PROFILE

西村美奈子さん(No.94)/株式会社 Next Story 代表取締役

1983年日本女子大学(数学専攻)卒業、富士通株式会社に入社。ソフトウェア開発、海外顧客向け研修講師、eラーニングコンテンツ制作、社内の情報システム構築など幅広い分野に携わる。2001年課長(メディア担当)、07年情報システム部長就任。14年、勤務の傍ら女性コミュニティ「Never too Late !」を立ち上げる。16年より昭和女子大学現代ビジネス研究所の研究員を兼務。17年富士通を退職し、翌年12月、女性のセカンドキャリアを支援する株式会社Next Storyを設立。2021年4月より法政大学大学院キャリアデザイン学研究科修士課程在籍中。著書に『グリーンカード 貴殿に、二年間の農作業を命ず』(水崎美奈子名義/文芸社)がある。

■家族:夫、長男(34歳)、次男(31歳)

■座右の銘: 「やりたいことは全部やれ!」(大前研一)

「特定の“座右の銘”はないのですが、この言葉は事あるごとに思い出し、『本当にそうだな』と思います」と西村さん。

株式会社 Next Story

 

「定年」はもはや男性だけの問題ではない

新卒で入社した富士通を58歳の誕生日の前日に退職し、1年後、株式会社Next Storyを設立しました。定年後に不安を感じている働く女性たちのセカンドキャリアを1年間の研修プログラムを通して支援する会社です。

起業から3年経った現在、研修受講者は100名を超えました。年齢は40代から60代と幅広く、中心層は1990年までに就職した均等法第一世代の方たちです。所属する組織の規模や職種はさまざまですが、「定年後、どうしよう」という思いを抱え、答えを見つけるために自分の意思で参加してくださっている点で共通しています。

男女雇用機会均等法施行(1986年)から36年が経ち、均等法第一世代の女性は今後続々と定年を迎えます。2021年の総務省労働力調査によると、正規雇用で働く55歳〜64歳の女性は約154万人。「定年」はもはや男性だけの問題ではありません。

定年をめぐる悩みや不安は、お金のことや再就職、「自分にできることは何か」など基本的に性別にかかわらず同じです。ただ大きな違いは、女性はまだセカンドキャリアについて相談できる同性の先輩が少なく、情報を得づらいこと。40代以上ですと、「同世代の女性が職場にあまりいない」という話もよく聞きます。

私自身もそうでした。それだけに、研修受講生の皆さんから「キャリアについて誰かと話せることがうれしい」「周りの受講者に刺激を受けて、セカンドキャリアについて考えることが楽しくなった」と言っていただけたりすると、「よかった」と心から思います。

均等法施行前、富士通の女性エンジニア3期生として入社

私自身は均等法施行3年前に大学を卒業し、富士通の女性エンジニア3期生として入社しました。仕事は基本的に性別問わず任されましたが、入社当初は労働基準法で女性の残業時間が1日2時間、週6時間に制限されていました。

翌日までに仕上げなければいけないような仕事があっても、午後8時になると上司がブロックサインを出すんです。「時計、見ろ」「もう帰れ」って。今では考えられませんが、同僚の女性と近くのカフェに駆け込み、テーブルにデモ機や資料を広げて仕事を終わらせていました。セキュリティもコンプライアンスも何もない時代でした。

プライベートでは26歳で結婚し、27歳で長男、30歳で次男を出産しました。結婚や出産で仕事を辞めるようとは考えませんでした。働く母を見て育ったこともあり、ごく自然に仕事は続けるものと思っていたんです。当時は出産後に仕事を続ける女性が少なく、上司に「仕事を続けます」と話したら、「世の中にそういう女性もいるとは聞いていたけれど」と素朴に驚かれたのを覚えています。

企業の両立支援も今のようには整っておらず、苦労もありました。次男を出産したのは会社が育児休暇制度を翌月から導入するというタイミングでしたが、長男の「育休退園(育児休業を取得した場合、保育園などに預けている上の子の在園資格がなくなる制度。近年になって多くの自治体で見直されている)」の問題があり、取得を断念。出産休業後、次男の首がすわるまで自己都合で3週間休業し、これが後々まで昇級に響きました。

