篠田真貴子さん(No.75)/エール株式会社 取締役
■1968年東京都生まれ。1991年慶應義塾大学経済学部卒業後、株式会社日本長期信用銀行(現・株式会社新生銀行)入社。1995年退職、米国に留学。ペンシルバニア大学ウォートン校MBA、ジョンズ・ホプキンス大学国際関係論修士。1998年帰国と同時に、経営コンサルタントとしてマッキンゼー・アンド・カンパニー入社。スイスの製薬会社ノバルティスファーマ(所属部門の売却によりネスレ日本株式会社に移籍)を経て、2008年10月に株式会社東京糸井重里事務所(現・株式会社ほぼ日)に入社。2008 年 12 月より 2018 年 11 月まで同社取締役CFO。2020年3月よりオンライン 1on 1 を提供するエール株式会社の取締役に就任。学校法人インターナショナル・スクール・オブ・アジア軽井沢(UWC ISAK Japan)評議員も務めている。『ALLIANCE アライアンス―――人と企業が信頼で結ばれる新しい雇用』(2015年発行)監訳者。
■家族:夫、長男(高2)、長女(中1)
■座右の銘: 「気品の泉源 智徳の模範」
福澤諭吉が門下生たちにその志を託した「慶應義塾の目的」と呼ばれる文の一節であり、母校の校訓。「12歳から刷り込まれ、そうありたいと今も目指しています」と篠田さん。
女性の先輩たちが活躍する姿を見て、「私も!」とバブル末期の銀行に就職
高校時代から明確に、「男性と同じように働こう」と考えていました。会社員の父が海外を飛び回って仕事をする姿を見て、「父のようになりたい」と憧れたんです。男女雇用機会均等法が施行され、女性活躍推進の機運が高まっていった時代でした。ビジネスの世界で働こうと決めていたので、大学は経済学部に進学。卒業後は日本長期信用銀行に就職しました。バブル期で、金融機関花形の就職先。女性の先輩たちも有名な銀行や証券会社に入り、華々しく活躍していたので、自然と「私も!」と思ったわけです。
ところが、いざ銀行で働いてみたら、自分には向いていませんでした。まず、事務作業が驚くほどできない。さらに、銀行の「仕組み」が私には合いませんでした。従来の日本企業は「就社型雇用」でジェネラリストを育てるので、異動が頻繁にあります。銀行では多くて月に2回発令があって、都内で働いていたのに突然「来週から大阪支店で働いてくれ」というのが当たり前。就職活動中から聞いてはいましたが、その働き方を目の当たりにして、「無理」と思ってしまいました。「え! 私の人生なのに、どこに住むのかも自分で決められないの?」と。基本がズレていたんです(笑)。
業界全体に女性総合職がまだ少なく、電話を取ると、相手から第一声で「男性いる?」と言われる時代でもありました。周囲に恵まれ、女性であることによって、直接的にイヤな思いをすることは一切なかったのですが、やりにくさは感じていました。そうした根本的な「仕組み」が合わない場所で、働き続けるのは難しいなと考えて、4年で銀行を退職。米国に3年間留学しました。当時は、就職して3年くらいで海外留学というパターンが周りに多かったんです。今思えば、流行りに乗っかったようなものでしたね。
34歳で初めて、「ダメな自分」を目の前に突きつけられた
米国留学にあたっては、国際関係論を学ぶか、MBAの取得かで迷いました。帰国子女で英語が得意だったこともあり、国際機関で働くことに憧れていたのですが、国際機関への就職は狭き門。MBAを取得して外資系金融機関に転職したほうが現実的かなと考えていたときに、3年で両方を学べるプログラムを見つけ、「二兎を追う」ことに決めました。
そこで、最初は大学で国際関係論を学んだのですが、国際機関で働いている人に話を聞いたら、ガチガチの官僚組織だということがわかり、またしても、「私には無理」と。じゃあ、外資系金融機関かなとビジネススクールに移ったら、私が行ったペンシルバニア大学ウォートン校というのは、「ウォール・ストリートでの実務経験があって、3度の飯より金融が好き」という人ばかりの環境だったんですね。「お門違いにもほどがある」と感じ、「この先どうしよう」と困っていたところにマッキンゼーのインタビューを受ける機会があり、サマーインターンに参加させてもらったら、コンサルティングの仕事も面白いと感じましたし、「チームで一緒になって頑張ろう」という社風も水に合って、ものすごく楽しくて。その後本採用され、帰国と同時に入社しました。
