PROFILE

チャーチル聡子さん(No.88)/カプラン・インターナショナル・ランゲージズ アジア地域ディレクター

■1974年生まれ、愛知県出身。1997年、筑波大学 人文・文化学群 日本語・日本文化学類卒業。渡豪し、オーストラリア州立政府による日本語教師アシスタントプログラムを経て、メルボルン近郊のモナッシュ大学の修士課程で教育学を学び、2000年修了。州立高校キュー・ハイスクールで日本語と社会の教師・留学生コーディネーターとして勤務した後、渡英。2004年よりアスペクト・エデュケーション(2006年、カプランと合併)でロンドン本社のアジア担当マネジャーを務めた後、2006年より3年間、日本支社で日本担当マネジャーとして勤務。つくばインターナショナルスクールを経て、2010年、人材マネジメントシステム開発を手がけるインフォテクノスコンサルティングにセールス&マーケティングマネジャーとして勤務。2014年1月にイギリスに戻り、世界9カ国に約30校を展開する語学教育機関カプラン・インターナショナル・ランゲージズのロンドン本社で、留学生の大学進学支援部門および語学トレーニング部門の管理職を務めている。

■家族:夫

■座右の銘: 「学び続ける幸せ」

「学生時代から民俗学に関心があり、どの国で暮らしていても、周囲の人を学問的視点で見て、学ばせてもらう癖があります(笑)。民俗学に限らず、どんな人からも学べることがあり、そういう気持ちでいられる幸せを忘れないようにしています」とチャーチルさん。

カプラン・インターナショナル・ランゲージズ 

 

日本語教師として渡豪。英語力が足りず、何もできない自分にショックを受けた

大学で国文学や日本語学、比較文化学を学び、それらをツールに日本という国と文化を世界に発信したいと、卒業してすぐにオーストラリア州立政府による日本語教師アシスタントのプログラムに参加しました。

ただ「オーストラリアに行きたい」という強い思いがあったわけではありません。もともとはアジア圏に関心があり、中国が第一候補でしたが、恩師から「日本語教師としてアジア圏に行くと、ある種の特権階級として優遇されることがよくあるので、若いうちに英語圏で苦しさを経験して、自分を鍛えたほうがいい」と助言されました。素直に「そうかもしれない」と考え、英語圏のプログラムを探して見つけたのが、たまたまオーストラリアでした。

大学を卒業してしばらくは「民俗学の研究者になりたい」という思いも持っており、はっきりとした目標も定まっていませんでした。それでも、「行くからにはさまざまな経験をして、英語力も高め、その後のキャリアにつなげてみせる」という意気込みで渡豪しました。

ところが、いざ働き始めると、何もできない自分にショックを受けました。州立の中高一貫女子校と共学高校で業務に携わる1年契約のプログラムでしたが、英語が十分にできず、周りからは「赤ちゃんあつかい」。大学で勉強してきた日本語学や日本文化を伝えるどころか、「earthquake」という単語の発音ができなくて、何度も聞き返されるありさま。自分が積み重ねてきたことがゼロどころかマイナスになり、どうしていいのかわかりませんでした。

その時に私を襲ったのは、父の仕事の関係で2歳からの1年間をイギリスで過ごした時にも体験した「恐怖」です。私は言葉の話し始めが早く、話すと、大人たちにほめてもらえることが多かったんですね。それで、得意になってイギリスの人たちに日本語で話しかけたところ、当然、誰も理解してくれませんでした。幼かったので理由がわからず、大きなショックを受けて、3カ月間まったく言葉を発しなかったと両親から聞いています。その時に感じた「周囲に理解されない恐怖」は今でも鮮明に覚えています。

豪州の大学院を修了し、教師として州立高校に勤務。仕事ぶりを認められた

海外で暮らし、仕事をして、一人の自立した個人として生きようとするとき、「周囲に理解されない」というのは、「サバイバルできるかできないか」というような差し迫った恐怖です。日本に帰れば、その恐怖から逃れることができますが、逃げてはいけないと思いました。このまま帰り、オーストラリアでの一年間が自分の中で「失敗」として認識されれば、今後の自分にとって負の要因になると考えたからです。「自分の選択を後悔したくない」という思いから死にもの狂いで英語を勉強し、現地の大学院で教育学のマスターを取得。オーストラリア州政府公認の教員免許も取ることができました。

