後、新潮社、バジリコ株式会社、ポプラ社を経て、2004年牧野出版株式会社を買収し代表取締役に就任する。2017年、60歳を機に、生涯現役を目指した「暮らしのミニマイズ」と、「様々な人が出会う場づくり」というコンセプトを実現するために妻と共に京都に移住。京町家を改修した建物の2階を住居・1階をオフィスにした「職住隣接」生活を送る。

NIKO FLOWERS+共同代表。大学で医療経営を学び、企業系診療所に事務職として入社。独立志向が強く、試行錯誤を続けたが、「花の道で行こう」と決意し、28歳で退職。花屋、ホテルでのブライダル装花を経験。会社員時代の憧れの先輩、和久井純子さんが留学することに刺激を受けて、ワーキングホリデーでカナダへ。「花のある日常」に出会い、起業のイメージを固める。帰国後、和久井さんとともに花屋を起業。

NIKO FLOWERS+共同代表。薬科大学を卒業後、企業系診療所にて薬剤師と事務職として勤務。やりがいを感じていたものの、35歳を過ぎたころから「人生でやり残したことはないか」と思い始め、「英語を話せるようになりたい」という思いから、1年間のカナダ・アメリカ留学を決める。カナダで出会った「花のある日常」に魅せられ、帰国後、会社員時代の後輩、江澤佑己子さんとともに花屋を起業。

東京医科歯科大学再生医療研究センター、一般社団法人日本スポーツ医学検定機構 代表理事。再生医療の現場で整形外科医としての仕事をこなす一方で、一般の人が身体やケガの知識を体系的に楽しく学ぶ機会を作る必要性を感じ、39歳の時に「スポーツ医学検定」の創設を決意。一般社団法人を設立して、その全国展開を目指して尽力している。東京都在住。妻・子ども3人の5人家族。

株式会社アイ・キューブ代表取締役。大学卒業後リクルートに入社し、出産を機に退社。夫の転勤で引っ越した静岡で三菱電機静岡製作所に入社。日経ヒット商品金賞を受賞した「切れちゃう冷凍」の開発に携わる。2000年、再び夫の転勤で関西へ引っ越し、女性目線のマーケティング会社を起業。53歳のとき、英語の学び直しを決意。オンライン英会話に続いてハワイ留学、マルタ共和国留学も経験。夫、娘(28歳)の3人家族。

「ビジネスを通して世界中の人々を“動機づけたい”」という想いから、大学卒業後は大手総合商社に就職。営業、戦略立案、経営企画等さまざまな業務に従事し、海外生産戦略室室長や新規事業開発責任者を勤めた経験も持つ。2015年4月、勤務を続けながら大学院に入学。2017年3月に修了、事業構想士(MPD)を取得。習得した学びを生かしながら、企業人として日々、成長している。妻、2人の息子の4人家族

仏法人エトワール・サービス代表。京都府出身、パリ在住。25歳でフランスに留学し、その後家業である酒屋を継いでいたが、フランス人の夫と出会い渡仏。田舎町でのんびり子育てしていたが、仕事も少なく窮屈に。もっと自分らしい自由な人生を生きるために、夫と離れ、子どもたちと一緒にパリに移住。福祉旅行会社を起業し、日本からの車椅子や障がいをお持ちのお客様の旅行や滞在のサポート、商業通訳やコーディネートを行う。

RE/MAX Estate Properties 不動産エージェント。ロサンゼルス市在住。大学卒業後、リクルート入社。仕事の面白さに充実感を感じ、気づくと30代後半。動くなら今しかない!と40歳を目前に渡米。日本人向けフリーペーパーの編集長として活躍。現地で出会った夫と順調に暮らしながらも、日本人コミュニティ向けの仕事では渡米した意味がないと45歳で一念発起。不動産エージェントに転職、現在に至る。

大学卒業後、求人広告の営業、人事、広報などの仕事を経て、海外ビジネス支援プラットフォーム「Digima~出島~」の相談窓口コンシェルジュに。5年間で約4000社の手配を経験。2018年「もっとたくさんの企業や人に貢献したい」「働き方の選択肢を増やしたい」という想いからフリーランスに転身。海外ビジネスを行う起業家ネットワークWAOJEの事務局や、海外ビジネスを行う企業のHR&PRサポートなどを行う。

