PROFILE

宮原契子さん(No.67)/特定非営利活動法人国境なき医師団日本 ファンドレイジング部 パートナーシップ・マーケティング・シニア・オフィサー

■1966年、神奈川県横浜市生まれ。1988年、東京大学 教養学部教養学科 人間行動学分科卒。博報堂および外資系広告会社でマーケティングプランナー、コピーライター、アソシエイトクリエイティブディレクターとして、おもに子どもや女性を対象としたマーケティング、広告制作、商品開発、ブランド開発、新規事業開発を担当。2011年、国際協力NGO「ジョイセフ」に転職、東北の女性支援とリーダーシップ育成プログラムを企画実施。また、ミャンマーでは保健省と日本企業と連携し女の子の保健教育プログラムの立ち上げなどを行った。2015年より国際協力NGO「国境なき医師団」でマーケティング業務とクリエイティブ開発のほか、人道教育プログラムの開発を担当。2017年より現職。BA(教養学士)、MBA(経営管理学修士)、MPA(行政学修士)。国際ビフレンダーズ東京自殺防止センター理事、マザー・アーキテクチュア理事。

■家族:夫と長女(21歳)、次女(11歳)、三女(9歳)。

■座右の銘:「神よ、変えることができるものについて、それを変えるだけの勇気をわれらに与えたまえ。変えることのできないものについてはそれを受け入れるだけの冷静さを与えたまえ」(アメリカの神学者ラインホルド・ニーバーによる祈りの言葉)。「聖書の言葉『喜ぶ人とともに喜び、泣く人と共に泣きなさい』もいつも心にあります。実践するのは意外と難しいんです」と宮原さん。クリスチャンであり、名前の「契」の字はキリスト教の「契約」の概念にちなんで名づけられた。

国境なき医師団 HP

誰のための仕事なのか。20年以上続けてきた広告の仕事に疑問を感じるようになった

両親がクリスチャンの家庭に生まれ、吉野源三郎原作『君たちはどう生きるか』が小学生のころからの愛読書。そんな私にとって、「社会貢献」というのは当たり前の概念でした。だから、就職にあたっても「世の中に役立つ職業に就きたい」とはとくに考えませんでした。職業が何であれ、誰かの役に立つために仕事をするのが自然なことだと思っていました。

広告会社に就職したのは、言われたことを言われた通りにやるのが苦手な自分にもできそうな仕事だと思ったからです。80年代の広告業界は活気があり、何か新しいことができそうな空気を感じたことも魅力でした。入社後はコピーライターやマーケティングプランナーとして広告制作に携わり、外資系ヘアケアブランドの立ち上げや化粧品会社の中国におけるマーケティングなど大きなプロジェクトも担当。同じことの繰り返しが通用しない仕事は性に合っていましたが、とにかく忙しかったですね。徹夜もいとわない働き方でしたし、まだ幼かった長女を連れて出張をしたこともあります。

広告というのは一人ひとりの生活者に向けて作るわけですが、生活者の手前にはクライアントがいて、現実にはクライアントに振り回される日々だったりします。結構しんどい仕事でしたが、モチベーションを維持できていたのは、自分のやっていることが誰かの役に立っているという感覚が多少なりともあったからです。スキンケア用品や生理用品といった女性やファミリーのための商品を担当していた時期が長く、「誰かのちょっとした“不便さ”だったり“しんどさ”を解決するために」という思いが支えでした。ところが、2005年ごろからユーザーの顔よりもクライアントの「組織の事情」を強く意識させられる案件が続き、「この仕事は誰のためにやっているんだろう」というモヤモヤした気持ちを抱えるようになりました。

東日本大震災が決定打となり、広告の仕事は続けられないと思った

そんな時に、たまたまある国際協力NGO(非政府組織)に寄付をして、その団体の広報物を通してNGOの活動の一端に触れ、NGOで働くことに関心を持つようになりました。一方、広告の仕事を通して自分が社会に役立てているのかという疑問が消えることはありませんでした。決定打となったのは、東日本大震災でした。震災で津波が発生した時、真っ先に頭に浮かんだのは宮城県の女川原子力発電所でした。以前、東北電力の広告制作を担当したことがあったからです。女川の原子力発電所には大きな被害がなくホッとしましたが、福島第一原子力発電所の事故が起き、その様子を映し出すテレビの前から動けなくなりました。

