PROFILE

古岩井一彦さん(No.95)/認定NPO法人フローレンス

■1972年ブラジル生まれ。4歳手前で日本に帰国後、小学校高学年から中学時代をアルゼンチンの自由な雰囲気の中で過ごす。大学で経営工学を学び、1994年、株式会社大和総研にシステムエンジニアとして入社。基幹系システムの保守開発に携わる。新卒採用リクルーター、新人研修インストラクターを経て、2001年大和証券グループ従業員組合(労働組合)の専従を3年間経験。以後、人事部門を中心にキャリアを歩み、2015年人事部長に就任。2017年4月の基盤技術第一部長、2019年4月金融システムインフラ開発部長(どちらも、旧株式会社大和総研ビジネス・イノベーション)を経て、2020年6月退職。 2021年6月、人事スタッフとして認定NPO法人フローレンス入社。

■家族:妻、長男(14歳)、次男(10歳)

■座右の銘: なし

 

自分が歩む道を自分で選ぶ。20代から30代にかけてはその感覚があった

大和総研に入社したのは、社会課題を解決するシンクタンクという存在に憧れがあったからです。入社時の職種はシステムエンジニア。物事の効率化・合理化を目指す仕事は自分の気質に合っていると思いましたし、「手に職」にもなると考えて選びました。技術職としてやっていきたいというよりは、まずは働いてみて、自分が心地よくいられる場所を見つけようという感じでした。

社会に出て、最初の転機は入社3年目。担当していたシステムに将来性が見出せず、「このままでいいんだろうか」と転職を真剣に考えていたタイミングで、米国に語学研修生として派遣されました。シリコンバレーで3カ月間さまざまな国の人たちと学ぶ中で実感したのが、自分の意見を言うことの大切さ。私は転勤族の家庭で育ち、新しい場所になじむために自分を出し過ぎないことが習い性になっていたのですが、帰国後はそれまでとは打って変わり、会議などで何かしら発言をするようになりました。

1997年。大和総研での最初の転機となった、シリコンバレー語学研修にて

すると社内でのネットワークや機会が広がっていき、入社8年目には労働組合に誘われて3年間休職し、組合専従の役員を務めました。この時に組合の立場から人事を考え、会社にさまざまな提案をした経験から、社内では異例でしたが、復職時に自ら希望して人事に異動しました。「会社に要求をしたからには、自分で実践しないとフェアじゃない」という思いが胸にあったからです。

自分が歩む道を自分で選ぶ。20代から30代にかけては自らのキャリアに対し、地に足のついた感覚があったように思います。労働組合の組織改革、会社分割に伴う組織再編プロジェクトでの人事対応といった前例のない改革にも携わり、忙しくはありましたが、日々が充実していました。

大和証券グループ従業員組合(労働組合)専従の役員時代

気づけば、1日、1日が何とか無事に終わることだけを願って仕事をしていた

誰のために仕事をし、何のために生きているんだろう。そんな問いが頭をもたげるようになったのは、40代後半。入社22年目に人事部長に就任し、しばらく経ったころからです。それまでの私は「上司のために」「部下のために」仕事をし、周囲から「一を聞いて十を知る」と評価してもらえるように働き、信頼を得ることに喜びを見出していました。入社以来、少しずつ責任のある仕事を任され、上司や同僚など多くの人たちに力を貸してもらいながら物事を形にしてきた、という実感があったからです。言い換えれば、「信頼できる人」のために仕事をすることが前向きなエネルギーにつながっていました。

ところが、経営トップと直接やりとりをするポジションになると経営層の面子や保身のために働いているような感覚に囚われることも多くなり、違和感が大きくなっていきました。一方で、業務は待ったなしでやってきます。心身ともに疲れ切り、ギリギリの状態がしばらく続きました。それでも、辞めることはもちろん、倒れることすら考えられませんでした。部下に迷惑をかけたくありませんでしたし、「かっこ悪いことをしたくない」という気持ちも強かったです。「ずっとこの会社で働いてきて、背負ってきたものがある」と思っていましたから、それを投げ出すことはありえない選択でした。

当時を振り返ると、重たい足を引きずるように通勤し、何とか休みの日にたどり着くという感じでしたね。会社ではなるべくそうしたことを悟られないように、表面的には明るく振舞ってはいましたが、気づけば「倒れないこと」を唯一の目標に、とにかく1日、1日が何とか無事に終わることだけを願って仕事をしていました。

