デザイナーとして会社に勤務しつつ、フリーランスとしても活動する一方で、大好きなクラフトビールの専門店でアルバイトとして働き、地域イベントの企画・運営など町おこしにも尽力している荻原直也さん。その姿からは想像できませんが、20代は「会社と自宅をただ往復する暗黒の日々だった」と言います。荻原さんはいかにしてその日々を抜け出たのでしょう。

PROFILE

荻原直也さん(No.104/Scooby.co代表)

■1983年、神奈川県川崎市生まれ。建築・インテリアの専門学校卒業後、建築・設計事務所を経て2005年4月、インテリアショップ「artstylemarket(アートスタイルマーケット)」入社。2006年10月、革製品製作会社・株式会社トーア入社。OEM製品の企画・設計、デザインを担当し、2016年にはオリジナルブランド「LPW」を立ち上げる。2020年個人活動母体「Scooby.co(スクービー.コー)」を始動。会社勤務を続けながら、個人事業主としてデザイン業務やクラフトビール系アパレルブランド「TAPMATE」の運営を行うほか、ビアフェス「いなげカンパイビアデイ」の企画・運営など地域活動にも注力している。

■家族:妻、長男(10歳)、次男(2歳)

■座右の銘:「日常にこそ、デザインを」

「人々の個性はハレの日よりも日常で表れる。その表現のために日常こそデザインが求められ、意義を持つ」という意味。デザイナーとしての活動の軸にしている言葉だ。

LPW&TAPMATE ONLINE STORE

 

高校の学園祭で感じた喜びが原点

川崎市の南端、工場地帯の近くで生まれ育ちました。あのあたりは昔から変わりません。建物は無機質で冷たいけれど人は温かい、僕にとってはほっとする景色です。

地元の中学を卒業後、市中央部にある高校に通い、サッカーやダンス、バンドに熱中。学園祭にも積極的に参加し、体育館でライブをしたり、クラスTシャツのデザインもしました。自分がデザインしたものを着たみんなが楽しそうにしている姿を見て、すごくうれしかったのを覚えています。振り返れば、この思いが僕の原点です。

インテリアが好きだったので、専門学校のインテリアデザイン科に進学し、卒業後は建築設計事務所に入社。内・外装関連の仕事を1年間経験した後、東京・目黒通りと原宿にあった「アートスタイルマーケット」という学生時代から憧れていた家具屋さんで働きはじめました。岩松賢一さんというデザイナーがオーナーのお店で、社員は5、6名でした。

職種は、ショップスタッフ。少人数の会社なので、入社後数カ月で接客・販売からオーダー家具の設計、生産管理、納品、アフターサービスまですべてを任されました。カタログも商品の撮影からみんなで作っていたし、新商品の開発も携わりました。だから、毎日朝10時に出勤し、帰宅は終電。今思えば、ブラックな働き方でしたが、楽しくて苦になりませんでした。

「アートスタイルマーケット」で働いたのは1年半。短いけれど濃い時間で、今の僕の基礎となるものはすべてあそこで学びました。先輩たちの仕事への取り組み方がすごかったんですよ。「考えなくても手を動かせばできるのは“業務”で、自分で考えて創り出していくのが“仕事”」と教わり、「仕事」ができる人になりたい、と思っていました。

何より、デザインを究極まで追求するオーナーの姿が異次元でした。いつかは同じ目線に立ち、超えたいと思っていますが、見る者に衝撃を与える力が大き過ぎてまだ雲の上の存在です。

雑誌の記事にも取り上げられた、「アートスタイルマーケット」に勤務していたころの部屋

「安定」と「やりたいこと」の均衡を考えて今の会社に

現在も勤務する革製品製作会社に転職した理由は、「安定」を求めたというのがひとつ。すでに今の妻とつき合っていたこともあり、業界の将来性やお給料を考えると、もう少し大きな組織で働く方が生活が安定するのかな、と考えました。

家具もお店も好きでしたから、それだけなら続けたかもしれません。決め手は自分の中に何となくあった違和感でした。「アートスタイルマーケット」の家具は数十万円する高価なものも多々あって、それを月給17、8万円の若造が、自分の部屋に置いたこともないのに扱うわけです。

自分で体感したことのないものをお客さんに勧めることへのモヤモヤが心にあり、それを言語化できた時、自分がもっと自信を持ってお客さんに勧められる商品にかかわりたいと思いました。ただ、手に届きやすい値段の家具を勧めたいかといえば、それも違う。その点、ベルトやお財布ならちょっと背伸びをすれば上質なものに触れられる、と考えたんです。

