「子どもと向き合う時間がほしい」という思いから、大阪で12年間友人と共同経営していた人気の東欧雑貨店を退いて靴職人を志した藤山なおみさん。2013年春、48歳の時に家族とともに尾道に引っ越し、翌年には自宅に靴工房兼ショップ「イチリヅカシューズ」をオープンしました。尾道、そして、靴との出合いが藤山さんに運んで来たのは、どのような未来だったのでしょうか。

PROFILE

藤山なおみさん(NO.113/「イチリヅカシューズ」靴職人)

■広島県広島市生まれ、 鳥取県育ち。関西学院大学社会学部卒業。新卒で大阪の印刷会社に入社し、5年間勤務。クリエイティブ部門でライティングの仕事をメインに行う。退職後、フリーランスのライターとして国内外を飛び回る。 1999年、35歳の時に友人とともに大阪で東欧雑貨店 「チャルカ」を立ち上げる。2001年長男、2006年長女を出産。2011年「チャルカ」を退職。家族旅行で訪れたフランスの蚤の市で出合った子ども靴をきっかけに靴づくりを始め、2013年、広島・尾道市に家族で引っ越す。2014年、尾道で靴工房「イチリヅカシューズ」をオープン。2022年8月、住まいを広島県三原市に移し、夫、実母とともに暮らしている。

■家族
実母、夫、長男(22歳)、長女(17歳)

■座右の銘 「Rolling(転がり続ける)」

友人と経営していた大阪の雑貨店「チャルカ(ヒンディー語で“回るもの”を意味する)」のテーマであり、自身の人生を表す言葉でもある。

子どもと向き合う時間を作りたくて、12年間共同経営していた雑貨店を退いた

大学進学を機に大阪に住み、印刷会社勤務やフリーラインスのライターの仕事を経て、1999年、35歳の時に友人と一緒に「チャルカ」という雑貨店を始めました。私も友人も旅が好きで、訪れた国々で買い集めたものをフリーマーケットで売るうちに「雑貨屋さんをやろう」と盛り上がり、店舗を借りて自分たちで改装。ふたりが好きなもの、やりたいことを詰め込んだお店を作りました。

オープン後、買いつけ先を東欧周辺に絞ると、「チャルカ」は国内に数少ない東欧雑貨店として注目されました。開業2年目に36歳で長男を出産。頻繁に海外には出かけられなくなりましたが、オリジナル商品の開発をしたり、買いつけの旅の本も出し、2004年には法人化。若さと勢いがあり、「子どもがいたって、何でもできる」と思っていました。

『チャルカの東欧買いつけ旅日記』(産業編集センター/撮影・東 泰秀)より。

ところが、会社が大きくなり、41歳の時には長女を出産して子どもがふたりになって。思い通りに動けなくなり、もどかしさばかりが募りました。子どもを遅くまで保育園に預けて働くことにも疑問を感じましたが、「経営者なのだから、辞めるわけにはいかない」と思い込み、ひたすら時間に追われる日々を送っていました。

そんなある日、息子の顔を見てハッとしました。「いつの間にこんなに大きくなったんだろう」と思ったんです。忙し過ぎて、子どもとゆっくり向き合う時間のないまま、息子は10歳、娘は5歳になっていました。「このままでは絶対後悔する」と初めて辞めることを考え、2011年3月に「チャルカ」を退きました。

共同経営をしていた友人に「辞めたい」と話した時、先のことは何も考えていませんでした。そんな私に友人は「仕事のペースを落として、まずは様子を見たら?」と提案してくれましたが、私はやり始めると、とことんやってしまう性分。それまでの暮らしを変えるには、すべてを手離すことしか考えられませんでした。

家族との初めての長旅で「靴」に出合い、47歳から靴職人を志す

「チャルカ」を辞めた直後、東日本大震災が起きました。原発の事故も発生し、ニュースから目が離せませんでした。子どもたちの未来のことや、食べるもの、エネルギーのことなど、いろいろなことを考えさせられ、自分がこれからどんな暮らしをしたいのか根本から問い直すようになりました。

唯一、はっきりしていたのは、“お母さん”をやりたいということ。「チャルカ」時代はお店が忙しくて帰宅が遅く、外食に頼りがちなのが気になっていたけれど、退職後は、学校から帰ってきた子どもたちにひとまず「おかえり」と言って、おやつは手づくり。料理もていねいに作って、すごく楽しかったです。