ドクターストップがかかり、休職。「誰のために働くのか」を問い直した

この状態を脱しはじめたのは、2019年2月に社内で実施された「イクボス研修」がきっかけでした。研修に登壇されたNPO法人ファザーリングジャパン川島高之さんが「人生100年時代においては、『ワーク』 『ライフ』 『ソーシャル』の3つの輪が大事で、どれも本業です」というお話をされたんです。

入社4年目以来転職を考えたこともなく、「ワーク」と「ライフ」しか意識してこなかった自分にとって「ソーシャル」という概念は新鮮でした。関心を持ち、本を読んだりするうちにさまざまな社会起業家を知り、最初は共感したNPOに寄付を始めたのですが、自分にも何かできたらと考えるようになりました。

「ソーシャル」に関心を持ち、まずは自分のアンテナに引っかかった本を次々と読んだ

その時に思い出したのが、川島さんが「ソーシャル」の一例として挙げていたプロボノです。仕事の経験やスキルを生かせることが特徴のボランティア活動で、期間も決まっているので、「できるかも」と感じましたし、自分が会社で培ってきたものが社外で通用するのかを試してみたいという思いもありました。

そこで、社会問題に取り組む団体と個人をマッチングしてくれる中間支援団体に登録し、2019年5月ごろから活動をスタート。私にとっては勇気の必要な一歩でしたが、プロジェクトをきっかけに無私の精神で社会問題に取り組む人にたくさん出会い、いつかはこういう人たちと一緒にソーシャルの分野で仕事ができたら、と漠然と考えるようになりました。

ただ、あくまでも「いつか」の話でした。自分が何をやりたいのか、できるのか、具体的なイメージが描けず、「転職は無理だ」と考えていました。そのころは異動してシステム部門の部長に就いたばかり。長期プロジェクトを担当しており、いつか転職するにしても、そのプロジェクトが落ち着く数年後かなと思っていました。

初めてのプロボノプロジェクトでのミーティングの様子。プロジェクトマネージャーを務めた

ところが、2019年9月のこと。激務が続く中、部門の業務改善のために色々とできることを模索し、動いていく過程で、経営層に対する信頼が崩壊するような出来事がいくつか重なり、ついに、それまで何とか組織に自分を適合させようと張り詰めていた心の糸が弾けたのかもしれません。週末にいつものように気持ちを切り替え月曜日に出勤したところ、仕事がまったく手につきませんでした。異変を感じて社内のカウンセラーの先生に相談したところ、休むよう勧められ、泣きながら「休めないんです」と訴えたのをおぼろげに覚えています。

ドクターストップがかかり、休職。部長職から外してもらいました。素の自分に「誰のために働くのか」を問い直した時、「誰かのために」を理由に辞めないのはおかしい、自分が歩む道は自分で選んでいいんじゃないかと思いました。失われていた感覚が戻ってきたような感じでした。

「会社に居続ける方が辞めるよりもリスクが高い」と判断し、退職を決意

復職するか、退職をしてソーシャルをテーマに新たな道を探るか。自分の意思だけで選択をするとなった時、当初は退職のリスクの方が大きいと考えていました。未経験の分野への転身で先が見えませんし、収入も減る。とりあえず復職して数年働き、早期退職の募集を待った方がいいんじゃないか、と計算もしました。

また、「ソーシャルの分野で仕事をしたい」という考えが「現状からの逃げなのでは」という思いもありました。それを確かめたいという意図もあり、体調が回復してきた時期を見計らって、社外のさまざまな場に顔を出すようになりました。ソーシャル系のコミュニティやコーチングなどソーシャルで役立ちそうなスキルのセミナーのほか、コーチングを自分で受けたり、ライフシフト・ジャパンのワークショップにも参加しました。

そうした場でさまざまな方と対話したり、プロのアドバイスを受ける中でわかったことがあります。まず、復職後に所属する部門は、それまで自分が培ってきた経験や、「フラットな人間関係を構築する」「創意工夫をする」といった本来の自分が持っている強みを活かせる環境とは言えないこと。もうひとつは、私自身の価値観が休職前とは180度変わり、失敗をせず現状を維持することではなく、自分が納得できる人生を生きているかどうかを大切にするようになったことです。

このふたつがはっきりした時、長い目で見れば、会社に居続ける方が辞めるよりもリスクが高いと思いました。ちょうどそんな時にコロナ禍が起き、これまで当たり前だった「経済成長ありき」の価値観が社会全体で問い直されていることを感じ、背中を押された気がして退職を決めました。コロナについては、都合の良い解釈かもしれませんが(笑)。

