PROFILE

浜田敬子さん(No.89)/ジャーナリスト

■1966年生まれ、山口県出身。1989年に株式会社朝日新聞社に入社。前橋支局、仙台支局を経て、週刊朝日編集部で6年間勤務。99年よりAERA編集部。記者として女性の生き方や働く職場の問題、また国際ニュースなどを中心に取材。2004年からはAERA副編集長。その後、編集長代理を経て、2014年にAERA初の女性編集長に就任。編集長時代は、オンラインメディアとのコラボや、外部のプロデューサーによる「特別編集長号」など新機軸に次々挑戦した。2016年5月より朝日新聞社総合プロデュース室プロデューサーとして働く女性を応援するプロジェクト「WORKO」などをプロデュースする。2017年3月末で朝日新聞社退社。2017年4月より世界17カ国に展開するオンライン経済メディア「Business Insider Japan」の日本版統括編集長に就任。2020年12月末に退任し、現在はフリーのジャーナリストとして活動している。「羽鳥慎一モーニングショー」や「サンデーモーニング」などでコメンテーターを務めるほか、ダイバーシティーや働き方改革についての講演なども行う。著書に『働く女子と罪悪感』(集英社)。

■家族:夫、長女(14歳)

■座右の銘: なし

「座右の銘は持っていませんが、つらい時に思い出すのは、スタジオジブリのプロデューサー・鈴木敏夫さんの『どうにもならんことは、どうにもならん。どうにかなることは、どうにかなる』という言葉。執着から放たれ、肩の力が抜けます」

 

定年まで朝日新聞社に勤めると思っていた

中学時代から記者志望。新卒で朝日新聞社に入社し、地方支局、「週刊朝日」を経て32歳の時に入社前から希望していた「AERA」編集部へ。定年まで勤めると思っていました。もちろん、その時々でさまざまな壁もありましたが、朝日新聞社が好きでした。何よりニュース週刊誌の編集が大好きでしたし、管理職としてチームで一緒にモノを作る喜びも味わい、仕事が楽しかったんです。

定年まで勤めるつもりだった朝日新聞社を退職し、ベンチャー企業を経て独立した今、目の前に広がる心地よい風景(浜田敬子さん/ライフシフト年齢50歳)

「AERA」時代、1号限りの特別編集長を務めてくれた小山薫堂さんが、校了日に編集部で撮ってくれた。

定年まで勤めるつもりだった朝日新聞社を退職し、ベンチャー企業を経て独立した今、目の前に広がる心地よい風景(浜田敬子さん/ライフシフト年齢50歳)

同じく「AERA」時代、1号限りの特別編集長号として、ジブリの鈴木敏夫さんに編集長を務めてもらった。そのときに鈴木さんにいただいた言葉。

「AERA」の編集長を49歳で退任し、プロデューサー職として新設の「総合プロデュース室」に移動した時も、仕事には前向きでした。「総合プロデュース室」は講読料と広告料を収益の二大柱としてきた従来の新聞社のビジネスモデルが厳しい状況になっていく中、「朝日新聞社のあらゆるリソースを活用し、新たなビジネスを生み出そう」という考えのもとに生まれた部署。「AERA」時代にデジタルメディアとのタイアップや、広告部門と連携した大型広告キャンペーンの受注などを企画し、組織間のシナジーを生み出すことにやりがいを感じていたことから、「社会や企業にとって役立ち、朝日新聞も利益を得られる仕組みを作ることで、少しでも良質なジャーナリズムの経営を安定させられるかもしれない」と、自分の経験や人脈もつぎ込んで仕事をしました。

でも、短期間で大きな予算を達成することを課されつつ、その理想を実現するのは簡単ではありませんでした。編集部時代のネットワークを頼りに営業に行くと、ありがたいことに発注してくださるケースも多く、それなりの成果は挙げられたものの、次第にもやもやした気持ちが生まれました。「御社の課題を一緒に考えたい」と口にしながら、結局は自社の広告を売るというところに落とし込まなくてはいけない。次第に自分で自分をだましているような気がしてしました。

そんな時に、尊敬をしているある人に「今、こんな仕事をしているんです」とお話ししたところ、「それ、浜田さんが本当にやりたい仕事なの?」と言われ、言葉に詰まりました。直視しないようにしていた私自身の気持ちを見透かされてしまった、と思いました。

