PROFILE

伊藤緑さん(No.78)/広報ウーマンネット&PRラボ代表・Green Label合同会社 代表社員・女性コミュニティプロデューサー・作詞家・副業アドバイザー

■1966年生まれ、愛知県出身。短期大学卒業後、銀行系ソフトウェア会社の人事部に8年間勤務。1995年、28歳で上京。1997年、作詞家デビュー。作詞家として活動する一方、派遣社員やアルバイトを行う。2001年、ITベンチャー株式会社ケイ・ラボラトリー(現:KLab株式会社)に入社。広報担当として勤務。2004年4月より尚美ミュージックカレッジ専門学校で非常勤講師として勤務。同年10月、独立。2005年、宣伝会議社の広報専門誌『PRIR(現:広報会議)』のライターを開始。2006年「広報ウーマンネット」の前身となる「広報ウーマン集まれ!」立ち上げ。作詞、ライター、コミュニティ運営と並行して化粧品、ファッションなど10数社のPR案件を業務委託で手がける。2014年、茨城県庁から受けていた茨城の農産物のPRのため、いばらき美菜部合同会社を設立。2015年いばらき美菜部退任のため、2016年に広報コンサルやコミュニティ運営、プロダクション的な動きを行う企業として、Green Label合同会社へ社名変更。2019年からは業務委託の仕事を減らし、企業の広報担当者の育成と個人事業主の方へのコンサルをメインに行う。2020年4月より、SDGsに関する記事の執筆開始。 2020年4月より、女性コミュニティプロデューサーとして、自治体との仕事を積極的にスタート。作詞家としてはChage、鈴木聖美、石嶺聡子、さくら学院などに歌詞を提供。ゲーム『THE IDOLM@STER』やアニメ『テニスの王子様』のキャラクターソングなども手がけている。

■家族:独身

■座右の銘: 「今この瞬間が一番若い」「しがみつくより 手放す方が 遙かに強い力を必要とする」
広報ウーマンネット

 

28歳で上京し、30歳で作詞家デビュー。作詞で食べていけると思っていた

クラスにひとりくらい、休憩時間にノートに詩や小説を書いている女の子っていませんでしたか? 私がまさにそうでした。言葉を書くのが好きで、高校時代に作詞家という職業を知り、憧れるように。一方で、資格や学校があるわけでなく、どうすればなれるか分からないまま、短大卒業後は地元・名古屋のソフトウェア会社に入社しました。

「不安定」より「一本の柱」に依存するほうが怖い。複業生活を続けて16年、コロナ禍ではエッセンシャルワークも経験(伊藤緑さん/ライフシフト年齢37歳)

ソフトウェア会社に入社が決まってからは、SEになりたいと思っていました。仕事内容がわかっていたわけではありません。当時はパソコン黎明期。新しいものへの好奇心から、パソコンを使う仕事も面白そうだなと考えたんです。ところが、入社時の配属先は総務部。受付で来客の方へ「いらっしゃいませ」と頭を下げて、お茶を出す仕事が社会人としての最初の仕事でした。今なら、「会議室でどこに座るか」「どの席の人からお茶を出すか」といった「気づかい」を学ぶことも社会人としてとても大切なことだったとわかりますが、パソコンを使えないなら辞めたい、とまで思いました。しかし、1ヶ月後に人事部に異動になり、給与計算を担当することに。Windows95が出る前で大型の共用パソコンを使って行う仕事だったのですが、黒いDOS画面に緑の文字のコマンドを打って仕事をする作業が新鮮で楽しく、結局、8年間、人事部で会社員として働きました。

その間も作詞は続けていて、作詞オーディションへの応募やレコード会社への「営業活動」をしていました。CDジャケットに書かれた音楽プロデューサーの名前をチェックして電話をするんです。携帯電話のない時代でしたから、テレホンカードをたくさん使いました。会っていただけることはほとんどなく、作品を送るよう言われます。送っても読んでいただける保証はないので、上京をして「今、東京にいます」と電話したりもしました。まるで、ストーカーですね(笑)。怪しい音楽事務所に登録してしまったことも。けっこうお金も使いました。それでも、作詞家になりたかったんです。

そんな活動を続けているうちに、あるレコード会社のプロデューサーが作品に目を留めてくれ、歌詞を見せるために毎月上京するようになりました。そんな日々を1年ほど続けるうち、「本気で作詞家になりたいなら東京に行かねば」と会社を辞めることを決意し、28歳で上京しました。