仕事については、何となく「ひとりで完結するものづくり」というキーワードが頭にありました。それが今の自分に合っているなと思って。「靴」を作りはじめたのは、「旅」がきっかけ。「いつか家族と海外で長旅をしたい」と憧れていて、「チャルカ」を辞めた年の夏休みに、1カ月のヨーロッパ旅行に出かけたんです。

2012年夏、家族との初めての海外旅行。イギリス、フランス、ベルギーなどヨーロッパ各国の友人宅を訪ね、ものすごく楽しかった。

この旅で立ち寄ったパリの蚤の市で、すごく可愛い子ども靴があって、娘が履いてみたけれど、小さくて入りませんでした。その時に娘が「お母さん、靴を作って」と言ったんですね。その言葉を聞いた瞬間、「家事をしながら靴を作り、子どもたちが学校から帰ってきて……」って生活のイメージがビビビッと湧き、「靴職人、いいかも」と(笑)。帰国後すぐに調べ、いろいろな靴職人さんのワークショップに1年ほど通いました。

どの教室でも生徒さんの大半は若い人たちで、40歳を過ぎて靴づくりを習う人はあまりいませんでした。年齢は気になったけれど、靴を作るのは楽しくて、「何とかなる」と妙な自信がありました。

家賃が格安な地方に住めば、お金に縛られず豊かな暮らしができると考えた

“尾道”を見つけてきたのは夫です。夫はフリーランスの音楽家で、大阪でスタジオを借り、そこを拠点に活動していました。私も夫も大学時代から大阪で暮らし、大阪は好きだったし、家族で住んでいた都心の長屋は私の通勤にも便利だったけれど、都会の家賃って高いですよね。稼いでも稼いでも、お金が飛んでいく。以前はそのことを当たり前のように受け止めていましたが、東日本大震災以降、消費主義の生活に疑問を抱くようになりました。

私が家で靴を作るとなると通勤は関係ないし、夫はもともと地方に演奏に出かけることが多かったから、「住むのは都会じゃなくてもいいよね」という話が夫婦間で出るようになって。私たちの予算で土地を買える場所に引っ越して家を建て、自宅兼スタジオ兼工房にすれば、お金に縛られず、今よりも豊かに暮らせるのではと考え、夫と私それぞれの実家がある西日本で移住先を探しはじめました。

ところが、なかなか見つからなかったんです。最初は夫の実家のある愛媛県松山市で一軒家の物件を探したのですが、スタジオや工房も兼ねられる広さの家となると、中心街から離れた場所でもそこそこの価格。大阪から引っ越しても、暮らしぶりがそんなに変わらなさそうでした。

「あれれ」と思っていたころ、尾道での演奏から戻ってきた夫から「尾道では、洋館が月3万円ほどで借りられるらしい」と報告があり、それは聞き捨てならないと(笑)。夫が知り合った「尾道空き家再生プロジェクト(空きP)」というNPO法人に連絡したところ、次の週末に「空き家めぐり」があると教えてくれて、まずは私ひとりで見に行くことになりました。

3日後、尾道で私を迎えてくれたのは、「空きP」代表のUターンで尾道に暮らす豊田雅子さんたち。「空きP」は豊田さんが「尾道の景観を守りたい」という思いから立ち上げ、中心地にあたる山手地区の空き家を中心に再生や、移住支援をしているNPOとのことでした。

メンバーには地元の方だけでなく移住者もいて、空き家を案内してもらいながら、“尾道のまち”のことや移住のことも聞かせてもらって。「ここには何かがある」と“野生の勘”が働きました。すぐにこれはという物件は見つからなかったけれど、探せばありそうな気配がしたし、私は何かを「やったろう」という人が好き。そういう人たちと知り合うことができ、皆さんに「おいで、おいで」と言ってもらって、心がわくわくしたんです。

それに、尾道には駅から徒歩圏に私たちにも手が届きそうな物件があったし、映画館もおいしいパン屋さんもありました。都会ではないけれど田舎でもなく、ほどよく“まち”な感じが、私たちが暮らすのにはちょうどいいと思いました。

