PROFILE

田路圭輔さん(No.71)/株式会社エアロネクスト 代表取締役CEO

■1968年、兵庫県姫路市生まれ。大阪大学工学部建築工学科卒業。1991年、株式会社電通入社。おもにセールスプロモーション領域に従事した後、新規事業開発を担当。1999年、テレビ放送のデジタル化を契機に電子番組表(EPG)に着目し、電通と米国ジェムスター社の合弁で株式会社インタラクティブ・プログラム・ガイド(IPG)を共同設立。代表取締役社長として電子番組表サービス「Gガイド」の普及・市場化を実現。2017年7月、ドローン産業の発展を知的財産(IP)で支援する株式会社DRONE iPLAB(DiPL)を共同創業し、取締役副社長に就任。2017年11月、DiPLとの資本業務提携を機にエアロネクストに参画、代表取締役CEOに就任。

■家族:妻と3人の息子。

■座右の銘: どっちが正しいではなく、選んだ道を正しくする
「どっちが正しいかと考えて立ち止まっていたら、何も変わりませんが、決断して進むとその先に新しい道が続いている。選んだ道を正しくするほうが目的に対して合理的なんですよ」

株式会社エアロネクスト

 

知財戦略を核にした経営で、「ドローン前提社会」の実現を目指す

僕が代表取締役CEOを務めているエアロネクストは、次世代ドローンの研究・開発を中心に技術ライセンスビジネスを手がけるスタートアップです。当社のドローンの最も大きな特徴は、独自開発した重心制御技術「4D GRAVITY®︎」を搭載していること。プロペラのついた飛行部とカメラや荷物を載せる搭載部を分離させ、搭載部を常に水平に保つことで、従来のドローンでは実現できなかった安定性、信頼性を実現。どんぶりに入ったラーメンの汁までこぼさず運ぶことができます。

大企業を離れ、未経験のドローン業界で起業。人生を自分でコントロールし続けるために (田路圭輔さん/ライフシフト年齢49歳)

ドローンの原型が発明されて30年経ちますが、ドローンの市場はまだ確立されていません。法整備が追いついていないこともありますが、何よりも、従来の機体は安定性や耐風性に弱点があり、「落ちてこない」という信頼性を確保できていませんでした。飛行機は航空技術と機体の進歩で安全への信頼性が高まったからこそ普及しました。ドローンもそうならなければいけません。

当社にとって「4D GRAVITY®」の技術は大きな武器ですが、優れた技術もただ持っているだけでは広まりません。僕たちは技術を売り出すための戦略として知的財産、つまり、特許を経営資源として最も重視しています。知財戦略は、前職のインタラクティブ・プログラム・ガイド(以下IPG)というデジタル番組表を取り扱う会社の経営トップとして僕が培ってきた得意分野です。

一般に特許というのは技術を守るためにあるととらえられがちですが、僕たちは特許を「技術を流通させ、世界に広めるためのもの」と考えており、知財戦略も活用してドローン業界を革新し、新しい産業の成長に貢献できたらと願っています。当社が目指すのは「ドローン前提社会」。言い換えれば、今は鳥と電波しか飛んでいない「地上から150メートルまでの空域」を経済化することでもあります。

みんながやらないことをやりたい、という性質が子どものころからあった

もともと僕はドローンに精通しているわけでも、知財の知識があるわけでもありませんでした。学生時代に学んだのは建築です。それも、「図面を描かない建築学生」でした。田舎の公立高校から大阪大学の建築工学科に入り、当初は建築家を目指していましたが、同級生たちがみんな、すごいんですよね。頭は切れるし、ドローイング技術も高くて。同じ土俵にいたら到底かなわないと考え、周囲とは違う方向から建築にアプローチするようになりました。例えば、ある敷地に小学校を設計するという課題が与えられたときに、たいていの学生は細かい図面を描いて、精巧な模型を作っていました。それに対して、僕はその小学校が建つ場所の風土や歴史、どんな児童がそこで学ぶのかといった建築のコンテクストを細かく設計し、プレゼンテーションに力を入れて、図面や模型は付録のようなもの。手を動かす時間は周りに比べてかなり少なかったのですが、話すのは得意でしたし、ちょっと珍しかったんでしょうね。課題発表をすれば、みんな「おぉ」と言ってくれる。そんな学生でした。

