PROFILE

瀬畑一茂さん(No.79)/合同会社ReConnect、一般社団法人リコネクト、経営顧問ATEHAS代表、安曇野市・産業支援コーディネーター、松本商工会議所・商業アドバイザー、塩尻商工会議所・経営アドバイザーおよび中小企業庁ミラサポ事業専門家

■東京生まれ、東京育ち。信州大学経済学部卒業後、総合化学企業 BASFに入社。国内営業、ドイツ本社 グローバルマーケティング・プロダクトマネージャー、アジア地域本社(香港)にてアジア地域事業部の立ち上げおよびアジアパシフィック地域マネージャーを歴任後、国内大手上場企業との合弁会社にて常務取締役・代表取締役社長、日本法人の常務執行役員、副社長執行役員として、14年間、第一線で会社経営者として実務を担う。2018年、長野県に移住し、安曇野市・産業支援コーディネーター、松本商工会議所・商業アドバイザー、塩尻商工会議所・経営アドバイザーおよび中小企業庁ミラサポ事業専門家として、地域の中小零細企業が抱える経営課題の解決支援と起業・創業アドバイスを行うかたわら、2020年、合同会社ReConnect および 一般社団法人リコネクトを設立し、地方創生に向けた地域活動も行っている。

■家族:妻と22歳の娘

■座右の銘:自分のことを知ることができて、はじめて自分を大事にできる

移住と仕事.jp
ATEHASプロフェッショナル経営顧問
エシカルレザークラフト kawalabo.

 

東京に生まれて田舎を知らない子どもは信州の大学に行き、第二の故郷を見つけた

子どものころから両親に「男らしくあれ」という教育を受けてきました。なにごとも正面から立ち向かい結果を出す必要性をたたき込まれてきました。おかげで会社員として多くの成果を残すこともできましたが、そのために犠牲にしてきたものもありました。その事実に気がついて、妻ともどもお互い「個」としての自分の人生を大切にする生活へ。大きな方向転換ができたこと、それが私のライフシフトでした。

両親ともに東京の人間で生まれ育ったのが東京世田谷区の経堂。小学生時代などには「故郷がない」「帰るべき田舎がない」のが大きな劣等感になっていました。夏休みの自由研究で同級生が「田舎でとってきたカブトムシやクワガタの昆虫採集」を提出するのを見てくやしくて仕方なかったのをおぼえています。

大学に入るときには、地方への憧れから信州大学へ。小学生の時、家族旅行で御嶽山に登ったことがあり、雄大な自然に感動して、ずっと記憶にのこっていました。大学に入ってからも登山をしたりスキーをしたり。東京とは遊びの定義が違うと感じていました。日常の生活のなかで、ふと目を上げてみるとアルプスが見えます。ちょっと街中を離れると田園風景が広がり心も癒やされていきます。いつの間にか信州は、心の故郷というべき存在になっていました。

理由は思い出せませんが、大学卒業前にして信州に残るという発想にはなりませんでした。漠然と東京に戻るだろうなと思っていました。経済学部で経営を学んでいたのですが、担当教授がアドバイスしてくれたのは「君のように歯に衣を着せずに言いたい放題の人材は日本企業では苦労するだろう。世の中には外資系企業というものがあるので考えてみたらどうだ」。その言葉を信じ込んだわけでもありませんが、紆余曲折ののちにドイツ系のグローバルな化学メーカーの日本法人に入社しました。

グローバルな化学メーカーで特大のバッテンを2つ食らったが、いつも遮二無二乗り越えた

東京にある日本法人を皮切りに、29歳でドイツのグローバル本社でマーケティングに関わり、33歳のときに香港へ。アジア地域事業部の立上げを行い、中国子会社の再建にも力を尽くしました。35歳で日本に戻って国内の石油会社との合弁会社の社長を務め、最終的には最初に入社した日本法人で日本人トップの副社長として10年にわたって企業風土の改善に努めました。