芸術系大学院卒業後、会社勤務を経てインテリアデザイナーとして独立。2011年急性骨髄性白血病を発症。抗がん剤の副作用による「不妊」と向き合う。本質的に不妊治療当事者に寄り添ったサービスを生み出したいという思いから、2016年に株式会社ライフサカスを代表の西部沙緒里氏と共同創業。不妊治療当事者向けのスマートフォンアプリ「GoPRE」の開発、ストーリーメディア「UMU」の運営などを行う。

神奈川県出身、鹿児島県長島町在住。アメリカ留学中に食に関心を持ち、高級飲食店を顧客とするIT企業に就職。生産現場に近い距離で携わりたいと考え、25歳のとき「地域おこし協力隊」として長島町に移住。同時に、長島町が提携を結んだ慶應義塾大学大学院の「地域おこし研究員」に合格。大学院生という肩書きも持ち、「地方の生産者と都市部の料理人コミュニティの持続発展化」を目指し、理論と実践を行き来する毎日を送る。

CSS Co.,LTD代表取締役社長。ベトナム在住。専門学校卒業後、ソニーに入社。製造・技術・資材の各部門、中国・上海のデジタルカメラ工場の品質保証責任者を経て、55歳で早期退職。海外での日本語学校設立を目指し、日本語教師養成講座で1年間学ぶ。南米、欧州、アジアなど6カ国で市場調査をし、17年にCSS設立、ベトナムで技術指導や日本語指導を行う。前妻(離婚)、子ども2人が日本で暮らす。

会社員(HRコンサルタント)、エシカルペイフォワード・プロデューサー。開成中学、高校、東京大学と、いわゆる”エリートコース”を歩むも、大学を中退。ニート期間を経て、28 歳でセゾングループの会社に入社。その後知人と共に起業するも、収益化を急いだため自由な活動ができなくなり、33 歳で会社員に戻る。HRコンサルなどの仕事と、多数のエシカルプロジェクトに取り組むハイブリッドキャリアを築き上げている。

広告会社においてクリエイティブ職、営業職、マーケティング職、シンガポール駐在、グローバル部門を経て、現在、人事局で社員のキャリア形成支援と組織開発を担当。2015年よりNPO法人「二枚目の名刺」に参加、大学において各種講座を担当。2018年より、早稲田大学エクステンションセンター・WASEDA NEOのプログラム・プロデューサーとしてリカレント教育のデザインを行っている。東京都在住。

宇都宮大学国際学部客員准教授、教育向け多言語システム“E-Tra”主宰、みらい日本語学校事務局長。大学卒業後、地元栃木県の中学校教員に。現場で外国人の子どもの教育について研究を始め、47歳の頃、将来安定の公立学校教員から任期付き大学教員に転身。53歳の頃、経費の関係で大学の固定給がなくなり失業状態になるも、生涯を通して研究してきた「教育向け多言語システム」E-Tra構想が収入を生み始める。茨城県在住

株式会社Little Japan代表取締役、特定非営利活動法人「芸術家の村」理事長。大学院卒業後、農林水産省に入省。東日本大震災をきっかけにNPO活動を始め、2017年1月「今必要なのは現場の取り組み」と考え農林水産省を退職。地域創生をミッションにLittle Japanを立ち上げる。ゲストハウス「Little Japan」の運営、地域の担い手不足解決につながる事業の立ち上げなど幅広く活動。

カンターキャラバンジャパン代表。夫婦ともにフルタイム勤務をしていたが、妻の流産、不育症をきっかけに、「自分たちはどう生きたいか」というテーマに向き合う。その後「自然の中ではたらく」をテーマに活動するオランダの団体、カンターキャラバンと出会う。夫婦で日本版を立ち上げ、「はたらくに余白を」をテーマに活動開始。同時に夫は営業系フリーランスとして、妻は経理系フリーランスとして働く。神奈川県在住。

亀田ファミリークリニック館山・家庭医診療科プログラム統括責任者。小児科医の妻の専門研修のため2015年4月より、主夫として時短勤務。長男のこども園ではPTA会長も務めた。家族の協力のもと、かかりつけ医としての診療のほかに、指導医養成、講演やシンポジストなどにも精力的に挑んでいる。千葉県在住、35歳。妻・長女・長男の4人暮らし。