当時は、まさに「我が世の春」でした。「世界最高峰」と言われるコンサルティング・ファームに入り、プライベートでは留学直前に結婚。何もかもがうまく運んで、いい気になっていたんですね。入社後、会社が期待する成果を上げられず、周囲から指摘をしてもらっても、「たまたまプロジェクトリーダーと相性が合わなかっただけ」などと環境のせいにして、聞く耳を持ちませんでした。
また、マッキンゼーでは早い昇進が求められ、それは顧客に価値を提供するためにより高いスキルが必要だからなのですが、当時は理解できておらず、「なぜ自分のペースじゃダメなの?」と腑に落ちませんでした。その結果成長せず、業績も下がり、3年目に上司から「さすがに気合を入れてもらわないと」と警告を受けて、初めて「まずい」と気づきました。見かねた先輩が自分のプロジェクトに誘ってくれ、半年間必死で頑張りましたが、時すでに遅し。成果を出せず、退職を勧められました。「最後にひとつだけプロジェクトをやらせてください」とお願いしましたが、それすらも受け入れてもらえず、激しく落ち込みました。ずっと見ないようにしてきた「ダメな自分」を、ポンと目の前に突きつけられた感じでした。
くすぶっていた30代後半。「出世」をしても、人生が楽しくなると思えなかった
マッキンゼーを退職してしばらくは放心状態。ヘッドハンターに「次に何をしていいのかわからないんです」と言うような調子でした。そんな状態の私をよく受け入れてくれたなと、転職先のノバルティスファーマには感謝するばかりです。今だから言えますが、当時の私を動かしていたのは、「働きたい」という前向きな気持ちだけではありませんでした。マッキンゼーを辞めざるを得なかった、自分のこの恥ずかしい状況を、いかに周囲にバレないようにするか。そんな心配ばかりしていました。
ノバルティス入社後は人事部で働き、入社2年目に長男を出産。半年間の出産・育児休暇から復帰したタイミングで事業部に移り、事業計画の立案などの管理業務に携わりました。人事も事業管理も初めて担当しましたが、勘所がわかってくると、すごく面白いと思いました。いずれも企業の中枢に位置し、組織全体を鳥の目、虫の目で見る仕事。会社の経営方針を理解して、それを実現するための戦略を立て、現場の動きを見ながら、より具体的な計画に落とし込んでいくのが私の役割でした。その「翻訳作業」が好きでしたし、知見が積み重なるにつれ、新たな提案もできるようになり、経営の根幹に触れる面白さも感じるようになりました。
昇進もさせていただいて、所属部門の売却で移籍したネスレ日本を退職する時点では、部長として管理部門の責任者を務めていました。仕事に面白さを見出し、成果に結びついて、ポジションも上がって…。こうお話しするとノバルティス、ネスレで働いた30代後半は順風満帆に聞こえますが、実際には悩み多き日々でした。
育児との両立で常に時間に追われ、フルスロットルで仕事ができないことに焦っていたというのもあります。でも、それよりも深刻だったのは、「偉くなっていくこと」に興味を持てない自分に気づいてしまったことです。大企業で成果を出せば、より高いポジションを与えられ、裁量の範囲が広がるし、部下の人数もどんどん増えます。そういうことに興味が湧かず、「出世」をしても、仕事や人生が楽しくなると思えなかった。これは、大企業でモチベーション高く働き続けるには致命的だと感じました。