上司との関係に囚われ、会社と家をただ往復した日々

今の会社に入ったのは、23歳の時。ここでデザイナーとしてキャリアを積んで、自分が心の底からみんなに勧められるものを作っていこう。そんな風に思っていました。ところが、入社後は上司との関係に心をすり減らされ、少しずつ心が蝕まれていきました。

上司は気性が激しく、周りを思い通りにコントロールしないと激昂する人でした。怒鳴られるのはしょっちゅう。「すぐに謝りにこい」と電話がかかってきて、始発で上司のいる大阪の本社まで出向いたこともありました。

振り返れば、あれはパワーハラスメントと呼べるものだったと思います。でも、渦中は頭の中に重く黒い靄に覆われている感覚が抜けず、ヘドロまみれの水中を必死でもがいているような感じでした。

最初は、仕事さえ頑張れば状況が変わると思っていました。ところが、上司の型にハマらない事をすると激しく怒られる。そんな光景が自分や周りで何年も繰り返されました。挙句の果てには、家族へ向けた脅迫まがいの言動も出るようになり、「結局のところ、上司の言うことだけを聞いていた方が楽なのかも」とあきらめが先に立つようになってしまったんです。

四六時中上司や仕事のことが頭から離れなくなって、26歳で結婚したころから徐々に友人とも会わなくなりました。学生時代から続けていた音楽もやめました。

20代後半の数年間は会社と家をただ往復する毎日で、それ以外の思い出が一切ありません。僕の状態を心配した友人が年に何回か飲みに誘い出してくれましたが、プライベートで誰かに会うのはそのくらいでした。

視野が狭まっていましたし、30歳を前にしたころには子どもも生まれ、「この子と妻を守る、ただそれを全うするだけの人生」とすら思っていました。定年までずっとあきらめて、感情を押し殺して生きていかなければダメなんだ、と絶望感に襲われたこともあります。日々綱渡りをしているような、ギリギリの精神状態でした。

上司の退職を機に、自分の心を解放しようと思った

変化の兆しが現れたのは、30代に入ったころです。上司の理不尽な行動に振り回されていたのは同僚たちも同じだったのですが、みんな頑張って続けていたんですね。ところが、ひとり、ふたりと辞める人が出てきて、退職後の彼らに会うと、自由で生き生きとした表情をしていました。その姿を見て「自分だって夢を描いていいんだ」と思ったんです

この時初めて、「辞めようかな」とも思いました。でも、革製品のデザインをずっとやってきて、仕事そのものには目標や想いがあるし、まだまだ学ぶこともある。辞めるのはもったいないと考えて踏みとどまりました。

ただ、「会社から一歩外に出てみよう」とは思いました、それで、プライベートでデザイン関連の活動を始めたんです。大がかりなことではないんですよ。自宅でデザインしたオリジナルTシャツを作ったり、何かのきっかけにもなるかなと音楽活動をしている地元の先輩に久しぶりに会いに行ったり……。まあ、そんな感じです。

それでも1、2年動いていると、音楽に精通した「FUNKTION」という飲食店などさまざまな方々に応援していただいて人脈もでき、自分のオリジナルを評価してくれる人たちが増えはじめました。ちょうどそんなころ、例の上司が不祥事を起こして職場を去ったんです。

長く暗いトンネルをようやく抜けたような感覚でした。当時、僕は32歳。「これを機に、心に閉じ込めていたものを解放しよう」と思い、最初に実行したのは、個人でやっていたファッションブランドの事業化を会社に提案すること。下地ができていたこともあったのか認めてもらえ、レザーアパレルブランド「LPW」を立ち上げて、デザインからブランドマネジメントまですべてを任されました。

ミュージシャン「GOST」として活動する地元の先輩と。先輩を通じて人脈が広がり、国内最大級のレゲエイベントに出演するアーティストの衣装デザインも個人として担当した。

地元のバーでの出会いが、閉じた心をほぐしていった

「LPW」はコアな音楽シーンに影響を受けてその感覚に合う人に向けたブランドです。このブランドを展開していく過程でさまざまな出会いがあり、それが最終的にはOEM事業の受注にもつながって、2020年には人気バンド「King Gnu」のツアーグッズのバッグの設計製作も担当しました。

でも、それまでの間には成果が目に見えず、個人としても、自分が何に根ざしてデザインの仕事をするのか自問自答を繰り返した時期がありました。そんなころに通いはじめたのが、京急川崎駅近くにある「CUBE BAR(キューブバー)」。クラフトビールの品揃えにこだわりを持つダイニングバーです。

高校時代の同級生が店長を務めているお店なんです。学生時代は彼と接点がなかったのですが、友人から話を聞いて興味を持ち、「LPW」のプロモーションにもつながるかな、という気持ちもあって行ってみました。

