日本では珍しいスピーキング特化型のオンライン英会話「LAT」を経営する宇佐神悟さんは、元IBM社員。IBMには「定年まで安泰」と思って入社しましたが、営業部長を務めていた44歳の時、ビジネスモデルも持たないまま起業を志して退職したそうです。当時高校生の娘さんの父親でもある宇佐神さんが新たな道を一歩踏み出し、夢をかなえられた背景には、どのような「戦略」があったのでしょうか。

PROFILE

宇佐神悟さん(NO.110/H&K株式会社 代表取締役)

1995年上智大学卒業後、日本IBM株式会社に入社。SEを経て、2003年より営業部門へ。ネットワーク関連のハードウェア、サービスに特化したコンサルティング営業などを担当後、インフラサービスを提供するソリューション部隊の営業部長を務める。2015年4月に退職し、H&K合同会社(現・H&K株式会社)を設立。2017年にスピーキング特化型のオンライン英会話「LAT(Language Acquisition Training)」の事業を立ち上げる。「LAT」の外国語学習支援システムおよび外国語学習支援方法ならびにプログラムは2018年に特許認定されており、2019年には英会話業界で初となる東京都中小企業振興公社による評価事業として認められている。

■家族:妻、長女

■座右の銘 「求めよ、さらば与えられん」

新約聖書・マタイによる福音書7章7節の言葉。クリスチャンであり、このほかに「信じる者は救われる」「神は乗り越えられる試練しか与えない」といった聖書に由来する言葉を常に心に留めている

就職氷河期に何とか大企業に入社。「これで定年まで安心」と思った

僕が経営するオンライン英会話「LAT」のコンセプトは、「英会話のトレーニングジム」。「筋トレ」にあたる基礎トレーニングと「練習試合」にあたる実践トレーニングを組み合わせたプログラムで、基礎トレーニングでは受講者の皆さんに毎日30分専用のアプリを使用したトレーニングに取り組んでいただき、実践トレーニングでは専属の外国人コーチと平日の決まった時間に毎日7分〜10分間会話の実践練習をしていただきます。英会話を「勉強」するのではなく「体」で覚えて「話せる」ことを目指すシステムで、2つの特許を取得しました。2023年8月現在、会員数は約200名。「これまでどのスクールに行っても話せるようにならなかったのに、英語が自然に口から出てくるようになった」とおっしゃってくださる方が多く、最近ではアメリカ在住の方から「英語力の伸びがカレッジのELL(English Language Learner)クラスとは比べ物になりません」といった声もいただき、大きな喜びを感じています。

今の自分を学生時代の僕が見たら、間違いなく驚くでしょう。英語は好きでも得意でもなく、IBMに入社した理由も、外資系企業であることとは無関係でした。就職活動で30社ほど応募し、唯一採用してくれた会社がIBMだったんです。就職氷河期の中、名の知れた会社に採用が決まり、「これでエリートの仲間入りができた。定年まで安心」と胸をなでおろしたのを覚えています。

僕がIBMに入社したのは、日本の企業がITを次々と導入しはじめた時期。仕事はすごく面白かったです。顧客担当のシステムエンジニアや大規模ネットワークプロジェクトのマネジメントを担当後、31歳の時に、当時としては珍しく役員から直接お話をいただて、エンジニアから営業部門へ。会社員生活は順風満帆で、当時はIBMを辞めることなど考えもしませんでした。

IBM時代、営業部門のメンバーと。億単位の予算の達成が求められる日々で、プレッシャーは常に感じていたが、充実感も大きく、楽しく働いていた。

“読書との出合い”をきっかけに、「独立」を考えはじめた

「自分でビジネスをやってみたい」と思いはじめたのは、30代前半から本を読むようになったことがきっかけです。僕は子どものころからの活字嫌いでした。でも、営業部の先輩から言われた「お前の言っていることはすべて薄っぺらい。それは本を読んでないからだ」という言葉が胸に刺さり、「読んでみよう」と思ったんです。

ITや営業など仕事に関連した本から読みはじめ、やがて『思考は現実化する』『金持ち父さん 貧乏父さん』『ザ・シークレット』といった自己啓発書も手に取るように。これらの本に通底する「自分が本当に生きたい人生は、自分でつかみ取れる」という考え方に触れて人生観が変わり、30代半ばには「このままIBMにいては会社に人生を捧げるように感じてしまうだろう。自分の人生を生きるためには、本当にやりたいことをやらなければ」と思うようになりました。

