PROFILE

藻谷ゆかりさん(no.73)/経営エッセイスト 巴創業塾主宰

■1963年横浜市生まれ。1986年東京大学経済学部卒業後、日興證券(現・SMBC日興証券)に勤務。1991年ハーバード・ビジネススクールでMBA課程修了。外資系メーカー2社勤務後、1997年にインド紅茶の輸入・ネット通販会社を起業、2018年に事業譲渡。2002年に家族5人で長野県北御牧村(現・東御市)に移住し、長野県行政機構審議会専門委員や東御市教育委員を務める。2016年から昭和女子大学グローバルビジネス学部客員教授、2018年同大学特命教授。現在は地方活性化や家業のイノベーション創業を支援する巴創業塾を主宰。「起業×事業継承×地方移住」をテーマに講演・研修を全国で展開する一方、執筆活動も行なっている。著書に『衰退産業でも稼げます』(新潮社)。

■家族:夫と長男、長女、次男。

■座右の銘:「ブルー・オーシャン戦略」
一番大切にしている経営の本の名前であり、活動の指針にもしている言葉。「“ブルー・オーシャン戦略”とは他者と競争するのではなく、自分のビジネスを再定義し、新しいビジネス領域を切り開くこと。この言葉は、人生のすべてに当てはまります」と藻谷さん。

巴創業塾 

 

都市部で暮らし、安定した企業に長く勤める。それが当たり前だと思っていた

38歳のときに長野県北御牧村(現・東御市)に移住して18年になります。下の写真は我が家からほど近い「芸術むら公園」内の明神池。浅間山など信州の山並みが静かな水面に映えて美しく、何度見ても心を洗われます。長野県に移住する土地を探しているうちに、たまたま行き着いたこの景色にひと目惚れし、家族5人で移り住むことを決めました。

当時の北御牧村は人口約5500人、コンビニもなく信号機は2カ所しかありませんでした。地縁も血縁もなく、知り合いがひとりもいない「田舎」に30代後半に家族で移住したとお話しすると、驚かれることも少なくありません。実は、私自身でさえ社会人になったころは、今のような暮らしをまったく想像していませんでした。

横浜市で生まれ育ち、東京大学経済学部を卒業して、総合職として日興証券に就職。私が就職活動をしたのはちょうど男女雇用均等法施行(1986年)の前年で、女性総合職を募集する会社は数えるほどしかありませんでしたが、日興証券はいち早く女性に門戸を開いていました。チャンスを与えてくれるというのはうれしいものです。会社には感謝をしていましたし、「この会社でエラくなるぞ」と、できるだけ長く働くつもりで入社しました。

都市部で暮らし、安定した企業に長く勤める。当時の私にとっては、それが当たり前でした。人生にはほかにもたくさんのオプションがあると知ったのは、25歳でハーバード大学のビジネススクールに社費留学してMBA取得、20代後半で結婚・出産とライフステージの変化を経験するうちにです。夫はハーバード・ビジネススクールの1年先輩で、卒業して2日後に大学の教会で結婚式を挙げました。

子育てをしながら組織で働くことに難しさを感じ、起業

27歳で帰国し、28歳で長男、その翌年に長女を出産。職場復帰後の数年は本当にめまぐるしかったです。保育園の送りは夫が担当してお迎えは私、とある程度育児の分担はしていましたが、子どもが年子でフルタイム。近くに住む義父母にもサポートしてもらいながら、どうにか両立はしていましたが、とにかく時間に追われる毎日で、いっぱいいっぱいでした。環境を変えればもう少し働きやすくなるかもしれないと外資系企業に転職してみたのですが、どうもうまくいかなくて。長男が小学校に上がるタイミングで、千葉県・海浜幕張駅の近くに月4万円ほどのシェアオフィスを借り、紅茶の輸入・ネット通販会社を起業しました。

起業には、どうしてもコレをやりたいという強い意思のある「積極的な起業」と、起業するしか道がないという「消極的な起業」の2種類があると思うのですが、私の場合は後者でした。当時は、「子どもが小さいから、会社員として働き続けるのは難しい」と考えて起業を選び、それも事実なのですが、今になって振り返ってみると、大きな組織で働くことが苦手だったのだと思います。私にはスモールビジネスで、すべてに自分で責任を持って仕事をするほうが向いていました。

紅茶のビジネスを始めたきっかけは、米国留学時代に知り合ったインド人の友人がお土産に持ってきてくれた、ダージリンの紅茶でした。紅茶は茶色というイメージがあったのですが、いただいた紅茶はきれいな緑色で、淹れてみると、日本の緑茶のような新鮮な香り。「これが紅茶なの?」と驚き、いざ起業をと考えたときに、真っ先に頭に浮かびました。調べてみると、新鮮な緑の紅茶は日本ではあまり売っておらず、取り扱うお店があっても、値段が高いようでした。手に入りにくいものなので魅力を語りやすいし、これをリーズナブルな価格で販売できれば、喜んでくれる人がいるだろう。そう思って、インド紅茶で起業することにしたんです。

