PROFILE

玉木伸之さん(No.96)/横河電機株式会社

■1965年東京都生まれ。1989年国立電気通信大学大学院応用電子工学専攻修了、横河電機株式会社入社。ファクトリーオートメーション分野の生産管理システムの設計・構築などを経て、1995年IT関連事業の新設推進部門に異動。コンサルティング業務、新事業開発などを経験後、2004年経営企画室へ。2010年、主力事業のグローバル業種マーケティング部門に移り、エネルギー・化学分野の業種マーケティング戦略立案、エグゼクティブセリングや事業変革を推進するグローバル組織横断プロジェクトの企画・推進などをリードした。一方で、2009年より社外でのシナリオプランニング活動を開始。2019年より人事部門に移り、シナリオプランニングを活用した次世代リーダー育成に取り組む。

■家族:妻、長女

■座右の銘: 「これを知る者はこれを好む者に如(し)かず。これを好む者はこれを楽しむ者に如(し)かず。」(孔子(『論語』より)

「“楽しい”というのは“好き”よりもさらに前向きに物事に関わっている感じがして、いいなと思います」と玉木さん。

 

周囲からは「宇宙人」と呼ばれた少年時代。入社後もその傾向は変わらなかった

僕は子どものころから好奇心旺盛で、新しいこと、見たことのないものに引き寄せられ、凝り性。将棋にハマると日がな一日盤面に向かっていたり、ある演奏家を気に入ったら、その演奏家の曲ばかり聴いていたりと好きなことに没頭する性格です。一方で、極端で計画性がなく、空想癖もあるので、周囲からは「宇宙人」と呼ばれることもありました。

横河電機に入社してからもその傾向は変わりませんでした。FA(ファクトリーオートメーション)部門のエンジニアとして採用され、半導体や薬品の生産管理システムの設計構築などに携わった後、入社7年目にIT関連事業の新設推進部門に異動。変革スピードの早いIT企業を取引先と仕事をするうちに「宇宙人」の血が騒いだのか、歴史ある大手企業にいることを窮屈に感じはじめ、異動の翌年、上司に転職の意思を伝えました。

すると、当時の社長から呼び出され、「会社に言いたいことがあるなら聞いてやる」と言われました。以前から考えていたアイデアを話したところ、その場で「やろう」ということに。程なくIT関連の新たな組織横断プロジェクトの立ち上げを任命され、書いていた辞表を破棄しました。

入社9年目からは新たに立ち上げられた経営変革プロジェクトをIT担当として兼務。各部門のリーダーの先輩方から実務を学びながら、全社戦略、マーケティング、営業、サービスなど企業の全部門の改革に触れることができ、視野が広がりましたし、多様なメンバーを巻き込むことの面白さを学び、それまでよりも高い視座で物事を捉えられるようになりました。

この経験がきっかけとなり、入社16年目、38歳の時に経営企画部門へ。40代は当社の主力となるインダストリーオートメーション事業のグローバル業種マーケティング部門での事業戦略立案や、グローバルリーダー向けのエグゼクティブセリングトレーニングや事業変革ワークショップ開発などに携わり、出張で世界各国を飛び回りました。

54歳の大病を機に、「脱・“会社の高機能部品”」を決意。 10年間の社外活動を活かして次世代リーダー育成に挑む (玉木伸之さん/ライフシフト年齢54歳)

バーレーンでの中東・アフリカ・インドのリーダー向けの事業変革ワークショップにて

会社での自発的なトライがサード・プレイスと出合うきっかけに

40代半ばからは社外活動も始めました。きっかけは、会社の事業再編に伴う事業ポートフォリオの見直しという重苦しい仕事を任されたこと。自分の仲間がいる事業を評価し、場合によっては切り離しの判断もしなければならず、ものすごく嫌だったんです。与えられた仕事の嫌さ加減とバランスを取るために何かポジティブなことをしたいと考え、数名の仲間と一緒に始めたのが、シナリオプランニングの手法を活用し、会社の「未来シナリオ」を作ることでした。

シナリオプランニングというのは未来を洞察する手法の一つで、もともとは米国の軍事戦略に用いられ、1970年代に石油会社ロイヤル・ダッチ・シェル社が活用して石油危機に対処したことで注目されました。シェル社は当社の重要顧客でもあり、僕がシナリオプランニングに関心を持ちはじめたのは、先ほどお話しした経営変革プロジェクトのメンバーだったシェル担当マネージャーからシナリオプランニングの話を聞いたことがきっかけです。

現在の環境が持続することを前提に単一の展望を描く「未来予測」とは異なり、マクロ環境の変化を分析して未来について複数のシナリオを描いた上で、現在を起点とした戦略策定に生かすのがシナリオプランニングの特徴です。過去にとらわれず、「未来は不確実である」ということを前提に未来の可能性を構造的、統合的に捉えたフレームワークであることが僕の性に合っていました。また、世界的な企業の戦略に大きな影響を与えた手法であることへの憧れもあり、いつかやってみたいと思っていました。