密かな劣等感も、ずっと抱いていましたね。30代後半ともなれば、同世代の中には、ヒット商品を開発したり、起業で成功するなど自分の名で世に出てくる人も出てきます。一方、私はグローバルな大企業で働いているとはいえ、名もなき中間管理職。おまけに、学生時代の友人やマッキンゼーの卒業生の中では、私のキャリアは地味なんですよね。今思えば、「そんなことを気にするなんて」と呆れてしまいますが、マッキンゼーでの挫折を誰にも話せず、「ダメな自分」をひた隠しにしていた自分にとっては、大きな問題でした。
「ほぼ日」での10年間。自分がどんな仕事をしたいのか、ようやくわかった
自分のやりたいことはここにないと気づいてはいながら、どうしていいのかわからない。くすぶっていたときに、「ほぼ日」との出合いがありました。友人から、糸井重里さんに会える機会があると言われ、私は『ほぼ日刊イトイ新聞』の愛読者だったので、喜んで行ったのがきっかけです。
「ほぼ日」で働くというのは、それまでの私の経歴からはかけ離れた選択でした。「ほぼ日」はすでに世の中に広く知られ、実績もある企業でしたが、社員数十名のドメスティックな個人企業。グローバルな大企業でファイナンスの仕事をしてきた経験をどうして生かさないのかと、不思議がる友人もいました。でも、私自身は、これまでとはまったく違う環境だからこそ、「ここで働きたい!」とワクワクしたんです。
40代を「ほぼ日」で過ごしてようやく、自分がやりたいことはこれなのかなというのがわかってきました。「経営」という会社全体と社会との関係を見ていく仕事。ゼロから課題を設定し、それをチームで解決していく仕事。そうした仕事を通し、会社の未来をみんなで作っていく感覚に、充実感を覚えました。おそるおそるではありますが、過去の自分にも向き合えるようになり、マッキンゼー時代のことを信頼している方たちに話せるようになったのもこのころでした。
51歳で「無職」に。これまでとは少しだけ違う自分の「役立て方」を探したかった
「ほぼ日」では10年間仕事をしましたが、最初は10年勤めるとは思っていませんでした。ひとつの課題を見つけて、それをチームで解決し、仕上がったかなという段階になるまでに数年かかり、また次の課題を探すということを何回か繰り返すうちに、10年が経っていました。「ほぼ日」を卒業させてもらうことを決めたのは、うれしいことにチームが育ち、私がいないとできないような新たな課題が見当たらなくなったのが理由です。
最後まで全力で走りたいという気持ちから、次を決めて辞めるという発想はありませんでした。また、辞めてすぐ次の仕事をするのではなく、この機会に少し立ち止まって、自分自身を振り返る時間を作ろうと考えました。自分が「できる」と思っていたことが、「勘違いでした」というようなことがないよう、組織の肩書きをおろした、生身の自分が世の中に提供できる価値は何かを、少し立ち止まって把握しておきたかったからです。
とはいえ、当初は数カ月ほどのブランクしか想定していなかったのですが、昔からの友人にその話をしたら、「いやいや、数カ月じゃ足りないでしょう」と立て続けにふたりから言われました。短期間では、どんなに頑張っても、すでに自分が持っている視点や、人脈をもとに未来を決めることになってしまう。「それはもったいないんじゃない?」と。もっともだなと思いましたが、私のことをよく知る友人からの「篠田は好奇心が強すぎるから、面白そうと思うと、すぐにそっちへ行ってしまうだろう? それが危ない」という言葉が決め手となりました。それで、誘惑を断ち切るために「1年間は働きません」と周りに宣言をして、51歳で「ジョブレス(無職)」になったんです。
最終的に、「ジョブレス」の期間は1年3カ月になりました。それだけの時間をかけたのは、これまでとは少しだけ違う、自分の「役立て方」を探してみたかったからです。55歳定年の時代なら、リタイアまであと数年、過去にやってきたことでしのげたかもしれません。でも、60代、70代でも活躍している人たちがたくさんいる時代に生きていて、自分もそうありたいのなら、過去の経験だけに頼るだけでは通用しない、持たないと思いました。