「不安定」より「一本の柱」に依存するほうが怖い。複業生活を続けて16年、コロナ禍ではエッセンシャルワークも経験(伊藤緑さん/ライフシフト年齢37歳)

上京後、「営業活動」で出会った方の紹介で、音楽事務所に所属。しかし、お給料がでるわけではありません。作家は印税のみ。派遣やアルバイトで生活費を稼ぎながら、詞を書き続けました。自分が詞を書いた曲が初めてCDショップに並んだのは30歳のとき。本当にうれしかったですね。石井明美さんの『after rain』という曲でした。派遣の仕事の休憩時間にお店に行き、CDジャケットを確かめ、「私の名前がある!」と。そのときは、デビューさえすれば、作詞家としての収入も増えるはずと思っていました。

「不安定」より「一本の柱」に依存するほうが怖い。複業生活を続けて16年、コロナ禍ではエッセンシャルワークも経験(伊藤緑さん/ライフシフト年齢37歳)

ところが、デビュー後も生活はまったく変わりませんでした。当時は自分で曲を書くバンドやシンガーソングライターの活動が増え、職業作詞家には厳しい時代になっていました。事務所の方から「10年遅かったね」と言われました。しかし、事務所に所属できたおかげで、デビューが叶ったんです。

アルバイト情報誌で見つけたITベンチャーで、「広報」の仕事に出合った

家賃の支払いに困るような時期もありましたが、私には「いいことも悪いことも、ネタにして書けばいい」と考えるようなところがあって。実際、悔し涙を流した日のエピソードを詞にして、採用されたこともあります(笑)。作詞の収入だけでは暮らせず、平日は派遣、土日はアルバイトと大忙しでしたが、会社員ではできない新しい仕事を次々と経験できることを楽しんでいました。

時代はWeb普及期。Webデザインの技術があり、ライティングもできれば生活に困らないかなと考え、スクールでHTMLや画像ソフトの使い方を学んだり、ライター講座に通ったりしました。さらに、プロバイダーでの派遣や、Web制作会社のアルバイトでホームページの制作をひと通り経験。そんなときにアルバイト情報誌で見つけたITベンチャーで働いたことがきっかけで、「広報」という新たな仕事に出合いました。

その会社とは外注契約を結び、自社サイトの制作に携わったのですが、サイト完成後、広報として働かないかと声をかけていただきました。広報の経験はなく、思わず、「広報って何ですか?」と聞いたほど何も知りませんでした。2001年のことです。世の中的にも広報という職種は、まだあまり知られていませんでした。

初めての仕事は「東京ビッグサイト」の展示会。ハプニングもありましたが、社名入りの扇子を配ったら来場者にすごく好評でした。その様子を、IT系サイトのニュースに取り上げてもらえたんですね。記事でほかに紹介されていたのは、大企業ばかり。当時数十名規模だった小さな会社であっても、プロモーション次第で多くの人に知ってもらえるなんてと、広報の仕事の面白さに目覚めました。

「不安定」より「一本の柱」に依存するほうが怖い。複業生活を続けて16年、コロナ禍ではエッセンシャルワークも経験(伊藤緑さん/ライフシフト年齢37歳)

正社員の職を捨て、37歳でフリーランスに。「会社」によりかかるのが怖かった

広報の仕事は楽しくて、終電の時間まで働いても苦になりませんでした。正社員にもなり、一時期は作詞をやめて広報専業でやっていこうかなと思ったこともあります。でも、3年経ったころから、「私、何のために東京に来たんだろう」と考えるようになりました。

上京するとき、家族からは反対されませんでしたが、周囲には「会社を辞めて、女一人で食べていけるのか」と言う人もいました。1995年は、まだ女性がそんなに活躍している時代ではなかったんです。しかし、その言葉に、私は「自分の名前で生きていくから大丈夫」と啖呵を切って東京に来たんです。だから、「会社」によりかかるつもりはなかったのに、いつの間にか、自分がそうなってしまうのではと怖かった。「伊藤緑」という名前で何かをしたい、表現者として何かを残したいという思いが自分には強くあると気づきました。

そんなときに、複業としてライティングの仕事をお手伝いしていた会社の社長さんからの紹介で、音楽専門学校の講師を始めたのをきっかけに独立しました。最初は会社から許可をもらって、平日に1日休みを取って教えていたのですが、1日自由な時間があれば、いろいろなことができてしまって(笑)。もっといろんなことがやりたいと思い、専門学校で教えはじめて半年後、37歳のときに会社を辞めました。辞めてすぐにやったのは、舞台で演技をすることです。いくつかオーディションを受けましたね。そして、1ヶ月の稽古を経験し、小さい役ですが舞台に立ちました。とにかくやってみたいことはやってみたい性格のようです。