定年まで勤めるつもりだった朝日新聞社を退職し、ベンチャー企業を経て独立した今、目の前に広がる心地よい風景(浜田敬子さん/ライフシフト年齢50歳)

朝日新聞「総合プロデュース室」で立ち上げた、子育てしながら働きやすい社会を作るプロジェクト「WORKO」のイベントで。

人生の時間軸に対する考え方を変えた、リンダ・グラットンの言葉

閉塞感を抱きながらも、すぐに会社を辞めるという選択肢は頭に浮かびませんでした。日々が忙し過ぎて疲れ切っていましたし、そもそも週刊誌時代から、あまりに日々の仕事が忙しく、「アエラ」の後のキャリアなど考えたこともなかったんです。定年退職したら映画をたくさん見よう、あの国に旅行に行きたい、と定年後に「したいこと」だけは考えていたのですが……。

転機は、モデレーターを務めた講演会で『LIFE SHIFT』の著者リンダ・グラットンさんとお話しする機会に恵まれたこと。「定年を楽しみにしているんです」と素直な思いを打ち明けたところ、「退職後のクルージングもガーデニングも数ヶ月で飽きる。ケイコさんの年代であれば、おそらく94歳くらいまでは生きるから、経済面の理由だけでなく、80歳くらいまでは働くことを考えた方がいいわ」とアドバイスをいただいたんです。

「高齢化社会」と言われ、記事でもテーマとして扱ってはいたけれど、自分の身に置き換えて考えられてはいなかったんですよね。リンダさんの言葉が心に響き、私自身がこれからの人生をどう生きたいのか、そして、働き方やどんな仕事をしていくのかを見直そうと思いました。そんな時期に、ニューヨークに拠点を置くデジタルメディア「Business Insider」の日本版立ち上げにあたり、編集長をやってみないかというお話をいただき、思い切ってお受けすることにしました。

新卒から28年間勤めた会社を辞め、50歳にして初めての転職ですから、もちろん迷いはありました。でも、リンダさんの言葉で思い出したのは、私は仕事がとても好きだということ。そして、ニュースを伝える仕事を続けたい。この先10年、20年メディアで働き続けるために私に足りないのは「デジタルメディアの経験」と、「新しい事業を“ゼロ”から立ち上げる経験」だと感じていました。ですから、「Business Insider Japan」の立ち上げの話は自分にぴったりだと思いました。

50歳で転職し、初めてのことだらけの職場へ。想像を超えた忙しさに目が回った

「Business Insider Japan」の事務所は自宅からバスで10分。通勤時間を大幅に短縮できることも転職の決め手でした。当時娘が中学受験を控えていて、少しでもそばにいてサポートしたいという気持ちから時間の余裕がほしかったからです。ところが、転職後の生活は想像を超えた忙しさでした。

現在、「Business Insider Japan」編集部には15人ほどのスタッフがいますが、私が加わった2017年4月時点では数人で、半分は若いメンバー。1日に3回更新する記事を作るために私を含めてみんなで取材をして書き、日本オリジナル記事の編集をすべて私が担当していました。午前8時に出勤して誰もいないオフィスで編集作業をして、始業時間の午前10時からは打ち合わせや取材を次々とこなし、週の半分ほどは娘のご飯を作るために一度帰宅して、後片付けをしたら、自宅で夜中まで編集という日々。それでも時間が足りませんでした。コンテンツを作る一方で、スタッフの採用や外部スタッフとの契約など組織の整備も急ぐ必要がありましたし、最初は専門部隊がいなかったので、広告営業から総務関連の業務まで担当し、やらなければいけないことが山積みだったからです。そもそも初めてのことだらけであらゆる領域の仕組みづくりから始めなければならず、すべてが一筋縄ではいきません。日ごろ話に聞いていた「起業の大変さ」を初めて実感として理解できました。

定年まで勤めるつもりだった朝日新聞社を退職し、ベンチャー企業を経て独立した今、目の前に広がる心地よい風景(浜田敬子さん/ライフシフト年齢50歳)

2017年5月、シリコンバレーの女性起業家の育成プログラムに参加した時の写真。このメンバーとはその後も時々集まって励まし合っている大事な仲間。

職場での世代間の感覚の違いが、新たな学びに

ほんの少しではありますが、息がつけるようになったのは、転職して8カ月が経ったころから。読者が増え、採用でも応募者が増えて、編集作業を少しずつ分担できるようになりました。スタッフの多くは20代から30代前半。小規模でフラットな組織だったので、若い世代の人たちの本音に触れながら一緒に働けたのがすごく面白かったです。

