PROFILE

渡辺幸裕さん(No.72)/株式会社ギリー 代表

■1950年生まれ。1974年早稲田大学政治経済学部卒業後、サントリー株式会社入社。資材部門バイヤーを経て、宣伝部、ニュートレンド部などで広告業務全般、会社のアンテナ役としての情報受発信や著名人対応業務などに携わる。1994年、TBSブリタニカ(現・CCCメディアハウス)出向。デジタル出版局創設、雑誌『pen 』創刊プロデュース、田崎真也のワイン通販企画、ワイン紹介サイト開発など新規事業開発、プロジェクト企画を多数手がける。2001年、ビジネスコーディネーターとして独立。メディア、飲食、日本文化関連に特化した企画立案を得意とする。自社企画の会員制交流会「ギリークラブ」は、開始後18年間で2100回以上開催しており、現在も年100回以上実施している。多摩大学総合研究所客員教授。2020年4月、一般社団法人日本文化デザインフォーラム監事就任予定。

■家族:妻と娘ふたり

■座右の銘: 好きな言葉、感銘を受けた言葉はたくさんあるが、自身のあり方をその言葉に縛られることを避けたいという思いから、あえて口にしないことにしている。

オンライン・ギリー 

 

49歳で独立し、人と人を結びつける「案内人」として約20年

49歳でサントリーを退職後に株式会社ギリーを立ち上げ、2020年8月で20年になります。「ギリー」とは、英国の釣りガイドのこと。サントリーの大先輩であり作家、故・開高健さんの特別番組をプロデュースした時に、スコットランドで知った言葉です。

ギリーが人と魚を会わせるように、人と人を結びつける「案内人」になりたい。そんな思いから、顧問契約先の課題解決をお手伝いするビジネスコーディネーター業務の一方で、創業間もないころから始めた完全紹介制・完全登録制の交流会「ギリークラブ」の登録メンバーは約3900名。「ギリークラブ」では飲食、メディア、カルチャー、国際交流などさまざまなジャンルのセミナーやイベントを行っていまして、実施回数は18年間で2100回を超えました。

2020年中には、日本人として知っておきたい日本文化を楽しく学べる「令和アカデミー倶楽部」の開校を予定し、準備を進めています。僕がこのアカデミーで一番実現したいのは、「四季を愛でる、日本の心」を学んでいただくこと。イメージにあるのは、大きなことではないんです。

例えば、七五三の千歳飴は子どもの長寿を願って細く長い形に作られていますが、食べにくいですよね。そこで、切ったり、割ったりして小さくするといいのですが、食べ切れないことが多い。では、どうするか。「砂糖代わりに煮物に使うといいんですよ」とある方から教わって、僕自身には新鮮な発見でした。そういった、日常のちょっとしたことも交えて、日本文化を学び合うことを通して、人と人が出会う場を作りたい。そして、ここで学んだことを、みなさんがご家庭で話して、親子や、おじいちゃん、おばあちゃんと孫の会話が生まれたら素敵だなと想像したりしています。

サントリーに26年間勤務。人との関係を築くための基礎を新人時代に学んだ

会社員ならとっくに定年を迎えた年齢にもかかわらず、こうやって新たなことに取り組めるというのは、幸せなことだと感謝をしています。技術職でもクリエイターでもなかった自分が、独立して20年間やってこられたのは、応援してくださる方々が周りにたくさんいたからにほかなりません。そして、人との出会いの大切さ、人との関係を築くための基礎を教えてくれたのは、やはり、26年間お世話になったサントリーです。

サントリーに就職したのは、当時社長だった佐治敬三さんの本を、父の本棚に見つけて読んだことがきっかけでした。創始者の2代目として、サントリーにとって最難関と言われていたビール事業など新しい分野に次々と挑戦する姿に魅力を感じ、「こういう人がいる会社で働いてみたい」と思いました。同じ学科の同級生には金融業界や商社に進む人が多かったのですが、友人にサントリーに入りたいと話したら、「お前に合ってるよ」と言われたのを覚えています。