僕にとって「本当にやりたいこと」というのは、社会に貢献し、影響力を与えるようなビジネスを自分の手で生み出すこと。「いつかそんなビジネスモデルが見つかったら、独立したい」と思っていました。

とはいえ、会社では優秀な「がむしゃらサラリーマン」。仕事にはやりがいがありましたし、周囲にも恵まれ、35歳で営業課長、38歳で営業部長と昇進。「いつか」は来ないままずるずると時が過ぎ、気づけば44歳になっていました。

「このままではいけない」と本棚の自己啓発書を読み返していた10月のある日、役員から呼び出され「来年2つの営業部を合体させた新しい事業部を作るのでそのリーダーを任せたい」との相談がありました。ありがたいお話でしたが、「これを受けたらダメだ」という心の声が聞こえました。この話を受ければ、途中で放り出すわけにはいかないということから、自分は50歳まで会社にいることを正当化してしまう。そして、50歳になったら、きっとまた新たなミッションを任され、結局、自分は定年まで会社にしがみつくんじゃないか。そんな将来像が何となく見えたんです。

会社で楽しく働いてはきたけれど、管理職としてそれなりの重圧を感じていましたし、組織で仕事を進めていくには本音と建前を使いわけなければいけない場面もありました。この先も同じ人生を歩むのかと自分に問いかけた時、「心からやりたいことをやり、本音と建前が一致した人生を送りたい」と思い、「会社を辞めて独立するので、新しいミッションは受けられない」とその話を断りました。

ビジネスモデルを持たないまま、44歳でIBMを退職

IBMを退職したのは2015年4月。44歳の時です。この時点でビジネスモデルは全くありませんでした。唯一あったのは、経済面の備え。30代半ばに読んだロバート・キヨサキ著『金持ち父さん 貧乏父さん』で会社員が資産を持つことの大切さを学び、「給料が上がっても、支出は増やさない」と決めて貯蓄をしていました。

例えば、今の住まいは当時毎月4万円のローンを組んで買った、1200万円の中古マンション。固定費を増やさないことによって、給料が上がった分を貯蓄でき、退職した段階で高校2年生だったひとり娘の教育費は確保できていました。また、退職の前後でローンを組んでアパート2棟を購入。月20万円ほどの家賃収入を得られる体制を組んでいました。

独立後、最初はフランチャイズでパーソナルトレーニングジムの経営を始めました。IBM時代、僕が最も好きだったのは人材育成。パーソナルトレーニングジムのトレーナーは高い営業力が求められるので、会社員時代に培った営業ノウハウを生かして人を育て、いずれは独立させるようなことができたら面白いかもしれないと考えたんです。

フランチャイズでやろうと思ったのも、『金持ち父さん 貧乏父さん』の影響でした。「自分で事業を起したい」と言いつつ、よりどころがないのはやっぱり怖かったんです。フランチャイズなら本部からのノウハウの提供もあって守られているから、初めて起業する自分には安心だと考えました。

でも、事業主である限り、「守られる」なんてことはあり得ません。IBMを退職した2カ月後、2015年6月末に店舗をオープンしましたが、最初の9カ月は赤字続き。頼みの綱の家賃収入もたまたま開業翌月からアパートの空室が増え、一時期は貯金残高が30万円に。「手をつけない」と決めていた娘の教育費以外のお金がどんどん減っていきました。

経営していたパーソナルトレーニングジムの内観。フィットネス系の需要は春に高まり、夏に落ち着く傾向があり、6月末のオープンはベストタイミングではなかった。

起業当初は「やめるのも地獄、進むのも地獄」。夜中、3時間おきに目を覚ました

ジムの経営がうまくいかないからといって、簡単に畳むわけにはいきませんでした。店舗を構えているし、従業員もいて「やめるのも地獄、進むのも地獄」。精神的に追い詰められ、夜中も3時間おきに目を覚ましました。

不安に押しつぶされそうな心を支えてくれたのは、30代半ばから貪るように読んだ本たちでした。とくに何度も読み返したのは、ロンダ・バーン著『ザ・シークレット』。「引き寄せの法則」を主題とする本で、読むうちにマインドセットが変わり、「今起きていることには何の意味もない。あることがあるだけ。とにかく自分が望んでいる方向に意識を向けよう」と考えられるようになりました。