広告は基本的に「嘘」や「誇張」がないよう法律で規制されていて、広告の制作においては表現に細心の注意を払います。つまり、広告で使われる一つひとつの言葉に「嘘」はないはずなんです。例えば、効果に個人差のある化粧品の広告で「この成分が配合されているから、シミが消えます」という表現は禁じられています。が、成分の名前と、シミが消えた肌をイメージさせる言葉を、ただ並べることは問題視されません。成分とシミが消えた肌の関連性を明確にはうたっていないからです。でも、多くの人は「○○成分には美容効果があるんだな」と感じるでしょう。

広告表現が時として誤解を生むことに対し、それまで私は重大な問題意識を抱いたことがありませんでした。担当した商材が人の役に立つものだと考えていたからです。原子力発電に関しては、一般に言われていた「燃料確保の安定性や経済性、地球環境問題への対応のためには、原子力発電を含めた電源の多様化が重要である」とする「ベストミックス論」をそういうものだと受け止めていました。だけど、福島第一原子力発電所の爆発と周辺地域の人びとの様子を目の当たりにした後は、とても以前と同じ感覚ではいられませんでした。広告の制作を通し、誤解を生むような表現を自分がしてしまったのではないかと罪悪感に苦しみ、この仕事は続けられないと思いました。

つい最近まで、この話を誰かにすることはありませんでした。言えなかったですね、長いこと。

45歳でNGOに転職。やっている仕事そのものは広告会社時代と変わらない

東日本大震災から間もなく、勤務していた広告会社が組織改変で解散。グループ会社への就職斡旋を辞退して退路を断ちました。以前から「NGOで働いてみたい」と打ち明けていた後輩が「ジョイセフ(世界の妊産婦と女性の命を守るために活動している日本生まれの国際協力NGO)」でファンドレイジング(資金調達)を担当するスタッフを募集していることを教えてくれ、転職。2015年からは「国境なき医師団」で働いています。

「国境なき医師団」は1971年にフランスの医師とジャーナリストのグループによってつくられたNGO。世界各地の紛争地域や災害地域など緊急の医療・人道援助を必要とする地域に無償で医療を届けています。スタッフのなかには医師や看護師、理学療法士といった医療従事者だけでなく、物流の専門家、水の専門家、財務の専門家などもいます。何もないところに小さな病院のような活動を持っていくイメージです。そのために日本を含め世界各地にある事務局ではスタッフの採用・派遣、証言・広報、ファンドレイジングといった活動をしています。

「国境なき医師団」のファンドレイジングの大きな特徴は「独立・中立・公平」の理念を実現するため、活動資金のほとんど(約95%:2018年実績)を民間からの寄付でまかなっている点。とくに日本では寄付の約9割が個人寄付です。現在は高齢者の比率が高く、ダイレクトメールや街頭キャンペーンを見て寄付をしてくださる人の割合が多いのですが、今後を考えると多様な媒体を使って若い世代の支援者も増やしていく必要性を感じています。NGOでファンドレイジングを担当していると言うと、広告会社時代とは違う仕事をしているように思えるかもしれませんが、扱うものが一般の商品やサービスから寄付プログラムになっただけ。マーケットを知り、戦略を立てて誰かの気持ちをつかみ、「買ってもらう」という仕事に変わりはありません。変わったのは、その仕事を「誰のためにやるのか」。「国境なき医師団」は医療・人道援助を行う団体ですから、仕事の目的は援助を必要としている人を救うこと。シンプルで、ブレがないから、かつてのように「自分の仕事が本当に社会の役に立っているのか」と疑わなくて済みます。仕事の価値を信じられる。それは私にとってすごく安心なんです。

三女出産後の育児休暇中に経営大学院で学んだことも、NGOへの転職を後押しした

NGOに転職後、収入はかなり下がりました。現在の年収は広告会社時代の約半分です。実は、NGOで働いて生活はできるのかというのは最も心配したことでした。それはシングルマザーとして幼い娘を育てていた時期があり、ものすごく苦労したから。5年以上迷っていたNGOへの転職を決意できた一因には、2007年に再婚した夫の存在があったことも事実です。