尾道に引っ越した翌年、49歳で靴工房兼ショップを自宅にオープン

山手地区に続く坂のふもと、尾道駅から徒歩5分の場所に理想通りの物件を見つけたのは、初めての「空き家めぐり」から半年後のことでした。学校の校長先生のお宅だった白い鉄筋コンクリートの一軒家を購入し、2階を住居スペース、1階を靴工房と夫のアトリエにしようと決めて、家族、友人みんなで1年かけて改装。2013年春、大阪から尾道に引っ越しました。

尾道の家の改装では、子どもたちも大活躍。大阪の友人家族も手伝ってくれた。

当時、息子は12歳、娘は7歳。ちょうど、息子が中学に上がるタイミングでした。物件の購入から引っ越しまでの1年間、「空きP」のメンバーや夫が音楽活動を通して知り合った方々など地元の方たちにもあれやこれやとお世話になったので、息子や娘も、尾道には「面白い大人がいる」と感じていたようです。だから、子どもたちは引っ越しを楽しみにしていました。

靴工房兼ショップをオープンしたのは、引っ越しの翌年。49歳の時でした。このあたりの昔の地名から屋号は「イチリヅカシューズ」と名づけました。お客さんには予約制で来ていただいて、家事や子どもたちのことをしながら、靴を作って。技術が足りず、自分が「作りたい靴」と「作れる靴」の狭間で悩み続け、それはいまだにそうですが、お客さんに支えられました。

工房内に並ぶ靴のサンプル。セミオーダーメイドで1足1足、お客さんの好みに合わせて靴を作っている。

「チャルカ」時代のお客さんが旅行がてら訪ねてきてくれたりもしてうれしかったし、地元の人たちも応援してくれました。昔から住んでいる人もそうだし、尾道は移住してきてお店を始める人も多くて。何というか、自然に「支えよう精神」で経済が循環しているようなところがあるんです。

好きな人たちに囲まれ、やりたいことをやっていたから、「育児ロス」も軽症だった

尾道に引っ越して3年後、息子は中学卒業と同時に瀬戸内海の島にある全寮制の学校へ進学。同時期に娘も留学でイギリスへ旅立ちました。新しい土地での暮らしを「わ、楽しい!」と言っているうちに子どもたちはいなくなり、気づいたら、夫とふたりになっていました。

「育児ロス」も感じたけれど、好きな人たちに囲まれ、やりたいことをやっていたから軽症でした。靴づくりに向き合える時間ができたし、2018年には移住者仲間3人でバンド「OPPAI CATS」を結成。2022年8月には広島県三原市の山中に家を建てました。今は住まいを三原に移して母と夫、私の3人で暮らし、往復1時間ほど車を運転して尾道に通勤しています。

もとは病院だった白い洋館を改装した三原の家の前で。棚田の広がる山中にあり、敷地は森に囲まれている。

三原の家では、「オフグリッド生活(公共のインフラにできるだけ依存せず、環境に配慮した生活をすること)」を楽しんでいます。太陽光や地下水、土、植物など自然のエネルギーを生かした暮らしをしたいという夢はずいぶん前からあって、東日本大震災や広島の土砂災害などを経て、コロナ禍でその思いが強まり、「いつかは私も」と考えていました。

そんななか、父が他界。広島市内の実家にひとりで住んでいた母と同居することになりました。母が坂の多い尾道で暮らしたがらなくて新たに家を探しはじめ、三原の山道で車を走らせていた時、森に囲まれた白い一軒家に偶然出合い、ひと目惚れ。少し調べてみると、井戸もあるし、「ここなら、“オフグリッド生活”ができるかもしれない」と思いました。

背中を押したのは、娘の言葉です。コロナ禍で帰国していた娘が、何気ない会話の中で、「やりたいことをやらずに死ぬ人って、いるの?」と言ったんです。「たくさんいるね」と答えながら、「私はそうなりたくない」と心の火を燃やし、「“いつか”ではなく、“今”やろう」と決めました。

大阪時代からの「理想の暮らし」を実現。移住者仲間と結成したバンドで海外遠征も

三原の家の電力は太陽光パネル6枚でまかない、バックアップとして蓄電池を併用しています。高原地なので夏は風がそよぎ、エアコンいらず。冬はロケットストーブ(薪ストーブの一種。煙突効果により、燃焼効率が高いのが大きな特徴)を使っています。雨が降り続くと電力が危うくなることもありますが、冬なら冷蔵庫の中身を外の倉庫に移したりして、自然のリズムに合わせ、工夫を楽しみながら暮らしています。

