堀江利昌さん(No.70)/ 僧侶、法律家
■1987年、千葉県生まれ。早稲田大学法学部卒業、同大学院法務研究科(ロースクール)修了。仏教の世界を身近なものとして育つ。高校時代に法律を学ぶ「かっこよさ」に目覚め、法学部に進学。ロースクールで学び司法試験に合格、弁護士となり法律事務所に入る。一方で他人と違う行動や発想を追い求め、学生時代に浄土宗の修行をして、僧侶となる。弁護士としては約3年半にわたり、主に民事・家事事件を扱う。2017年、法律事務所を退職。同時に弁護士資格を返上する。2018年、大本山増上寺に入職。2024年に浄土宗が開宗850年を迎えることの記念事業として、重要文化財改修の企画立案やファンドレイズなどを担当している。次の世代を担う人材を育てるための業界横断型の研究グループ、SPRK(スパーク)の一員としても活動中。
■座右の銘:楽な選択肢を選ばない。
寺の空気に好感をいだきながら、寺の近くで育った
私の父の実家が浄土宗寺院で、父はそのお寺の末っ子でした。父はお寺を継ぐというような立場になく会社員になったのですが、幼いときからお盆や暮れの繁忙期にはそのお寺に手伝いに連れて行ってくれました。お茶くみなど簡単な手伝いであっても「えらいね」と褒められることがうれしく、多くの人たちが集まるお寺の一員となっていることが誇らしかったと記憶しています。自分が成長するなかで、身近にお寺があり、お坊さんがいた。このことが現在に影響しているところは実は大きいと思います。
とはいうものの、将来僧侶になると意識していたわけではありませんでした。
法律を学ぶのはかっこいい!夢中になって学ぶ日々
高校生の頃、確か生物の授業のときに、なぜか外国人の選挙権というテーマで議論する機会がありました。ちょうど興味をもって本を読んでいたところだったので「最高裁の判例によると、衆議院・参議院の国政選挙では外国人の選挙権は否定されているが、地方選挙においては、将来法律の改正があれば選挙権が認められる余地がある」と調子に乗って話していたら、先生が「おまえ、かっこいいな」と言ってくれました。「法律を知っているとほめられるんだ」「人にはない知識があるとかっこいいんだ」とものすごく嬉しかったのをおぼえています。それが法学部を目指すきっかけです。
受験勉強は発見ばかりで、とにかく楽しく感じていました。「英語の文法を突き詰めてみると、すべては5つの構文に当てはまる」「歴史とは行ったり来たりしながら、いつも同じ方向に帰着する」というような法則が「わかる」。私にとっては、それがおもしろく、幸福でした。正直言って、私にとっては受験勉強そのものが目的で、それで大学に合格するかどうかは、二の次と感じられました。
大学では、民法の最初の授業がいまでも忘れられません。六法に書かれた一つの条文が現実の世界に起こる多種多様な出来事にあてはめられて解決されようとしている。たとえば民法第3条は、「私権の享有は、出生に始まる」とされています。では、「出生」とは何なのか、子どもの頭が一部でも母体から出ていればいいのか、おなかの中の子供に権利が生じる場合はないのかなど、法学では様々な具体的なケースが想定され、考え抜かれています。このように、世界の出来事が言葉に集約されているのを知り、法というのは本当に「人類の叡智の結晶」だと思えました。勉強に没頭するのは、私には何より幸福でした。
法律だけでない「人とは違う何か」を求めて僧侶の修行に
その一方で、一緒に勉強する仲間を見たとき、何人か勉強の分野では絶対にかなわないと思える人たちがいました。彼等の多くは身近に弁護士がいる家系の出身で、私よりはるかに多くの時間と情熱を注いで法学を学んでいるように見えました。もともと争いごとが好きではなく、競争で勝つのではなく、人とは違う何かを求めるところがあった私は、その人達にもできないような何かをしたいと思うようになりました。そこで思い至ったのが、仏教の修行です。お寺を身近に感じて育ってきたところに、自分の面白みがあるのではないかと。
そこで大学3年生のときに、浄土宗の僧侶になるための修行に入る決心をしました。職業として僧侶になるのではなく、「人とは違う自分」を求めての修行です。浄土宗では、僧侶の資格をとるために本山での修行が求められます。私の場合には東京の増上寺、鎌倉の光明寺、そして京都の知恩院。儀式のお作法や浄土宗の歴史というような知識を学びつつ、早朝からひたすら(浄土宗なので)念仏を唱える行。これらに大学の春休みや夏休みを使って打ち込みました。
悟りという言葉がありますが、実際問題、ほかの人の「世界」は見えないわけですから、どこまで信仰を深められたら一人前の僧侶になれるという基準はありません。ただある日「これかもしれない」というものを見た気がしました。僧侶になる最後の修行を行った増上寺で、早朝からずっと念仏をくり返し、精神的にも肉体的にも極限まで疲れていました。夜の行で五体投地という両肘、両膝、頭部の五体を地に投げ出す礼拝をしていました。そのとき、目に映ったのが、夜の闇の中で光っているロウソクの灯りでした。とても美しく、心ひかれて、「人知を超えた大きな存在はこういうものかもしれない」と感じました。
