外資系企業の経理部門で働くかたわら40代でシルバージュエリーの輸入・販売を細々と始め、52歳で会社員生活を卒業、「副業」を「本業」にした児玉奈緒子さん。シルバージュエリーとの出会いは29歳で単身渡り、4年間暮らしたシンガポール時代にさかのぼります。

PROFILE

児玉奈緒子さん(NO.108/Atelier Panero 代表)

■1968年、神奈川県生まれ。1991年、大学の経済学部卒業後、大手建設会社に入社し、 財務・経理の部署に配属される。 1997年、シンガポールに移住し、日系建設会社に勤務。2001年に帰国後、LVMHグループの高級時計、宝飾分野の複数ブランドを国内で展開する「LVMHウォッチ・ジュエリージャパン」に18年間勤務。2019年6月、退職し、「Atelier Panero(アトリエ・パネロ)」を開業。シルバージュエリーの輸入・販売を手がける。

■家族:夫、ペット(犬の蘭子♀&ノア♀)

■座右の銘:「生きていれば何とかなる」
単身シンガポールに渡り、多様な文化に触れて暮らした経験から、よく口にする言葉。「失敗しても、ゼロに戻るだけ。やれるだけやってダメだったら、またやり直せばいい、といつも思っています」

Atelier Panero

単調な毎日を変えたくて、30代を前に単身シンガポールへ

大学の経営学部を卒業後、大手ゼネコンに一般職として入社。建築業界で長く活躍する女性はまだ少なく、身近なロールモデルがあまりいない時代でした。財務・経理の部署に配属され、制服を着て伝票の処理をする毎日。生涯の友となるような友人もでき、楽しく過ごしてはいましたが、30代を前に「このままでいいのかな」と考えるようになりました。

ちょうどそんな時、会社がシンガポールでのプロジェクト立ち上げを準備していて、経理担当の現地スタッフを募集する予定だと聞き、手を挙げました。応募するには退職しなければならず、先の保証はありませんでしたが、このまま仕事を続けてもキャリアに進展はなさそうでしたし、結婚の予定があるわけでもない。「ここで何かを変えないと、この先も同じような毎日を過ごすことになる」と思ったんです。

結局、そのプロジェクトは頓挫し、もともと勤務していた会社で働く話はなくなってしまったのですが、ひと足先に現地で暮らしていた友人が協力してくれて、別の日系ゼネコンに無事転職。小さなオフィスだったので、財務・経理から人事、総務まで事務系の仕事を一人で任され、充実していました。

シンガポールで働いていた日系ゼネコンの同僚と。ほとんどが日本人で、英語は上達しないままでした(笑)。

プライベートも楽しかったです。シンガポールで暮らす前の私は、学校でも会社でも同じような環境で育った人たちと過ごし、小さな世界で生きていました。家族や親戚もどちらかと言えば保守的で、「日本企業で定年まで働くのが当たり前」という考えでしたから、そこから飛び出すには勇気も必要でした。

でも、シンガポールには世界中からいろいろな人が集まっていて、年齢も国籍も違う新しい友人がたくさんできました。世の中にはこんなにユニークな人たちがいるんだと知り、「もう、何をしてもいいんだ」と思いました。何を着てもいいし、どこに行ってもいい。心のままに生きていいんだ、って。

90年代後半のシンガポールの街で、シルバージュエリーに出会った

当時のシンガポールは新興国特有の、ジャンプをする瞬間のようなエネルギーにあふれ、街を歩いていると、私まで元気になっていく気がしました。個人のオーナーがやっている個性的でおしゃれな洋服屋さんや雑貨屋さんが次々とオープンしていた時期で、ファッションが大好きな私にはたまらなかったですね。貯金もせず、お買い物に勤しみました(笑)。

よく行くお店がいくつかあって、特に気に入っていたのが、オフィスの近くにあったセレクトショップ。「パネロ」という名前で、スリランカ人の女性が営んでいました。洋服もアクセサリーもバッグも、彼女の選ぶものはどれもこれも素敵でしたが、中でも私が惹かれたのは、色とりどりの天然石を施したシルバージュエリー。最初に買ったのはティアドロップ型の台座にアクアマリンをはめ込んだリングで、20年以上愛用しています。