大学院に入った当初は修了後に帰国することも考えましたが、いざ修了すると、さらに挑戦をしたいという欲が湧いてきました。英語力ももっと高めたいし、オーストラリアという国で自立できるかどうかを試してみたい。そんな思いから職を探し、最終的に、担当教官の紹介で面接を受けたメルボルンの州立高校キュー・ハイスクールに日本語教師として採用されました。

キュー・ハイスクールでは、4年間働きました。日本語だけでなく社会科も教えるなどさまざまな機会を与えてもらい、最後の1年間は公募に応募して留学生コーディネーターの業務を兼務しました。教師として留学生とかかわるうちに、留学生には学業面のサポートだけではなく生活面のケアも必要だと感じ、自ら実践したかったからです。

オーストラリアで長く働くには就労ビザを取得する必要があり、そのためのスポンサーになってまで自分を雇ってくれた校長先生には今でも感謝しています。彼女は私にとって第二の母のような存在で、面接で一度会っただけの私の身元保証人にもなってくれました。

オーストラリアを離れる時、彼女が「実は、あなたの身元保証人になった時、よく知らない外国人の保証人を引き受けるなんてと家族には心配されたの。でも、あなたを雇って正解だったわ」と言ってくれました。涙が出るほどうれしかったです。

結婚を機に30歳で渡英。キャリアは順調だったが、ホームシックを感じるように

オーストラリアでは、現在の夫との出会いもありました。大学院時代に知り合ったオーストラリア人です。母親がイギリス出身であることから、英国の市民権を持っており、彼にイギリスでの仕事が見つかったタイミングで結婚し、渡英しました。

イギリスではイチから仕事を探すことになりましたが、オーストラリアでのキャリアが生き、現在勤務するカプランと後に合併することになるアスペクト・エデュケーション社に採用されました。世界9カ国に語学学校を展開し、学生たちが国際的に活躍するためのプログラムを提供する会社で、セールスを担当。成果を上げれば国籍にかかわらず評価される環境で、入社2年目にはアジア地域マネジャーを任され、仕事はやればやるほど面白くなりました。

ロンドンで暮らしはじめて間もないころに職場の同僚たちと。

一方で、30歳を過ぎたころからホームシックを強く感じるようになりました。家族や友人と離れて暮らすさみしさや、異国の食生活や気候による体調不良もありましたが、「鎧」をまとい続けているような日々に疲れてしまった、というのが最も大きな要因です。

イギリスはよく「階級社会」と言われますが、「階級」そのものは重要視されません。ただし、階級による教育の違いがアクセントや物腰ひとつに現れ、イギリス人たちはその微妙な違いを確実に意識しています。移民が多く、多文化が共生するオーストラリアとは対照的な環境の中、日本人である私がここにいる価値をシビアに問われ、「もっと成果を出さなければ」と頑張り続けることに漠然と限界を感じていました。

そんな時に持ち上がったのが、日本支社への異動の話です。かねて「大学や大学院進学を支援する部門を作りたい」と会社に提案していたところ、「最も大きな需要が見込めるのは日本だから、まずは東京にある日本支社でマーケティングをして、可能性を探ってみたら?」と会社から提案がありました。内心「渡りに船」という思いで、夫を残して帰国しました。

安定した場所を飛び出し、30代後半から新たなチャレンジをはじめる

カプランの日本支社に異動し、東京で働きはじめたのは32歳の時でした。久しぶりに日本で暮らして感じたのは、日本はありがたい国で、あらゆる意味ですごく守られているということです。夜でも安心して歩けることもそうですし、相手に細かいことをきちんと伝えなければと気を張らなくていい。「阿吽の呼吸」のようなものがあって、社会全体がそれを大事にしています。母国に戻り、ホッとしたというのが当時の正直な思いでした。日本で働いているとはいえ転職したわけではありませんから、職場は外資系の文化。新部門の立ち上げで忙しくはしていましたが、勝手知ったる環境で働き、精神的にはとても穏やかな日々でした。

