60歳で教職に就き、東京都内の公立小学校で時間講師を務める小川みどりさん。50代までのキャリアを全力で走り、「還暦を迎えた時、やりたいことが何も残っていなかった」と振り返る小川さんが「小学校の先生」を始めた理由は何だったのでしょうか。背景となる物語とともにうかがいました。

PROFILE

小川みどりさん(NO.109/小学校教員、株式会社アスリューション代表取締役)

■1962年生まれ、神奈川県出身。1985年横浜国立大学教育学部卒業後、株式会社リクルート入社。社員教育研修、人事採用、大学生の就職相談などを担当した後、雑誌『ダ・ヴィンチ』の編集部に在籍した。1997年退職後、 フリーのライター・編集者として活動。2008年より公益財団法人日本オリンピック委員会キャリアアカデミーの スタッフとして、トップアスリートの就職相談や教育研修などのキャリア支援に従事した。2016年に独立し、株式会社アスリューションを設立。企業と選手をつなぐ アドバイザーとして採用やキャリア相談などを行う。2022年10月より時間講師として東京都内の小学校で国語や図工の学習指導にあたっている。時間があれば国内外にスポーツ観戦に出かけ、オリンピックは1992年バルセロナ大会から10大会を現地観戦した。

■座右の銘:「“やれば良かった”より、“やらなきゃ良かった”が、少し多い人生」

高校時代の作文に書いた言葉。感受性が豊かで、繊細な一面もある性格だが、「人生一度なら、傷つくことを怖れず、やりたいことはやろう」と考えてこれまでの人生を歩んできた。

学級委員を務めつつも、孤独を抱えた少女時代。小学校の先生に支えられた

子どものころからスポーツを見ることが大好きで した。当時の私は体が弱く、勉強はそこそこできたけれど、運動が苦手でしたから、同じ生身の人間が見せるものすごいパフォーマンスに圧倒され、その姿に惹かれました。

小学校のとき、自国で開催された札幌オリンピックを毎日テレビで食い入るように見つめて、スキージャンプの日本選手の表彰台独占に大興奮。ここから私のオリンピック愛が始まりました。「スポ根アニメ」も大好きで、魔球、特訓、根性、友情、努力という言葉に胸を熱くしていました。

でも、小学校低学年までの私は内気で、教室の隅で本を読んでいるタイプ。小学校3年生の時、そんな私に担任の先生が「小川さん、もう少し笑った方がいいわよ。笑顔がきっといろいろなことを変えてくれるから」と声をかけてくれました。その日から、学校では一所懸命笑顔を作り、自宅に帰ると顔が疲れるほどでした。

それをきっかけに少しずつ積極的になり、授業中に手も挙げて発言し、毎年、学級委員を務めるようにもなりました。担任の先生が常に授業を工夫してくださって学ぶことが興味深く、新聞を作ったり、自主的に社会見学を企画して行ったり、創作劇を演じたりもしました。ハキハキとした優等生になった私でしたが、当時は家庭に少し問題もあり、どこかに孤独を感じ、夜、星を眺めては、愛読書の「赤毛のアン」のように、空想の世界に逃げ込むようなところもありました。先生方はそんな多感な部分も理解して、さまざまな場面で支えてくださいました。

小学校の先生になるのは“先送り”にして、民間企業へ

中学では体力もついてきて、卓球部に所属。高校では弓道部のキャプテンを務め、部活に明け暮れる「青春」の日々を過ごしました。高校卒業後は、横浜国立大学教育学部に進学。将来は「小学校の先生になる」と心に決めていました。小川家は教育畑でしたし、私自身、先生との出会いに恵まれ、学校という場が好きでしたから、民間企業への就職はまったく考えていませんでした。その私が教員以外の道を選んだのは、リクルート志望の同級生の付き添いで、同社に勤務するバレー部の先輩に会ったのがきっかけでした。

先輩からリクルートは男女平等だし、若いうちから仕事を任せてもらえると聞いて「面白そうな会社だな」と思いました。それでも教員志望であることに変わりはなかったのですが、先輩から「社会を見てから教育現場に入った方が、経験をもとにいろいろなことを子どもに教えられる先生になれるんじゃない?」と言われ、心が揺れました。