大学3年生で建築意匠の研究室に入ってからは、みんなが課題と研究に勤しむ中、僕は建築コンペに精を出していました。あるとき、一般の建築家も参加する国際コンペに仲間と一緒に出品したら入賞し、横浜で開催された表彰式に参加したんですね。すると、僕たちのプレゼンテーションを見た「電通の社員です」という人から声をかけられて、「来週、東京においで」と。それで、翌週上京して電通本社に行ったら、何人かほかの学生がいて、「採用内定です」と言われました。当時、電通は空間や都市など従来のテレビや紙媒体以外の領域に事業の可能性を広げようとしていた時期でしたから、建築学生を求めていたんだと思います。一方、僕は企業名に疎くて、電通が何を手がけている会社かも知りませんでした。

大阪に帰って研究室の教授に報告すると、「あんないかがわしい会社に入ったら破門だ」と(笑)。何だか面白そうだなと興味を持ち、学部の卒業生名簿をめくって電通に就職した人を探してみたら、ひとりもいませんでした。それで、ここに入社しようと決めたんです。僕にはみんながやらないことをやりたい、属しているコミュニティの中で異質な存在になりたい、と思うところが子どものころからあって、電通に入社したのもこの性質ゆえでした。

31歳で電通と米国ジェムスター社のジョイントベンチャーの経営者に

電通に入社して数年間はイベントやSPプランナーなどいくつかの広告業務を経験しました。自分で言うのは憚られますが、器用なので仕事はそこそこ頑張って、クライアントの担当者にも気に入られ、もちろん「うれしい」という感覚もないわけではなかったのですが、どこか違和感がありました。少し経ってわかったのは、自分は代理業にも、会社員にも向いていないということです。誰かが決めた仕事とか、誰かのための仕事とかをやるよりも、自分のための仕事を企画したり、事業を立ち上げるほうが好きだし、やってみたい。だから、電通には長くはいられないだろうなと。

ただ、経験の幅を広げておくために、辞める前にクライアントワークではなく、電通自体のビジネスに携わってみたいと思い、周囲に意思表示をしていました。その結果、新規事業開発部門に異動することになり、ここで立ち上げたのが、日本初の電子番組表「Gガイド」サービスです。テレビの電子番組表(EPG)は現在では当たり前の機能ですが、当時はなく、これを米国ジェムスター社(現・TiVo社)と電通が共同設立したIPGで一からつくり上げ、僕は創業から関わり、2005年から2017年まで代表取締役社長を務めました。

大企業を離れ、未経験のドローン業界で起業。人生を自分でコントロールし続けるために (田路圭輔さん/ライフシフト年齢49歳)

IPG設立の経緯はこうです。僕が新規事業開発部門に異動したのは1997年で、テレビのデジタル放送開始前夜。当時の電通はテレビ関連が売り上げのシェアを大半に占めていて、デジタル放送でも主導権を握りたいということでビジネスの可能性について社内でプロジェクトが複数立ち上がっていたんですね。その中で、デジタル化の本質としてよく挙げられていたのが「高画質」と「多チャンネル」と「双方向」でしたが、一般家庭のお茶の間で「高画質」はあまり関係ないし、チャンネルが増えてもそんなには観ないはず。「双方向」がデジタル化の本質だと考えましたが、パソコンも普及する中、当時うたわれていたようなテレビで株式投資とかショッピングというようなことにはならないだろうと。ただ、ひとつだけ、双方向な機能として、あったら便利だなと感じたのがEPGだったんです。

ちょうどそんなときに、Windows次期バージョンのデモンストレーションをたまたま見せてもらう機会があり、なんとパソコンの画面上でEPGが動いていたんです。これをテレビに実装すれば、僕がイメージした通りのものができると思い、マイクロソフト社の方に話したところ、米国のある企業の技術で、その技術を開発し、関連の特許をほとんど押さえているジェムスターという会社があることを教えてくれました。

ジェムスターのことは、アナログテレビ放送の録画予約に使われていた「Gコード」を開発した会社として知っていました。早速、上司である髙田佳夫さんと一緒に日本法人を訪問しましたが、「電子番組表のことはわからない」とにべもありません。そこであきらめないのが髙田さんのすごいところです。どこからか創業者のヘンリー・ユーエン氏が来日しているという情報を手に入れ、宿泊先に突撃。髙田さんがヘンリー・ユーエン氏と意気投合し、「ビジネスを一緒にやろうとなったから、後は頼む」と僕にパスを投げました。そこから約2年かけて契約をまとめ、電通とジェムスターのジョイントベンチャーでIPGを設立。ヘンリー・ユーエン氏の鶴のひと声があって、高田さんと僕が経営を任されることになりました。

