長野の開眼寺で住職を務める柴田文啓さんは、役職定年後の65歳のときに仏門に入られました。さらに84歳のときに夫婦で大学の仏教科に入学され、88歳で卒業。現在も日々、仏教の勉強を続け、仏教が人々の身近にあるよう普及に努めておられます。アメリカで社長まで務めた柴田さんがなぜ仏門に入ろうと思ったのか、僧侶としてどういった生活を送っているのか、学び続ける理由についてうかがいました。

PROFILE

柴田文啓さん(NO.112/開眼寺住職・臨済宗妙心寺派宗門活性化推進局顧問)

■1934年生まれ、福井県出身。福井大工学部卒業後、横河電機株式会社に入社。旧ユーゴスラビアでの工場建設や、医療機器の新規事業立ち上げなどに従事。ゼネラル・エレクトリック (GE) 社との合弁会社である横河メディカルシステム株式会社常務取締役、横河電機株式会社取締役、横河アメリカ社社長を歴任。役員退任後、アメリカのNGO「Project HOPE」日本支部代表として、東南アジアを中心に医療支援活動を行う。65歳のときに得度・出家。滋賀県の臨済宗永源寺で1年3ヶ月修行を積む。2001年長野県千曲市の臨済宗妙心寺派 恵日山 開眼寺住職に着任。臨済宗妙心寺派宗門推進局顧問も務める。2023年、88歳で花園大学仏教科を卒業。

■家族:妻、長男、長女、次女

父の戦死と空襲が生と死を考える原体験に

私は戦前の1934年(昭和9年)に福井で生まれました。父は陸軍の軍人で、終戦の前年、私が10歳のときに戦死し、父と一緒に過ごした時間はほとんどありませんでした。その後、愛知県豊橋市に移ったのですが、1945年6月、豊橋空襲がありました。私と家族は無事でしたが、街のいたるところで真っ黒に焼けこげた遺体をたくさん見て、戦争の残酷さを目の当たりにしたのです。その光景は今でも精神的なトラウマとなっています。命のはかなさ、生きるとは何かと物心ついたときから考えるようになり、それが仏教に関心を持つ原体験になっていると思います。

戦後は福井に戻り、母が女手ひとつで兄と姉、私を育ててくれました。福井には曹洞宗の大本山・永平寺という有名なお寺があります。仏教が身近にある土地柄であり、母も毎日、仏壇に手を合わせていました。そういった環境で育ったことも、今の仏門とのご縁につながったのでしょう。

大学は地元の福井大学工学部に入学しました。このときはまだ仏教を専門的に学びたいという考えはなく、興味のあった理系の学問を専攻しました。大学4年生のとき、卒論を書き終わった後に、「何か学生生活の最後に記念になることをしたい」と考えました。卒業までの1カ月間、永平寺で雲水(禅宗の修行僧)さんと一緒に生活をさせてもらうことにしました。期間限定の修行の真似事ではありましたが、作務、坐禅の毎日は清々しく、このときに「もっと仏教を学びたい」「いつか僧侶になりたい」という思いが心のどこかに残ったのでしょう。

働きながら坐禅会に参加し、老師との出会いに心が動く

大学卒業後、1957年に横河電機に入社しました。ちょうど高度経済成長期に入った時期で、「東京で働きたい」と思っていたところ、指導教官が紹介してくれたのが横河電機だったのです。入社後は昭和のサラリーマンの典型である「モーレツ社員」として国内外の現場を飛び回っていました。化学コンビナートの建設が盛んとなり、私は自動制御のシステムエンジニアとして働きました。工場試運転の時は、徹夜もざらでした。自宅には数か月に一度しか帰れませんでしたが、新設工場が完成したときの喜びは大きく、仕事にやりがいを感じていました。

20代はがむしゃらに働いてきましたが、30歳になったときに少し余裕ができ、思い立って奥多摩にある臨済宗の禅寺・徳雲院の坐禅会に通うことにしました。坐禅会は日曜日の朝4時からだったので、仕事をしながら通うことができたのです。そこでご指導いただいたのが「奥多摩の古仏」といわれています加藤耕山老師です。当時91歳であられましたが、坐禅と仏事の求道をなされておられ、高潔な禅僧として多くの人から慕われていました。そして「人生の最後は耕山老師のような生き方をしたい」と強く思うようになりました。耕山老師は96歳で遷化されましたが、私が仏門を目指すきっかけをくださり、出会えたことに心から感謝をしています。

42歳のとき、アメリカのGE(ゼネラル・エレクトリック)との合弁会社、横河メディカルシステム株式会社ができて、責任者の1人となりました。その後54歳で本社の取締役、58歳でアメリカの現地法人の代表となりました。アメリカではNPOやNGOの社会貢献活動が活発なことに驚きました。問題を自分たちで解決する文化があり、企業が資金面で支援し、困っている人たちを助けるのです。