社外活動で出会った仲間に刺激を受け、学ぶことを楽しむようになった

初めて作った未来シナリオは書物を頼りに仲間と試行錯誤をしながら「手作り」したものでしたが、経営層から関心を寄せられ、中期事業戦略の策定に活用されました。手ごたえを感じて面白くなり、世の中でシナリオプランニングがどのように行われているのかを知りたいと思いました。そんな時に経済誌の企画で「10年後の日本」をテーマとしたシナリオプランニングチームのメンバーを募集しているのを見つけ、ダメモトで応募したところ、8名のメンバーのひとりに選ばれたんです。

この企画への参加が、僕の世界を大きく広げました。チームのメンバーはコンサルティングファームでプロとしてシナリオプランニングに携わっていた方を含め、さまざまな企業で知識や経験を培ってこられた方ばかり。シナリオプランニング について多くを教わっただけではなく、メンバーの知見の深さに刺激を受けてそれまで以上に本を読み、より多くの人に会い、学ぶことを楽しむようになりました。

仲間との交流は企画終了後も続き、2010年ごろからは、仲間の仕事を手伝ってさまざまな企業の未来シナリオ作りに関わったり、みんなでワークショップを開催するなど社外でシナリオプランニング活動を始めました。基本はボランティアでしたが、お小遣い程度の報酬をいただくことも。当時は会社に副業制度がなかったので、人事や上司に相談したところ、「仕事に支障がない程度なら大丈夫」と理解していただき、ありがたかったです。社外で実践しながら、シェル社をはじめ著名なシナリオプランナーの方々からも教えを乞う機会に恵まれました。

また、同時期に頻繁に世界各国へ出張していたことで、多様性を尊重することの難しさを実感しました。社外のデールカーネギートレーニングのコーチ経験も多様性の中の人間関係構築やリーダーシップの発揮に役立ちました。

突発性難聴で緊急入院。自分が会社の「高機能部品」になっていたと気づいた

50代に入ってからは事業変革を推進するグローバルな組織横断プロジェクトのリーダーとして、頻繁に海外出張をする目まぐるしい日々を送っていました。そんなある日、突発性難聴を発症して両耳が聞こえなくなり、緊急入院。医師から「元には戻らないかもしれない」と言われました。54歳の時でした。

それまでの僕は、会社という場所でやりたいことをやって生きてきたつもりでした。新しい事業やプロジェクトの立ち上げに関わることが多く、うまくいくこともあれば、失敗して孤立したこともありましたが、少なくても自分は会社の「部品」ではないと思っていました。

でも、病院のベッドの中で過去を振り返った時、自分がいつの間にか「高機能部品」のように動いていたことに気づきました。短期的なKPIの達成といった目先のゴールに向けて仕事をしていたけれど、それは身を削ってまでやることだろうかと自分に問いはじめたんです。

また、僕は常に組織の中で生きづらさを感じ、組織にいかに自分を適応させるかということに悩み続けてきました。突発性難聴を発症したのも、忙しさだけでなく「高機能部品」であるがゆえのストレスを無意識に溜め込んでいたことが原因かもしれません。この先、会社に戻れるのかどうかわかりませんでしたが、戻った時には「高機能部品」を脱しようと決めました。

では、残りの人生をどう生きるか、自分の本当にやってみたいことは何か。50冊の本を読み、人生や仕事の意味を考えるうち、「未来志向で次世代育成に携わりたい」という思いが胸に湧きました。同時に浮かんだアイデアが、シナリオプランニングを活用した次世代リーダー育成プログラムです。

54歳の大病を機に、「脱・“会社の高機能部品”」を決意。 10年間の社外活動を活かして次世代リーダー育成に挑む (玉木伸之さん/ライフシフト年齢54歳)

入院中の様子。笑顔だが、耳鳴りがひどく人の声が割れて聞こえる状態だった

ポジションも部下も仕事もすべて置き捨て、身ひとつで未経験の人事部門へ

退院後、僕を心配して話を聞いてくれた人事部長に考えを伝えたところ、共感していただけたこともあって、部長のポジションも部下も仕事もすべて置き捨て、身ひとつで人事部門へ「家出」。その時点では、具体的なことは何も決まっていませんでした。

人事部門の片隅に席を移してもらい、リハビリを兼ねて構想を練り、異動1カ月後に会社に提案したのが、「2035年の横河電機を取り巻く事業環境」をテーマに未来シナリオを作る過程を通した次世代リーダー育成プログラムのラフ案です。最初はほぼ全員が「わけがわからない」という反応でした。

無理もありません。僕自身は10年間の社外でのシナリオプランニング活動を通し、多くの若者が成長する姿や企業が変わっていくさまを見て、シナリオプランニングは次世代の育成に効果的だと確信していましたが、一般には企業などの戦略立案の目的で実施されるもの。僕の知る限り、経営企画部門が実施するレベルの本格的シナリオプランニングを人財育成に活用した事例はこれまでになく、多様な思考方法、グローバルマーケティング、社内外の組織を巻き込む共創的な手法などを埋め込んだプログラムは、経営の教科書にも書かれていなければ、コンサルタント会社のメニューにも並んでいません。

