PROFILE

中田敏行さん(No.42)

・CSS Co.,LTD ( Creative Skills Sharing Company ) 代表取締役社長
https://tony-nakata.wixsite.com/creativeskills

愛知県生まれ、ベトナム在住、61歳。
電気通信系専門学校卒業後、ソニーに入社。製造現場のエンジニアを皮切りに、製造・技術・資材各部門のマネージャーを経て、2004年、中国・上海に新設されたデジタルカメラ工場の品質保証責任者として赴任。12年、55歳で早期退職制度に応募し、退職。海外での日本語学校設立を目指し、日本語教師養成講座で1年間学ぶ。講座修了後、南米、欧州、アジアなど6カ国で市場調査をした結果を踏まえ、17年に日本で設立したCSSを母体に、ベトナムで技術指導や日本人学生の海外インターンシップなどを手がける。活動拠点は、ベトナムとスリランカ。

家族:前妻(離婚)。オーガニック化粧品関連の仕事をしている長女と、二十代で起業したファッションデザイナー兼CEOの長男が日本で生活している。

座右の銘:「やってみてから考えよう。ダメなら戻ればいい」で物事の判断に迷わず

海外に出たことで、自分の価値を再認識

私は今、日本で設立したCSS Co.,LTDという会社の海外業務として、ベトナムのホーチミン市を拠点に、在ベトナム日系企業の経営顧問、スリランカの文房具上場メーカーへの技術指導、日本語のプライベートレッスン、および日本人学生を対象とした東南アジアの企業などへのインターン就業のマッチングなどを手がけています。

退職した後は、海外のどこかの国で日本語学校を経営しながら暮らしたいと思っていました。すでに英語、中国語を使って仕事をしていましたし、日本語教師は世界中どこでもできる仕事です。また、私のような技術系出身の日本語教師は非常にレアな存在でしたから、いけるのではないかと。ただ、実際に55歳で会社を早期定年退職して日本語教師養成講座に通い、5年間かけて世界を巡りながら市場調査をした結果、日本語学校の経営・運営は想像していたよりも収益性を含め難易度が高い事が見えてきました。それで学校経営は断念し、60歳を機にホーチミンに生活の拠点を置き、冒頭でお話ししたような仕事をしているわけです。日本国内の労働市場には、私と似たような専門技術者はそれなりに存在します。しかしながら新興国において、私が会社員時代に培ってきた経験、スキル、ノウハウを生かし通訳なしでの指導者は希少価値なんです。海外をリサーチした事で、私の能力が思った以上に必要とされていることがわかった訳です。

ラテン系の性格を自認する私は、現地の人の輪に溶け込み、3日もあればその国の環境に慣れる自信があります(笑)。毎日停電がある、虫やヘビがあちこちにいる――そんな暮らしだってまったく平気です。何より、諸外国の独特の文化、食べ物、人々のライフスタイルなど、新発見の連続で刺激的で面白い。私がこれほど自由に、かつスムーズに生活基盤を海外にシフトできたのは、独身(バツイチ)、子供がすでに独立している、という身軽さも手伝ってのこともあるかもしれません。

不安より希望が先立ち、希望退職に真っ先に手を上げる

子供の頃から家電やオーディオが大好きで、ソニーは憧れの会社でした。77年に入社し、最初の配属先は東海地区の製造拠点です。その後、資材部の部品品質保証マネージャーを任じ、ISOのシステム構築や環境監査、品質管理手法などの知見も深めます。つまり、当時の世界最高峰といえるソニーの製造部門の本丸で、最先端の知識を得ることと生産に関する貴重な経験を積むことができたのです。
そして04年、47歳の時に、中国華東・無錫に新設された1万人規模のデジタルカメラ工場の新規資材部部品品質保証マネージャーを打診されます。昔から海外旅行が趣味でしたし、海外で働きたいとずっと希望を出していたので、二つ返事で受けました。

2013年3月に任期を終え帰国する半年前のタイミングで、全社一斉メールで早期退職募集の通知が送られてきました。前から噂は聞いていたので「ああ、ついに来たか」と。話は戻りますが、私は中国赴任時代、業務とは関係なく、仕事仲間の中国人に日本語を教えていました。でも、「私は」と「私が」を使い分ける理論的な説明がうまくできない。母国語を外国人に教えることの難しさと面白さを感じ、退職後は日本語教師をやってみたいと思うようになっていました。大好きな会社を辞めることに若干の逡巡はありましたが、私にとって、早期退職の募集は、ライフシフトに踏み切る絶好のチャンスと思えたのです。息子に、「退職して、世界を旅することを考えている」と伝えたら、「30年も会社員として働いたんだから、新しい何かを探しに行ったら?」と。救われました気がしました。