保育園やベビーシッターの費用にお給料のほとんどを費やした時期もあり、そのころはさすがに「何をやっているんだろうな、私」と思いました。ただ、働くことは好きでしたから、過度な気遣いなしに機会を提示してもらえる環境にいたことは私にとって恵まれていました。例えば、次男が1歳になった時は、上司から海外出張を打診されました。「子どもがいるから海外出張はできないだろう」と決めつけるのではなく、「行ける?」と聞いてもらえたことはとてもありがたかったです。

その後しばらくは、海外出張で年に数回家を空けることがありましたが、夫や母以外にも保育園で知り合った友人たちが交代で子どもたちの世話を買って出てくれ、今も感謝しています。当時の職場には育児中の女性がおらず、自分と同じように仕事をしているママたちとの交流に励まされることも多かったです。

両立の忙しさに疲れ、ちょこちょこと家族にぼやくこともありました。夫の返事は昔から変わりません。「辞めてもいいけど、辞めて何をするの?」。そう言われると、「確かに」と(笑)。趣味があったり、家事に情熱があったり、仕事に限らず何かやりたいことがあれば、辞めていたかもしれません。でも、とくにやりたいことはありませんでした。

家族と言えば、長男が中学生のころだったでしょうか。例のごとく私が「もう辞めようかな」とつぶやいたら、「絶対に辞めちゃダメ」と言ったんです。長い間、あのひと言が仕事を続ける原動力だったように思います。後に本人に理由を聞くと、よく覚えていないそうです(笑)。

海外での展示会出展を担当していた1995年、ジュネーブ通信展示会(テレコム)にて。息子たちは「お母さんの留守中、友だちの家で過ごせるのが楽しかった」と当時を振り返る。

海外での展示会出展を担当していた1995年、ジュネーブ通信展示会(テレコム)にて。息子たちは「お母さんの留守中、友だちの家で過ごせるのが楽しかった」と当時を振り返る。

会社中心の生活を続けていた40代後半、定年を迎えることが怖かった

紆余曲折がありつつも仕事は面白く、やりがいがありました。だからこそ、なのかもしれませんね。40代後半あたりから、定年後に漠然とした不安を感じはじめました。当時の富士通は60歳が定年でしたから、このまま勤めてもあと10数年。ずっと会社中心で生活をしてきて、特別な趣味もない自分が、通勤のない日々をどう過ごせばいいんだろうと思ったんです。

定年後に社外で働く自分のイメージもまったく描けませんでした。入社後数年こそエンジニアとしてソフトウェア開発に携わりましたが、その後は海外顧客向けの研修インストラクター、コンテンツビジネスと分野が幅広く、専門性が見当たらなかったからです。富士通の名刺がない自分には何もない気がして、定年を迎えることに恐怖に似た感情を持っていました。

そんな私が60歳を待たずに退職し、起業するなんて想像もしていませんでした。ただ、振り返れば、最初の一歩は50代を目前にグループ会社の部長に就任したころでした。社内情報共有システムの導入が最初のミッションでしたが、部下と信頼関係を築くのに苦労し、情報共有も思うように進みませんでした。

息苦しさを感じていた時、いろいろな企業で社内SNSに取り組む人たちの勉強会に誘われ、何となく参加してみたんです。その集まりが同じ課題を持つ方たちとフランクに話ができるような場で、とても心地よかったんですね。意気投合して一緒にイベントを開催したりもして、皆さんの行動力に刺激を受けました。

一歩踏み出してみると「私にも何かできるかもしれない」という気持ちが芽生え、役職定年を控えた54歳の時、同世代の仲間と「Never Too Late!」というコミュニティを立ち上げました。デンマーク大使館の方を講師にお招きして日欧の女性の働き方を比較するシンポジウムを開くなどいろいろな企画をみんなで形にし、すごく面白かったです。

「Never Too Late!」の活動で開催した、デンマーク大使館の方を講師に招いてのイベント。保育園時代の友人たちも運営や通訳を手伝ってくれた。

「Never Too Late!」の活動で開催した、デンマーク大使館の方を講師に招いてのイベント。保育園時代の友人たちも運営や通訳を手伝ってくれた。

将来的に自分が何をやりたいのか、答えはまだ見つかっていませんでしたが、「とにかくやりたいことをやってみよう」という気持ちがあり、この時期には、子どものころから「いつか書きたい」と思っていた小説をついに書き、出版までしてしまいました。