会社を辞めると決めたとき、5日間だけ、寝起きに吐き気がした

IPG設立後、電子番組表サービスを立ち上げるにあたり、一番苦労したのは、電子番組表サービスについて全国の放送局の理解と協力を得ること。まず、日本の場合は電子番組表に必要な番組データの権利が放送局に属していて、使用の許諾を取らなければいけません。さらに、当時はインターネットの通信速度が遅く、番組データのやり取りをするには放送波を使わねばならず、専用の帯域を確保してもらう必要がありました。32エリアすべての放送局を説得し、電子番組表の市場が生まれるまでには3年かかり、そのために全国を3周しました。

その後も紆余曲折はありましたが、ハードディスクレコーダーの普及や携帯電話に無料搭載した電子番組表リモコンアプリ「Gガイドモバイル」のヒットもあって事業は軌道に乗り、IPGは市場をほぼ独占するほど成長しました。IPG社長を退任するときに、電通からも離れ、新たなチャレンジをしようと決めたのは、僕にとっては自然な流れでした。電通という大きな組織に戻れば、これまでのようには自分のやりたいことができないだろうと思いました。誰かに評価されないと、自分のやりたいことができない。そこに窮屈さを覚え、自分の人生を自分でコントロールしている感覚をなくしたくありませんでした。そのためには、会社を辞めるという道しかなかったんです。

当然ながら、不安はありました。電通に戻らないと決めたとき、次のプランは何もありませんでした。つまり、無職になるわけです。会社に意思を伝え、いよいよ無職になると決まったときには、5日間ほど寝起きに吐き気がしました。僕がそんな状態になったのは、人生でこの5日間だけです。僕には息子が3人いて、当時三男はまだ中学生。全員私立校に通っており、これからまだ10年近く学費もかかるのに、大丈夫だろうか。胸を張って「大丈夫」と言う自信は、正直なところ、なかったです。

一方で、起業するしかないと腹をくくった理由もまた息子たちでした。彼らが「将来、社長になりたい。自分で会社を起こしたい」と言うんですよ。なぜかと問うと、「父さんみたいになりたいから」と。それを聞いて「これはまずいな」と思ったんです。IPGは僕が立ち上げて、確かに社長をやっていたけれど、IPGは僕の資本で立ち上げたわけではありません。青臭いかもしれませんが、僕には「自分でリスクを張って会社を立ち上げてこそ起業」という考えが当時あって、息子たちの手前、「このままでは格好がつかないぞ」と(笑)。それで、何の後ろ盾もない、まっさらな状態からリスクをとってチャレンジしようと決めたんです。

大企業の「レバレッジ」の必要性を感じなくなった

もうひとつ起業に向けて背中を押したのは、電通という「レバレッジ」が自分にはもう必要ないという感覚です。「レバレッジ」というのは、その会社にいる自分のほうが、そうじゃない自分よりも大きな仕事ができる、自分のやりたいことができるという意味です。電通にいてリアルに感じていたのは、大企業というのは「レバレッジ」が効くんですよ。地方の小さな町出身の学生だった僕が電通に入社した瞬間、会社名を出せばたいていの人と会える。しかも、言葉にリアリティも出て、自分の話に相手が納得してくれる。これが「レバレッジ」です。

でも、IPGで18年間経営に携わることによって、僕はさまざまな経験をしました。そのひとつであり、最も大きかったのが、ライセンスビジネスの経験です。特許などの知的財産をビジネス戦略に積極的に生かす面白さを僕はヘンリー・ユーエン氏から教わりました。この経験は電通の中にずっといたら得られなかったものであり、僕固有の価値で自身の核となるものだと。そう気づいたときに、もう電通という「レバレッジ」の必要性は感じなくなっていました。

大企業を離れ、未経験のドローン業界で起業。人生を自分でコントロールし続けるために (田路圭輔さん/ライフシフト年齢49歳)