家族にも救われました。うちは妻も娘も能天気というか、明るいんです。開業後、経営が一番厳しかったのは2016年の冬でしたが、家族にお金の話をして心配させるのは避けたかったので、「今年は省エネのために暖房をつけず、厚着で過ごそう」と提案したんですね。ふたりとも「いいね。やろう、やろう」と言ってくれて、苦しい時期も楽しく過ごすことができました。

窮地を乗り切るため、IBMで培った営業ノウハウを生かしてコンサルティング業も始めました。正直なところ、コンサルティング業をやりたかったわけではありません。コンサルティングもやりがいのある仕事であることはわかっていましたが、コンサルタントができるのはクライアントのビジネスのお手伝いです。居心地のいい会社を飛び出してまで起業したからには、新たなビジネスを自分で生み出したいという思いが胸の内にはありました。

しかし、家族を路頭に迷わせるわけにはいきません。「やらなければいけないこと、できることは何でもやろう」という思いで、クライアント獲得の足がかりになればと藁をもつかむ思いで、BNIという経営者の交流会に入会。ここで出会った経営者仲間たちが、大きな転機を運んできてくれました。

BNIは世界中にネットワークを広げる経営者交流会で、さまざまなバックグラウンドを持つ仲間と出会うことができた。

退職の2年後、一生を賭けるに足るビジネスを見つけた

BNIに参加して半年ほど経ったころのこと。仲間から、とある英会話スクールを経営している外国人経営者を紹介されました。彼にはお金があまりなく、自分のスクールで使っているスピーキングのトレーニングを目的としたオーディオ教材を提供するかわりに、格安でコンサルティングをしてもらえないかと提案されたんです。この時僕は、内心「僕がその教材をやっても、話せるようにはならないけどな」と思いながら引き受けました。

というのも、英語に関しては苦い思いがあったんです。IBM時代、ポジションが上がるにつれて英語が求められることがわかっていたので、若手社員時代から結構なお金をかけて英会話スクールに通ったり、リスニング教材を購入して勉強し、TOEICのスコアは800点台まで上がりました。それでも話せるようにはならず、外国人上司に英語で報告をする立場になっても、“Yes. I can”のひと言でお茶を濁し、外国のレストランで注文しても予想とは違うものが出てきてしまうような体たらく。自分には英会話の才能がないとあきらめていました。

ただ、彼から渡された教材はとにかく口を動かして「発話するトレーニング」で、「ちょっと面白そうだな」と試しにやってみました。1回が30分程度の教材でしたが、彼へのコンサルのたびにやっているか確認されるので継続でき、毎日スピーキングのトレーニングをしつつ、必死になって英語でコンサルティングをした1年後。海外のバーで隣り合わせたオーストラリア人から話しかけられ、お酒を片手に英語で談笑している自分に気づきました。

英語の「勉強」ではなく、「トレーニング」をしたら、すっかりあきらめていたことができた。この体験をもとにプログラムを体系化し、リーズナブルな価格で日本に広めたら、社会貢献につながるような大きなことができるかもしれないと考え、「一生を捧げるに足るビジネスになるかもしれない」と思って「LAT」を立ち上げました。会社を辞めてから2年が経っていました。

「LAT」立ち上げ当初に使用していた教材の開発者と。「これまでにない英会話学習法を日本に広めたい」という僕の思いに共感してくださり、さまざまなアドバイスをくれた。

英会話事業開始2年目、ビジネスモデルの破綻に気づいた

オンライン英会話事業を始めたのは2017年。当然ながら、ゼロからのスタートでした。外国人講師や日本人スタッフも雇わなければならず、最初は赤字でしたが、この時は「何とかなる」と思っていました。コンサルタント業が軌道に乗ってフィットネスジムの経営も盛り返し、ある程度基盤ができていたからです。

ところが、「LAT」をローンチして1年後、会員数は順調に増えたものの、ビジネスモデルが破綻していることに気づきました。「LAT」は「普通の会社員が続けられる価格にしたい」という思いもあって、無料で使える既存のITツールを活用して低コストで運営していたのですが、損益分岐となる会員数まであと少しという段階で、事務処理が追いつかなくなり、ミスが続発。「スタッフを増やさなければ」と考えましたが、このままでは生徒数に比例して人件費も増え、いたちごっこだと思いました。

この時に生きたのが、IT企業のIBMで仕事をした経験です。ITで何が解決できるかが見えていたので、お客さまとの対話などコミュニケーション面だけに人材を集中させれば人件費を増やさなくてもやっていけると判断。1年ほどかけて専用のアプリと顧客管理のシステムを開発しました。

