PROFILE

川畑清嗣さん(No.97)/宮崎海塩工房

■1952年宮崎県生まれ。東洋大学法学部卒業。東京都内のニットメーカー勤務を経て、1974年宮崎県で婦人服店を開業。複業商業施設の運営も手がける。2009年に事業をたたんだ後、宮崎県・日南海岸にある自宅兼工房で塩づくりを開始。昔ながらの平釜式製法で天然塩製造に取り組んでいる。

■家族:ひとり暮らし

■ 座右の銘: 「初心忘るべからず」

若いころから変わらず心に留めている。順調な時期は自戒の言葉となり、逆境にある時は励ましの言葉として自分を支えてくれた。

宮崎海塩工房

 

朝4時から工房に立ち、昔ながらの平釜で手づくりの塩を作る

宮崎県・日南海岸で塩づくりを始めて13年になります。原料となる海水は、恋が浦から夫婦浦にかけての海岸で汲み上げたもの。このあたりは九州最大級のテーブルサンゴ群生地で、透き通った青い海なんですよ。

自宅兼工房から見渡す日南海岸の光景。

自宅兼工房は日南の海を見渡す高台にあり、昔ながらの平釜で製塩しています。朝4時から12時間じっくりと炊き上げてアクや石灰を取り除き、天候や湿度に合わせて常に火加減を調整しながら本炊きを5時間。その後、天日で4〜6日ほど干したさらさらの塩を、目の粗さが異なる2種類のざるを使って大粒、中粒、小粒にわけてできあがりです。

1回に炊く20キロの海水からできる塩は200グラムほど。機械製塩のように大量生産はできず手間はかかりますが、炊き方で結晶の形などに個性が生まれ、添加物を含まない自然塩を作れるのが平釜式の魅力です。私のことを「塩じい」と呼ぶ孫たちに「安全で安心感のある塩を食べてほしい」という気持ちで日々作業に励んでいます。

普段は東京に住む孫たちと。「孫たちが笑顔で食べてくれる塩を」と開発した商品もある。

前職はアパレル企業の経営者。22歳の時に地元・宮崎県で独立開業した

塩づくりを始めるまでは、40年近くアパレルの仕事をしていました。学生時代からファッションに関心があったわけでも、洋服が好きだったというわけでもないんですよ。ずっと剣道をやっていて、警察官を目指して東京の大学の法学部に進学。警察官以外の道を考えたことがありませんでした。ところが、当時の警察官採用試験には身長制限があり、断念。やむを得ず、姉が勤めていた原宿の洋服店で販売の手伝いをしたりするうち、ファッションを「面白い」と感じるようになりました。

当時の原宿は、クリエイターが集うセントラルアパートの地下に小さな洋服店がひしめき合っていた時代。華やかで活気があり、自分が知らなかった文化に惹かれました。そのうちに生まれ育った場所でそれまでの地元にはない店をやりたいという思いが芽生え、就職したニットメーカーを退職して22歳で独立。宮崎市内で婦人服の店を始めました。

婦人服を扱うのは初めてでしたから、最初は何を仕入れ、どう売ればいいのかわからず、師としたのは母です。母は和裁の先生で、生地のことをよく知っていたんです。店から帰宅するたびに母にいろいろなことを聞き、糸の性質など素材の基礎を学びました。洋服のデザインには流行がありますが、素材は時代の変化に左右されません。母から教わった「素材の大切さ」は、洋服店の経営に役立ったのはもちろん、塩づくりをする今も私を支えてくれています。

宮崎市内に3店目の洋服店を開いた30歳のころ。

57歳で会社が倒産。全財産1000円から再出発し、塩職人に

40代には12店舗まで店を増やし、複合商業施設も開業しました。これまでにないものを作ることによって、人や街に活気が生まれるのを見るのが喜びでした。それだけに、新たな商業施設立ち上げに失敗し、57歳で会社を倒産させてしまった時には忸怩たる思いがありました。

自己破産して全てを失い、全財産は小銭入れに残っていた1000円だけ。返さなければいけない借金もありました。この状況で何ができるのかと考えた時に思い起こしたのが、知人の水質研究家が言っていた「日南の水はきれいで、ミネラルが豊富。日照時間も長く、いい塩ができるのに誰もやっていない」という話です。

塩づくりをやろうと決めた時、周囲は口を揃えて「なんで?」と言いました。食品関係の仕事をしてきたわけでも、製塩業が盛んな土地に暮らしているわけでもないのですから、無理もありません。でも、私は「これしかない」と考えていました。塩づくりはリスクが低いからです。

塩の製造は財務省に届出を出せば許可されますし、平釜式製法の小さな工房なら自宅の一角で始められます。海水は水利権の対象外なので原材料費もかかりませんし、塩は腐らないので賞味期限がなく、在庫を無駄にすることもありません。決め手は、食中毒の心配がないこと。人に迷惑をかけることは二度とできない、という思いがありました。

アルミ製の釜はひとつ2万円ほど。ひとりで持ち上げられる大きさの釜にする必要性から数が多く、その分見守りの手間がかかる。

やるからには、どこにもない塩を作りたかった

塩工房の開業費用は、海水を汲み上げるためのポンプや釜などに20万円ほど。手づくりのお弁当を売りながら、半年かけて資金を貯めました。お弁当は得意料理の煮しめと卵焼きを、おにぎりと一緒に竹の皮に包んだもので、1個800円。毎日40個ほど売れたのでとても助かりました。