伝説の経営者として知られるジャック・ウェルチ氏(写真中央)は、当時、GEのメディカル部門の責任者で、多くを学んだ。

62歳で役員を退任した時、アメリカのNGO「Project HOPE」の日本支部の立ち上げをしてくれないかと社長から話があり、発展途上国の医療支援活動を行いました。その活動は現在も続いています。しかし、私は50代の終わりごろより、会社から与えられた仕事をまっとうし、退職したら仏門に入ろうと決めていました。NGOの活動は後任の人に任せることにし、65歳のときに得度・出家したのです。私が仏教に関心があることは家族も知っており、反対されることはありませんでした。

若い修行僧から怒られながら厳しい修行を積む

僧侶になるために私が雲水として修行を積んだのは、滋賀県の臨済宗永源寺・専門道場です。ここでは年齢に関係なく、厳しい修行が課せられ、指導僧から何を言われても言い訳は許されません。すべてに「イエス・サー」で答え、ノーはないのです。朝4時に起床し、朝のお勤め、坐禅、そして掃除や食事作りなどの作務、托鉢という生活です。気を抜くと、孫のような年の指導僧から怒鳴られ、叩かれることもありました。しかし、それが辛いかと言われればそうでもないのです。

もちろん60歳後半という肉体にはしんどいのですが、修業中は余計なことを考える暇もなく、ただひたすら仕えることで、だんだん自分というものへの執着から離れていくことに気づきました。個性を尊重する今の社会とは真逆の「没個性」で生きるのが雲水のユニークな生活です。それが意外にも心静かで、1年3か月の修業期間は、体調を崩すこともありませんでした。年齢も身分も関係ない場所で、個性をなくして、自分から離れてみる。一生の間の一定期間にそんな体験をしてみることは、人生観を見直すいい機会になるのではないでしょうか。

縁もゆかりもなかった長野・開眼寺の住職となる

雲水修行を終えた後、2001年に長野県千曲市の臨済宗妙心寺派 恵日山 開眼寺の住職となりました。お寺というのは、家族が継いでいくケースが多く、雲水も「親が僧侶」という人がほとんどです。しかし、私は継ぐお寺もないので、宗門から紹介を受けたのがこちらの開眼時でした。14年間、無住職で檀家さんは1軒だけ、本堂は小さく、また、荒れていた庫裡があるだけでしたが、立派な仏像があるお寺です。掃除をすれば美しいお寺がよみがえり、ここで私は住職としての人生をスタートさせることになりました。

妻は当初は東京で仕事をしていて、のちに移ってきました。お寺での収入は少ないですが、ここでの生活はお金を使うことが少ないので、年金で十分まかなえます。また、退職金を使って敷地内をリフォームし、坐禅道場や宿泊・研修ができる部屋も作りました。お寺を企業研修の場として使ってもらうことで、多くの人に仏教をより身近に感じてもらいたいと考えたのです。住職がいてお寺がよみがえったことで、お参りに来る方やお話に来る方も増えました。

退職金で作った坐禅道場。誰でも座ることができる。

お寺の住職の仕事といえば、お葬式でお経をあげることがメインだと思われていますが、本来は亡くなった人のためだけでなく、今、生きている人、今、社会で活躍している人、その人たちのよき相談役、よき心の指導役が主な仕事です。昔はお寺の住職は村の人々のいろんな人生相談に乗っていて、仏様の教えを伝えていました。夜もお寺の本堂の鍵はかけずに、観音様に悩みを伝えて救われる人が来ていました。しかし戦後、日本ではアメリカからカウンセリングの専門的なシステムが入ってきて、悩みはカウンセラーの資格を持った人に相談することが主流となり、僧侶の役割はお葬式に限定されるようになったのです。

最近は「これではいけない」と若い僧侶がカジュアルに仏教に触れられるよう、講座を開いたり、寺カフェや寺ヨガを開催するなどの活動が始まっています。仏教が人々の生活に直結していて、人生に役立つものであることをもっと知ってもらわなければならないと私は考えています。

日本人は世界でも寿命が長いことで知られていますが、高齢になり寝たきりになったときに延命治療で生きながらえることがいいことなのかは疑問です。なんのために生きるのか、そんな疑問に答えてくれたり、死生観を考えるのに役立つのが宗教ではないかと思います。死期を宣告された患者さんのところへ僧侶がうかがって、お祈りを捧げ、患者さんの心を安らげる活動を行っている病院もあります。死を迎えるにあたって、その死をやすらかに受け入れられる教育、その役割を果たすのが宗教家だと思います。有名な宗教家、哲学者、あるいは思想家の本を読み、それをわかりやすく死を迎える人々に話すこと、これも宗教家の大切な任務です。

退職後の第二の人生に僧侶を選ぶのはおすすめ

今、日本では仏壇のある家が少なくなり、お墓参りに行けないからと墓じまいを行う家庭も増えています。無住職のお寺も多いです。檀家さんが少なくなるとお寺も経営が成り立たず、家族を養っているとお寺を離れるしかないのです。

