PROFILE

清水雅大さん(No.99)/繁昌農園スタッフ

■1975年、東京都生まれ。1999年、大学の福祉学科卒業後、株式会社ニチイ学館に入社。2008年、株式会社エムアウトで医療系ベンチャー企業の立ち上げに参画。2016年、医療法人社団 焔 やまと診療所に入職し、在宅医療の普及や「おうちにかえろう。病院」の新規開設を担う。2021年9月から繁昌農園に参画し、「半農半会社員」を経て2022年3月より農業に専従。

■家族:妻、長男、長女

繁昌農園

 

大学時代は福祉学科で学びながら、祖母を介護

生まれも育ちも東京都・練馬区。小学校3年生の時に母を亡くし、父方の祖母が5歳上の兄と私の面倒を見てくれました。その祖母もだんだん体が弱ってきて、高校生になったころには私
が家事を担当し、ごはんも作っていました。「おいしい」と言ってもらえるのがうれしくて、料理は苦になりませんでした。今も料理は好きで、肉じゃが、煮魚から、モツ煮込み、ヴィシソワーズまで何でも作ります。

高校時代はサッカー部の仲間と全国大会出場を夢見て練習に励む日々を送り、大学は福祉学科に進学。祖母の介護をしていたので、福祉や介護は私にとって身近なテーマでした。また、私が大学を卒業した1999年は介護保険法施行の前年。社会において関心がより高まり、これから市場ができていくビジネス領域で仕事をすることに面白さを感じ、介護事業部門の立ち上げ期だったニチイ学館に総合職として入社しました。

入社後は教育事業部門に配属され、当時ニチイ学館が短期間で全国に展開したホームヘルパー養成教室の各地での開設を担当し、4年間で約500教室を立ち上げました。入社5年目に介護事業部門に異動後は本社で営業企画を担当。ある上司との出会いから、介護ビジネスは単にサービスを売るのではなく、法制度の根底にある考え方や社会における位置づけを理解した上で、大局的な視点から社会のニーズを読み、未来を見据えて提案していくものだということを学び、仕事をそれまで以上に「面白い」と感じるようになりました。

ビジョンを共有する仲間と、在宅歯科医療の拠点づくりに取り組んだ日々

20代後半には課長に昇進。上司や同僚にも恵まれ、キャリアは順調でした。一方で、新規事業の立ち上げなどを通して社外に目を向けるにつれ、自分の「物差し」が社外で通用するのか試してみたいという気持ちが大きくなり、32歳で転職。医療・介護分野に特化したコンサルティング会社の立ち上げから参画し、コーディネーターとして在宅歯科医療プロジェクトに携わりました。

実は、ニチイ学館から転職をする時、「せっかくだから医療・介護以外の仕事をやってみようかな」という思いもあったのですが、「経験のある分野で実績を作ってから、新しい分野にチャレンジした方がいいのでは」と面接で提案されて納得し、転職当初はその言葉どおりにするつもりだったんです。

ところが、実際に在宅歯科医療に携わると、医療・介護の分野でやりたいことが次々と現れました。原動力となったのは、在宅歯科医療の現場で抱いた「医療側の価値観を押しつけるのではなく、患者さんの思いが尊重される在宅医療環境を作りたい」という思いです。

職場では、「口から食べる喜びを最期まで感じられる世の中にしたい」というビジョンを同僚と掲げ、その実現に向けて在宅歯科医療の拠点づくりを進める日々でした。その過程で歯科以外の在宅医療に取り組む人たちともつながるようになり、出会ったのが、前職の医療法人社団 焔「やまと診療所」でした。

当時は、在宅医療・終末期医療を専門とする「やまと診療所」が、立ち上げ期から成長期に入り始めた時期。「人が生きて、死ぬということは自然の摂理」という死生観を大切にしながら、あるべき在宅医療の姿を追い求めて大きく成長しようとしていた時でした。