紅茶というのは賞味期限が2年と長く、年間の需要も安定しています。これは、育児をしながら働くにあたり、大きなメリットです。また、紅茶をアルミパックに袋詰めすると軽くてメール便なら120円ほどで全国に送れるので、インターネット通販に適していました。「紅茶」を選んだのは直観的判断でしたが、ビジネスを始めてみると正解でした。結婚もそうだったのですが、私は昔から直観を大切にしていて、それによって結果的にうまくいくということが少なくないように思います。

子どもたちをどう育てたいか、家族でどう暮らしたいか。その答えが「地方移住」だった

北御牧村に移住したのは、起業5年目。夫も私が起業する1年前に外資系の銀行を退職してエコノミストとして独立しており、都市部でやっていた仕事をそのまま移住先に持って行きました。夫の場合、都内にオフィスがあったので、しばらくは長野県に移住したことを誰からも気づかれなかったようです(笑)。

実は結婚当初から、「いずれは地方で暮らしたいね」と夫と話していました。夫は山口県出身で、高校までは地元の公立に通い、大学進学で上京。かたや、私は都市部で育って厳しい受験競争を経験し、子どもたちに同じことはさせたくないなという思いがありました。また、東大で出会った「この人はすごいな」という人の多くは地方の公立高校出身でした。

東大には有名私立高校出身者や国立大学の付属高校出身者が多いです。一方、東大の大学院で研究成果を出し、教授として大学に残るような人には地方の公立高校出身の人が目立つんですよ。もちろん、全員ではありませんし、「東大の教授になればいい」という話でもないです。ただ、アカデミックな分野で抜きん出た存在となるような人が持つ創造力や行動力というのは、用意されたカリキュラムをこなすのではなく、「自ら学び、試行錯誤をしながら自分で答えを探す過程」で磨かれる。そういった「本当の学び」というのは、中学受験熱が過熱する都市部よりも、そうではない場所のほうが得やすいのではないかと思いました。

高校まではのびのびできる環境で育ってほしいし、私たちもできる限り子どもたちに向き合いたい。子どもたちをどう育てたいか、家族でどう暮らしたいかと考えたとき、都市部よりも地方で生活するほうが私たちには合っていると考えたんです。

ですから、夫も私も起業時に地方移住を視野に入れていました。夫婦ともに会社を辞めるのは経済的なリスクもありますが、自営業のほうが移住には好都合。我が家にとっては起業や地方移住のリスクとリターンのバランスが取れていたので、不安はあまりありませんでした。

「長野で育ててくれてありがとう」。成長した子どもたちからの言葉がうれしかった

地方移住をするなら、子どもが地域になじみやすいよう小学生のうちにと考えていました。準備が整い、北御牧村で暮らしはじめたのは、長男が5年生、長女が3年生の4月で、末っ子の次男は3歳でした。長男はすぐにここでの生活が好きになったのですが、長女は少し時間がかかりました。移住前に通っていた千葉県の小学校までは自宅から徒歩5分でしたが、北御牧村の小学校までは徒歩で1時間近くかかります。子供たちは「こんな田舎になぜ引っ越しをしたんだろう」という思いもあったようです。

子どもたちの同級生は1学年35名から50名ほどで、小学校も中学校も顔ぶれはほとんど同じ。小さなコミュニティですから、子どもたちも保護者もつきあいを逃げることができません。相手のいいところも悪いところも知ったうえで、つきあっていくことになります。そういう「のっぴきならない人間関係」を経験できたのは、子どもたちの成長にとってすごく良かったと私は思っています。

私自身は、移住当初こそ会社移転の手続きやスタッフの募集などもあって、てんやわんやでしたが、落ち着いてからは少し時間に余裕ができ、以前よりも穏やかに日々を送れるようになりました。また仕事と子育ての両立は、格段にしやすくなりました。これは移住をしてから知ったことなのですが、長野県の共働き率は55.9パーセントで、全国5位(2017年就業構造基本調査)。子どもたちのクラスの保護者もほとんど共働きで、PTAの会合は小学校の場合18時から、中学校は19時から開始され、共働きを前提にPTA活動がしやすいよう工夫されていました。また、ほとんどの子どもが保育園に通っており、希望すればたいてい入園できます。次男は3歳から入園し、中学卒業までの12年間をほぼ同じメンバーと過ごしました。

