PROFILE

青柳潤さん (No.59)/ 医師

■1978年8月、東京都生まれ、40歳。東京大学経済学部を卒業して2002年、株式会社リクルートに入社。人事部で採用、人事企画、ワークス研究所で各社人事部門との連携のための渉外の仕事などを経験した後、2011年退社。滋賀医科大学医学部に学士入学して精神科医を目指す。2016年、医師免許を取得して、京都の病院で前期研修後2018年、吉田病院(奈良県)精神科にて後期研修を開始。2019年4月からは、後期研修の場を兵庫医科大学リハビリテーション科に移し、将来はリハビリテーションに強い地域医療のスペシャリストが目標。

■家族:妻、男子3人(小学校5年生、1年生の双子)の5人家族。

■座右の銘:「一局の歩」(母によく聞かされた言葉。将棋の棋士のように突き詰めて徹底的に次のステップを考え抜いた後には、どの選択をしても、正しかったと思えるようになるという意味)

 

大学生とともに歩き、考える、採用の仕事に感じた充実感と困難

大学時代の私は、体育会のアイスホッケー部での活動に没頭し、将来のことは考えたことがありませんでした。一年留年して、就職活動に向かうとき「やりたいこと」が必要だと思い「社会を変えていく」仕事がしたいなどという目標をつくり、海外協力ができる金融機関を第一志望にしようと思っていました。そのとき、強い口調で意見してくれたのが、たまたま接触したリクルートの人事担当者でした。「おまえのやりたいことなんて、就職のために考えたことではないか」「そんな姿勢で入社したら、その金融機関にも迷惑だ」。自分の浅はかさを認めた上で、どうするか悩み抜き、結果「10年後、やりたいことを見つけたときに、周囲の人が応援してくれる自分になれる会社に入りたい」と考えて、リクルートに入社することになりました。

入社して、最初は営業を希望したのですが、人事部門に配属。その後約10年、主に人事部門で採用の仕事にたずさわりました。この会社の採用手法には、特徴があり「会社が必要とする人材スペックに合致した人材を探す」というよりは、むしろ「出会った学生の就職活動をともに経験し、そのなかでリクルートとの接点があったときには、一緒にやろうと握手の手を差し伸べる」というものでした。たくさんの学生と時間を共有し、ともに歩き、ともに将来を考える仕事は性に合っていました。

しかし、年次を経るにつれて、仕事は少しずつ「人事企画」のような業務にシフトしていくことになりました。企業人事の大枠を定めていく仕事は、企業戦略の上で重要なことはいうまでもありません。しかし、学生と会って、話す機会が減っていくなかで、少しずつストレスが貯まっていきました。やがて、マネジャーに昇進すると、それまでメンバーと共有していた価値観と上司から降りてくる会社の方針のギャップに悩まされるようになり、抗うつ剤を服用する状況に陥ったこともありました。

双子の子どもができたのを機に、精神科医を目指すと決断

ある日、書店に行き(私は日常的に書店に行く習慣のある人間なのですが)偶然平積みになっていた本を発見しました。ある著名な精神科医の「精神科医になる」というようなタイトルの新書本。なにげなく手に取り、読んでみる、と、それまで私が採用の仕事に感じていたことと非常に近いことが書いてありました。精神科の医師の仕事について、薬を出して疾病をたたくことのように理解している人も多いが、著者の考え方はそうではありません。薬というのは人間という疾病を含んだトータルな存在を変えうる手段ではあるが、それを正しく使うためには、そこにいる人間全体と対峙することが必要になるというものでした。

このときから、精神科医という仕事に興味を持ち、著者にメールを出したら、お忙しい時間を割き、直接会ってアドバイスしていただけることになりました。人間というのは、精神科医にとっても未知の世界であり、それを知るためには、じっくりと話して理解していくことが必要というご意見を聞かせていただきました。人と向き合い、そこまで突き詰められる仕事があるという発見は、大きな転機となりました。

とはいうものの、現実の壁はありました。そのとき私は32歳。学士入学をしても、医師免許をとるまで最低4年半かかります。その後、医師としての基本スキルを身に着ける初期研修が2年、さら専門医としての経験を積む後期研修が3~4年と続きます。リクルートの人事部門で同僚だった妻と結婚し、すでに一人の子どもがいました。仕事を辞め、長期にわたって収入が断ち切られることには、当然ながら大きな不安がありました。

私がいろいろと葛藤しているさなかに、妻が次の子どもを妊娠。検査の結果、双子であることがわかりました。このことが、逆に私の背中を押してくれました。「10か月後に双子が生まれてしまったら、まとめて時間をとって勉強する機会は二度とないだろう。受験勉強をするならいましかない!」と思い、「精神科医になりたい」と決心して、妻に相談しました。さすがに私という人間を知り尽くしている人、反対をしても無駄だと思ったのでしょうか。即座に「いいんじゃないの」と言ってくれました。経済的な不安は、リクルートの退職金とあらゆる奨学金の活用、そして妻が育児休業後も仕事を続けることでクリアしていこうとも話し合いました。