気鋭のクリエイターを起用して次々と話題を集めていたサントリーの広告に憧れ、入社後は宣伝部で働きたいと思っていましたが、配属先は購買部門。全包装材料の企画図面のチェックが新人時代のメインの仕事でした。営業部門に配属された同期が売り上げを上げる一方で、僕は各包装材料の企画図面をチェック・青焼き(当時主流だった複写技法)して関係部署に配布するという仕事の毎日です。

自分が会社に貢献できていないと感じ、悔しかったですね。だからこそ、ここで自分が経験したことを、できる限り自らのものにしようという思いで目の前の仕事に取り組みました。購買部門では、ラベルやキャップシールからガラスや陶器のボトルまでさまざまな素材を扱っており、それらの基礎知識を学べたのは他部門では得られない経験でした。モノづくりの現場に行く機会も多く、ひとつのものが作られるまでにどれだけの行程があるかを体感できたことも貴重でしたね。街を歩くときも、「このショーウインドーの装飾はどんな素材のもので作られているかな」などと学生時代には見えていなかったことが見えるようになりました。

現場で、職人の匠の技をこの目で見られたのも、得難い経験でした。例えば、陶製アイスペールや水差しなどを作ってもらうために各地の窯を訪れた時。物静かにろくろを回す職人さんが、自分ではとても真似できないような技を持っていたりする。世の中には達人がいて、それは有名、無名とは関係ないことを知りました。これを若いうちに知り、相手を肩書きだけで見ない姿勢が自然と身についたのは、僕にとっては非常に大きなことだったと思います。

もちろん、失敗も山ほどしましたよ。上司や先輩から何度「お前、アホちゃうか」と言われたかわかりません。サントリーの男性社員はかなりの比率で関西出身でした。同期も4分の3は関西人、東京支社や地方支店でも社内公用語は関西弁。東京出身の僕が、すぐに変な関西弁になりました(笑)。出会った大阪の人たちは口うるさいけど、本当に温かかった。情に反したことだけはするなと厳しくしつけられました。商売の何たるか、人としての礼儀を僕は大阪人に教わったんです。

組織やポジションを超えた、さまざまな人との出会い

入社7年目に宣伝部に異動後は、それまで以上に人との出会いの範囲が広がり、社内外を問わず、さまざまなポジションや職種の方たちとのコミュニケーションがありました。振り返ってみると、僕は相手が「偉い人」だからといって萎縮することはあまりなかったかもしれないですね。結婚披露宴で祝辞をいただいた上司からは、「渡辺くんはスピーチを頼みに来た時に、『将来有望な好青年です、と言ってください』と注文をつけてきた。そんな部下は後にも先にもいない」とばらされ、会場は爆笑。新郎は席で頭をかいていました(笑)。

若さゆえの図々しさというのでしょうか。僕には抜けているところがあって、目上の方からすると、「お前、ちょっと来いよ」と構いたくなるタイプだったのかもしれません。当時の佐治社長にも可愛がっていただきましたし、宣伝部の業務の一環で開高健さんや井上靖さんといった著名人の方々と一緒に仕事をしたときも、皆さんから親しく声をかけていただきました。

入社21年目には、当時サントリーが出資をしていた出版社TBSブリタニカに出向し、新雑誌創刊を担当することになりました。広告を出していた立場から、編集・制作・広告営業という、それまでとは180度異なる業務への異動です。最初は右も左もわかりませんでしたが、ありがたいことに出版社の皆さんが応援してくれました。「酒屋さんから来たんだから、編集なんて知らないでしょう」とイチから編集の何たるか、広告営業の何たるかを叩き込んでくれたんです。おかげで、『Pen』などの新雑誌創刊という思いもよらない経験もできました。「出版社にいても、新雑誌の創刊はなかなかできないんだよ」と言われ、本当にそうだなと思いました。