終末期の患者さんにとって、長く生きるための治療を受けることが本当に幸せなのか−−−−そんな問いをきっかけに、「最期まで自分らしく生きられる医療」の提供を目指して開院準備に奔走する代表医師の安井佑さんやその仲間たちに共感し、意気投合。数年後、「組織のマネジメントを担ってほしい」と声をかけてもらって、2016年に「やまと診療所」を運営する医療法人社団 焔にジョインしました。

学会で登壇した時の写真。テーマは「やまと式組織作り〜事務方の果たす役割〜」

大きな仕事を完了してひと息ついた矢先、会社に行けなくなった

医療法人社団 焔では、患者が家に帰って最後まで自分らしく生きることを目標とする新しいコンセプトの病院「おうちにかえろう。病院」の設立にプロジェクトマネージャーとして関わるというまたとない経験をさせてもらいました。

構想を描いていてから開院までの期間は3年あまり。小さな診療所が地域包括ケア病棟のみの120床の病院を設立するというのは、周囲の医療関係者のほとんどが驚く大きな挑戦でした。どこにリサーチに行っても「無理でしょう」と言われる状況からのスタートではありましたが、仲間とともにひたすら理想の病院を目指す日々はものすごく充実していました。「在宅医療の現実を目の当たりにしてきた我々だからこそ、多くの患者さんの役に立てる」という思いがありましたから。

医療法人社団 焔理事長の安井佑さんと。

ところが、ようやく頂上にたどり着き、これまでにない達成感を味わった直後、思いがけないことがおきました。2021年4月に「おうちにかえろう。病院」がオープン。運営チームにバトンを渡してひと息ついた矢先、ぽっかりと心に穴が開き、6月には出勤できなくなってしまったんです。受診をすると、バーンアウト(燃え尽き症候群)と診断されました。

もう一人の自分がむくむくと出てきた瞬間

会社は3カ月間休職させてもらうことになりましたが、最初の1カ月は何もできないし、考えられませんでした。少し落ち着いてからも、「この先、何をしよう」と考えると、頭が真っ白でした。「おうちにかえろう。病院」の開院によって、これ以上はないと心から思える“在宅医療のひとつの形”を最高のチームで作り上げたという思いがあっただけに、どんな選択肢を思い浮かべても、「やりたい」という気持ちがまったく湧かなかったんです。

今なら、その理由が「医療・介護という枠組みの中で物事を考えていたから」だとわかります。でも、当時はそうとは気づかず、ただ悶々としました。転機はテレビ番組で書籍『LIFE SHIFT』を知って興味を持ち、読んでみたことです。

この本に書かれていることの中でとくに新鮮だったのは、「100年時代の人生は、マルチ・ステージになる」という考え方です。医療・介護の世界で働いて20年。やりがいを感じ、もっと上へ、もっと上へとひとつの山を登りつめるように生きてきたけれど、世の中に山はいくつもある。同じ山にまた登りたいと思えないなら、別の山に登ったっていいんだ−−−−そう思えた途端、心が躍りました。

同じ時期に、インターネットでたまたま見つけた『LIFE SHIFT JAPAN』のワークショップに参加したことも大きな転機でした。プログラムの中にカードを使って自分の価値軸を知るというワークがあったのですが、私の結果は「社会のために」「誰かのために」といった他者に主軸を置いたものに極端に偏っていたんです。

確かに、振り返ってみれば、私は生い立ちの影響もあって常に誰かのために生き、仕事においても社会や他者の「役に立てるか」を基準に行動してきました。自分よりも人の気持ちを優先することが多く、それがバーンアウトにつながったところもあると思います。一方で、「社会のために」「誰かのために」と生きてきたからこそ、人との出会いにも恵まれました。

そんな風に一歩引いた視点から自分に向き合ってみると、「これまで俺はよく頑張った!」と感じられて自分を受け入れ、許せるようになりました。そして、これから先はもっと“我がまま”に、自分のために生きよう」と思ったんです。その瞬間は、もう一人の自分がむくむくと出てきたような感覚でした。