では、どうすればいいのかと考えていたときに、ある本からヒントを得て、それまでの私が「自分が何を成したいか」という「自分」だけを判断軸に仕事を選んでいて、「人生は自分に何を求めているのか」という判断軸を持っていなかったことにふと気づきました。そこから、「篠田真貴子」というものを世の中のどこに配置したら、有効活用できるかなという観点が芽生え、その場所を探してみることにしましたが、自問自答するだけでは「ひとりよがり」になる危険性があります。そこで、幅広い分野の本を読んだり、いろいろな人に会って話したりするうちに、肩書きのない「何者」でもない自分が、それでも誰かに貢献できるのはこのエリアかなという輪郭が少しずつ、少しずつ、見えるようになりました。
「組織対個人」の関係性はもっとのびのび、楽になれる。自ら実践し、「ほらね」と言いたい
2020年3月から取締役を務めている「エール」は、おもにビジネスパーソンの社外人材による、オンラインでの1対1の面談サービスを企業に提供している会社です。創業7年目で、社員は10名以下。小規模な組織ですが、「『聴き合う』組織をつくる」というミッションに深く共感したことと、これから女性活躍支援にも力を入れていくことに注目して「ここで働きたい!」と思いました。
私はチームで仕事をすることに面白さを感じていて、「組織」が好きです。でも、「無職」になり、少し組織を離れてさまざまな人と対話をしてみると、「組織対個人」の関係性を窮屈にとらえる感覚が、多くの人にあることに気づきました。かつてよりも「個」が重んじられるようになった今でも、「組織」で働くというのは、「個」を消すことだという考えは根強く残っています。例えば、「女性であること」に関してもそうです。「組織」で働くからには、「女性であること」を一度忘れなければならず、忘れられないなら、少なくとも総合職として働き続けるのは難しいという暗黙の了解が、私が新卒のころにはありました。あれから30年が経ち、てっきりそんな社会通念はなくなっているかと思いきや、若い女性たちから話を聞くと、そうとは感じられませんでした。
ジェンダーの問題という切り口とはまた別に、そうした「個」を消して働かなければいけない意識が、「それって、どうなの?」と気になっちゃうんですね。個人の問題意識としてだけでなく、経営課題としても、「ダイバーシティー」や「インクルーシブ」が重視される中、「個」を見せず、ビジネスパーソンとしての「鎧」を装着しなければ働けない「組織文化」は、経営上大きなリスクを伴います。「個」を消さない組織運営はできるし、必要だし、「組織対個人」の関係性はもっとのびのび楽になれる。経営者として、小さな組織でもいいからそれを実践して、「ほらね」とみんなに言えたらな、という思いを「無職」の時間の中で持つようになりました。
では、「組織対個人」がもっといい関係を築くには何が大事なんだろうと考えたときも、「無職」の時間での、さまざまな人たちとの対話がヒントになりました。友人との間でもそうですし、ありがたいことに、「ほぼ日」時代のご縁もあって講演会や取材に呼んでいだだく機会もあったんですね。そういう場で、さまざまな切り口から自分の話を聴いていただくことが、自分自身を理解するうえですごく勉強になって、コミュニケーションにおいて「聴く」ということが、これまで考えていた以上に大きな意味を持つと身をもって感じました。
さらに、「組織対個人」の文脈においても、「組織」が多様性を尊重し、新しいことを実現して成長していくには、これまでのように「組織」が一方向で「個人」になにかを伝えるのではなく、おたがいが「聴き合うこと」がより求められると思い至りました。そんなときに、偶然にも「エール」に出合ったんです。「エール」に参画してまだ数カ月ですが、「ここで働きたい!」というあの感覚は間違っていませんでした。「無職」になり、時間をかけて自分に向き合ったからこそ見つけられた場所だったかな、と思っています。
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