人と人を結びつける「案内人」が世の中に求められているという実感が、独立への自信に

独立を考えるようになった大きな理由のひとつは、このままサントリーという大看板に甘えていたら、「何様」になってしまうかもしれないなと心配になったからです。僕は38歳で宣伝部の課長に昇格し、昇格時には自分が担当していないメディアからもお花が届きました。チケットが取れない海外人気アーティストのコンサートもVIP席で観られたりする。そんなありがたい環境にずっといたら、多くの人は自分が偉くなったと勘違いして「何様」になってしまう。それが怖いことだと、僕も当時は気づいていませんでした。自分ではわかっていなかったけれど、「イヤな奴」になっていたところもあったかもしれません。

ただ、幸運だったのは、組織の中で、ある程度のポジションに就いてからも、僕には「ヒラ」として現場仕事をする機会が多くありました。例えば、サントリーが1990年までスポンサーを務め、ロンドンで開催されていたゴルフトーナメント「世界マッチプレイ選手権」。当時サントリーは国内開催の「サントリーオープン」も主催しており、予算規模は「マッチプレイ」の2倍。スタッフも数百人規模だったのに対し、「マッチプレイ」は海外ということもあって多くの人員を割けず、社長と宣伝部から数名という体制で、その中では僕が一番の「ヒラ」でした。現地で、契約にないちょっとした雑用がいきなり生じた時に、イギリス人スタッフには応じてもらえないこともあるので、国際免許は必須。運転や荷物運びもしました。

TBSブリタニカ出向など、サントリー以外の組織で働く機会を与えられたことも、幸運でした。イチから何かを学ぶには、否応なく謙虚さが求められるからです。また、新雑誌創刊や、当時世界ソムリエコンクールで日本人として初めて優勝したばかりだった田崎真也さんのワイン通販企画といった新規事業を立ち上げ、それらが軌道に乗ったことが、ちょっとした自信にもつながりました。

例えば、田崎さんの企画は本来出版社が担当する業務などではありませんでしたが、通販会社にいる先輩に頼まれ、田崎さんを紹介したことから始まりました。この業務は、卑近な話、僕の業績としては一切カウントされません。でも、世のワイン好きの方に喜んでいただき、会社業績には大いに貢献しました。組織ではさほど評価されないことでも、「人と人を結びつけて実現する事が、世の中の役に立ち、求められている」という実感を得たわけです。成功すると、関わった人が皆笑顔になる、それが、組織を超えて「案内人」として仕事をしたい、という思いにつながりました。

“GIVE、GIVE、GIVE”で、“TAKE”はなくていい

独立を思い立ってから、退職をするまでには5年ほどかかりました。起業をするなら、体力のある40代のうちにと考え、本当はもう少し早くてもよかったのですが、恩のある会社を辞めるというのは簡単ではありません。結局、佐治さんが亡くなった翌年、40代ギリギリで退職をしました。

サントリーを退職する時、周囲からは「気でも狂ったのか」と言われました。「なかなか入れない会社なんだぞ」「あの部署を用意するから、辞めるのはやめろ」と引き止められ、「サントリーという看板がなくなったら、皆離れる」と注意もされました。でも妻の理解があったことが大きな救いでした。

「ナベちゃんの独立を失敗させるわけにはいかない」と応援してくださる方も周りにたくさんいました。仕事を紹介してくださる方もいて、ありがたいことに、僕は独立後大きな苦労はしていません。一般に、「仕事をさせて」と頼みに行くと、まず「どう断ろうか」と身構える方が多いもの。だから、営業をしなくても、自然と「あの人に頼もう」と思ってもらえるような仕事をすることを心がけてきました。これは、会社員時代もそうで、独立を考えてからはとくに強く意識していました。