教育実習では、明るくておもしろく、若くてフレンドリーな私のキャラが子ども達に受け入れられたのでしょう。マンガやイラストをたくさん書いたり、休み時間もいっしょに遊んだこともあって、モテモテでした。その後、何年か手紙をやりとりした子もいました。自分も学びながら子どもにものを教えるのはすごく楽しいとも感じました。でも、先輩の言葉が心に残っていて、「教員になった後に民間企業に転職するのは難しいけれど、民間企業を経験してから教員になる道は開かれている」と考えて小学校の先生になるのは順番を先送りにして、リクルートに入社しました。

横浜国立大学教育学部時代にお世話になった先生と三人の同級生たちと。この友人が私のキャリアのきっかけになりました。

キャリア関連の業務を担当後、文芸誌編集部を経てフリーに

リクルートに入社後は企業向け教育研修関連の業務を担当する部署を経て、人事部の採用担当になりました。このころ出会ったのが、リクルートの陸上部に内定していた有森裕子さん。無名の選手だったにもかかわらず、故・小出監督に粘り強くお願いし続けて入部を許された大学生でした。新入社員研修の自己紹介で「私はただ者では終わりたくない。4年後のオリンピックで、金の花を咲かせてみせます。2年活動して芽が出なかったら、荷物をまとめて潔く郷里に帰ります」とあいさつをし、度肝を抜かれました。

「私がファン第一号になる」とできる限り応援に行くことを約束し、国内はもちろん、海外の試合もひたすら追いかけました。バルセロナオリンピック(1992年)での銀メダル獲得の瞬間は生涯忘れることがないでしょう。 子どものころから憧れたオリンピックを、現地の沿道で見て、身内意識で応援することができたことに、まず深く感動しました。そして入社時の有森さんの姿を思い起こし、「人間はたった4年でこんなにも変われるのか」と激しく心を揺さぶられました。

この時、私は30歳。 人事採用担当から異動し、 壁にぶつかっていました。私は目の前の誰かと関わりながら、一緒に課題を解決して行くような“現場の仕事”が 好きなタイプ。 論理的、抽象的な戦略が求められる立場になると思うように力を発揮できなかったんです。

いたたまれず退職も考えましたが、次の道が見つからず、心が決まりませんでした。そんな時に、脚本家の内館牧子さんの講演会で「木の枝から葉っぱを無理にはがすと抵抗を感じるけれど、自然にハラリと落ちる瞬間がある。会社を辞めるのも同じで、時機を待つのも大事」というお話を聞いて「そうかもしれないな」と思いました。

退職は踏みとどまったものの、 悶々としていた32歳の時、 本の情報誌『ダ・ヴィンチ』(現在の発行は角川書店)が創刊されました。「メディア部門で専門性を磨いていけたら」と考えて転籍の希望を出し、聞き入れられましたが、読書好きとはいえ編集は全くの未経験で、他の編集者より多少知識があったのはミステリー、ホラーなどのエンターテインメント分野のみ。いくら企画を出してもなかなか通らず、企画が通って担当しても編集長から記事を丸ごとボツにされたり、とにかく自分の力の足りなさを思い知らされる日々でした。

それでも、作家やマンガ家、芸能人への取材は刺激的で、周囲の優秀な編集者からは学ぶことも多く、得意なジャンルの特集記事では少しずつ手ごたえも感じ始めていました。ところが35歳目前に他部署への異動を命じられ、その瞬間、心の中で葉っぱがハラリと落ちた気がしました。会社を辞めて、フリーランスの編集者・ライターとしてやっていこうと決め、辞表を出しました。編集部でフリーランスの人たちと一緒に仕事をし、道筋が何となくイメージできていたことも大きかったと思います。

リクルートの新入社員時代。社内の提案制度の発表大会にて、同じ部署の上司、メンバーと。

すべてをスポーツ観戦に捧げたライター時代

リクルートを退職した時、友人が「せっかく会社を辞めたのだから、やりたいことを中心にやったほうがいいよ。生活のために焦って“高い仕事”に飛びついてはダメ」と言ってくれました。お言葉に従い、フリーランスになってからは大好きなスポーツをメインに仕事をすることに。私から見てこれからブレイクしそうな若い選手を選んで取材をお願いし、媒体に売り込んで書かせてもらいました。「一競技一選手を、深く追う」を鉄則に、オリンピックや世界選手権から、地方の大会まで自主取材に行きました。