すでにお話ししたように20代は仕事以外の人づきあいがほとんどありませんでしたから、初めてのお店に飛び込みで入るのは僕にとって結構な冒険でした。でも、行ってみると、温かく迎えてもらえ、ほっとしたのを覚えています。

クラフトビールにもハマり、「CUBE BAR」以外のお店にも通うようになりました。昼間には出会えない人たちと会えるのがすごく楽しいな、と感じたんです。年齢も仕事も多種多様だけど、話してみると、みんなそれぞれ面白くて。

職場でうまくいかないことがあっても、行きつけのお店でビール片手にいろいろな人と話していたら、何とかなるような気がしました。

初めて地域活動に参加し、「大人の学園祭みたい」と思った

地域活動にかかわるようになったのも「CUBE BAR」が起点でした。2018年に「カワサキよりみちサーカス」という市民が模擬店やパフォーマンスを楽しめるイベントが開催され、僕も遊びに行きました。すると、盛況だったし、雰囲気も良くて、「こういう場所で自分の作品を売るのもいいな」なんてぼんやり考えていたんです。

たまたまそんな時に、「CUBE BAR」で知り合った友人が実行委員会のメンバーだと知り、「彼がいるなら楽しそう」と思って2019年の実行委員会にボランティアとして参加してみたんです。ミーティングは週に1回平日の夜。仕事で行けない時もあったし、あとはSNSでやり取りする感じでした。

それまでの僕は、市民がやるイベントというと何となく、町内会の盆踊りのように地域の人たちが内輪で楽しむもの、というイメージを持っていました。

でも、「カワサキよりみちサーカス」に参加してみたら、全然違いました。イベントを駅周辺の活性化につなげられるよう、たくさんの人に足を運んでもらい、ちゃんと満足してもらえるものを目指していて、来場者も数万人を超える規模。メンバーそれぞれが経験やスキルを持ち寄り、高い意識を持ってイベントを作っていたんです。

高校の学園祭のようにみんなで和気あいあいと楽しみつつ、デザイナーとしての視点やスキルも活きて、「大人の学園祭みたいだな」と思いました。

2019年の「カワサキよりみちサーカス」の様子。会場レイアウトを担当した

地域での活動を通じて、居場所を感じた

「町おこしって面白い」と感じ、翌年の実行委員会にも参加しましたが、この時点では会社員としての働き方を変えてまで地域活動にかかわろうとは考えていませんでした。転機はコロナ禍です。2020年4月に緊急事態宣言が出て飲食店の売り上げが急激に落ち込み、「CUBE BAR」をはじめ川崎の街で知り合った飲食店の人たちはものすごく大変そうでした。

その姿を見て少しでも彼らを応援できたらと思い、広島県の取り組みを参考に、お客さんが代金を前払いすることで将来の来店意思をお店に伝えられる「カワサキ未来チケット」を考案しました。すると、飲食店の皆さんがとても喜んでくれたんです。

当時は会社の環境も先行きが見えず、7、8年かけてようやく実現した案件が保留になったりして、僕自身も落ち込んでいた時期。でも、僕自身のことよりも、僕が大変だった時期に温かく迎えてくれた人達に向けたアクションを起こしたいという思いの方が強く、実行に移しました。結果としては、僕の方が力をもらった部分が大きいのですが(笑)

チケットによる間接的な支援の次は、お店とのつながりを直接お客さんに体感してもらいたいと思い、リモートワークのかたわら、地元のタワーマンションの敷地内や競輪場でテイクアウトメニューの代理販売をしました。そのうちに屋外での飲食イベントが開催できる状況になり、今度は「体感」の次は「一体感」をとクラフトビールのイベントを開催したいと考えるようになりました。

つらい時期にいつも僕を力づけてくれたのは「CUBE BAR」をきっかけに広がっていった飲食店の人たちや、クラフトビール仲間、地域の人たちとの出会いでした。だから、みんなが集い、川崎の街で乾杯する楽しさをもう一度思い出してもらえるような場を作りたいと思ったんです。

その思いを2021年の夏に「カワサキよりみちサーカス」で知り合った役所の人に話してみたところ、前向きに相談に乗ってくれ、年が明けたころには実現への道筋が見えてきました。これが「いなげカンパイビアデイ」の出発点です。

タワーマンションの敷地内で開催した「カワサキ美味しいものマルシェ」で仲間と

地域活動の時間を作るために、38歳で正社員から契約社員に

代表として地域イベントを立ち上げるからには、「カワサキよりみちサーカス」のようにたくさんの人たちに満足してもらえ、続いていくものにしたいと思っていました。でも、僕は頭が悪い人なので、他人の2倍考え、行動しないと何かを成し遂げられないタイプ。イベンターとして経験があるわけでもなく、数千人規模のイベントを「片手間」でやるのは無理です。