ところが、帰国して4年目、私は安定した場所を飛び出すことになります。きっかけは、多くの留学生と接する中で、「日本人はもったいないな」と感じる場面が多かったこと。能力が高くて人柄も良い素敵な人たちがたくさんいるのに、いざ海外で働こうとすると、日本人は選ばれず、他国の人が選ばれる傾向がありました。資質に遜色はないのに、です。日本は安全な国であるがゆえに、ここぞというときに食らいついていく、生きていくための「真の強さ」が養われていない人が多いのかもしれないと感じました。

せっかく一生懸命語学を勉強しても、海外で活躍できなければ、あまりにもったいない。この状況を何とかするには、幼いうちから「真の強さ」を養うような教育が必要だと考えました。でも、会社でできることには限りがあります。会社の枠を超え、何かいい手はないか。そう考えた時に、思い浮かんだのが「農業」です。

私は以前から自然農法による稲作と野菜作りに関心を持っており、帰国後、茨城県つくば市の農園に毎週末通っていました。自然と共生し、悪天候や病害虫による被害といった「うまくいかないこと」とも向き合いながら、自分の食べるものを収穫する。コントロールできない自然界の不思議を体感することで、自分が自然の営みの一部であると実感し、私自身が感謝や柔軟さ、強さといった「生きていく力」を学ばせてもらっていると感じていたので、子どもたちにもこの体験をしてもらえたらと考えたんです。「理想論」過ぎて、今お話すると、お恥ずかしいのですが(笑)。

農業には福岡正信氏や川口自一氏の自然農法の取り組みを本で知り、関心を持った。ペットだったヤギの写真を今も大事にしている。

当時目指したのは、子どもたちが農業を通して「真の強さ」を学べるようなフリースクールを作ること。カプランを退職後は、茨城県に移住。インターナショナルスクールで働いて学校運営の現場を見ながら、野菜の調理法を学ぶために2軒のレストランでアルバイトをして、週末には農作業をする日々を送りました。しかし、起業の計画は1年で頓挫。理念ばかりが先行したために仲間を増やせず、資金も底を尽きて、自分にはまだ起業する力がないと判断しました。

36歳で初めて日本企業に勤務。名刺の渡し方を身につけることからスタートした

農業を学び、夢に向かって歩む日々は楽しかったですし、自然豊かな環境に心も体も癒されましたが、貯金を使い果たしてすっかり貧乏に(笑)。生活を立て直すには企業で働くしかありません。転職活動を始める時、どうせなら、もうひとつチャレンジをしてみようと思いました。それは「日本企業で働くこと」。海外で長く働き、「個」としての価値を常に問われる中で、私の最大の武器は「日本人であること」だと感じていました。ところが、私には日本企業で働いた経験がなく、「日本人であること」にどこか自信を持てないところがありました。

日本企業で働いてコンプレックスをなくし、どこの国でも自信を持って仕事をしていけるようになりたい。そう考えて、人材マネジメントシステム開発を手がける日本企業に営業職として転職しました。業界も職種も未経験の仕事でしたが、「ゼロ」の状態から自分がどこまで通用するのか試してみたいという思いもありました。36歳の時です。

初めての日本企業でのビジネス。最初は名刺の渡し方すらつたなく、優しくフォローしてくれた同僚の皆さんには今も感謝しています。成果がなかなか出せず苦しみましたが、仕事はすごく面白かったです。人材活用の現場で人の成長の可能性に触れられることができましたし、何より、経営陣や上司が人材活用に熱い思いを持っており、その姿勢に多くを学びました。

「自分で培ってきたものが戦力になっている」と信じられるようになった

40代を間近にして再び日本を離れて暮らす決意をしたのは、夫の勘忍袋の緒が切れそうになったから(笑)。彼はイギリスに拠点を置きながら、私を見守ってくれていましたが、私がイギリスを離れていつの間にか7年。夫婦として一緒に歩んでいくために、これ以上別居生活を続けてはいけないと考えました。仕事でようやく納得のいく成果を出せ、「やれることはやれた」と思えたことも区切りになりました。