大学卒業後、日本興業銀行、新銀行東京を経て、人材関連会社等にて人事責任者を歴任。57歳で独立起業し「定年のない働き方」に移行。フリーのコンサルタント、研修講師、ビジネス書作家として活動中。サードキャリアの目標は「70歳からハワイに移住して執筆業一本で食べていく」。著書に『定年後不安 人生100年時代の生き方』(角川新書、2018年)などがある。埼玉県在住。60歳。妻と子ども2人の4人家族。

幼いころから、将来はテレビ番組の制作に携わりたいという夢を持つ。中学校を卒業後に、英国へ留学。23歳で帰国し、テレビ局でAD、ディレクターとして番組制作に携わる。震災を機に「自分ができること」として特定非営利活動法人日本生活・語学支援機構(通称:エルジェ)を設立。テレビ番組の制作に携わりながら、日本で暮らす外国人の生活や語学習得の支援を行っている。東京都在住、42歳。夫との二人暮らし。

文化放送で15年間キャリアを積んだのち、自営業を経て、地域のコミュティラジオ局であるFM西東京へ。地元に根ざした人と人とのリアルなつながりの大切さに気づき、地域や顔の見える関係を意識した人生に。2016年退職。現在も「地域」をキーワードに、J:COM西東京番組「たまろくと人図鑑」司会担当、PlanT(日野市多摩平の森産業連携センター)コーディネーターなどで活躍。家族は母、妻、娘。

オムロン株式会社勤務、NPOダイアログ・ネット所属。友人に誘われて2000年にゴスペルを始め、ゴスペルシンガーのTAEKO GLORY氏と出会う。2005年、TAEKO氏の呼びかけでNPO法人ダイアログ・ネットを設立。歌で目の前の一人を励まし讃える!を合言葉に歌のボランティア活動を展開。東日本大震災後は「心の復興支援プロジェクト」を立ち上げ、毎年各地でチャリティコンサートを開催。大阪府在住。

大学卒業後、メーカーに勤務。順番で回ってきた町内会役員とたまたま参加したボランティア活動により、「人とのつながりが心を豊かにする」ことに気付き、ライフシフト。人を大切にする社風の株式会社ジャストワークに転職。出会いと縁を大切に、多くの人や団体と活動を共にしている。特定非営利活動法人 湘南NPOサポートセンター会員。神奈川県在住、妻と子ども3人の5人家族。

チュニジア産キリム販売 ”Lone Toujane ”(ローヌ トゥジェン)代表。短期大学卒業後、団体職員として3年間働いた後、専業主婦に。第二子出産後、体調を崩し鬱病に。以来激しい心身の不調を抱え、「とにかく生き延びる」日々を送る。社会的リハビリを目的としてパートタイム事務職に復帰するも、51歳でがんを発症。手術後、チュニジアを旅し、キリムに魅せられ、全くの未経験で「Lone Toujane 」を創業。東京都在住。

横浜市の大手ハウスメーカーで3年勤務後、建築雑誌で見つけた長野県の工務店のビジョンに惹かれて転職、妻と共に移住。5年勤務するも違和感を感じて退職。建築業界を離れ、リゾートホテルの夜勤フロント業務、有機農家のスタッフなどを経て、2015年3月えんがわ商店を創業。セルフビルドパートナー/DIYサポーター/二級建築士/大工として、住まい手が自分で作ることのサポートをしながら家作り・場作りをしている。

福岡県在住。出産後、夫の転勤で関東に。慣れない環境と母親のくも膜下出血が重なり、産後鬱に。「娘が成長してしまったら、何の目標を持てばいいのか」と悩み考え、「私が私でいるために何かしよう」と決意。2013年にチャレンジショップ内でハンドメイドのアクセサリーの制作・販売をスタート。2015年には小倉織をつかったアクセサリーの制作・販売をスタートし、Itohen.M(イトヘンエム)を創業。夫と娘の3人家族。