独立後、うまくいかなかったこと、大変だったことはいっぱいあります。今でもそうです。例えば、ギリークラブでは超初心者向けの日本文化入門講座を長くやっています。僕自身が会社員時代、海外出張時に日本文化について問われて答えられず、惨めな思いをした経験から、とりわけ男性に参加してもらいたいと考えて始めた企画です。ところが、18年続けても、参加者のほとんどは女性です。それでも、イヤにはなりません。文楽の人形遣いや歌舞伎俳優など、日本文化の担い手として頑張っている友人たちの姿を見ると、ここでイヤになるわけにいかないなと思うんです。何より、そういう友人たちを誰かにご紹介することが楽しいんですよね。

それに、「案内人」という仕事はそうは簡単にいかないものです。例えば、イベントの情報を案内して10人参加してくれたとしても、そのテーマに本当に興味を持ってくれるのは1人くらい。そういうものです。だけど、“GIVE”をやめたりはしません。“GIVE、GIVE、GIVE”で、“TAKE”はなくていい。それでも“TAKE”は必ずやってきます。

大企業の看板がなくなっても、応援してくれる人は増えた。その事実が、何よりの喜び

株式会社ギリーの社員は僕と、副社長の妻のふたり。人生のパートナーを仕事のパートナーにできるというのは、共に過ごせる時間も長く、大変幸せなことです。日本では珍しい仕事の仕方なので、まず信用していただけます。また、女性のお客さまは私に話をする前に妻に話をして、「渡辺さんに言っておいて」とおっしゃる方も少なくありません。二人を信用してくれている証拠です。

一緒に仕事をしないにしても、家族との関係性というのは独立をするうえで非常に重要だと思っています。家族の仲が良いというのは、シンプルに、端から見て気持ちがいいですから。そういう気持ちよさというのは、少なからず、ビジネスの相手としての信頼にもつながるのではと思います。

ただ、家族との関係性を大事にするというのは、日本企業で働く人にとって簡単ではありません。とりわけ、僕が会社員だったころの日本の会社は、男を幸せにしませんでした。残業は当たり前で、オフの時間は飲み会、ゴルフ。家族を顧みる余裕がなく、家族との関係性が希薄になりがちでした。現在もなお、同じ状況にある人は少なくないかもしれません。しかし、過去は変えられなくても、未来は変えられます。今から、家族を大事にするよう心がけることをおすすめしたいです。

独立にあたって、やっておいてよかったことはいくつかありますが、すぐできることを挙げるなら、経験の棚卸しです。僕は自分のビジネスキャリアをA4用紙1枚に表でまとめた資料を常に用意していますが、これは独立時に書き出してまとめたものをベースに更新を続けています。最初に棚卸ししたときには自分の経験してきたことを片っ端からノートに書き出し、当時の親の年齢など周辺環境に関しても細かく洗い出しました。そうすることで、自分の強み、弱み、その弱みを助けてくれる人脈といったものが見えてきて、大変役立ちました。

独立して20年。その間には、さまざまな時代の変化があり、荒波もあったかもしれません。今年に入っての新型コロナウイルスの広がりもそうです。世界経済にこれだけの打撃を与えているわけですから、僕自身の仕事にも大いに影響があります。イベントなどできません。しかし、時代が変われば、新しいビジネスチャンスも生まれます。不思議と不安を感じないのは、いろいろな分野の、いろいろな人がそばにいてくれているという安心感があるから。

大企業の看板がなくなっても、応援してくれる人は減るどころか、自分でも驚くほど増えました。その事実が、僕の何よりの喜びです。今後の夢は「好々爺」。好々爺になるには、周りが「助けてあげよう」と思うだけの「可愛げ」が大事なので、「可愛げ」は失わないようにと常に思っています。

そして、「生涯一案内人」として淡々と、自分が楽しみながら仕事をしていきたいですね。あとは常に妻と笑顔で暮らせれば、それ以上に望むことはありません。