「ソーシャル浪人」の1年間でたどり着いた、自分に合った働き方

2020年6月末に退職し、組織に対する苦手意識から、当初はコーチングやファンドレイジングなどのスキルを高めてフリーランスとしてやっていくつもりでした。いきなり仕事が見つかるとは考えておらず、まずは社会的意義と、「自分が関わる意味」の両方を感じられることを次々とやりました。プロボノやファンドレイジングのプロジェクトを通してボランティアでNPOの支援をしたり、共創社会などさまざまなテーマのコミュニティに参加しつつ、スキル系の勉強もして結構忙しかったです。

当時は自分のことを「ソーシャル浪人」と名乗っていました。特定の組織に属さない浪人生活は、家族の理解のおかげもあって、不安よりも行き先を決められていない未来に対する期待の方が大きい日々でした。会社員時代にプロボノのプロジェクトをひとつ完走し、手ごたえをつかんでいたことや、ソーシャルの分野で志高く頑張っている人たちとの出会いから、「何とかなる」という楽観的な思いも支えになっていました。

一方で、半年ほど動いてはみたものの、フリーランスとしてやっていく具体的なイメージは固まりませんでした。地球温暖化や児童虐待、フードロス削減などさまざま社会課題に触れ、「次世代のために社会を変えていきたい」という思いこそ強まったものの、フリーランスとして新たな課題を見つけ、先頭に立ってそれを解決していくことが自分のやりたいことなのかと考えると、そうではない気がしました。

その時に、ふと「自分の強みが生かせるのはフリーランスよりも組織なのでは」と思ったんです。会社員として組織の論理に自分を合わせることに疲れ、「組織は向いていない」と考えていましたが、私は「一匹狼」タイプではなく、チームの中で信頼関係を築きながら力を発揮していくタイプです。また、フリーランスはオンとオフの境目がなくなりがちです。会社でのワーキングスタイルに慣れている自分が器用に切り替えられるとは思えず、家族に迷惑をかけるのではと考えました。

そもそも、冷静に考えれば、「次世代のために社会を変えたい」という目的をかなえることと、組織に属しているかどうかは関係ありません。独立にこだわる必要はないと気づき、2020年の年明けからソーシャルセクターにひとつずつ応募。待機児童問題や子どもの貧困問題に取り組む認定NPO法人フローレンスに採用され、2021年6月から働きはじめました。

変化を自分の中に持つことが、持続可能な人生につながる

フローレンスでは、小規模保育園「おうち保育園」事業部の人事部門で採用労務を担当しています。我が家も待機児童問題に直面した時期があり、次男が「おうち保育園」のお世話になりましたが、当時は自分がフローレンスで働くことになるとは思いもしませんでした。ただ、「とても助かった」と感じていたので、ソーシャルでの活動を始めた時期から応援し、寄付をしたりもしていました。

実は、フローレンスで人事の仕事をすることも予想外だったんですよ。そもそもNPOに人事部門があることすら想像しておらず、オープンポジションで応募し、職種にこだわらず、何かしら自分のこれまでの経験がフィットするポジションで働けたらと考えていました。ところが、思いがけず「これから人事部門で採用の予定があるのですが、いかがですか」と声をかけていただき、応募して採用が決まったんです。動いてみて、初めてわかることもあるものですね。結果的に長年やってきた人事の経験も生かすことができ、よかったと感じています。

フローレンスで働きながら、プロボノなどソーシャルでの活動も続けています。自分で歩む道を自分で選び、何かしら志を持って「社会を変えていこう」としている仲間に囲まれ、違和感のない自分でいられる今を心地よく感じています。

「自分と家族、両方にとって持続可能であること」も、新たな道を選ぶ基準だった

人生100年時代、私自身は「次世代のために未来を見据えた行動」と「明日死んでも後悔しないよう今を大事に生きること」の両方を矛盾せずやっている自分であり続けたいと思っています。かつての自分なら「これから50年、生活していけるのか」と不安を感じ、変化を起こさないように生きていたかもしれません。でも今は、変化を自分の中に持つことが持続可能な人生につながると考えています。退職、「ソーシャル浪人」、転職という変化を選び続けたことによって、未来の選択肢が広がり、リスクヘッジになったという実感があるからです。

動こうとしなかった自分が自らの選択で動く経験を積んだことで「動く人」になり、変化が怖くなくなった。「動けない自分」から「動く自分へ」。それこそが私のライフシフトだったと思います。

(取材・文/泉 彩子)

 

*ライフシフト・ジャパン主催のワークショップの情報はこちらをご覧ください。