というと順風満帆のように見えますが、じつは会社員人生の間に2つ、特大なバッテンを食らった挫折体験があります。

皮肉なことに、入社した会社には当時きわめて日本的で保守的な一面もありました。成果主義を旨とする私はどんどん前に進んでいきたいタイプですが、冒険を好まぬ上司によって稟議を出しては結果NGになるようなことばかりでした。それがじれったくて、上司の許可を得ないで商売を動かして大変な赤字を出してしまい、昇進のコースから完全に外れてしまったのが、私が経験した最初のバッテンです。

これも親の教育の影響なのでしょうが、一度はじめたことはきちんと結果を出さなくては終われない性格。失敗で出した損失ぐらいは挽回しようと遮二無二働いて、今度は莫大な利益を出しました。幸いドイツにあるグローバル本社の目に止まり異動することにもなりました。

香港時代にも大きな挫折を経験しました。グローバルグループの幹部候補・・・の候補者として査定を受ける機会があったのですが、リーダーシップ測定のためのグループディスカッションで、他のメンバーが口から泡を飛ばしてもっともらしい理屈を言っているのにイラッとしてしまいました。机を叩いて「ここは自己アピールの場じゃないぞ、理屈言ってるヒマがあったら結果を出す方法を考えろ」とやっちゃった!結果、フィードバックは最悪で幹部候補からはずれてしまいました。これが二つ目のバッテンでした。

ところが、そのときに私のボスだった通称ブルドーザーと呼ばれていた人物が私を擁護してくれました。人事と私と3人のフィードバックの場で研修の査定レポートを破いて「これだけの成果を出している人間を研修というスナップショットだけで判断するのは認めない。出てけ!」と言ってくれました。その後、そのボスはほかのこともあって会社を辞めてしまったのですが、後で聞いたところ、彼の権限で私を幹部候補に戻してくれたらしいです。

二度もバッテンがついたのに、チャンスが与えられた。これには何か意味があるに違いない。私はまた遮二無二働きました。結果にこだわり、そのために生活のすべてを費やしていきました。

化学会社の経営をしながら化学を好きだと思ったことは一度もなかった

遮二無二働いていた化学メーカー国内事業統括副社長時代

ずっと「男として強くあらねばならない」という強迫観念のようなものを持っていました。どんなときも成果を出さなくてはいけないという想いにとらわれていました。夜寝るときでさえ、布団の中で何か思いついたら記録するようにメモ帳を枕元にいつも置いていました。眠りはいつも浅かったように思います。

自宅に帰り着くときにはいつもヘトヘトに疲れて、妻との会話にも心ここにあらずという感じでした。こんな生活が身体にいいはずもありません。健康診断のたびに、胆嚢にポリープができたり、甲状腺の数値が異状になったり、医師から胃壁がほとんどなくなってまるで老人の胃のようだと指摘を受けたりしていました。

考えてみると、化学メーカーの経営の仕事をしながら「化学」が好きと思ったことは一度もありませんでした。仕事はいつも乗り越える壁であり、達成感はあってもプロセスを楽しむことはできませんでした。私はいつもストレスの塊であり、身体からぶすぶすと煙が出ている状態でした。

噛みしめた奥歯がバキッと折れて「ライフシフト」に一歩踏み出す決断をした

そして決定的な事件が起きました。化学メーカー日本法人で日本人トップの副社長になって8年目、45歳のときに奥歯が割れてしまったのです。ある日突然激痛が走って歯医者に行ってみると、レントゲンでもよくわからない。「どこも悪くない」といわれても激痛は治らず、医者を変えて抜歯しました。銀のプレートの上の歯を見ると見事なまでに真っ二つに割れています。虫歯があったわけでもなく、ずっと長い間歯を食いしばりながら生きてきたので、歯が持たないほどの力がかかっていたようなのです。