一方、年金で生活できるリタイア世代に住職としての活動はぴったりだと思っています。これまでの社会人としての人生経験を活かして、仏教を通じて悩める人たちをサポートでき、晴耕雨読の生活ができるからです。お寺での生活だと年金で十分賄えるでしょう。私は臨済宗妙心寺派の活性化推進局顧問として「第二の人生プロジェクト」を案内しています。僧侶になるには修行が必要ですが、厳しい修行に尻込みしてしまう人もいるため、ハードルを下げたプログラムも用意しています。きちんと修行をしながらも、個室を用意し、夜9時以降はスマホやパソコンも使え、家族とのコミュニケーションもとれるようにしました。その結果、私のようにリタイア後に出家し、修行を経て住職のいない寺に入る人が増えてきました。

住職は規則正しい生活が送れるのも特徴です。私の1日は4時45分に起床し、座禅を1時間。6時になると庫裡の入口に掛けてある板を打ち鳴らし、本尊を三拝して、読経をはじめます。朝のお勤めは約40分で、木魚の心地よいリズムが本堂に響き渡ります。その後、お粥の朝食を終え、一休みしてから、掃除です。後は自由時間で、本を読んだり、坐禅をしたり、托鉢を行ったり、他人、または自分自身のために時間を使っています。災害が起きたときは義援金を集めるためにすぐに托鉢に出かけます。開眼寺は信濃三十三観音巡りの十三番札所で、お参りに来られる方もが多いので、皆さんとお話することも楽しみとなっています。

住職から学ぶ経営哲学の講演会、宗教の大切さを学ぶ法話などを依頼されることも多い

84歳で妻と一緒に大学へ。仏教を学び続けることが楽しい

2001年から18年間、住職を務めてきましたが、仏教への勉強がまだまだ不十分であることを実感していました。そんなとき京都・花園大学の「100年の学び奨学金」(50歳以上を対象に、入学時の年齢に応じて年間授業料を免除する)制度を知り、夫婦そろって入学することにしたのです。これまで体系的に仏教を学んだことはなかったので、人生を振り返るいい機会だと思いました。妻は「大学は出てないので学んでみたい」という動機です。80代の我々は学費が80%引きでした。夫婦で京都に移住し、大学から1時間ほどのお寺で下宿をさせてもらい、毎日通学して、若い人たちと一緒に学びました。

開眼寺はさきほどお話しした「第二の人生プロジェクト」に応募して僧侶になった人が継いでくれることが決まり、副住職として留守の間、守ってくれています。大学では4年間で124単位の講義を受講し、卒論「仏心を求めて」をまとめました。妻は江戸時代の禅僧「正受老人」を研究し、今年3月、2人とも無事に卒業することができました。私の卒論の評価は70点だったので、まだまだだなと感じました。仏教の教えは一生かけても学びきることができない奥深いもので、これからもずっと勉強できることは楽しくて仕方ありません。

アメリカ駐在中、妻の弘子とジャック・ウェルチ氏

現在は長野に戻り、今も開眼寺で活動を続けています。とくに健康に気を付けているわけではありませんが、あるものはなんでも食べて、79歳まではマラソンをしていて、毎日5キロ走っていました。ときどき「友人のお寺の名前が出てこない」といったことはありますが、88歳の今も元気に暮らせていることに感謝しています。僧侶としてマイペースで過ごしていることが健康の秘訣かもしれません。

また、坐禅を組むことは、心身の健康につながっていると思います。背筋が伸びて、呼吸が整い、心が落ち着くからです。定年後の人生をどうしようか悩んでいる人がおられるようでしたら、まずは何も考えずに坐禅をしてみることをおすすめします。今は気軽に坐禅ができるお寺も増えています。具体的な仕事でなくても、自分を生かしていけることを見つけていただきたいと思います。「人間とは何か」というところに立ち返ると、答えが見えてくることがあり、そのために自分を見つめることを習慣にしてみてはいかがでしょうか。最近はアメリカの企業でも坐禅を取り入れているところがあり、その効果が実証されています。

仏教には2500年の歴史があり、真理があります。人生の終点がやってくるまで、「人間として生まれて本当によかった」という気持ちで人生を送るにはどうしたらいいのかを考えるのが宗教です。日本の学校教育では宗教が教えられなくなっていますが、伝統宗教をきちんと教えていれば、怪しい宗教にすがる人も少なくなるのではないかと思います。私も小さな力ですが、これからも仏教を学び続け、仏教はどうあるべきかを考え、仏教の大切さを伝えていく活動を続けていきたいと思います。

(取材・文/垣内 栄)

*ライフシフト・ジャパンは、数多くのライフシフターのインタビューを通じて紡ぎだした「ライフシフトの法則」をフレームワークとして、一人ひとりが「100年ライフ」をポジティブに捉え、自分らしさを生かし、ワクワク楽しく生きていくためのワークショップ「LIFE SHIFT JOURNEY」(ライフシフト・ジャーニー)を提供しています。詳細はこちらをご覧ください。