「ダメなら戻ればいい」と、いきなりアルゼンチンに飛ぶ

退職後、すぐに日本語講師養成講座を受講し、1年間かけて専門技能を学びます。まずは食べ物の話題などで相手をリラックスさせ、基本的な語彙や文法を教え、最後にお互いが会話をしてみるといった、一連の指導スキルを習得することができました。
そして講座が修了した1週間後、私はいきなりアルゼンチンへ。普通の人なら、現地の状況を細かく調べ上げて、行くか行かないかを決めると思います。でも、実際に行ったほうが早いし、ダメなら戻ればいいだけでしょう。

最初にアルゼンチンに渡ったのは、趣味で続けてきたアルゼンチンタンゴの本場!というのが一番の理由です。高校時代にダンスを始め、ソニーでは同好会をつくり、休日には名古屋の文化教室やラテンクラブで教えるまでに。ダンスは世界中で楽しまれていて、どこにでもコミュニティがあります。そこに行けば、すぐに現地の人たちと仲良くなれる。ダンスは世界の“共通言語”。アルゼンチンの後、いくつかの国を巡りましたが、そのことを心から実感しました。本当にダンスをやっていてよかった(笑)。

アルゼンチンに着いてから調べたところ、ブエノスアイレス外語大学の日本語学科に日本人の先生がいることを知りました。その方とはブログを通じて連絡を取り合い、面接を受けた結果、アシスタントとして採用が決定。半年間、授業のお手伝いをすることができました。スペイン語を覚えながら日本語を教えるため大変でしたが、初めての日本語教師としての仕事です。その後すぐに現地の日本人学校で、土日の日本語特別クラスを4コマ任されるなど、充実していました。

1年ごとに住む場所を変えて、自分の価値を発揮させ続けたい

この旅の第一の目的は、日本語学校設立のための市場調査です。現地の日本語教育の現場を訪問し、講座内容、授業料、教師の給料などを調べ上げようと。そのために使う費用に関しては、退職割増金で十分にまかなうことができました。アルゼンチンで半年ほど過ごした後は、スペインに渡って3カ月、トルコで3カ月、ハンガリーで2週間、そしてミャンマーでは2年間を過ごしました。日本語学校を経営しているミャンマー人の社長と出会い、彼が私の履歴書を見て「ミャンマーの技術者不足の支援をしてほしい」と、4社の技術指導先を見つけてくれたからです。この時、「自分の価値は、やはり技術力なのだ」と実感しました。

ミャンマーで技術指導の契約期間を終えた後は、スリランカへ。民間の日本語学校があまりなかったコロンボで、「コロンボ日本語教師会」を立ち上げ、技術系日本語教師としての活動も本格的にスタートさせました。その後、ベトナムに拠点を移したのは、私のビジネスビザ取得に協力してくれた、上場企業の社長でベトナムやタイに工場を持つ友人が、現地海外拠点でのビジネスに力を入れていたことが大きな理由です。ホーチミンはベトナム最大の経済都市ですから、現在、技術指導の契約をしている企業があるスリランカなど海外へのアクセスもよく、食べ物もおいしい。住み心地は最高です。ただ、仕事で各国を飛び回っているので、ゆっくり過ごすことがなかなかできないんですけどね(笑)。

さて、日本語学校の設立は断念したわけですが、日本語教師の仕事には十分やりがいを感じています。“元ソニーの技術者”という“+α”の付加価値で、相場の数倍もの報酬をいただいていますし。教え子が日本で就職できたり、日系企業の現地法人に入ることができたりすると、無上の喜びを感じます。久しぶりに教え子と会って「元気にやってるか?」「ガンバッテマス!」なんて日本語で会話ができることも、嬉しい瞬間です。

アジアの次は、友人が駐在していて、急成長しているアフリカのウガンダへ行って、技術指導の仕事をする計画を立てているところです。1年ごとに自分が求められる場所を変えながら、私が持っている価値を発揮させ続けよう、と。70歳まではこの仕事と生活を続けるつもりです。自分の会社なので、定年はありませんから。

人の目を気にせずに、やりたいことをやる

定年を前にこれからの人生を迷っている人がいるかもしれません。しかし本当にやりたいことが有るなら迷う理由は何もありません。多くの場合、プライドがじゃましているだけですから。失敗したらどうしよう?近所の人たちは、どう見るだろう?他人の目を気にせずに、やりたいことをやってください。
ただしシニアでの海外移住は、多くの方々が挫折しています。ほとんどはコミュニケーション能力不足(言語含めた)と健康の問題です。最初は、短期滞在(3か月)でいろいろな国を体験し、食事内容なども考え最終的な居心地の良さで行き先を決めるといいと思います。

取材協力/ヒューマンアカデミー日本語教師養成講座
http://haa.athuman.com/academy/japanese/