畑もやっていて、86歳の母は苗の世話をしたり、庭の花でお茶を作ったり。畑仕事が忙しい日には、靴づくりはお休み。夫は庭に作ったアトリエで気持ちよさそうに仕事をしています。大阪で映像の学校に通っている息子もたまに遊びに来るし、娘も夏休みには帰ってきて、庭の藁の上でゴロンとお昼寝していました。

三原の家で、家族&「OPPAI CATS」のメンバーと。母は三原での暮らしを淡々と自分のペースで楽しんでいる。それがすごくうれしい。

今年の3月には韓国、6月にはイギリスを夫と子どもたちと一緒に旅行したんですよ。それぞれ予定があるから、途中で合流したりして。現地のライブハウスに行って「OPPAI CATS」の宣伝もして、9月には韓国でのバンド初の海外ツアーも実現しました。

韓国・ソウルのライブハウスで。ベース&ボーカルを担当。まさかこの歳でバンドをやり、海外にまで行くとは思わず、自分でも驚いている。

「OPPAI CATS」のキャッチフレーズは「初期衝動的ガレージバンド」。「やりたいことを全部やろう」が合言葉なんです。大阪で「チャルカ」を始めたころのように、今は365日、やりたいことを全部やって、好きなことが詰まった毎日を送っています。

今年のお正月に娘が息子に「今年はどんな年にするの?」と聞いたら、「初期衝動。お母さんの真似だけど」って言ったらしいんです。息子はどちらかというとクールで、私や娘のやることを一歩引いて見ているタイプ。それだけに、あれはちょっとうれしかったですね。

尾道で子育てをし、靴づくりを始めることができてよかった

息子と娘が尾道で暮らしたのは短い期間でしたが、ふたりの“ふるさと”はやっぱり尾道。お友だちが遊びに来たりすると、誇らしげに“尾道のまち”を案内しています。ご多分にもれず、あの子たちにも成長の過程の紆余曲折はあって、私や夫だけでは太刀打ちできませんでした。でも、尾道の「面白い大人たち」に囲まれて育ったから、あの人たちのように転んでも起きて、また歩いています。

大阪から尾道に引っ越して10年。4人家族が夫婦ふたりになり、母が加わって3人になり、今は息子や娘の飛び入り参加もあって。家族の編成が見る見るうちにこんなに変わるなんて、知りませんでした。

今は、母と暮らす日々がすごく楽しい。息子と娘が巣立って夫とふたりになり、何だか少し気が抜けていたけれど、「母のため」と思うと料理も張り合いが出ました。母はまだまだ自分で何でもできるけれど、また子どもができたような、充実した感じがあります。

家族のことと、仕事、趣味のバランスもあっちが膨らんだり、こっちが膨らんだり。この先は母の介護が必要になり、母との時間が膨らむかもしれないし、もしかしたら、いろいろな国のライブハウスをバンドで旅する日がやってきて、趣味が膨らむかもしれません。

先のことはわからないけれど、理想の暮らしを実現し、足元が固まった今、「どこがどう膨らんでも大丈夫。私の人生は、最後までやりたいことを全部やる人生になるんだろうな」と思っています。都会のペースに合わせて暮らすことしか知らず、「あれもこれもできない」ともがいていた40代とは真逆です。

もともとの私は割とせっかちで、ついつい仕事を詰め込み、飛行機に乗り遅れる夢を見てうなされるタイプ。尾道に引っ越し、自分の呼吸に合う環境のなかで、生活の一つひとつに自分の答えを見つけてこられたからこそ、心穏やかに過ごす今があります。尾道に出合い、尾道で子育てをし、靴づくりを始めることができて本当によかった、と思っています。

尾道に引っ越したばかりのころ。まだ完成していなかった、夫のアトリエで。

(取材・文/泉 彩子)

*ライフシフト・ジャパンは、数多くのライフシフターのインタビューを通じて紡ぎだした「ライフシフトの法則」をフレームワークとして、一人ひとりが「100年ライフ」をポジティブに捉え、自分らしさを生かし、ワクワク楽しく生きていくためのワークショップ「LIFE SHIFT JOURNEY」(ライフシフト・ジャーニー)を提供しています。詳細はこちらをご覧ください。