その後、ドローンと出合ったのは、巡り合わせのようなものでした。IPG社長を退く少し前に、千葉功太郎さんという投資家とお会いする機会がありました。千葉さんはドローンスタートアップに特化した投資ファンド「ドローン・ファンド」を設立するにあたり、ある人から僕が知財に詳しいと紹介され、いろいろと教えてほしいとのことでした。それで、知っている限りのことを話したら、すごく感謝してくれて。僕が起業を考えていることを知ると、「特許ポートフォリオづくりのプロ」と千葉さんが評する弁理士の中畑稔さんと僕を引き合わせてくれ、中畑さんと共同創業でドローン関連の知財戦略・知財マネジメントを手がけるDRONE iPLABを立ち上げたんです。

エアロネクストはバルーン空撮のエキスパートである鈴木陽一さん(現・エアロネクスト取締役CTO)が創業した会社で、僕はエアロネクストの技術発明にポテンシャルを感じて資本提携を機に経営者として参加しました。ドローンの機体フレーム技術に注目したのは、機体こそがドローン産業とって不可欠な構成要素だからです。テレビ産業におけるEPGに大きな可能性を感じたときと同じ感覚でした。

好きなことしかやりたくないし、やらない。今もこれからも、そう決めている

起業しようと決めたとき、僕がイメージしていたのは知財戦略をコアバリューとするプロの経営として仕事をすることだけで、産業ジャンルに強いこだわりはありませんでした。ただし、何でもよかったわけではありません。千葉さんに最初にお会いしたとき、彼が「鳥みたいにドローンが飛んでいる社会が来る」と言ったんです。それを聞いて、素直に夢があると思ったんですよ。同時に、この市場は自動車産業(約400兆円)を超えるかもしれないと、ビジネスのスケールにも興味が湧きました。僕は市場創造が好きなんです。誰もやっていないこととか、100年後の未来を創るとか、やはりそういうことにワクワクするんですね。

大企業を離れ、未経験のドローン業界で起業。人生を自分でコントロールし続けるために (田路圭輔さん/ライフシフト年齢49歳)

IPG社長を退いて自分自身が変化したのは、身軽になったことです。IPGも立ち上げたときは周囲が誰も関心を持たず、自由にやっていましたが、会社が成長してくると、しがらみも生じてきます。そんななかで、だんだん不自由さを感じるようになりました。エアロネクストやDRONE iPLABも成長するにつれ同じ現象が起きるはずなので、それをどう回避しようかとは思案しています。

それから、これはIPGにいるときからそうでしたが、若いころのように自意識も強くないし、万能感に包まれているわけじゃないから、チームで成果を出すことが好きになりました。実際、今の僕は自分より優秀な人としか仕事をしないと決めているので、極論を言うと、今日から僕がいなくなっても何の問題もないと思うんですよ。むしろ、その状態にならないと、事業は成長しないと考えています。

最近つくづく思うのですが、僕は多分、めちゃくちゃ成功欲求が強いんですよ。成功欲求というのは、お金や地位の話ではなくて、ある仕事を自分がやる限りは必ず成功させるということです。その成功という結果も、個人ではなくチームで出したい。高校野球の監督のような感覚でしょうか。自分のチームを優勝に導く、というようなことが好きだし、楽しいんですよね。

大企業を離れ、未経験のドローン業界で起業。人生を自分でコントロールし続けるために (田路圭輔さん/ライフシフト年齢49歳)

僕は49歳で独立起業しましたが、年齢については意識していませんでした。これはあくまでも僕自身の場合なんですけど、起業のタイミングというのはあまり自分ではコントロールできないと感じているんですよね。本音を言えば、IPGという会社を僕は続けたかった。自分で立ち上げて、自分が考えた設計図によって、仲間とつくってきた会社で愛着もあったし、まだまだやりたいことがありました。だから、無念ではあったんですよ。でも、組織や資本の論理もあって僕がIPGに残る選択肢はなく、49歳がたまたま独立のタイミングだった。ただ結果論として、若くして独立するよりも良かったのは、ある程度キャリアを積み、経験と実績を重ねていたことで、個人に説得力と信用が多少ついてきていたというのはありました。

そもそも僕は「何歳だから、これをする」と考えたことがなくて、子どものころからずっと同じ時間感覚なんですよね。いつ死んでもいいくらい、好きなことだけをやって生きてきました。もちろん、デコボコはありますよ。好きじゃないことをやったこともあるし、やらなければいけないと思っていたこともある。でも、すべてひっくるめて言うと、好きなことしかやりたくないし、やらない。今も、これからもそう決めています。