50代を前に少しずつ社外へ。個人として活動する感覚をつかんだ

起業のきっかけは、たまたまご縁があった坂東眞理子先生(昭和女子大学理事長・総長)にお誘いいただき、同大学現代ビジネス研究所の研究員として女性のセカンドキャリアの研究を始めたこと。当初は仕事を続けながら研究をしていたのですが、調査を始めてみると、自分と同じように「定年後、どうしよう」と悩んでいる女性が少なくないことがわかりました。「それならば」と意欲が高まり、退職をして研究に専念することにしたんです。

昭和女子大現代ビジネス研究所でのパネル展示。現在も研究を続けている。

昭和女子大現代ビジネス研究所でのパネル展示。現在も研究を続けている。

この時点では起業を具体的には考えていなかったのですが、坂東先生から「研究した成果は、社会に生かさないと」というお言葉をいただいて背中を押され、2018年12月に「Next Story」を設立しました。

そう言えば、富士通の最後出社日に職場の皆さんから花束をいただきました。かつての私は、退職する人が花束をもらってパチパチと拍手される光景がどこかしらさみしく見えてイヤだったんです。でも、あの日花束を受け取り、すごく素直に「ありがとうございました」という言葉が口から出ました。

あんなに怖がっていた「定年」が気にならなくなり、さわやかな気持ちで退職の日を迎えられたのは、50代を前に少しずつ社外に出て、個人として活動する感覚をつかんでいたことと、「女性のセカンドキャリア支援」というライフテーマを見つけつつあったことが大きかったように思います。

ドン・キホーテでいいじゃない。セカンドキャリアは、やりたいことをやるチャンス

「Next Story」の資本金は300万円。社員は私だけで、研修講師はキャリアコンサルタントなどの専門家の方々に業務委託するスモールビジネスなので、起業すること自体は簡単でした。問題はそれから。研修受講生がなかなか集まりませんでした。

講師の方々にはすでに依頼をしていますから、途中でやめるわけにもいかず、「ああ私、なぜこんなことを始めちゃったのかな」と胃が痛くなる思いをしました。

でも、その時にはたと我に返りました。そもそもなぜ起業したのかと言えば、かつての自分のように定年後のことに悩む人たちが元気になれるようなことをして、私自身がわくわくする毎日を過ごしたかったから。それならば、受講生の人数は関係ない。ひとりでもふたりでも来てくださる方がいれば起業の目的は十分果たせる、と思えてすっと気持ちがラクになったんです。

2期目に入り、たまたま新聞で取り上げていただいて、予想以上の反響がありました。以来、ありがたいことに満席が続いています。今後受講の申し込みがさらに増えれば、運営を誰かに手伝っていただこうかなと思っています。

少し前に「老後30年間で約2000万円が不足する」という試算が話題になりましたが、月額に換算すれば5、6万円。少し余裕を見て10万円くらいをコンスタントに自分の収入にできて、体力の許す限り長く働き、世の中に何かしら貢献できれば「理想的だね」とよく周囲と話します。

長年企業に勤め、当面の生活に困らない程度の貯金はあるけれど、定年を迎えた後も働き続けたいと望む方にとって、セカンドキャリアは肩書きや、稼ぐことに縛られず、やりたいことを思いっきりやるチャンスです。一方で、「自分が本当にやりたいことを探さなければ」と悩む方も多いと感じています。私自身も「定年」を意識して悩みはじめた時期にはその傾向があったように思います。

でも50代、気になることをとにかくやってみたら、新たなやりたいことが見えて、「やりたいこと」はひとつだけではないと知りました。「本当にやりたいこと」なんて見つけなくていいし、そもそも存在しないと今は思います。これからも、もっと面白いことに出合ったら、そっちに走り出すかもしれません。「いくつになっても落ち着かなくて、無謀なドン・キホーテみたい」と昔の私なら呆れそうですが、不格好でも、「ああ、面白かった」と言って最期を迎えられたら最高。「ドン・キホーテでいいじゃない」って思っています。

(取材・文/泉彩子)