システム投資にかかった費用は2000万円ほど。国や自治体の補助金も活用してまかないましたが、簡単に出せる額ではありませんし、当時は投資回収できるほどの会員数が見込めるかどうかもわかりませんでした。システム投資をするか、事業を撤退するかと悩み抜きました。リスクを冒して事業を続けることに決めたのは、「LATと同じスタイルの英会話スクールは日本にない」と考えたからです。

僕には「LATほどの成果を出せるスクールはない」という確信がありました。ここでやめたら、かつての僕のように英会話の習得をあきらめる人は一向に減らない。だから、「今は苦しくても何とか踏ん張って、英語を話せたあの時の喜びをもっとたくさんの人に感じてもらいたい」と思いました。

専用システム完成後、会員数が安定した段階でパーソナルトレーニングジムを事業譲渡し、コンサルティングも新規の受注をやめて、オンライン英会話事業に一本化。そのタイミングでコロナ禍が始まり、オンライン需要が高まって、「LAT」の会員数もコロナ禍前の5倍に増えました。現在は「リアル回帰」で少し会員数の伸びが鈍化していますが、多言語化も進めており、中国人向け英会話や日本人向けの中国語のほか、ベトナム人向けの日本語教材を開発。インドネシア人向けの日本語教材も作成を進めています。

「LAT」専用のアプリと顧客管理のシステムの開発をお願いした、システム開発会社のみなさんと。

リスクを取らない限り、次の一手は見えてこない

独立して8年。ここ数年は業績が安定し、僕自身の収入も会社員時代とほぼ同じくらいになってきました。額面は同じでも、「建前で仕事することもなく、本音でお客様のため、従業員のために仕事をできている」という感覚の価値は計り知れません。

「LAT」の開発にあたり、僕が大切にしたのは、「失敗を繰り返せるプログラム」を作ることでした。テキストに書かれた英語のフレーズを覚えて繰り返す「勉強」では、失敗して恥ずかしい思いをするリスクは少ないですが、なかなか話せるようにはなりません。失敗を繰り返して恥ずかしい思いをしながらも、とにかくたくさんの英語を話してこそ、体が覚え、口から英語が突いて出るようになります。起業も同じで、リスクを取らない限り、次の一手は見えてきません。「自分で事業をやりたい」という思いがあるなら、一番大事なのは「やってみること」だと思います。

会社を辞める前にやっておいて良かった、とつくづく思うのは、娘の教育費を確保しておいたこと。事業がうまくいかず、夜も眠れなかった時期に持ち堪えられたのは、経済的なセーフネットがあったことが大きかったです。それぞれの家庭の事情にもよりますが、1年間収入がなくても食べていけるだけの貯金はあった方が安心です。

もうひとつおすすめしたいのは、会社員時代に目の前の仕事を精一杯やり、人並み以上の成果を目指すこと。それが起業後、ひとりでやっていくための自信につながります。僕の場合、独立後2年くらいは「いざとなれば、IT企業なら転職できる」という思いが、お守り代わりになりました。

お金と心の準備がある程度できたら、会社を辞めるのは早ければ早いほどいいかもしれません。起業には試行錯誤がつきものですが、年齢を重ねるほど、失敗した時の気持ちの立て直しが難しくなるように思います。

僕はビジネスモデルもないまま会社を辞めましたが、完璧を目指して立ち止まるよりは、思い切って辞めてよかったと思っています。あの時会社を辞めなかったら、僕はIBMにいる理由を作り続け、「自分の人生を生きたかったのに」と思いながら定年までの日々を過ごしていたでしょう。

30代半ば、「自分が本当に生きたい人生は、自分でつかみ取れる」と僕は本から学びました。本に書かれているのはただの文字だけど、そこに自ら意味を見出し、羅針盤にして行動すれば、人生は変わる。50代の今、そう感じています。

「LAT」の講師たちと。講師数は2023年8月現在16名。全員フィリピン人で、高い英語力はもちろんプロ意識と熱意を持ち、「ワンチーム」で仕事をしている感覚がある。

(取材・文/泉 彩子)

*ライフシフト・ジャパンは、数多くのライフシフターのインタビューを通じて紡ぎだした「ライフシフトの法則」をフレームワークとして、一人ひとりが「100年ライフ」をポジティブに捉え、自分らしさを生かし、ワクワク楽しく生きていくためのワークショップ「LIFE SHIFT JOURNEY」(ライフシフト・ジャーニー)を提供しています。詳細はこちらをご覧ください。