外資系グローバル企業にてアジア太平洋地区の人事のプロフェッショナルとしてキャリアを築くも、「海外で働きたい、そこで日本と海外の架け橋となり恩送りしたい」という思いが強くなり独立。Diversity & Inclusion Evangelistとして、ロンドンと東京を拠点に活動。「誰もが自分らしく”IKIGAI”のある世界を創ります」をモットーに地域・国や業種の垣根を越えて、様々な企業・団体と一緒に協働している。

大学卒業、化粧品会社、製薬会社数社に勤務。2008年、夫婦でニュージーランドを旅した際に、10年後にはここに移住すると決意。実現方法を模索し、2014年に副業として自宅で外国人向け和食教室「わしょクック」をスタート。手ごたえを感じ、2016年、47歳で製薬会社を退職し「わしょクック」に専念。2018年には夫も事業に参加。夢の実現が近づいている。神奈川県在住、49歳。55歳の夫、9歳の息子の3人暮らし。

静岡県在住。大学卒業後、静岡にUターンしテレビ局に就職。結婚・出産後も仕事優先の生活だったが、夫の海外転勤を機に専業主婦に。帰国後、再就職を模索するも方向が見えず悶々とする。答えを探すために、「働く」をテーマに取材を開始。偶然、株式会社チェンジウェーブ(東京都港区)と出会ってチェンジプロデューサとして入社。リモートワークも活用し、キャリア・ジャーナルストの活動とも両立。夫と娘の3人家族。

大学卒業後、コンサルティング会社を経て、リクルートへ。仕事優先で生活する中、34歳の時に子宮外妊娠と貧血の難病が発覚。仕事を休職し、生活の抜本的な見直しを行い、自分らしいワーク&ライフバランスが実現する「スラッシュキャリア」を選択。「子育てを学ぼう」まあどれ 主宰/子育てマーケター/Baby&Kids食育講師/マザーズティーチャー/TCS認定コーチなどで活躍。39歳、夫の子ども2人の4人家族。

日本全国 大学を卒業後、広告代理店、出版社、事業会社の広報職を経て、PR会社に参画。旅のWEBメディアの編集を担当するようになり、一週間の半分は会社へ通い、半分は遠隔で仕事をするという半・ノマドワーカーに。婚約を機に都会を離れ、現在は日本に息づく文化や伝統を自分の足で取材して紐解きたいという想いから、夫と共に、バンで日本を旅しながら遠隔で仕事をするVanlife(バンライフ)を送る。35歳。

30代はワーカーホリックだったが、子どもを出産したころ、母親の認知症が発覚。介護・育児と仕事を両立するため、人生デザインを見直す。働きやすい会社へ転職し、通勤時間を減らすために引っ越し、在宅ワークも活用。そして「何をしなくていいか」を優先して考える生活に。定年後は起業と住みやすい国への移住を目指し、休みのたびに子どもと一緒に東南アジアの国々をまわる日々。東京都在住、48歳。

スーパーマーケットの営業企画として長く働く中、2015年の春「子宮頸がん」の告知を受ける。死を意識したことで「後悔しない人生を生きる」事を決意。昔から受けたかったメイクセラピスト養成講座や簿記の勉強、「美容部員」の仕事、子宮頸がんの啓発活動などに挑戦。その経験の中でこれから自分が進むべき道に気づき、2018年春より前職に復職。岡山県在住、38歳。夫、18歳長女、14歳長男、7歳次女の5人家族。

大学卒業後、新聞社勤務を経てシンガポールへ。専業主婦、現地採用社員を経験し、5年後に帰国。リクルートに入社し、海外駐在や事業会社執行役員を経て、45歳で独立。「女性×はたらく」を応援するWill Lab代表、兼、途上国女性の生活向上のためのハンディクラフトショップWill Galleryのオーナーに。仕入れを目的として毎月1回、海外へ。夢だった「東京を拠点に、世界を飛びまわる生活」を実現。東京都在住、46歳。

3歳からサッカーを始め、国内でプレー後、アメリカ大学リーグへ。引退後のキャリアも意識し、プレーしながらMBAを取得。スウェーデンのプロリーグを経て26歳で引退。アフリカのザンビアに渡り、スポーツを通じた社会課題解決手法を体験。引退後に取り組むテーマを「スポーツ×ジェンダー×国際」に定める。帰国後はスポーツ庁勤務を経て、大学職員として働きながら、多くのNPO団体や社会活動に参加。東京都在住。