さすがにこれはショックであり、このままでは自分が持たないと大きな危機に気がつきました。

仕事と生活を見直す必要を感じるなか、自然と妻と話をする機会も増えていきました。私と妻は信州大学で出会い、就職して2年半後に結婚。その後は専業主婦でドイツや香港にもいっしょに渡航してくれましたが、妻もまたジレンマとストレスを感じているのがわかってきました。母親としては娘を育ててがんばってきたし、妻としてもやってきたことには自負を持っていました。でも「自分って何よ?」と問いかけたとき何も答えが返ってこない「何者でもない自分」にもやもやとした感情をいだいていました。その少し前からカウンセリングなどで使われる「傾聴」の勉強をはじめていて、その知識と技術を仕事にしたいとも考えはじめていたようです。

当時の私は1年契約で、毎年契約が更新されていく働き方をしていました。(歯が折れてから)あと2回更新すれば10年になる。その年に娘も20歳になる。ちょうど区切りがいいのではないかと考えました。会社を辞めて妻といっしょに「ライフシフト」する好機会だと思いました。同時に妻からの提案は、妻と私、それぞれが独立した「個」として自立して生きていける道を探してみようというものでした。

信州の課題と自分のスキルを接点にさまざまな方向にエキサイティングな仕事が広がった

会社を辞めるに当たって考えていたことは、信州に移住して、地域になんらかの貢献ができないだろうかということでした。信州は苦しいときや人間としてのバランスを失いかけたときに訪ねては助けてもらってきた場所。妻も時間がとれたときには付き合ってくれていて、2年前にはマンションも買っていました。仕事探しをはじめたのは退職する3ヶ月前ぐらいから。全力で疾走しつづけてきて、身体がボロボロになるまで働いてきたので、もう企業には行きたくない、何か公的な仕事をしたいと思っていました。そんななか、求人サイトで見つけたのは安曇野市の産業振興コーディネーターの仕事でした。これまで、いろんな組織の立て直しをしてきたスキルも生かせる上に地域に尽くせる仕事と考えて応募しました。

産業コーディネーターの仕事内容は、これと言って決まったやり方があるわけではありません。地域産業を活性化することが仕事です。私には会社を経営してきた経験があり、やはり私にできるのは、地元の経営者に寄り添ってサポートすることだと思いました。

人口減、高齢化などの社会状態を背景にしてさまざまな問題をかかえた経営者に会って悩みを聞き、問題点を整理し、解決のための手段への道筋を立てていく。このような仕事をしていくうちに、相談に乗ってほしいと紹介される方も増えてきて、それがエグゼクティブ・コーチング、経営プロセス構築、組織構築・人事制度設計、組織改革マネジメント、研修・セミナーなどを行う経営顧問を務めるもう一つの仕事につながっていきました。

さらには、地元の経営者や農家の方のかかえた問題点へのソリューションとするために、地元特産品のなかでも生産者が「想い」を持って育てているものを首都圏で販売するためのルートづくりや、その逆に信州に移住したいけれど、仕事がなくて踏み出せない人材と地元企業のマッチングなどどんどん仕事の巾が広がっていきました。

合同会社ReConnectおよび一般会社リコネクトのオフィス(長野県松本市)にて

現在は、『移住と仕事.jp』を運営する人材紹介会社 合同会社ReConnectと経営顧問ATEHASの活動、さらには、安曇野市・産業支援コーディネーターにはじまって、松本商工会議所・商業アドバイザー、塩尻商工会議所・経営アドバイザー、中小企業庁・ミラサポ専門家と活動領域がどんどん増えています。

みずからを見直す趣味が高じて革職人としてのブランドもつくった

もう一つ、並行して進めているのが革職人としてナチュラルな素材のみを使った革作品を制作して販売するブランドkawalabo.の展開です。

歯が折れる1、2年ぐらい前から、その前兆として何か自分を楽にする手段を発見しなくてはいけないと気づくようにはなっていました。20年以上、仕事100%の人生を突っ走ってきた自分が好きだったものは何だったんだろうと振り返ってみて、そういえば子どものときはプラモデルづくりが好きだったという記憶がよみがえってきました。そして、同時に両親からは「男の子なんだから、家にいないで外で遊んできなさい」という圧力を受けつづけてきたことも思い出されてきました。