前例のないことを始めるわけですから、KPIを設定しようにもわからないことだらけです。会社からすれば、宇宙人から「来月、火星に行こう」と言われたようなもの。普通はついて行きませんよね。わかってはいましたが、僕は「どうしてもやりたいんです」と社長はじめ関係役員に嘆願し、異動して3カ月後の経営会議で全役員に協力を仰ぎました。突発性難聴での入院を機に、自分に残された会社での時間は長くないかもしれないと感じていたからです。「サラリーマン」の集大成として大きなことをもうひとつやりたい、いろいろな方たちに応援していただきながら僕が社内外で培ってきたことを次世代に循環させたいという強い思いがありました。

そんな僕を見て可哀想になったのかもしれません(笑)。「まずはシナリオ作成までを9カ月間やって、存続を判断する」という条件で承諾が下り、2019年12月、20代から40代の選抜メンバー26名とともに「Project Lotus(プロジェクト・ロータス)」の活動を始めました。この時、僕は「プロジェクト・ロータス」をラスト・ミッションだと考えており、うまくいかなければ、退職する覚悟でした。

57歳の誕生日を迎えた今、会社でもうひとつ面白いことをやりたい

蓋を開けてみれば、「プロジェクト・ロータス」は9ヵ月が過ぎても続き、完成した未来シナリオは社内で採用されたばかりか、社外からも賛同が集まりました。社内の経営陣との対話のみならず、社外の多くの経営者、有識者の方々とのオープンな議論を経て作成したシナリオだったからです。

そこで、「2035年未来シナリオ」を基にした社外との共創活動の機運が高まり、2021年4月に社長直下のプロジェクト「未来共創イニシアチブ」が発足。人財育成プログラムとしてスタートした「プロジェクト・ロータス」は現在、60社以上の経営者やさまざまな業界や大学の有識者が参画する共創的ネットワークに発展しています。また、一連の取り組みを評価していただき、日本の人事部「HRアワード2021」も受賞しました。

54歳の大病を機に、「脱・“会社の高機能部品”」を決意。 10年間の社外活動を活かして次世代リーダー育成に挑む (玉木伸之さん/ライフシフト年齢54歳)

「プロジェクト・ロータス」でのリモート会議の様子。ほとんどのメンバーが「未来共創イニシアチブ」にも参加している。

つい先日、僕は57歳の誕生日を迎えました。来期は「未来共創イニシアチブ」をもう一歩前に進め、社会にインパクトを与える面白いことをやれたらと思っています。その先の人生についてはまだ何も考えていませんが、次の僕の個人的なテーマは「未来志向のコミュニティ」。社内、社外にかかわらず、志の近い人たちと一緒に何かをやって、そのコミュニティと別のコミュニティをつなげるハブ的な存在になれたらと未来を思い描いています。また、働き方の変化とともに、おかげさまで聴力も改善してきて、最近は趣味のクラシック音楽のコンサートも再び楽しめるところまで回復しました。

残りの会社人生の短さを意識した時、どうしてもやりたかったのがなぜ次世代リーダー育成だったのか。正直にいえば、自分が面白いと思うことをほかならぬ横河電機でやりたかったんです。30年あまり働き、自分を育ててくれた会社で思いっ切り、やりたいことをやることをあきらめたくありませんでした。チャンスをくれ、応援してくれた会社の皆さんや、シナリオプランニングの活動などを通して知り合い、力を貸してくださった社外の方々に心から感謝しています。

次世代リーダー育成をやりたいと言いながら、若いメンバーと活動するといつも、育てられるのは僕だと社外活動の経験から感じていましたし、今回もそうでした。未来シナリオを作っていると、答えがないから、いくら勉強してもわからないことだらけなんですよ。だから、自分の知らないことがどれほどあるかがわかるし、世代の違いを含めていろいろな人たちと対話をすることで、考えが深まる。

このプロセスがキャンプで仲間と料理を作っているようなものなんです。そうすると、完成した料理の味はどうあれ、「あの時間、楽しかったね」ってなるじゃないですか。だから、過去の社外でのシナリオプランニング活動のことも、「あそこで焚き火をしたな」という感覚で思い起こします。会社で携わったプロジェクトも含め、何かを一緒に真剣に考え、いろいろなことをやった時間を共有した仲間が増えるのが楽しいし、その人たちがハブになって別のコミュニティと化学反応を起こしているのを見るのも楽しい。僕の未来について確実性の高い要素をひとつ挙げるとしたら、「死ぬまで楽しんでいる人でありたい」ということだと思います。

54歳の大病を機に、「脱・“会社の高機能部品”」を決意。 10年間の社外活動を活かして次世代リーダー育成に挑む (玉木伸之さん/ライフシフト年齢54歳)

ひとり娘も2022年春から社会人に。写真は小学生時代の娘と

(取材・文/泉 彩子)