その次男も高校を卒業し、大学進学のために上京したので、子供3人が全員巣立ちました。物心がつかないうちから長野県で育った次男はもちろん、長男や長女も今では長野県を故郷だと思っています。千葉県での暮らしも覚えていた長男や長女にとって、長野県への移住には彼らなりの葛藤もあったかもしれません。それでも、ふたりは大学進学で首都圏で暮らしはじめたときに、「長野で育ててくれてありがとう」とはっきり言葉にして言ってくれました。うれしかったですね。

子どもたちが巣立ったタイミングで、事業譲渡。新たなステップへ

次男が高校を卒業したタイミングで、私自身にも転機がありました。紅茶の輸入・ネット通販会社を事業譲渡し、地方活性化や家業のイノベーション創業を支援する「巴創業塾」を設立。現在は私自身の経験をベースに、「起業×事業継承×地方移住」をテーマとした講演や研修を全国で行う一方で、経営エッセイストとして執筆活動をしています。

長年続けてきた会社を手放すまでにはさまざまな感情があり、ひと言では表現できませんが、新たな一歩を踏み出した理由は大きくふたつあります。ひとつは2016年から大学でスモールビジネス論を教えていて、自分が実体験を通して学んだことを人に教えたり、伝えたりすることにより意義を感じるようになったから。もうひとつは、20年間会社を続けてきて、自分なりにやれることはやったなという思いを持つようになったことです。地元の知人が事業譲渡をして新たな活動を始めた姿を見ていたこともあって、私も何か新しいことをしてみようかなと考えました。

実は、当初は事業譲渡後に大学で常勤として教えたいと考えていて、あちこちに応募もしたのですが、大学の常勤職は希望者が多く、狭き門。いわゆる「レッド・オーシャン」だと気づきました。そこで、私にとっての「ブルー・オーシャン」を探そうという時に思い浮かんだのが、これまで自分が見たり聞いたりしてきたことの中で、世の中にあまりないテーマで本を書くこと。出版社に企画を提案したら、受け入れていただけて、『衰退産業でも稼げます』(新潮社)という本を出版することができました。この本を読んだ全国の方々から講演や雑誌記事執筆の依頼をいただき、活動の幅が広がって今に至ります。

講演や執筆は長くやっていける仕事なので、この先もさまざまな可能性がありそうで楽しみです。今は起業や事業譲渡をテーマにしていますが、10年後、20年後には変わっているかもしれません。ロールモデルは瀬戸内寂聴さん。90になっても100になっても続けたいですね。

地方で暮らしたいなら、実現のためのオプションはいろいろとある

私たちが長野県に移住した18年前と比較すると、今はリモートワークの環境も進化していて、地方移住のハードルは低くなっているように思います。地方移住というと、以前は「定年後に」と考えるのが一般的でしたが、30代や40代の方たちから「地方で暮らしたい」という声を聞くことも珍しくなくなりました。さらに、現在は新型コロナウイルスの感染拡大を機に人口の密集した都市部に住むリスクが顕在化していますから、自分たちの暮らし方や働き方を見直し、地方に目を向ける人たちも増えていくのではないでしょうか。そういう方々に地方の実情をお伝えし、みなさんが、自分の望む暮らし方や働き方を実現するためのお手伝いを積極的にしていきたいと思っています。

「地方で暮らしてみたい」という方から、「都市部に比べ、地方は給与水準が低めなので、今の生活レベルを保とうと考えると、条件に合う仕事がない」と聞くことがあります。でも、本当にそうでしょうか。地方で暮らせば家賃が安く、月5万円もあれば、家族で住む部屋を借りられます。食料品も安いですし、レジャー費も都市部ほどはかかりません。そうなると多少お給料が低くなっても、可処分所得はそう変わりません。一方、首都圏の人たちの多くが1時間以上かけて通勤しているのに対し、長野県民の平均的な通勤時間は約30分。家族と過ごすなど自由に使える時間が長くなりますし、満員電車に揺られることもありません。考え方によっては、地方のほうが豊かな暮らしができます。よくお話するのですが、都内に6000万円のマンションを買う代わりに、地方で跡継ぎのいない会社を3000万円で買うほうが投資効率がいいと思います。

本格的に地方移住する前に、少し様子を見たいという人には、「地域おこし協力隊」という総務省の制度もあります。1年から3年以下の決まった期間、地方に移住し、地方自治体の委託を受けて活動する制度で、待遇は自治体によりますが、調べてみる価値はあります。オプションはいろいろあるので、地方での暮らしに興味を持っている方には、ぜひ一歩を踏み出してみてほしいなと思います。

【お知らせ】2020年5月15日(金)20時~、藻谷ゆかりさんのお話を直接聞けるオンライントークイベント「子育て世代の地方移住~リモートワーク、起業、事業承継で広がる可能性」をオンラインで開催します。詳しくはこちらをご覧ください。