塩づくりは独学です。弟子入りすれば、師匠と同じ塩しか作れなくなってしまうと考えたからです。やるからにはどこにもないものを作りたいと思い、図書館で借りた本をテキストに工房でひとり毎日塩を作ってはなめ、火加減などの調整を繰り返しました。既製の塩に美味しいものがあり、その塩が「師匠」でした。

辛すぎたり固まってしまったり、最初はうまくいきませんでしたが、1年ほどで「師匠」の味に近づき、職人としての自信が芽生えました。でも、「美味しい塩」は世の中にたくさんあります。オンリーワンであるためには見た目を追求しなければと考え、譲れなかったのが大きく美しい結晶を作ることでした。

そのコツがつかめず苦労しましたが、塩づくりを始めて3年ほど経ったころだったでしょうか。偶然のきっかけから、通常ならやらない火の入れ方をした日があったんです。「失敗したかな」と思いながら、おそるおそる釜の蓋を開けたら、大きな塩の結晶がキラキラ輝いていました。

「うちだけの塩です」と胸を張れるようになったのは、その日からです。「見せ方」のアイデアも次々と湧きましてね。梅酢などの自然の素材で色をつけたり、カラフルなスパイスと組み合わせた商品を開発し、瓶の形やラベルのデザインも工夫。結婚式場にサンプルを置いてもらったところ、引き出物としてたくさんの注文が入りました。そのうちに口コミで評判が広まって県内のホテルのお土産物屋さんや通信販売での需要が増え、全国の方々に商品を使っていただけるようになりました。

梅酢でさくら色に色づけた「黒潮水晶 さくら塩」。商品はすべて宮崎産の食材で色づけしている。

築き上げたものを手放したからこそ、第二の人生が始まった

アパレルの会社をたたんだ時、「うちの会社を手伝ってくれないか」と声をかけてくださった方々もいました。ありがたいお話でしたが、お受けすることはできませんでした。人と関わることがつらかったからです。やっぱり、失敗をしたら人とは会いたくないです。

だから、来る日も来る日も朝4時に起きて夜通しで塩を炊いたんです。何もせずにいたら、過去を振り返り、「ああすればよかった」「こうすればよかった」と後悔や反省ばかりで心がいっぱいになってしまう。そうならないよう、とにかく塩のことだけを考えて、ひたすら釜だけを見ていました。

そんな毎日を続けられたのは塩づくりが楽しかったからです。洋服店は誰かが作ったものを売ることしかできないけれど、塩は自分の手で作れる。理想通りの大きさの結晶ができなくても、思い通りの色に染まらなくても、自分の思い描いたものを自分で形にしていく喜びがありました。

がむしゃらに塩を炊いて、がむしゃらに混ぜて。振り返れば、あの時間が私を生まれ変わらせてくれました。アパレルの仕事を続けていたら、過去にとらわれてがんじがらめになっていたでしょう。築き上げてきたものを一度捨てたからこそ、第二の人生が始まりました。

一方で、扱っているものが塩であれ服であれ、自分の本質は変わらないと感じています。素材や色、デザインへの関心もそうですし、何より私は現場が好き。アパレル時代もバーゲンの時期には張り切って店に出たものです。だから、ひとりで塩を作り、売ることが苦でも何でもなかった。ひとりだからこそスッと本質に立ち返ることができました。

自分がやらなければ、誰もやらない。その思いが誇り

これまでに開発した商品は30種類ほど。京都のミシュラン三つ星店「未在」さんと開発した液体塩など取引先からのご相談を受けて作った商品もあります。最近では、イチゴ農家から依頼を受けてイチゴ塩の開発に取り組んでいるところです。まだまだ世の中に出回っていない塩がありますから、探究心が尽きません。自分がやらなければ、誰もやらない。その思いが誇りです。

塩の仕上がりは天候や湿度の微妙な変化に影響されるので、釜の状態が毎回異なります。釜をかき混ぜた時に仕上がりの状態がわかるので、火加減などの調整をして一定の品質を保ちますが、炊いてみなければ何をすべきかがわからない。まずはやってみて、経験から教わるということを繰り返して塩を作り続けてきました。

工房は岩山に立地し、天気が変わりやすい。天気予報を確認するのはもちろん、風や雲の様子を肌で感じながら天日干しをして塩を仕上げる。

私は58歳で二度目の人生を歩み始めましたが、塩づくり以上にやりたいことが出てきたなら、三度目、四度目の人生も生きてみたいです。やりたいことがあっても、資金面のリスクが高いなら慎重に考えた方がいいかもしれませんが、命には限りがあります。リスクが気にならないなら、やってみて損はないのではと思います。やってみないと何もわかりませんから。

一度目の人生に終止符を打った時、3年後にあんなに満たされた思いで釜に輝く塩の結晶を見ている自分がいるとは想像していませんでした。神様が作ってくれた塩だと思いました。あの輝きは一生忘れないでしょうね。

(取材・文/泉  彩子)