大学卒業後、独立行政法人国際協力機構(JICA)に勤務し、途上国の障害者の社会参加支援事業、カンボジア、タイ、パラグアイ駐在など様々な仕事を経験。勤続20年の節目を迎え、国内の社会課題解決に腰を据えて取り組みたいと考えるようになり、理念に共感した株式会社ミライロに転職。安定した大組織から、ベンチャー企業への転職で戸惑いはあるが、意思決定の速さや柔軟さにやりがいを感じる日々。東京都在住、44歳。

外資系の広告代理店で12年間コピーライターとして働いた後、「今しかできない子育て中心の生活をしたい」と退職し、家族でオーストラリアに移住。「海外書き人クラブ」を立ち上げ共著も含めて20冊ほどの本を出版。2013年に竹内雄紀という別名義で新潮文庫から小説家デビュー。「家族」や「子育て」をテーマとした小説を出版している。クイーンズランド州在住、53歳。妻と子ども3人の5人家族。

大学卒業後、リクルート入社。HR領域で採用・育成支援業務、シェアリングエコノミーの海外事業開発、リクルートグループの働き方改革を担い、2017年4月に退職。家族4人で世界30か国を放浪しながら海外の働き方を探求。帰国後は企業の働き方・パラダイムシフトや個人のライフシフトをテーマに、パラレルワークに挑戦中。LifeWorksJourney代表。ライフシフト・ジャパンCSO&CHO。妻と子ども3人の5人家族。東京都在住。

プレイヤーズオフィス太陽と月 代表。東京大学経済学部を卒業し、大企業に就職するも、なじめず福岡に帰郷。心理学の研究者をめざし九州大学の大学院へ。博士課程の途中で父親を亡くし、家業を継承。女性活躍やIT活用の取り組みで注目されるが、興味のない家業で苦しい日々を過ごす。2017年、家業を譲渡し、経営と心理、両面の専門性をもつコンサルティング・アーティストとして独立。福岡県在住。妻、子ども3人の5人家族。

東京で会社員、起業を経験した後、「今一番したいこと」を問い直し、51歳で新潟に移住を決意。都会育ちで虫も苦手だったが、米作りに挑戦し、その苦労や食べ物への感謝を都会の人に伝えるメディア(現「旅する食べる通信」)を創刊。新潟県の6次産業化プランナーにも推薦され、現在は編集やプランナーの仕事、地域の特徴を文化として確立するための活動している。新潟在住、56歳。

トラストアンドアソシエイツ株式会社 代表取締役。大学卒業後、システムエンジニアを約10年、社内の人材育成の仕事を10年経験後、「人生の夏休み」と称して退社。長野県のワインアカデミーに1年間参加。「now or never」と考えブドウ栽培農家となる決断をし、長野県に移住。現在はワイン用ブドウを栽培し、近隣のワイナリーに醸造を委託。自社ブランドのワインを販売している。50歳。東京で妻、子ども2人が暮らす。

北海道在住。演劇科高校を卒業後、富良野塾に入塾。塾の先輩と結婚し出産すると生活が一変し、社会から断絶されたような孤独感を味わう。子育ての悩みを解消するために通信教育で保育士の資格を取得、「森のようちえん森のたね」の設立につながる。震災後には里親になる決断をする。2017年、地域の推薦で中富良野町議会選挙に出馬し町議に。47歳。夫、17才、14才、11才、8才(里子)、4才(里子)の7人家族。

大学卒業後に入社した大企業を、親族の会社を再建するために退職。結局、清算することになり1人で独立起業。インターネットビジネスで成功し、Yahooに売却し経営引退。故郷の青森の地域活性化を手伝ううちに、請われて50歳で八戸学院大学の学長に。現在、神奈川県藤沢市と青森県八戸市の2拠点居住。毎週往復の超遠距離通勤を行いながら、生徒数をV字回復させる。現在56歳。家族は妻、長男25歳、次男21歳 犬10歳