ちなみに、ライター業の幅が広がったきっかけは、ある女優さんのファンブログを書いていた縁で出版社に声をかけてもらったことです。ITベンチャーに入社して2年目くらいからプライベートの時間に記事を書き、退職時には「ライター」と胸を張って言えるようになっていました。

独立当初は、ライター業や作詞をメインに活動をスタート。広報担当者向け専門誌『PRIR』の外部ライターを3年半にわたって行いました。そのなかで、たくさんの女性広報担当者との出会いを通して、女性広報担当者が気軽に情報交換できるような場がないことが気になり、彼女たちをつなぎたいと考えるようになりました。そこで、2006年に「mixi」に「広報ウーマン集まれ!」というコミュニティを作ったところ、1年ほどで300名を超える方たちの集まりに成長。リアルで開催した交流会も盛況だったことから、2009年に「広報ウーマンネット」という名前をつけオフィシャルサイトを立ち上げました。

「不安定」より「一本の柱」に依存するほうが怖い。複業生活を続けて16年、コロナ禍ではエッセンシャルワークも経験(伊藤緑さん/ライフシフト年齢37歳)

現在は「mixi」での活動から15年目ですが、イベントには多いときで100名が集い、これまでお会いした広報担当の女性は2000名を超えますね。そうしたつながりもあってファッション、自治体、NPO法人、化粧品などさまざまな組織の広報活動をお手伝いさせていただいてきましたが、「広報ウーマンネット」を立ち上げたのは、単純に「好きだから」。コミュニティに集まってくれる人たちがつながっていくのがうれしいんです。

趣味の神社めぐりが高じて神社好き女子が集う「神楽女会(かぐらめかい)」などいくつかのコミュニティを作るうち、2012年からは自治体から依頼されてコミュニティの立ち上げをお手伝いしており、周囲から勧められて、2020年からプロフィールに「女性コミュニティプロデューサー」の肩書きを加えました。コミュニティ立ち上げも、私にとっては作詞や執筆と同様、ひとつの「表現」です。

6職種の「複業」に加え、「エッセンシャルワーク」のアルバイトを経験

現在は、広報・PRのコンサルティング、ライティング、音楽専門学校の講師、作詞、女性コミュニティの運営をやっています。2020年3月から6月まではスーパーの販売スタッフと物流関連の会社でのアルバイトもしていて、今もスーパーのアルバイトは週3日、早朝からの2時間程度ですが続けています。

スーパーと物流関連の会社はどちらも以前から働いてみたかった場所です。仕事で日々たくさんのニュースをチェックするなかで、以前から「コンビニエンスストアの人手不足」の問題が気になっていました。私は家でぼんやりしていることが苦手なので、休日の空いている時間を生かしてコンビニで働き、少しなりともお役に立てないかと考え、2019年秋から何度か応募したものの、採用されませんでした。やはり経験者が有利なんですね。そもそも、突然シフトに入ってできるような仕事ではないことが、今はわかります。

物流関連の仕事に関心を持ったのは、ひと言で言うと、「誰かにモノを送り、届ける」ということが個人的に好きなんです。その作業そのものも好きですし、広報やPRの仕事で販促物などを送り、届けた方々が喜ぶ声を聞くのもうれしかったです。東日本大震災後に、被災地にハガキを送る「ハガキのちから」という活動を自分たちで行ったことも物流のことをもっと知りたいと思ったきっかけです。いろんなことの裏側が知りたくなるんですね。

2020年2月に試しに物流関連の仕分け業務のアルバイトに応募。同時に、コンビニ同様人手不足と聞いたスーパーの販売スタッフのアルバイトにも応募したところ、どちらも採用になり、両方やってみることにしました。この時期に応募したのは、音楽専門学校が春休みで毎年比較的時間に余裕があり、かつ、広報の大きな仕事がひと段落したから。この期間を活用して、新しいことを経験したいと考えたんです。

スーパーと物流関連の会社で働きはじめた矢先、新型コロナウイルス感染症の影響が拡大。どちらの仕事も人々の生活に欠かせない「エッセンシャルワーク」だったことから、現場は常に忙しく、通常以上に人手が足りない状態でした。一方、4月の「緊急事態宣言」発令後、ほかの仕事がキャンセルや延期に。時間が空いたことから、一時期は週5日、午前中にスーパー、夕方物流関連の会社で数時間ずつ働き、残りの時間でライティングなど家でできる仕事をするという日々を送りました。