「パネロ」には毎週のように通ってシルバージュエリーを買い集め、日本から家族が遊びに来ると、連れて行ったりもしました。すると、お店のオーナーがものすごく歓待してくれて。そのうちにお家に招いていただくほど仲良くなりました。

セレクトショップ「パネロ」で初めて買ったシルバージュエリー。後に自分で立ち上げた「アトリエ・パネロ」で同じデザインのリングを「Coco」と名づけて復刻しました。

33歳で帰国。経理の経験を活かし、外資系企業で働きはじめた

シンガポールで暮らしたのは4年半。結構、出世もしました(笑)。家賃3万円、バス・トイレ共同のシェアルームから始まり、最後はプールやテニスコート、メイドサービスつきのコンドミニアムへ。何もかも順調でしたが、アジア各国の技術力が高まる中、シンガポールでの日本企業の先行きを考えると、いつまでもこの状況が続くとは思えませんでした。

とはいえ、シンガポールでの生活があまりに楽し過ぎて、踏ん切りがつかなかったんです。そんな時、たまたま外資系の高級時計やジュエリーを扱う会社で経理スタッフを募集することを知り、試しに応募したところ、採用に。両親がものすごく喜んだこともあって、「神様が帰れと言っているのかな」と考え、33歳の時、後ろ髪を引かれる思いで帰国しました。

帰国後は非常に苦労しました。転職先では、当時の私には身の丈に合わないポジションを与えてもらったので、知識も経験も足りず、残業ばかり。終電で帰宅するような日々が1年ほど続き、シンガポールが恋しくて、恋しくて。休暇の度にシンガポールに飛んでセレクトショップ「パネロ」を訪ね、オーナー家族とおしゃべりしてリフレッシュをしていました。

日本での生活に慣れたころ、友人の紹介で出会った男性と36歳で結婚。父と母のほっとした顔が忘れられません。実は私、29歳で最初の会社を辞めてシンガポールに渡った時に、両親には黙ってスーツケースひとつで出かけたんです。ばれた時には怒られる覚悟でしたが、ふたりとも何も言いませんでした。すごく心配をかけたと思います。だから、結婚を報告した時の両親の表情を見て、「よかった」と思いました。

私自身にとっても、結婚は大きな節目でした。長い間、「ひとりで生きていかなければ」とどこか肩に力を入れていたところがありましたから、助け合って生きていけるパートナーと出会えたことで、身体がふっと軽くなったような感覚を覚えました。ありがたいことだな、と感じています。

突然託されたスーツケース2つ分のシルバージュエリー

シンガポールの「パネロ」の皆さんとは40代になっても交流が続いていて、ある日、彼らから「2011年1月に東京で開催される国際宝飾展(宝石の見本市)に出展しようと思うから、手伝ってくれない?」と連絡がありました。有給休暇を取ってお手伝いに行ったところ、彼らの仕入れ先のインド人男性を紹介されました。私の大好きな、あのシルバージュエリーを作っている人物でした。

意気投合し、その夜はみんなでお好み焼きを食べたりして楽しかったのですが、肝心な見本市はほとんど収穫がなくて。最終日の別れ際、彼から、スーツケース2個分のシルバージュエリーを「置いて帰るから、よろしく」と託されたんです。

驚きましたが、彼らが大赤字だったことは知っていたので、少しでも売り上げに貢献できたらと、毎週のように自宅に友人たちを呼んでアクセサリーパーティーを開き、興味を持ってくれた人に販売するということをやりました。すると、みんなが「楽しい」と言ってくれて、すごくうれしかった。自分が選んだものをみんなが喜んでくれるというのは、何という喜びだろうと思いました。

自宅で開いていたジュエリーパーティーの様子。友人たちがお友達も連れて来てくれて、いつもにぎやかでした。

利益ゼロの販売ではありましたが、売り上げも数十万になったんですよ。そこで、2011年秋には、売り上げと帳簿をお返ししに、インドの首都デリーから南西に260キロ、ラジャスタン州ジャイプルのアトリエを訪ねました。初めてのインド旅行です。

アトリエで見せてもらったサンプルの棚には、彩り豊かな、さまざまなデザインのシルバージュエリーがぎっしりと並んでいて、目を奪われました。「少し持って帰りたい」と言ったら、さすがに今度は貸してはもらえず、「買うなら、いいよ」と。一瞬ひるみましたが、この時にはもう、バイヤー魂に火がついていたのかもしれません。次の瞬間には無我夢中でサンプルを選び、数十万円分のシルバージュエリーを持ち帰りました。