ミャンマー在住。日本の投資ファンドで企業投資を担当後、日系企業の事業開発プロジェクトでミャンマーに移住。しかしプロジェクトが不調に終わり失業。悶々とするも、これから国づくりが始まるミャンマーに残ろうと決め、現地の銀行へ転職。銀行業務のほか、日系企業とのアライアンス、事業開発を担当。インフラ整備や電力エネルギー事業、自動車関連事業の立ち上げに従事。49歳。妻とヤンゴンで2人暮らし。

福岡県在住。医療法人寿芳会芳野病院で人事労務、総務課長を経験。ワークライフバランスに理解のある理想的な職場だったが、“自分が本当にしたい仕事なのか”というジレンマがあった。2016年に「好きなことを仕事にしよう」と決意。現代の小倉織ブランド「小倉 縞縞」を取り扱う小倉クリエーションに、広報兼法人担当として入社。企業・団体の窓口としてノベルティなどの制作や広報活動を担当。39歳。1児の母。

大手IT企業でエンジニア、人材育成、ダイバーシティ推進を担当。障害のあるネパール人女性との出会いをきっかけに、「自分の軸で生きているか」を問い直すようになり、2017年会社を退職し、株式会社アワシャーレを設立。ダイバーシティプロデューサーとして、講演・研修・戦略支援などを通して、多様性と絆のある環境・場・変化をつくっている。NPO法人GEWEL副代表理事。東京都在住、49歳。

親の虐待をきっかけに、高校3年間を児童養護施設で生活する。高校卒業、テレビ映像編集の職に就くが、心身ともにボロボロに。起業家との出会いをきっかけに、小さいころから憧れた「仲間とともに冒険し目標を達成するドラクエのような人生」をかなえたいと一念発起。養護施設・里親からの自立を支援する団体「ゆでたまご」を立ち上げる。重度訪問介護の正社員としても働いている。東京都在住、20歳。

日本マイクロソフトにて、マーケティングや広報に従事。グローバル企業のトップダウンの経営文化の中、地域課題の解決に関心を持つようになり、豊島区の民間公募で任期付き公務員として勤務。民間企業での経験を活かし、区内の企業や大学、コミュニティとの連携により、女性やファミリー向けのまちづくり施策展開や情報発信を行いながら地域ブランディングを推進。東京都在住、48歳。夫とコザクラインコの"3人家族”。

PR会社、デジタルハリウッド執行役員を経て、2009年4月に株式会社ビストロパパを設立し、長女の誕生を機にはじめた「パパ料理」の普及活動を開始。料理教室やセミナーの開催、NHK「きょうの料理」「かんたんごはん」出演ほか、一澤信三郎帆布コラボエプロン、BistroPapa Online Shop運営など、日本唯一の「パパ料理家」として幅広く活動。神奈川県在住、47歳。長女(享年8歳8か月)、11歳次女の父。

東京都在住。全国紙の新聞記者として、地方勤務で警察回りや役所回りを経験し、本社では芸能、生活・家庭関連の取材、2000年に子どもが生まれてからは子育て・保育などについて取材執筆。ハードワークに疲れ、48歳で退職。これからは会社のためではなく、社会のために働こうと、2017年9月に小規模保育園を開園。ネット発信による地域メディアも運営。東京都在住、51歳。夫と17歳男子の3人家族。

派遣社員時代は連日の残業、休日出勤で精神的にも肉体的にも苦しくなり、東日本大震災を機に、このままでは家族を守れないと退職を決意。現在は家事育児を生活の中心とし、空いている時間でインターネットリサイクルショップを運営。小学校のPTAや図書ボランティア、子育て支援関連活動なども行っている。東京都在住、44歳。妻(会社員)、長女(8歳)、次女(5歳)の4人暮らし。

大学卒業後、金融系のシステムエンジニアを約3年間経験。仕事オンリーの生活に疑問を感じ、もっと自分にフィットする国を探そうと世界一周の旅へ。2年2か月の旅を経て、2007年に「幸福感あふれる国」フィジー共和国に移住し、語学学校のマネジャーに。通勤は車で5分、1年のうち「8ヶ月働き、4ヶ月休む」というライフスタイルを確立。フィジー共和国で日本人の妻と息子(2歳)の3人暮らし。