2010年に三女を出産するにあたり、育児休暇を有効に活用しようと「ビジネス・ブレークスルー大学大学院(大前研一氏が学長を務める、オンライン学習を取り入れた経営大学院。以下BBT)でMBA取得のために学んだことも、NGO転職に向けて背中を押してくれました。BBTで問題の実態や本質を正しく理解するための「問題発見思考」と、問題を解決していく道筋を学んだことで、どんな困難な問題に直面しても「解決方法は絶対にある」と考えられるようになったからです。また、BBTで学んだ問題解決の道筋は、自分が実務を通してやってきたことそのものでもありました。「自分がやってきたことは間違っていなかった」という自信をもらえたおかげで、「この先も何とかなるだろう」と勇気が湧いたんです。

実際、いざ転職してみたら、転職前に心配していたことは大抵何とかなりました。「ジョイセフ」に勤務していたころは東日本大震災の被災地によく出張しましたし、「国境なき医師団」に移ってからは、ロケ撮影のためにウガンダ共和国にも出かけました。外務省が公表しているウガンダの危険レベルは1ですが、国境付近は当時、渡航中止勧告を示すレベル3。安全とは言えない渡航でしたが、緊急支援を必要とする国の人たちの状況を多くの人に伝えるとともに自分も知っておきたかったんです。留守を預かる夫はたまったものではなかったでしょう。「自分の子を置いてまで、なぜよその国の子を助けに行くんだ」とプンスカ怒っていましたが(笑)、いつの間にか家事も育児もしっかりとやってくれるようになりました。幼いころ、やむを得ないときに職場に連れて行っていた長女は、広告会社の同僚やクリエイターの皆さんにさんざん遊んでもらった影響か、いまや美大生。NGOに転職した当時生まれたばかりだった三女も小学校中学年です。収入についても、確かに減りはしましたが、ストレス発散のための衝動買いが無くなり、心配していたほど生活への打撃はありませんでした。

しんどい思いをしている人たちの存在を知ってしまったからには、放っておけない

NGOで働いていてつくづく感じるのは、ビジネスとソーシャルセクターで働く人たちのものの考え方の違いです。BBTで学んでいた時も、それを感じてはいました。ビジネスの世界では戦略を立てる時に世界全体の最適を考えるのではなく、どこかで線を引きます。当然ながら、自国や自社の利益を最優先で物事を考えるわけです。

では、その線の外側にいる人はどうなのか。20代のころからプライベートでアフリカ諸国を旅して、現地の人と触れ合い、助けてもらった経験を持つ私には線を引くことができませんでした。今の仕事では、線を引かずに、自らが問題と感じていることの解決に向けてまっすぐ取り組むことができる。私にはすごく合っているなと思います。

BBTには私が学んでいた当時成績優秀者を対象とした奨学金制度があり、2年次の学費が戻ってきたので、それを元手に米国の大学院のオンラインプログラムでMPA(行政学修士)も取得しました。ここ数年は、本格的にグリーフケアを学びたいと思っていて、具体的に動き始めたところです。NGOの仕事を通して、福島の被災地に通っていたときも、ウガンダに行ったときも、厳しい状況下で生きるたくさんの方の涙を見てきました。でも、目の前にしんどい思いをしている人たちがいるというときに、自分は直接役に立つことができるような専門性はなくて。だから、事業計画を立てることにより、専門家を呼んでくるというようなことが私の役割だと考えていたのですが、やっぱり一人ひとりの方に、自分自身で向き合えるようになりたいんです。

果たして生業にできるかどうかはわかりませんが、どんな形であれ、心のケアを提供するための専門性は身につけずにはいられないでしょうね。しんどい思いをしている人たちの存在を知ってしまったからには、放っておくことはできません。家族には「よく言うよ」と呆れられそうですが、私のアイデンティティは「仕事人であること」の前に「母であること」。援助を求めている人を放っておけないのは、そのことも強く影響しているように思います。

よく「自分に嘘をつけない」という表現を聞きますが、私のライフシフトはそんなかっこいいものではありません。「これはおかしいんじゃないか」ということに出合ったときに、「世の中、おかしいこともあるよ」と自分をいなして働き続けることができなかっただけなんですね。これからもそれは変わらないでしょう。こんな「はた迷惑」な私のそばにいてくれる家族や友人には本当に感謝しています。