以来、毎年旅行がてらジャイプルに仕入れに出かけては、ちょこちょこと販売し、2013年からは友人が運営しているオンラインショップへの出品も始めました。ブランド名を考えたり、オリジナルのボックスを作ったり、楽しかったですね。ずっと続けていきたいとは思っていました。ただ、私にとってシルバージュエリーの販売は趣味のようなもので、会社を辞めてまでやろうとは考えていませんでした。

2011年秋に初めてインド・ジャイプルを訪れた時の1枚。アトリエのオーナーと出会うまで、ジャイプルの町のことは名前も知りませんでした。

50歳を機に、定年後の人生が気になりはじめた

「この先、どうしようかな」と思うようになったのは、50歳を迎えた時です。定年の60歳まで10年を切り、急にその先の人生について気になりました。シンガポールから帰国後に転職をした会社でのキャリアも15年以上になって、穏やかに楽しく過ごしてはいたんですよ。新卒以来、会社員としてさまざまな仕事に携わり、やりがいも感じていました。

ただ、職場には優秀な後輩がたくさんいて、かたや私は新しいことを覚えるのに以前より時間がかかるようになっていました。相手の話を「もう1回言ってもらえる?」と聞き返すようなこともあったりして、自分が「お荷物」になっているんじゃないか、と感じる場面がちらほらと出てきたんです。

今ですらこうなら、この先はもっとつらくなるかもしれない。この状況を何とかしたいけれど、50代のこれから履歴書を書いて面接し、新しい職場で働くのは自分にはしんどいなと感じました。副業でやってきたシルバージュエリーの販売を本業にできないだろうか、と初めて考えたのはこの時です。

気づけば、ジャイプルのアトリエのオーナーからスーツケース2個分のシルバージュエリーを預かった日から7年。細々とはいえ、やり続けてきたことがあるし、何よりもせっかく好きなことがあるのだから、どうにかしてこれで収入を作れないかなと思ったんです。

とはいえ、算段が立っていたわけではありません。お客さんは友人づてに少し増えていたし、オンラインショップの売り上げもこのころには、多い月で10万円ほど口座に振り込まれていましたが、一度インドへ仕入れに行けば、赤字です。友人に起業の先輩が何人かいて、みんなにいろいろと相談に乗ってもらって「こうすれば、何とかやっていけるかな」というイメージは描けたものの、なかなか踏ん切りがつきませんでした。当時は、友人たちに会う度に「やめるやめる詐欺」と笑われました。

2年悩んだ末に「えいやっ!」と辞表を提出。「副業」を「本業」に

「やめるやめる詐欺」の汚名を返上したのは、52歳の時。2019年6月です。あれだけ悩んだのに、最後は「えいやっ!」と発作的に上司に辞表を出しました。心の中に溜まっていた「このままでいいの?」という思いが爆発したような感じでした。

退職後は、個人事業主として「Atelier Panero(アトリエ・パネロ)」を立ち上げ、以前から出品をしていたオンラインショップのほか、ポップアップショップ(催事場や貸店舗などで、期間限定で出店する店舗)での販売や、卸売も始めました。開業資金は100万円で、半分以上は仕入れ代ですが、以前から買い集めた在庫もありました。あとはディスプレイ用品やポップアップショップの場所代、広告費などです。

開業から数年はビギナーズラック。コロナ禍の「巣ごもり需要」もあって、開業2年目には、目標だった、“会社員時代の年収を超える売り上げ”を達成できました。これは友人たちのおかげです。ポップアップショップにお友だちを連れて来てくれたり、SNSで紹介をしてくれたり、みんなが宣伝をしてくれました。ただ、巣ごもり需要が落ち着いて、正念場はこれから。オンラインでの販売にも力を入れようと、2023年7月にはオリジナルのオンラインショップをスタートする予定です。

2023年2月、「蔦屋家電二子玉川」でのポップアップの様子。インドの先住民が描く「ゴンドアート」とコラボレーションして開催しました。

円安で仕入れ率が高くなり、資金繰りには課題が山積み。決まった日にお給料をいただけていた会社員時代はありがたかったな、と思います。また、起業後は自由に時間が使える分、スケジュール管理や、オン・オフの切り替えの難しさも感じています。それでも、52歳のあの時、会社員を卒業したことを後悔した日はありません。