選手や監督と交流が深まるほど感じたのですが、トップで活躍されている方々は、ストイックでクレイジーなほど競技に命をかけている人が多い。「この人たちのことを理解し、描くには、自分もクレイジーなほどとことん追いかけ、選手にとっての自己表現作品でもある試合を観て、じっくり話しを聞かなければ」と思い、自由になるお金と時間をすべてスポーツ観戦につぎこみました。

2004年アテネオリンピックにて、女子レスリング72キロ級で、目を負傷しながらも銅メダルを獲得した直後の浜口京子さんと。

フリーランスの編集者・ライターとして活動していた期間は約12年。スポーツ系の記事の執筆や編集で生計を立てていくのは結構ハードでした。40代前半に父が他界するなど環境の変化もあり、将来のことを見直しはじめていたころのこと。「日本オリンピック委員会(JOC)がスポーツ選手のキャリア支援のための小冊子を作るから、手伝ってくれないか」とリクルートの先輩から依頼をいただきました。

小冊子を5冊編集したことが縁で、トップアスリートのキャリアサポートを行う「JOCキャリアアカデミー事業」が創設される際に、アシスタントディレクター、キャリアアドバイザーを探しているとお声がけをいただき、私もスタッフの一員として働くことになりました。

フリー時代に手がけた書籍。「地雷と聖火」の序文は、小学校の道徳、中学校の国語の教科書に掲載。ソフトボールの密着ルポは4年かけて執筆。編集者としては映画監督の岩井俊二さんの初エッセイを担当。

オリンピックに憧れて30年。46歳でJOCのスタッフに

2008年1月、勤務先となるJOCナショナルトレーニングセンターに初めて出勤した日は、入り口でその建物をしみじみと見上げながら「小学生時代からオリンピックに憧れて36年。まさかオリンピック選手を応援することが仕事になる日がくるなんて」と、幸せな気持ちで胸がいっぱいになりました。

「JOCキャリアアカデミー」では、トップアスリートの高校、大学卒業後や引退後の就職相談、無料職業あっせん「アスナビ」の立ち上げ、社会人スキルなどを学ぶ研修の企画・運営、キャリアガイドブックの制作など選手のキャリアにまつわるさまざまな支援に携わりました。これまでの経験のすべてが生かせる仕事で、選手の役に立てることが嬉しく、「天職」ではないかと感じました。研修や相談をきっかけに、試合もできるだけ自主的に観戦に行き、選手に相談してもらいやすい関係性を作ることを心がけました。

JOC在職中の7年間でキャリア相談を担当した選手の数は、のべ883名。競技場以外でも選手の応援ができることが、私にとって大きな喜びでした。ライター時代も多くの選手と接していましたが、「取材して、記事にする」となるとある程度の距離があります。でも、JOCでは選手を応援することそのものが仕事ですから、守秘義務を信じて、本音で話をしてくれました。

JOCキャリアアカデミー時代、アスリートの社会的スキルを養う研修で講師を務めている様子。

一方で、JOCは公益財団法人なので、公平性確保の見地から、一スタッフとしてひとりの選手のキャリアや採用先となる企業との関係性構築のためにできることには限りがあります。その枠を超えてスポーツ選手と社会をもっとつなげていきたいという思いが強くなり、56歳になったばかりの2016年3月31日、JOCを退職しました。

東京オリンピック・パラリンピックまであと4年という時期。周囲には「今辞めるのはもったいない。JOCにいて東京大会を経験すれば」という声もありましたが、東京大会が終わってからでは、遅いと感じていました。スポーツ選手に対する注目度が高まっている今だからこそ、東京大会後も選手がキャリアをつなげて行けるよう、早めに布石を打っておきたかったのです。

JOC退職する時、先のことは何も決まっておらず、あったのは「企業とアスリート、アスリートといろんな人たちとを、繋げることを仕事にしたい」という思いだけ。でも、迷いはありませんでした。「葉っぱがハラリと落ちる瞬間」が、今、また訪れたと感じていました。