イギリスに戻って仕事を探すにあたり、大きな条件はふたつでした。教育という私がやりたい分野であり、ある程度の生活水準を保てること、です。ところが、両方を満たす仕事はなかなか見つかりませんでした。そんな時にカプラン時代にお世話になった上司に相談したところ、復帰をさせてもらえることになりました。おまけに私が「大学や大学院進学を支援する部門を作りたい」と言っていたことを上司が覚えていて、イギリスにはなかった部門を私のために作ってくれました。

復帰後は、大学や大学院と新たに提携するためのリサーチ業務といったこれまでやったことのないことも任せていただき、すごく勉強になりました。その際に役立ったのが、日本企業で営業職として新規の取引先の財務状況を調べたり、統計資料など緻密さや論理性の求められる書類を作成した経験です。目の前の仕事を一生懸命やれば、どこかで必ず帰ってくる。人生に無駄なことはないと感じました。

現在はロンドン本社の経営企画室シニアマネージャー日本統括マネジャーを兼務する。日本への出張の際に留学セミナーに登壇し、自分自身の経験を話すことも多い。

幼いころにイギリスで初めて感じた「周囲に理解されない恐怖」は、今でも消えたわけではありません。長く海外で暮らしていても、ひとたび自分がその状況に陥ったときにしっかりと戦えるかどうかはわかりません。でも、以前のように恐れることはなくなりました。オーストラリア、イギリス、日本と三つの国で暮らしてさまざまな変化を経験し、その度に「ゼロ」から「今いる場所に必要とされる人になりたい」と必死でやって、居場所を作ってきた。その積み重ねが、自信につながっているのかもしれません。生まれながらの環境などの自分に与えられたものだけでなく、自分で培ってきたものが戦力になっていると信じられるようになりました。

今は「もっと語学力を高めねば」、「日本人としての付加価値を出さなければ」と肩肘を張ることがなくなり、ひとりの「チャーチル聡子」としてイギリスの地で暮らしている感覚があります。

週末にヨーロッパ各地に気軽に旅行に出かけられるのがうれしい。近年は自宅でゆったりと時間を過ごし、料理を楽しむことも増えた。

海外に出て、日本にいるときに比べて出会いは100倍に増えた

こうしてあらためて振り返ると、私は明確な目標を持って人生を歩んできたわけではありませんし、うまくいかなかったこともたくさんあります。ただ、自分の選択を後悔しないようその時々で一生懸命やってきて、これまでの人生に悔いがありません。海外に出たことも、本当に良かったと思っています。日本にいるときに比べて出会いは100倍に増えたと感じていますし、パートナーの選択肢も100倍になりました(笑)。そして何より、私は人生を楽しんでいます。

ですから、具体的な目標がなくても、やりたいという強い気持ちがあるなら、直感を信じて進んでいいと私は思います。留学もそうです。リスクヘッジをしても人生は絶対に思い通りにならなりません。逆に、自分で納得して選択したことなら、失敗も「リスク」ではなく「経験」になります。

大学卒業以来、海外2カ国で15年、日本で7年暮らして実感しているのは、どこにいても最終的には「個」の力が問われるということです。日本は海外に比べると、まだ会社の名前、肩書きに守られて生きられるところがあるものの、あらゆる場面で競争が激化している今、活躍し続けるには、「個」の力を強くしていかなければなりません。そのために、海外に出るというのはすごくいい機会だと実感しています。海外に出れば、語学力という武器を増やせるだけでなく、日本にいればあたり前だった「特権」がなくなり、「生身」の自分を鍛えていくことができる。語学教育や留学のお手伝いという形で、その支援をできることに大きな喜びを感じています。

現在は新型コロナウイルス感染症の影響で、留学の延期を余儀なくされたり、不安を感じて悩んでいる方々もたくさんいます。私たちもオンライン留学プログラムを用意するなど支援策の強化に努めていますが、社会情勢が落ち着くまでは、海外に出ることを強く勧めることはできません。ただ、留学を考えているなら、費用の準備をする、英語力を高めておくなど体制を整えておいて損はありません。そして、最も大事なのは自分の夢を少しでも多くの人に伝え、いろいろな人の意見を聞いてみること。きっと、新たな考え方、ものの見方に出会えると思います。

2019年にリニューアルオープンしたNYセントラルパーク校。世界中からさまざまな年齢・国籍・目的を持つ留学生が集う。

(取材・文/泉彩子)