東急ハンズで半日コースの革細工講習会があったので試しに行ってみたら、スタッフが「瀬畑さん本当にお上手ですね。ちょっと訓練したらプロになれますよ」と言ってくれて、つい乗せられてしまってかなり高額なプロ用の道具を購入しました。買ったからには無駄にはできないとつづけていくうちに病みつきになり、ついには自分のブランドを立ち上げるまでになりました。

革細工というと牛が一番ポピュラーですが、日本の牛は肉を美味にするために油脂の多いエサを食べさせてきました。このために皮の品質としては素晴らしいとはいえないものになっていました。いま思えば、好きではなかった化学から離れる目的も無意識にあったためか、当初から環境負荷の少ないナチュラルな素材へのこだわりを強く持っていたため、植物タンニンで丁寧になめされた革を探し、豚からはじめました。

kawalabo. Natural長財布(豚革)

さらに鹿へ。信州では鹿が農産物を荒らす害獣に指定され、近年多くの鹿が駆除されるようになってきました。その鹿を食用ジビエ肉に加工する事業者さんから、生命を扱う仕事をしながら大量に皮を捨てるのはつらいと相談を受けて、鹿革の作品を作り始めました。 手触りがとても柔らかく、使い込むほどに艶が出てきて、本当にいい作品ができるんです。

『信州ハンドクラフト大賞』に出品し、500を超える出品者の中から『奨励賞』を受賞

血液検査のすべての値が健康に。収入が1/12にまで下がってもストレスがなければお金も平気

信州に住みはじめて1年ほどして健康診断を受けました。血液検査を受けてみると衝撃的な結果。会社員時代は常に要加療、要観察といわれつづけてきた数値がすべて正常値に戻っていたのです。一つの大きな理由はいままでかかえてきた巨大なストレスがなくなったことでしょう。でもそれだけではなく、信州の自然が与えてくれたものも多いと感じています。美味しい空気や水、美しい山河や四季の変化のなかに身をおいていると自分がリフレッシュしていくのを感じないではいられません。

収入は激減しました。最初の年には前職の1/12の年収でした。最初の2年間は前職の収入によって金額が決まる住民税を払うのが大変でした。でも、意外なことにはじめて見ると「この収入でも大丈夫じゃないか」と思えたのです。お金を使うというのは、かなりの部分、その時点その時点でのストレスレベルに関わってくるものです。会社の経営者という立場もあり、必死で働いたご褒美の意味もあり、洋服や靴、カバンなどに値段が張るものを買っていました。でも、仕事を変わってみると、それらの出費が必要ないのがわかってきました。

妻もまた信州に来てから働きはじめることになりました。最初の仕事では20数年つづいた専業主婦の生活からの社会復帰を兼ねていたのでいろいろ苦労もしたようです。その後職場を変わり、それからは勉強していた傾聴の技術を生かせる仕事ができて大変に満足しているようです。

健康があり、家族と認め合う環境があり、はじめて描ける人生100年時代へのシナリオ

信州に引っ越すとき約束したことは夫と妻という役割ではなく「個」として向き合っていこう。家事に関しても分担していこうというものでした。しかし、それぞれに得意不得意はあり、役割ができあがってきました。おもしろいことに料理は私の仕事になっています。私は料理のセンスがいいようで、安いもの、美味しそうなものを買ってきて適当に味付けするとじつにいい感じの料理になります。その代わりに洗いものは妻の役割になりました。

人生100年時代に向けて、もし以前の仕事をつづけていたら、100歳まで生きるなどとはとても考えられなかったでしょう。ところが、いまでは身体も健康を取り戻し、仕事に対するエキサイティングな満足感も得ることができて、100歳ぐらいは楽勝でつづけられる気がしています。これもすべて歯が割れた時点にはじまるライフシフトのおかげ。第二の故郷である美しく生命感にあふれた信州で、自由なマインドでできることを広げてきました。そのなかでいままで気づかなかった自分自身に気づき、みずからが主人公の人生を取り戻すことができたような気がしています。人生100年時代のほぼ半分のポイントで、自分を取り戻すライフシフトができた私は幸福です。