やっぱり、世代間で感覚の違いがあるんですよ。例えば、オンとオフの切り替え。「Business Insider Japan」編集部ではスタッフ間の予定や業務の進捗状況を共有したり、ちょっとした相談を気軽にできるよう「Slack」というチャットツールを使っていて、ある時、休日にふと思いついたアイデアをどんどん書き込んだんですね。すると、「浜田さん、やめてください。休みの日くらい仕事を忘れたいです」と叱られ、もっともだと反省しました。

文中に「炭鉱のカナリア」という言葉を使ったら、20代の編集部員から、「意味がわかりません」と指摘されたこともあります。お陰で「デジタルメディアでは誰でもわかる表現を心がけないと」と気づけましたし、彼女との会話から20代に伝わる文体も学ぶことができました。

一方で、私も社会人としての基本的なマナーなど「そこはさすがに違うでしょう」と思うことは言いますから、議論が白熱することも。休みを取る時の仲間へのちょっとした配慮など納得してもらえることもあれば、「SNSでいきなり取材依頼するのは失礼だから、まずは電話を」とアドバイスすると、「電話の方が失礼だと思います。電話は時間のレイプです!」と反撃されたりして(笑)。どちらが正しいということではなく、世代やバックグラウンドの異なる者同士がおたがいに学び合える雰囲気は、ヒエラルキーのはっきりした朝日新聞社時代にはなかったもの。貴重な経験でした。

54歳で独立し、フリーランスのジャーナリストに

2020年12月に「Business Insider Japan」の統括編集長を退任。2021年1月からはフリーランスのジャーナリストとして活動しています。もともと、いずれ卒業しなければいけない日が来るとは思っていました。20代から30代を対象としたメディアで、50歳を過ぎた自分が編集長をずっと続けるのは、スタッフの成長のためにもいいことではないと考えていたからです。

また、編集長というのは心身ともに負荷のある仕事なので、「AERA」でも歴代の編集長の在籍期間は長くて3年でした。週刊誌の3、4倍のスピードで物事が動くネットメディアでこの年齢から編集長を務めるとなると、密度濃く仕事ができるのは数年かなと思っていました。ただ、最初から「何年」と計画していたわけではなく、組織のベースを作り、ある程度ブランドを確立したら、若手にバトンを引き継ごうと決めていました。目標にしていた通り、多くのミレニアル世代の読者に読んでいただいており、ほぼゼロから立ち上げた「Business Insider Japan」が、「もう大丈夫」と思える段階まで成長したことをとてもうれしく感じています。

定年まで勤めるつもりだった朝日新聞社を退職し、ベンチャー企業を経て独立した今、目の前に広がる心地よい風景(浜田敬子さん/ライフシフト年齢50歳)

「Business Insider Japan」創刊2年目の2018年9月、「この1年で最も躍進したメディア」として「スマートメディア大賞」を受賞。授賞式に参加した時の様子。

大企業の感覚のままフリーランスにならなくてよかった

フリーランスの道を選んだのは、いったんマネジメントの仕事を手放し、インプットの時間を作りたかったからです。情報の新鮮さが重視される週刊誌やデジタルメディアの編集部では、脊髄反射的にニュースに反応する日々でしたが、この1年のコロナ禍による社会変容といった時代の大きな転換点に遭遇すると、もう少しじっくり考えて、深く降りていくような取材をしないと時代の輪郭がつかめないのではないか、と考えるようになりました。肩書きは迷いましたが、自分に喝を入れようと「ジャーナリスト」としました。ジャーナリストの仕事の真髄は、知られざる事実を世に出していくこと。この肩書きに恥じないようにしたいと思っています。

フリーランスには収入の保証がありませんから「仕事がなくなったらどうしよう」と日々不安も感じます。パートナーはいるとはいえ、子どもはまだ中学生で教育費がかかりますし、老後の蓄えも必要。朝日新聞社で働き続けていたら、そこからフリーランスに転身したいと思っても、足がすくんで決意できなかったでしょう。

