成田智哉さん(No.66)/マドラー株式会社代表取締役
■1988年、北海道生まれ。二浪して東京大学に入学。文学部歴史文化学科西洋史学専修を卒業後、「民間企業で世界平和に貢献する」という目標をもってトヨタ自動車株式会社に入社。人事部門で5年間、人間関係諸活動に関わる仕事を担当。従業員数8万人の巨大企業のさまざまな層の人々と話して理解し合うための活動を行った。2018年、ブラジル支社に赴任するも、新たなチャレンジが必要だと感じ4ヵ月で退社を決意する。帰国後、1000人の人と会う中で自分の強みを見つけ、2019年4月、昨年の震災で大きな被害を被った北海道厚真町のローカルベンチャースクールに参加。2019年5月、マドラー株式会社設立。レガシー×テクノロジー、都会×地方、ベテラン×ワカモンというような社会の両端を越境し、かき混ぜて結びつける仕事をはじめる。
■家族:独身(実家の両親はいまも北海道に在住)
■座右の銘:「成るまで為す」(「為せば成る」というのはできるひとだけ。はじめるだけで実現できるほど世の中は簡単ではない。はじめた仕事を実現するまでしつこく立ち向かい、はじめて物事は成る)。
「広い世界を見たい」と思い、無謀な東大受験。二浪にもあきらめず、東京へ
私の名字は成田ですが(笑)、北海道、新千歳空港から車で10分の千歳の町で育ちました。高校はばりばりの進学校というわけでもなく、勉強のできる生徒が年に何人か北海道大学に行くという程度。でも、私は「大学だったら東大でしょう」という意味不明な断定をして、一見無謀に見えるチャレンジをしました。すべり止めも受けず東大一本で、1年目は社会ができずに不合格、2年目は得意だったはずの数学でしくじり、家族からも「次落ちたらどうするの?」と言われても「大丈夫、受かるから」と、3度目の正直でようやく東大に入学することができました。
その理由、一つには「広い世界」が見たかったこと。千歳の町からほとんど出ずに育ったので、札幌の駅前の予備校に行くだけで「わー、都会だ」と思ったほど。東京で学ぶということは、大きな魅力がありました。そして、もう一つには中学の時に見た「GO」という映画の中で、社会的なマイノリティだった主人公が、ものすごく勉強することで差別などを乗り越えていった、その姿が印象に残っていました。チャレンジして道を拓いていく人生にあこがれてきました。
世界平和に貢献するためには、官庁より民間、と考えてトヨタに入社
東大に入って感じたことは「レールの上を歩いている人が多い」ことでした。各地のブランド校で手に入れた偏差値という既得権を使って人生を生き抜いていこうというような、チャレンジ精神とはかけ離れたタイプの人が多かった印象でした。自然、大学生活の中心はいわゆる「東大」らしからぬ人材ばかりが集まるサークルとアルバイトに費やされていきました。ガソリンスタンドや、渋谷のセンター街の深夜まで営業しているカフェでアルバイトをして、さまざまな世界の人々の生き方を見ることができたということも、大きな収穫となりました。
専攻は西洋史、これもまた「広い世界」を見たいという気持ちの現れだったかもしれません。19世紀後半から20世紀初頭の英国史という非常に複雑な時代のジョン・レドモンドという政治家を研究テーマとしました。日本に暮らしていると単一的で閉鎖的なナショナリズムに慣れっこになってしまいがちですが、同じような島国のイギリスは一つの国ですらありません。イングランド、ウェールズ、スコットランド、北と南のアイルランドという地域がそれぞれに大きな葛藤の中で、なんとかバランスをとりながら一つの塊としての「国家」を形成している、その姿は印象的であり、国家というものを絶対視せずに、微妙なバランスの中に「世界平和」もあるのではないかと考えるようになっていました。
将来の仕事、ということを考えたときに、私の視野に入ってきたのも「世界平和」に貢献できる仕事をしたいということでした。国家の枠組みを超えてより広い視野を持って動いてみたい、とっさに思いついたのは外務省という選択でした。しかし、外務省は「国家の利益」のためにあり、枠組みを超えた活動は構造的に不可能であると気付きました。だとしたら、民間企業でグローバルな活動をしているところ、さまざまな国々で現地の人々のために働ける企業と考えて、いくつかの総合商社とともにトヨタを受験し、採用していただけることになりました。
年300日以上の飲み会で、工場のオヤジたちにかわいがられながら過ごした人事の5年間
入社して5年間は、愛知県豊田市の本社人事部で人間関係諸活動という業務を行いました。8万人の従業員が働く世界企業。年齢も学歴も専門も国籍も多種多様な人々がどうすれば企業という枠内でまとまりとなることができるか。実際の業務はとにかく多くの従業員と会って話すことで費やされていきました。それぞれの想いや希望や不満を聞き出すために、なんの誇張もなく年300日以上、飲み会の生活。いまだに大好きな、懐の深い、そして愛情たっぷりの工場の現場の方々とご一緒し、「この会社にはなんてすばらしく魅力的なおじさんたちが多いんだ!」と感動してばかりの毎日でした。