シンガポール滞在をきっかけに「心のままに生きていい」と思っていたはずなのに、50歳を迎えたころの私はいつの間にか失敗をしないことだけを考えて仕事をし、カレンダーに丸をつけて休日だけを楽しみにする日々を送っていました。だけど、組織のしがらみがない今は、「失敗しても、命までは取られない」が私の口癖。「見込みが甘い」と起業の先輩にお説教され、反省もしつつも好きな仕事をし、四六時中自然体の自分でいられることが心地いいです。

起業して良かったのは、「定年」がなくなったこと

もうひとつ、起業して良かったのは、「定年」がなくなったこと。元気でいることが前提ですが、個人事業主なら、70歳になっても、80歳になっても仕事を続けられます。戦中戦後の時代に苦労した祖母から「お上に頼っちゃいけないよ」と言い聞かされて育った影響か、私には生涯何らかの形で自立していたいという思いが若いころからありました。この先、たくさんの収入は得られなくなったとしても、月に5万なり10万なりを自分自身の手で稼ぐことはできる。そう思えることの心強さを、自分で事業をやってみて初めて知りました。

52歳で会社員を卒業したことも、私には程よいタイミングでした。会社員として地道に働き続けてきたからこそ今がある、と感じています。経理の経験も役立っていますが、それだけではありません。個人事業主には後ろ盾がありませんから、お客さまや仕入れ先との信頼関係がすべて。約束を守る、トラブルが起きたら誠実に対応する、といった会社員として毎日当たり前にやってきたことの大切さを、起業後、改めて感じています。

ジャイプルのアトリエで石の選別をしている様子。コロナ禍の影響で選別を仕入れ先にお任せした時期もありましたが、きちんとしたものを送ってくれ、ありがたく感じました。

100歳になっても、みんなとおしゃれを楽しみたい

同世代の女性から、「これから何かをやってみたいけれど、長く会社で働いてきたこと以外に、自分には何もない」という言葉を聞くこともありますが、コツコツ働いてきた日々は、決して無駄ではありません。50代からはボーナスチャンス。地道に蓄えてきた「資産」を使って、思いっきり自由に、やりたいことをやってもいいんじゃないかなって思います。

ただ、やりたいことはすぐに見つからなかったりしますし、仕事としてやっていくにはある程度の時間もかかります。それに、年齢とともに身体はだんだん無理が利かなくなります。だから私自身は、40代で副業を始め、50代で副業を本業にシフトできたことを、幸運だったと感謝しています。

不思議なことに、この仕事を始めて以来、好きなことを仕事にしている60代、70代の女性と知り合う機会が増えたんですよ。皆さん、おしゃれも自然体で楽しんでいて、文字通り輝いています。彼女たちの姿を見ていると、歳を重ねていくって素敵なことだなと思います。

「人生100年時代」と言われる時代ですが、日本ではまだ「若さ」が価値基準になることが多いように思います。でも、20代の魅力もあれば、70代、80代にしかない魅力もある。ずっと頑張ってきた人たちが、今の自分を愛おしく思えるような文化が根づいていくといいな、と思います。いくつになっても凛として、おしゃれ心を持っている人が増えたら、高齢化社会も楽しくなる気がするんです。

ジャイプルのアトリエのオーナーから託されたトランクいっぱいのシルバージュエリーを囲んで、友人たちと楽しい時間を過ごしたあの時のように、100歳になっても、みんなとおしゃれを楽しみたい。そう願いながら、「アトリエ・パネロ」の活動を続けています。

シンガポールの「パネロ」は2015年に閉店しましたが、オーナー家族とは今も交流が続いています。起業の際、屋号はセレクトショップ「パネロ」への思いを込めて名づけました。

(取材・文/泉 彩子)

*ライフシフト・ジャパンは、数多くのライフシフターのインタビューを通じて紡ぎだした「ライフシフトの法則」をフレームワークとして、一人ひとりが「100年ライフ」をポジティブに捉え、自分らしさを生かし、ワクワク楽しく生きていくためのワークショップ「LIFE SHIFT JOURNEY」(ライフシフト・ジャーニー)を提供しています。詳細はこちらをご覧ください。