かくして、私は僧侶になりました。大学を卒業し、ロースクールに進学した1年目の冬のことです。
司法試験に合格、ずるずると弁護士に
ロースクールに進学したのは、法律を自分の武器にしてから社会に出たいと考えたからです。周囲も弁護士を目指している人が多く、自然な流れでした。ただ私にとって勉強とは、楽しいもの。知識を得て議論をするなかで新たな発見をするために続けているものであり、司法試験などというもので計られるのは非常に不愉快というぐらいの気持ちでいました。
そんな調子でしたから、ロースクールを終えて5月に司法試験を受けたものの、合格するとは思えず、試験後にも、これから自分が何をしたいか考えるためにアメリカで3ヵ月間すごしました。現地の大学に通い、その後は東海岸から西海岸まで鉄道で横断するという旅をしました。異なる社会で法律がどう機能しているのかを知ることは楽しく、「法律の勉強は続けたい」という思いを抱いて9月に帰国、今度はちゃんと1年間、司法試験の勉強をしながらこれから何をしたいかをじっくり考えればいいと思っていました。
ところが帰国して発表を見ると、司法試験に通っていました。それがわかったときには、まったくうれしくなく、ふるえが来ました。じっくり考えられるはずの時間を与えられず、次のステージに押し出されてしまったと感じたからです。ずるずると司法修習がはじまり、修習先の弁護士の先生に誘われて、またずるずると弁護士としての生活が決まりました。
「なぜ争うのか」という葛藤に疲れて弁護士資格を返却
弁護士をはじめてわかったのは、私は根本的に争いごとが大嫌いな人間だという結論でした。たとえ話をすれば、身体の臓器を研究するのが大好きな人がいて、研究成果を活かすために手術をする医者になったとします。でも、その医者は生身の人間から流れる血を見ると気絶してしまう。どんなに臓器を詳しく理解していても、血を見ることができなければ手術をすることはできません。私の場合には、いざメスを握ってみて、自分は血を見られない人間だと知ったのです。そのなかで病院に勤め続けるのはとてもつらい。 私は毎日、そんな気持ちになっていました。
弁護士の仕事の多くは、依頼人の権利を主張し、相手方の主張を否定するのに費やされます。ときには、相手と自分の立場が真っ向から対立する場面で、一歩も譲らずに主張を戦わすことも少なくありません。そのような職業生活は私には耐えがたいように思われました。仕事は仕事と忠実に働きながらも、どうして私たちは争い合わなくてはいけないのかと考えました。たとえば配偶者が不倫をしたとき、不倫相手に200万円を請求して、相手に非を認めさせて200万円のお金を得たとしても、それによりどんな風にあなたは幸福になるのか。そのような葛藤ばかりが、私の頭を占めていました。
弁護士になって約3年がたった2016年の10月のこと、セブンイレブンにコーヒーを買いに行くためにエレベータに乗って、鏡に映った自分がすごく疲れた顔をしているのに気がつきました。この仕事をこの先、30年も続けていくのは難しい。そう感じました。2016年の年末に、高校の友だちと京都に旅行をした際に、来年の抱負を言おうとなって、私が言ったのは「楽をしない選択肢を選ぶ」という言葉でした。そのときにはすでに、弁護士を辞めたい、そして心の奥では僧侶としてやっていきたいと考えはじめていたのだと思います。
2017年3月31日、私は事務所を辞めるだけでなく、資格の返上も決めました。弁護士バッジを返すとき、大きな重圧から解放される、心からの幸福感をおぼえていました。その瞬間、弁護士になっていちばんの笑顔になれました。
ミャンマーの寺院で、僧侶として生きると決心した
それでもまだ、収入やキャリアを考えて転職先を探していました。争いごとを扱わない企業の法務とか、新しいことが好きなのでスタートアップとか…。ヘッドハンティングの会社に行って相談しました。コンサルタントの方は、一生懸命有利な仕事を探してきてくれるのですが、それは「楽をしない選択肢を選ぶ」という目標に相反するものです。そう言ってお断りすると「話にならん」と頭を抱えられてしまいました。
方向性が定まらないままミャンマーに旅に出ました。シュエタゴン・パゴダというこの国最大の寺院を訪ねたときのこと。集中豪雨で一歩も動けず、お寺での営みをただただ見つめていました。目の前には大仏があって私を見守っていました。現地の人たちもお祈りをしていて、お堂があって、美しくって、心地よい。この美しい世界で生きていきたいと心から感じている私がいました。キャリアとか食っていけるかとか、世俗的なもろもろを忘れて、僧侶として生きていけばいいじゃないか!と思えたのです。このときの感動を言葉にして残しておかなくてはと思って書き留めました。
同じ世代が日本を背負っているのに自分は何だ?!