日常の小さなことから、「ただ心のままに動く」ということを始めた

ただ、それまで自分軸で物事を考えたことがほとんどなかったので、もう一人の自分から「お前は何がやりたいんだ?」と問いかけられると、やっぱり頭が真っ白になってしまうんです。そこで、「頭で考えるのはやめて、心が動いた方に素直に動こう」と決めました。

「自転車に乗ってひとりで出かける」「ふだんは読まないジャンルの本を読んでみる」といった日常の小さなことから「ただ心のままに動く」ということを始め、「料理が好きだから、お店をやろうかな」と考えて開業セミナーに参加してみたり、料理教室に行ってみたり……。1、2カ月ほどの間、まるで旅をするようにさまざまな場所に行き、いろいろな人に会いました。

すると、毎回、気づきがあるんですよね。「自分は料理自体が好きなわけではなく、料理をしている時間や空間、仲間との空気が好きなんだな」とか、「厨房でひたすらラーメンを作り続けるのは、自分にはできないだろうな」とか。繰り返し旅に出るうちに、自分が何に心を動かされ、何がそうではないのかが少しずつ具体的になっていき、たどり着いたのが「農業」という領域です。

私が住んでいる東京都練馬区は23区内で最も農地が多く、区民農園が約20カ所あります。料理が好きなことから、私も5年ほど前から畑仕事を楽しんでいました。ですから、どちらかというと農業は身近でしたが、農家でもない自分が「農業」という領域で働くことは想像したこともありませんでした。

でも、「料理」、「健康」といった領域を心の向くまま旅した後に、たまたまインターネットの検索で引っかかったキーワードが「農業」でした。少し調べて見ると、国の新規就農者への支援制度が手厚くなっていたり、ユニークな商品を農協以外の販路で売る小規模農家が健闘していたりとこれまで自分が知らなかった景色がそこに広がっていて、まさに農業が変革期にあるんだということを知ったんです。

そこで、オンラインの新規就農セミナーにいくつか参加したり、若い新規就農者グループがやっているマルシェをのぞいたりするうちに、東京都青梅市で農家とは無縁の環境に育った東京出身の若い男性がいることをインターネットで知りました。

彼は畑の横に家を建てて暮らしを楽しみながら、少量多品種生産で有機野菜を育てつつ、地域の他業種の人たちとつながってアプリ開発をするなどさまざまな活動をしているようでした。その姿は、私がそれまで持っていた「農業」のイメージとは異なるものでした。「こんな人がいるんだ」と会ってみたくなり、彼の農場を農業体験で訪れたのが、現在私が働いている繁昌農園の農場主・繁昌知洋さんとの出会いです。

「半農半会社員生活」をスタート

「繁昌農園」を初めて訪れたのは、2021年7月24日のことでした。とても暑い日で、汗だくになり、身体は疲れたのですが、青空の下で虫の声や風を感じながら土に触れていると、ものすごく気持ちよかったんですね。何というか、心が解かれていく感覚があって。それで、1日だけのつもりが8月は週2回のペースで通ってしまいました(笑)。

繁昌さんとは、畑で農作業をしながら、これからの求められる農業についてや、農業を通じたさまざまなアイデアをたくさん語り合いました。そういった時間の中で「そうか。社会の別業界の仕組みを活用したり、農業に新しく取り組み始めた人々と協働すれば、“農”を生業にしつつ、自分がやりたいことをやるというのが成り立つんだな」といった気づきが得られてきました。

そんな夏を過ごすうち、9月の復職の日が近づいてきました。その時点ではすでに農業を「やってみたい」という思いが強くなっていましたが、「大変な時に大事な決断をしない方がいい」という焔の仲間との合言葉が心に浮かびました。

そこで、法人代表の安井さんにすべてを話し、「しばらくの間“半農半会社員”で働き、その後に身の振り方を考えたい」と相談したところ、「いいじゃない」と言ってもらえ、週のうち月曜日から水曜日まで焔で働き、残りを繁昌農園で作業する生活が始まりました。