企業人事から、32歳で精神科医を目指すことを決意。人間と向き合い、ともに歩くために(青柳潤さん/ライフシフト年齢32歳)

体系が見えないと記憶できなかったから、エクセルで自分専用の巨大な「ノート」を作った。

32歳で大学入試の試験勉強。医学部の学士入学入試には、生命科学という教科が大きな位置を占め、英語は必須、そのほかにいくつかの教科と論文・面接などがオプションのような形であります。生命科学は逃げては通れません。そこで、この教科を集中して徹底的に学習して、あとは文系科目を中心に受験することができる国立大学医学部を目指すことにしました。結果、滋賀、鹿児島、山口の医科大学に合格。妻の実家からも近い滋賀医科大学に入学することを決めました。会社を辞めて精神科医を目指すことを決めた2010年10月からちょうど1年後、2011年10月、私は3人の子どもを持ちながら、医大に入学しました。

大学入学後の学業も、追いついていくのが精一杯でした。解剖学の授業では、たとえば僧帽筋という筋肉に関して、どことどこをつないでいるのか、関係するすべての筋肉、血管、神経、骨、その他の組織の機能をおぼえ、名前を英語で記憶しなくてはいけませんでした。これを全身すべてに関して学習する、それでようやく一つの教科の単位が取れることになります。

私自身「体系的に理解しないとおぼえられない」「手を動かさないと記憶が定着しない」という困った性癖がありました。そこで、教科書の中身を徹底的にエクセルに落とし込んでいく作業に頼っていきました。学習した体の部分や疾病に関してノートをエクセルに入力、そこから関連する他の教科や論文にリンクを張っていく。それにより、すべての学習内容が一つの体系のなかで網羅できるようにして、やっと「こういうことなのか」と理解できる、やっかいな自分にふさわしい勉強方法で一つ一つの科目を乗り越えていきました。

企業人事から、32歳で精神科医を目指すことを決意。人間と向き合い、ともに歩くために(青柳潤さん/ライフシフト年齢32歳)

初期研修のさなかに地域医療と出会い、出会いにあふれた仕事に惚れた!

学部での勉強が終わると医師免許がもらえます。しかし、一人前の医師になれるのは2年間の初期研修を受け、いくつかの医科の実習を経た上、自分の専門科目を決め、さらに勤務医として後期研修を受けてから、ということになります。初期研修がはじまる段階にあって私は精神科医になることしか考えていませんでした。けれども、ある病院で地域医療の研修を受けたとき、私は地域医療の仕事に惚れ込んでしまいました。

地域に密着して総合的に医療行為を行う、というと簡単な話に聞こえそうですが、限られた期間のなかで驚くほど多くの「人間」との出会いがあります。脳梗塞で足腰立たず介護タクシーを呼ぶのにもままならない方、急性肺炎で心肺機能が落ちてしまいリハビリテーションの計画を必要とする方。あるアルコール依存症の患者さんは、最初深刻な状態だったに関わらず、断酒を決意し現在までスリップしない状態を保っています。まだ、私には何もできないにも関わらず、本当にたくさんの人に頼られ「ありがとう」と言ってもらえます。これほどの感動はありません。

企業人事から、32歳で精神科医を目指すことを決意。人間と向き合い、ともに歩くために(青柳潤さん/ライフシフト年齢32歳)

未来はいまなお可変。悩んで、悩み抜き、後悔のない一歩一歩を進めたい

初期研修を経てわかってきたのは、地域医療とは、一人一人の病気や家族や住居までを総合的に考えて、プランニングしていくということ、それは、私が人事の分野で進めてきた「一緒に歩く」ということであり、精神科医になるきっかけをくれた本の著者の先生が言っておられた「人と向き合う」ことではないかと思えてきました。

後期研修を精神科にするのか、地域医療を目指すのか。悩んだ結果、半年だけ精神科の仕事に就き、半年間後に自分の進路を最終決定しようと考えました。そして、やはり自分の想いのベクトルは地域医療にあると気づいて、そちらに向かう決心をしました。2019年4月からはまず、地域医療とは切っても切れないリハビリテーション科の専門知識を得て、それからは「リハビリテーションに強い地域医療スペシャリスト」を目指します。

方向転換の過程では、リクルート時代の上司にも会いに行きました。悩んでいる私に対して「どっちでもいいじゃん」と言い、その上で「人生100年時代のなかで、孤独が大きなテーマになるのではないか。医療により病気は治るけど、不安で孤独な状態は放置される、青柳という人間は、そういう問題を解決していく場で生かされるのではないか」という助言をいただきました。もう一つ力になったのは、座右銘でもある母の言葉です。最初の大学受験のとき、進路を考えあぐねて葛藤している私に「一局の歩」という言葉を教えてくれました。「将棋の棋士は一手に関して、とことん考え抜き、最後にはどの選択も正しかったと思えるようになる」。私自身、将来はまだまだ可変であると思います。そのなかで悩みながら、方向転換を繰り返しながら、後悔のない人生にしていきたいと思います。