踏み切れたのは、長年働いた朝日新聞社とは規模も歴史も異なる「Business Insider Japan」で働いた日々があったからこそ、です。デジタルメディアの立ち上げというそれまでの自分にない経験やノウハウを得られただけでなく、世代やバックグラウンドの違う人たちと仕事をして多様な視点や感覚に触れ、「引き出し」が増えました。

大企業の感覚のままフリーランスにならなくてよかった、とも感じています。大企業では役割が細分化されていて、それぞれの領域に専門家がいて、物事が比較的システマティックに動いていきます。一方、小規模で新しい企業で働くとなると、自分の領域以外の仕事もやらなければ立ち行かなかったり、手探りでうまくいかなかったりします。

「Business Insider Japan」で仕事を始めて間もないころは朝日新聞社と比べ、契約書の内容一つとっても「違う」と言って会社と衝突した時期がありました。でも、ある時、大企業の論理を振りかざしても仕方がないと気づき、「こうしたほうがいい」と思うことは自分も動いて改善していくことで周囲との関係も良くなりましたし、それまで使っていなかった筋肉を使って鍛えられました。

大企業からいきなり独立するのはハードルが高いもの。私の場合は最初からフリーランスになろうと思って転職したわけではありませんが、一度小規模な企業で働くことによって、独立がしやすかったように思います。

期せずして生まれた「複業」も、独立のハードルを低くしてくれた

「複業」をしていたことも、独立のハードルを低くしてくれたと感じています。「AERA」の編集長時代からテレビ出演や講演の依頼を受けるようになり、業務に支障がない限り断らないようにしていました。会社や媒体の販促の機会になるとともに、ネットワークを広げることによって編集部のスタッフにさまざまな人を紹介でき、取材がしやすくなるというメリットもあったからです。また、外部の方とお会いするとさまざまな情報に触れることができ、個人的にも貴重なインプットの機会として大切にしていました。そのうちに依頼が増え、独立を現実的に考えはじめたころには、テレビのコメンテーターやモデレーターなど複数の仕事からの収入が見込めるようになっていました。

フリーランスになるからには、一つひとつのテーマをじっくりと取材して深く掘り下げて記事を書いていきたいという思いがありましたが、1本の記事を書いて得られる原稿料はわずかです。ある程度の収入を得るには量産をしなければならず、それでは自分の目指すクオリティの記事を書くのは難しくなります。でも、複業があれば、その収入を取材への投資に回すこともできる。これはとても心強い要素でした。

組織を独立して初めて知った、自分で人生の時間割を作れる心地よさ

今、形にしたいと考えている取材テーマは「変革を起こす人たち」。「Business Insider Japan」の取材では20代、30代の起業家とお話しする機会が多く、40代以上の起業家と比較して、ガッツリ稼いで「勝つ」というよりは、社会を自分たちの手で変えたい、自分だけでなく周りを幸せにしたいという思いが強いと感じました。年長世代として少しでもそういう人たちを応援したいという思いがあり、自分にできることは彼ら、彼女らの姿を記事にし、世に出すことだと思っています。一方、私と同世代にも既成概念にとらわれず、挑戦を続けている人たちがいますし、世代とは別の切り口で、地方にも変革を起こす人たちがたくさんいる。そうした人たちのことをメディアを通して世の中に伝えていきたいです。

私は先々の計画を綿密に立てて動くのが苦手な性格。キャリアに関しても、階段を一段ずつ上っていたら、ある時風景がぱっと開けて、なりたいともなれるとも思っていなかった編集長の仕事を任されたり、デジタルメディアに転職することになったり……。目の前のことに集中して頑張り、結果を出すことで偶然の出会いに恵まれて、また頑張るということの繰り返しでした。そして、今、目の前に広がる光景は何もありません。無です。長期契約の仕事があるわけではないし、この先どうなるかわからない。でも、何とかなるかなと(笑)。

今はまだ独立して間もなく、生活の大きな変化は感じていませんが、仕事とはまったく関係のない、気の向くままに選んだ本を読む時間ができたことにささやかな幸せを感じています。30年あまり組織に所属して働き、常に締め切りに追われてきましたが、これからは自分で人生の時間割を作れる。それがこんなに心地いいことなんだ、と初めて実感しました。やってみなければ、わからないものですね。これからまだまだ続く人生。健康管理だけは気をつけて、やりたいことをがまんせず、自分を縛るようなことをせずに生きていきたいです。

(取材・文/泉彩子)