それまでよりも長い時間を農園で過ごすようになると、自分が漠然とやりたいと考えていたことを「農を通じて、人を、街を、社会を元気にする」と言語化できるようになりました。また、繁昌さんと日常的に「あんなことがやりたいね」「これも面白そう」と話をするうちに、同じ景色を目指していることをおたがいが感じ、「一緒にやろう」ということに。

すると、「半農半会社員」を始めたころには確かにあった生活への不安も吹き飛び、農業をやることに対して、わくわくする気持ちしかなくなり、2021年2月に焔を退職。3月には繁昌農園で春まき野菜の種を撒いていました。

練馬区の自宅から繁昌農園までは電車で1時間ほど。鳥や虫の声が気持ちいい

「人生の最期に後悔したくない」という確かな“自分の思い”

現在は、「農」を専業にして4か月目。サッカーコート4面ほどの広さの農園で、約200種類の野菜を育て、地域のマルシェや、ネット注文からの宅配などで、直接お客さまに野菜を届けています。

昨年夏に繁昌農園に通いはじめて驚いたのは、野菜を育てるには、「土づくり」が何よりも重要なんだということ。区民農園の野菜はすくすく育っていたけれど、あれはプロが土作りを手伝ってくれていたからでした(笑)。これはやはり、専門的な技術や知識も身につけないとやっていけないなと思い、「半農半会社員」を始めたと同時に週末開講の農業スクールにも通い、今も学んでいるところです。

「秋にはインターネットで通信販売を始められたら」とか、「企業にブレストの場として活用してもらう“畑で会議室”も面白そうだな」とか、ビジネスの「タネ」はいくつか芽吹いていて、実現に向けて動いているものもあります。

ただ、今は「ビジネスありき」で逆算して物事を考えないように気をつけていて、モノもコトもヒトも、心が動かないものとは距離を置くようにしています。と言いつつ、人の言動が気になる自分が出て来るんですけどね(笑)。まあ、それも自分です。「心のままで生き、それが人の役に立ち、社会の役に立てばいいよね」、そう思いながら、ポンとここに立っています。

「農業をやりたいと思う」と最初に友人や知人に話した時、応援してくれつつも、収入面は大丈夫なのか心配されました。私も心配でしたし、はっきり言って、今も心配です。それでも「農業」の領域でやっていこうという思いに変わりはありません。

その理由は、妻が理解して見守ってくれていること、すぐには生活に困らないくらいの蓄えがあること、いざという時は力を貸してくれる仲間がいることなどいくつかあります。ただ、それだけでは、まったくの別業界にチャレンジするという大きなライフシフトはできなかったんじゃないかと思います。

今回、私がライフシフトに至れたのは、心の赴くままに行動した結果、不安や恐れからくる「できない理由」を上回るくらいワクワクするものに出会えたということと、「人生の最期」に『あの時、やっぱりやっておけばよかった』と後悔したくないという、確かな自分の思いがあったからです。

長く携わった在宅医療の現場で、「本当に素敵だな」と感じる最期を迎えた患者さんに数多く出会いました。最後の最後まで懸命に生きた患者さんが、大切な人たちに囲まれて命を閉じる瞬間というのはとても温かいものでした。私もあの患者さんたちのように、後悔のない最期を迎えたい。「いろいろあったけど、いいチャレンジしたよね」と思いたいですし、今の自分ならできる気がしています。

地域のマルシェで。農作業の繁忙期やマルシェ開催の日以外の週末はできるだけ休み、家族と過ごすようにしている

(取材・文/泉 彩子)

 

*ライフシフト・ジャパンは、数多くのライフシフターのインタビューを通じて紡ぎだした「ライフシフトの法則」をフレームワークとして、一人ひとりが「100年ライフ」をポジティブに捉え、自分らしさを生かし、ワクワク楽しく生きていくためのワークショップ「LIFE SHIFT JOURNEY」(ライフシフト・ジャーニー)を提供しています。詳細はこちらをご覧ください。