僧侶として生きると決心をして、しかし、一方で現実的には乗り越えるべき壁があり、精神としての僧侶にはなれても、僧侶として生活していくのが容易でないのはわかっていました。そのプロセスは、具体的には僧侶としての師匠にあたる人に相談するところからはじまります。その人は父の実家のお寺を継いだ私の従兄弟にあたる人です。もちろん、そのお寺には空きはありません。宙ぶらりんな僧侶が生計を立てるのは困難であり、私の師匠にも簡単に解決できることではありませんでした。
大変な迷惑をかけてしまうにちがいない、申しわけない、という気持ちをなかなか乗り越えられずにいました。師匠に対して自分の決心を言い出すことができず、もうしばらく宙ぶらりんな日々を続けてしまった私でした。
ある日、私はカフェでハリー・ポッターの本を読んでいました。ふと思い出しました。ちょうどその時間、ある世界的なミス・コンテストの日本大会が開かれていました。弁護士時代から親しくしていた女性が、そこに参加しているのを思い出したのです。
スマートフォンでストリーミング映像を開くと、生中継が受信できました。カフェなので音は出さずに結果発表を見ていました。音のない世界で、一人一人受賞者が発表されていきました。私の友人の名前は、なかなか呼ばれないようでした。「駄目だったのか」と思ったときに、いきなり友人がクローズアップされ泣き顔が画面に映し出されました。そして、頭上にはティアラがのせられました。
なんと、彼女はミス・コンテストの日本代表になったのです。私の知っている彼女は、ごく普通の若い女性でした。それが代表として1つの国を背負う立場になってしまった!一方の私は何だ。カフェでハリー・ポッター読んでいる場合か?!自分のふがいなさに吐き気がしました。すぐさまに師匠に電話して「相談があるので、明日会ってください」と告げました。
人生100年、職業は変わるかもしれない。しかし、僧侶として生きる
周りの方々に努力をしていただいた結果、浄土宗の大本山増上寺に紹介され「就職」をする機会を得ました。現在私の所属する増上寺の部署は「浄土宗開宗850年奉賛局」というもので、2024年に迎える浄土宗開宗850年を記念した事業を企画立案し、またファンドレイズを進めるのが仕事です。
たとえば、増上寺は、2020年から本堂のある大殿の屋根をチタン瓦に葺き替える記念事業を行います。そのために、施工業者の選定から工事の内容、工期の計画などについて検討し、内部の意思決定を得て外部との交渉を進めてきました。また、事業を進めていくためには多額の寄付が必要となりますので、全国の寺院や檀信徒に協力を求め、またクラウドファウンディングのような新しい方法にも取り組んでいます。僧侶としてイメージされる仕事内容とは異なるかもしれませんが、しかし、この仕事の本質は、仏教や増上寺が世の中の人から身近で愛される存在になるためにはどうすればいいかを考え、企画実現することで、僧侶として誇り高い仕事だと思っています。
私の身の回りの若い僧侶たちは、そのほとんどがいつか生家のお寺に戻って後を継ぐという宿命を持っています。そして、そのためのキャリアパス的なものも整っています。しかし、私自身の生き方は、そのキャリアパスのなかにはあてはまらないものと感じています。ゴールはまだ全然定まっていません。とても心強いのは、周りの僧侶が異なったキャリアを歩もうとする私を排除するのではなく、応援してくれる姿勢を示していただいている事実です。
一点確かに思うのは、社会人としての肩書が弁護士から僧侶に変わりましたが、修行中にロウソクの灯りを見たときから、私はずっと僧侶です。同時に、弁護士の職を去ったとしても、私はいまなお、法律家として物事を考えつづけています。どんなときにも、私が僧侶であるのには変わりなく、また法律家であることにも変わりはありません。
人生100年時代を考えたとき、私の職業はどこかで変わるかもしれません。大切なのは、自分が考える「よい人間」として他人の幸福のために生きるということ。そのために生活が変化し続けるのもいいのではないかと思っています。未来の可能性は、どのような方向にも開かれています。