そこで会社に事情を話して、2022年5月に雇用形態を正社員から契約社員に変えてもらい、出勤は週1回だけ、勤務時間も短くしてもらいました。この時、会社には「社内でのキャリアはもう捨てます。昇給も昇進ももう僕は望んでいません」とはっきり言いました。その方が会社も判断しやすいと思ったからです。断られたら、転職先を探すつもりでした。

契約社員になると、給料は正社員の3分の2くらいになりますが、個人の活動も以前から続けていて、2020年にはクラフトビールをモチーフにしたアパレルブランドも立ち上げ、主婦のパートくらいの収入はありました。妻も働いていて、生活に困ることはなさそうでした。

加えて、川崎駅前のクラフトビール専門店「プラチナフィッシュ」のマネージメントをしている友人にお願いし、彼のお店でアルバイトをさせてもらえる事になりました。クラフトビールのお店で働けば飲食やビールの事を学びながら、収入面を補えるし、ビール好きのお客さんとより深く関係を築けるイベントや自分のブランドについて知ってもらうきっかけにもなるかもしれない。「一石三鳥」だと考えたんです。

妻は「家族が食べていけるのなら、いいよ」と言ってくれました。彼女は堅実で経理の仕事の経験もあり、僕の考えに納得しなければ、首を縦に振らない人です。でも、今回はひと言だけでした。もう何年も僕が自分のやりたいことの話ばかりしているので、根負けしたのかもしれません(笑)。僕の言葉だけでなく姿を見てくれていたのかな、とも思います。

「一生、好きな人たちとやりたいことをやる」は夢物語じゃない

市や観光協会の後援、15社の地元企業の協賛もいただき、2022年10月末に「いなげカンパイビアデイ」を開催。川崎をはじめ首都圏の4つのブルワリーや地元のビアバー4店のほか、フードや物販のお店も並び、2日間で約4000名が集まりました。

「いなげカンパイビアデイ」のひとコマ。大好きな仲間がいて、クラフトビールが飲めて、自分が企画しデザインした空間で、たくさんの人たちが笑っている——至福の時間でした。

2023年4月末に次回の開催も予定していて、今はその準備に取りかかっているところです。イベント開催には資金も仲間も必要で継続するのは壁が多い、正直、自分にできるのかなとネガティブな思いに駆られることもあります。でも、だからこそ、そこを超えたい。目標は「いなげカンパイビアデイ」を川崎の観光資源にすることです。

ずっと携わってきた革製品のデザインを会社でやりながら、個人事業主としてグラフィックデザインやアパレルの運営をして、クラフトビール専門店で働き、街に根ざした活動を仲間とする。どれも僕にとっては欠かせない「生業」です。

気づけば今の僕はやりたいことしかやっていないし、一緒に仕事をして違和感のある人が周りにいません。この先も、一生好きな人たちと仕事をして、自分がやりたいことでお金を稼ぎたい。夢物語に聞こえるかもしれませんが、会社や上司に心を囚われていた暗黒の20代を思えば、僕はそれが難しいことだとまったく感じません。

僕はバンドをやったりしてもともと表に出るのが好きで、根っこにあるのは「もっと目立ちたい」という気持ちなんですよ。誰かに喜んでもらうのはすごく好きだけど、それは同時に自分が目立ちたくてやっていることでもあるんです。

周りには20代から行動して30代で形にしている人が多いけれど、僕は10年遅れてるから、巻き返すには、これからブーストしていかなくてはなりません。やることが無尽蔵にあって、365日仕事のことを考えています。無自覚でずっと仕事の事を考えている今の自分が一番心地がいい。死ぬまで仕事がしたいと思っています。

第一回「いなげカンパイビアデイ」終了後に出店者の皆さんや実行委員会のスタッフと

宮古島でカフェを営む友人を訪ねて家族と。宮古島を盛り上げるためのTシャツの制作にも個人の活動として取り組んでいる。

(取材・文/泉 彩子)

*ライフシフト・ジャパンは、数多くのライフシフターのインタビューを通じて紡ぎだした「ライフシフトの法則」をフレームワークとして、一人ひとりが「100年ライフ」をポジティブに捉え、自分らしさを生かし、ワクワク楽しく生きていくためのワークショップ「LIFE SHIFT JOURNEY」(ライフシフト・ジャーニー)を提供しています。詳細はこちらをご覧ください。