6月に入ってからは、音楽専門学校の授業も始まり、忙しくなってきたので徐々にシフトに入る日を減らし、今はスーパーのアルバイトだけ続けています。やってみたかった仕事で、少しでも役に立てていると思うと嬉しかったですね。まさかコロナ禍にその仕事をするとは思ってもみませんでしたが、だからこそできる限りは続けたいと思っています。

何より現場を経験したかったんです。何事も経験を知らずに語れないと思っていて。家にひとりでじっとしているより心身ともに健康でいられますし、ダイエットにもなりますしね(笑)。実際、7キロ痩せました。それだけ、身体を使っていなかったということですね。

スーパーも物流関連の会社も、時給は1050円程度です。私が行う他の仕事に比べたら決して割のいい仕事ではありません。覚えることも山ほど。やってみて初めて「こんなに大変なんだ」と知りました。その仕事を、「エッセンシャルワーク」なんて言葉とは無関係に、働いている人たちがいる。こうして働く方々がいるから、自分が日常生活を送れているんだなと心のそこから感謝しました。1000円のありがたみを感じ、無駄な買い物が減りました。スーパーで商品の動向や電子決済の普及状況をつぶさに見たり、荷物の仕分けをしながら、自粛生活の影響で通販やインターネットオークションの利用者が増えていることをリアルに感じたり、社会の動きも肌で感じました。すべて、実際に働いてみなければ、イメージでしかわからなかったことです。

仕事というのは絶対にどこかに技があり、別の場所でも生きる

振り返れば、作詞家になるための「営業活動」も含めると、私はずっと「複業」を続けてきました。7枚の名刺を持っていた時期もあります。雇用形態や業界・職種もさまざまな仕事を経験し、派遣の仕事だけでも、製薬会社、証券関連会社、通信販売会社、銀行、リサーチ会社など10数社で働きました。

最初は夢のためと、暮らしていくための「複業」でしたが、続けているうちにそれぞれの仕事の経験が繋がって、相乗効果が生まれているなと感じるようになりました。ライターとして取材をしたことが、広報の仕事のヒントになったり、専門学校で若い世代の人たちと接することが作詞に生きたり。私にとってはもはや息をするように自然なことで、例を挙げればキリがありません。地元の会社での給与計算の仕事や、派遣先の銀行での経験も、今に活きています。仕事というのは絶対にどこかに技があり、別の場所でも生きる。そう気づき、最近では、経験を得る意味でも「複業」をしています。

安定した仕事を手放して独立し、派遣とバイトの掛け持ちを始めて23年、フリーランスとして、いくつもの仕事を同時並行でやる生活を続けて、もう15年以上になります。「不安は感じませんか?」と聞かれますが、私にとっては、ひとつの仕事や組織に依存することのほうが怖いです。独立をする時に読んだ本にも、フリーランスの心得として「一本の柱で仕事をするな」と書いてありました。

それに、単純に「複業」は楽しいです。新しい仕事をするたびに、自分の知らない世界はたくさんあることに気づき、もっと学びたいと思います。そして、学べば学ぶほど、当たり前を支えるたくさんの仕事があることを感じます。お金までいただいて、仕事という名の学びを得られるなんて、申し訳ないくらいです。その分、しっかり仕事はしています。

「働き方や生き方には、人の数だけ選択肢があります」と伝えたい

「本業は何ですか?」とも聞かれますが、今やっている仕事はすべて「本業」。どの仕事も似ていないから、どの仕事も好きなんです。ただ、私が「複業」をしながら楽しく働き続けられているのは、独身で、贅沢に興味がなく、「ただ儲けたい」という思いがないからかもしれません。それから、複業のポイントは、自分の苦手なものを知っておくこと。苦手なものは、少しでも興味のあるものをやってみて、確かめることでわかります。私の場合、ルールが多かったり、マニュアル通りにやる仕事が苦手だとわかったので、避けるようにしています。あと、「対価」は意識していますね。金額の多寡ではなく、「楽しい」「何かに繋がる」といった付加価値も含め、自分が納得できることが大事だと思っています。

今後も複数の仕事をしながら、「好きなこと」を続けていくのが私なのかなと思っています。新型コロナウイルスの影響で社会の変化が加速している今、一本の柱に頼るのはリスクだとあらためて感じています。声高に世の中に対して何かを訴えたいという思いはありませんが、30年以上「複業」を続けている経験から、「働き方や生き方には、人の数だけ選択肢があります」と伝えられるようなことができたらうれしいですね。