還暦を迎え、世の中から「いらない」と言われている気がした

JOC退職後、2016年8月にはリオデジャネイロへ9回目のオリンピック観戦に出かけました。その年は個人事業主としてスポーツ関連の講演会の企画や記事の執筆などをしながら準備をし、2017年1月に社長兼社員ひとりの株式会社を設立。リクルート時代の仲間の協力もあってさまざまな企業に営業に行き、複数の大手企業とアドバイザー契約を結びました。実業団の設立をサポートしたり、会社の事業をアスリートとの協働で盛り上げられるような企画をクライアントと一緒に考えたりと「やりたいこと」がすべてやれていて、順風満帆でした。

2018年、平昌オリンピックのアイスホッケー会場にて。いつも一人で出かけ、観客席でいろんな国の人たちといっしょに応援するのも国際大会の醍醐味。

ところが、2020年に入ってコロナ禍でスポーツ界に逆風が吹き荒れ、仕事が次々にキャンセルに。東京オリンピック・パラリンピックも延期になり、先行きに不安を感じている選手たちを応援できたらと、就職活動のお手伝いをしたり、今後のキャリアについて相談を受けたりしてかなり忙しく過ごしてはいましたが、そのほとんどはボランティアでした。

プライベートではコロナ禍で、グループホームに入所していた母の認知症が進み、余命宣告を受けて2か月後の2021年7月。東京オリンピックの開会式の日が母のお葬式になりました。ホームの方々のご尽力もあって面会も叶い、最期まで看取ることができました。その年の10月には猫と暮らしはじめ、2022年3月に還暦を迎えてひと息ついた時、「これからやりたい仕事」が、何一つ思い浮かばないことに気づきました。

海外に60回以上行ってオリンピックも10大会見て、たくさんのトップアスリートや作家、芸能人と会ってお話をし、JOCでもリクルートでも自分の興味あること、できることはすべてやり切った感がありました。助けを必要とされることはあっても、仕事にはならない。何だか、世の中から「もういらない」と言われているような気がしました。

愛猫のアンを抱いて、還暦祝いに友人が贈ってくれたお花とともに。

あきらめていた夢への道があると知り、やる気が湧いてきた

体は元気で、「何かをやりたい」という思いもあるのに、これからどう老いていけばいいのだろう。猫とのんびり暮らしながらも、気持ちを持て余していた2022年8月、大学時代の同級生のお墓参りの帰りに、友人から「私が働いている小学校で、教員が足りていなくて。時間があるなら、手伝ってくれないかな」と誘われました。

教員免許(小学校全科、中高の美術専科)は38年前に取得していましたが、教員免許は2009年から更新制になっていて、更新のための講習会を受講していない私の資格はとっくに失効しているはずでした。友人にそう話すと、「今は教員不足が深刻だからか、先月から更新制が廃止されて、免許は自動的に復活されているはずだよ」と教えてくれました。

教育委員会に問い合わせてみたところ、時間講師や産休代替教員は頻繁に募集しており、「免許さえあれば、未経験でも、おいくつでも、ぜひ」とのこと。「そうは言っても、一度も教員勤めをしたことがない私に務まるのか」と不安が頭をよぎりましたが、 「小学校の先生こそ、私が人生でやり残した最後の仕事なのでは」とも思いました。とっくにあきらめていた「小学校の先生」への道があると知った時、尽きていた「やりたい」という思いが心に湧いてくるのを感じました。

私が社会で経験してきたこと、たくさんのトップアスリートやコーチを間近で見て感じてきたことを子どもたちに伝えたい。私自身が昔、社会を生き抜く力を小学校の先生方に創っていただいた恩返しをしたい。私にとっての「未来」である子どもたちに、何かを残したい。そんな思いを抱いて時間講師に応募し、自宅から至近距離にある友人が勤務する小学校で、週16時間、図工と国語(書写・小単元)を教えることになりました。

「新米教師・60歳」を待ち受けていた「できないこと」だらけの日々

2022年10月12日、60歳で初めて「先生」として教壇に立ち、張り切って授業に臨んだ「新米教師」を待ち受けていたのは、「できないこと」「わからないこと」だらけの日々でした。オリンピック選手の講演会などでそれまでも小学生を前に話したことはありましたが、日常の授業となると、子どもたちの様子はまったく違います。私の経験や技術が足りなくて 話を聞いてくれず、「静かにして」の連発。大声で圧しようとすると、ますます騒がしくなってしまい、38年前の教育実習のようにはいきませんでした。