「本気すぎる」とネットでも話題の駅伝大会の運営にたずさわったり、「チャレンジ」をテーマにした入社式を運営して、MLBスーパースターだったイチローさんのコメントまでいただいたり、さまざまな仕事を思う存分に任せていただけるトヨタという会社には惚れ込んでいました。「豊田章男さんの次の社長にはおれがなる」と豪語していたほどです。
念願の海外赴任。だが「新たなチャレンジが必要だ」と感じて、アマゾン川で退社を決める
それが大きく方向転換したのは、6年目に念願の海外勤務が叶い、ブラジルに赴任になったときのことでした。「自分は、ここに修業に来たわけで、観光旅行に来たわけではない」と「?」が頭の中で飛び交うほどの好待遇でした。不安定な治安から身を守るという事情はあるものの、私のような若造に豪邸と呼んでもいいほどの住まいや運転手付きの車が与えられ、現地の社会や従業員の方々とは明確な線が引かれているのを感じました。
赴任から4か月目、30歳の誕生日をアマゾン川でむかえ、大きな自然を前にして考えたのは、会社員が持つ「雇われ意識」に対する違和感、そして自分の将来に関してでした。仕事や会社が大好きだというだけの理由で、続けていっていいのか。会社にいる以上は、会社が自分のために費やすコスト以上のバリューを出し続けなくてはいけない。それが自分にできているのか、会社の看板を外した時に自分で勝負ができるのか。自分は何者で、何を成し遂げられるのか。それを即答することは難しく、自分で実際に動いて見つけていかなければいけない。新たなチャレンジが必要だろうと気付きました。
そう思ったときに、「雇われ」を辞めよう、起業をしようと決意をしました。起業内容が具体的に決まるよりも先に、チャレンジをしたいという思いが先行していました。思いついたら即行動で上司に退職の意志を伝え、9月いっぱいで帰国させてもらうことになりました。
「何ができるか」さえわからないところからの出発。とにかく人に会い倒し、その数1000人
帰国して退職手続きをしてからも、これから何をするか何も決まっていませんでした。いろいろな人と会って、「起業をする」というと当然のように「何をするの?」と聞かれます。もう一つ定番の質問は「何ができるの?」というもの。最初は、その両方の質問に返事ができませんでした。これでは前に踏み出せるわけがありません。そこでまず「何ができるか」「何をするか」答えを探すところからスタートしました。
とにかく多くの人に会って話をしました。恐らく1000人を超える人と会い、話を聞きました。世界はこんなにも広いものか、とすべてが新鮮に感じました。たとえば、島根県の海士町で活動する先輩や、岡山県でベンチャービジネスのインキュベーション活動を行っている人と出会い、いままで目に触れることも少なかった地方にも断然おもしろいビジネス機会が溢れていることを知りました。
北海道の厚真町と出会ったのもその延長線です。厚真町は、昨年の地震で大きな被害を受けましたが、それを乗り越え「厚真町ローカルベンチャースクール」を復活させました。厚真町を舞台にした新しい価値創造にチャレンジする人を発掘・育成するこのプログラムに、挑戦してみたらどうかと紹介されたのです。
よく言うんですが、私はイエスマンなんです。誰かから「こんなことをしてみない?」と言われたら、Noとは言わない。「できるかできないか」より「どうすればできるか」と考えてチャレンジをはじめてしまいます。こんな性格が幸い(災い?)し、このプログラムに、トヨタ時代の仲間とのモビリティ事業のトライを軸とした提案を行いました。高齢化・過疎化していく地方では交通インフラが衰退していくなかで、買い物・通院などの人々の移動手段は否応なく必要となります。最新のIT技術を持ち込むことにより、自動車やバスなど最低限のリソースを最大眼に生かすことで問題解決に結びつけていこうというものです。縁あって採択いただき、帰国から半年後の4月、私は活動の拠点を厚真町に移すことになります。
世の中の両端を見て越境し、かき混ぜるマドラーでありたい
自ら動くことを通して、ようやく言語化できたのは「越境できる」ということが私の強みだということです。たとえば、属人的なつながりから先端テクノロジーを駆使したコミュニケーションまで、都会から地方まで、そして、ベテランから若者まで。両極端にあって、一見、相反するモノを越境して、つなぎ合わせることが、私だからこそできることではないか。そのような活動を、厚真町を拠点に展開していこうと思い、5月に「かき混ぜる=マドラー」という名前の会社を設立しました。
設立したばかりの会社ですが、厚真町のモビリティ事業に加えて、既にいくつかのプロジェクトが動き出しています。いずれも、レガシー×テクノロジー、都会×地方、ベテラン×ワカモンという、すれ違いがちな両極端の中間に私が立って「マドラー」で攪拌していこうという試みです。起業すると、経営ということも勉強しなければなりません。株とはなにか、ファイナンスとはなにか、キャッシュポイントはなにか。事業を起こすということはすごく勉強になります。また、新しい世界が開けてきました。
私の人生を振り返ってみると、10代は北海道にいて、20代は大学と大企業で世界を広める時代、そして30歳で起業ということで、10年ぐらい自分の会社で、あっちこっちと迷いながら、続けていこうか、と。次の10年はどんな時代になってしまうのか。すべてはまだ手探りですが、人生という冒険を楽しんでいきます。