高学年を担当した図工では40年ぶりに彫刻刀を握り、2年生、4年生、6年生を担当した国語では教えるテーマが幅広く、教材研究や予習で睡眠不足に。担任とは子ども達との関係性の深さも違うので、時には授業をサポートいただいたり、どのように接したらよいかなど、ご指導いただくことも多くありました。8クラスを担当していたのですが、子ども達の名前と顔がなかなか一致しないことも申し訳なく、 何がわからないかがわからないような状況からスタートして、落ち込んだり、喜んだりの繰り返し。試行錯誤を重ねるうち、自分に何が足りないのかが見えてきました。

還暦から描いた3つの学校で実現したかったこと。もう2つ実現できた

周りの先生や友人に助けていただきつつ、何とか最初の学校での半年間の契約を満了。「この半年にできなかったことを少しでもできるようにして、子どもたちに伝えたいことを、伝えられるようになりたい」と思い、2023年4月からは新たな小学校で、週22時間、図工と国語を教えています。その学校には年明けに1か月ほど、空いていた月曜日限定で、時間講師としてお手伝いに伺っていました。いつも通勤している学校より規模が小さく、先生方のチームワークがよい学校だなという印象がありました。その学校から新年度以降の時間講師の依頼をいただき、半年間の経験を生かして心機一転がんばろうと思いました。

図工室は教室と違った空気の場所。黒いエプロンを身につけると、図工の先生に変身します。

時間講師を始めたとき、3つ実現したいことがありました。ひとつ目は私が翻訳を担当した「地雷と聖火」という本の序文が、小学校の道徳の教科書に掲載されていたこともあり、その文章を題材に臨場感のある授業をやりたいということ。これは一校目の6年生の国語の授業で実現させてもらいました。ふたつ目は、オリンピック選手を講師に公開講座を行い、子どもだけでなく先生や父兄も巻き込んで一体感のある学びの機会をつくりあげること。こちらは2校目の学校で実施していただき、選手には出口で児童、父兄全員にハイタッチしてもらったり、職員室で先生方と写真も撮ってもらい、楽しくフレンドリーなイベントになりました。講師としては未熟な私ですが、公開講座のMCなどは専門分野なので、久しぶりに自分らしい仕事ができたと達成感がありました。場を与えてくださった先生方に心から感謝しています。

3つ目は、オリンピックの代表監督に、先生方に向けて元気の出る勉強会をしていただくということです。私が教育現場で感じたこともベースにしながら、監督に質問したり、監督からは指導者としての信念や思い、今の若い選手に感じることなど、熱く語っていただきたいと思っています。こちらは秋に、神奈川県の私の実家近くの小学校で行うことになりました。

還暦でやりたいことを見失って悩んだ時、周囲は「会社員なら定年なのだから、多少の蓄えがあるなら、もう晴耕雨読でいいじゃない」と慰めてくれました。半分納得しつつも、自分が「終わった人」になったような気もして、不完全燃焼の思いが膨らんでいきました。縁があり「小学校の先生」になって、できないことだらけの自分に直面し、新しい引き出しが増えていくのが楽しくて仕方ない自分がいました。

この先も「小学校の先生」は続けていきたいと思っています。時間講師は複数の学校で勤務でき、職場や働き方を選べることが常勤の正規教員にはない利点。定年もありません。未来に向けて歩む子どもたちに自分の培ってきたことを少しでも伝えられたら。いろんな経歴の先生に小学校の教壇に立っていただきたいなと、お薦めしたい仕事です。

「もう引退かな」と思っていたスポーツ関連の仕事も、コロナも落ち着き、教員になって自分に勢いが出てきたせいか、またやりたいことが次々と出てきました。副業もOKの時間講師なので、「教育」と「キャリア」や「スポーツ」をつなげ、教育の現場が明るく、元気になるようなお手伝いができたらと思っています。

勤務する小学校の子どもたちから、1学期のみ担当した図工の授業の最終日にもらった手紙。

(取材・文/泉 彩子)

*ライフシフト・ジャパンは、数多くのライフシフターのインタビューを通じて紡ぎだした「ライフシフトの法則」をフレームワークとして、一人ひとりが「100年ライフ」をポジティブに捉え、自分らしさを生かし、ワクワク楽しく生きていくためのワークショップ「LIFE SHIFT JOURNEY」(ライフシフト・ジャーニー)を提供しています。詳細はこちらをご覧ください。