PROFILE

高林亮一さん(No.90)/TKBrewing 代表取締役・醸造責任者

■1965年生まれ、埼玉県出身。1989年、東京都立大学理学部数学科卒業、システムエンジニアとして富士通株式会社に入社。カナダ・トロント勤務時代にホームブルー(自家醸造)に出合い、ビール研究を始める。ブルワリー開業を目指して2016年8月退社。2017年12月、川崎市に直売所併設のブルワリー「TKBrewing」をオープン。2020年9月、日本全国のクラフトビールを対象にした鑑評会「Beer-1 grand prix 2020」で「アメスタ」がポーター&スタウト部門銀賞を受賞。

■家族:妻、長男(21歳)

■座右の銘:なし

「座右の銘は特にありませんが、スタンフォード大学のスピーチでのスティーブ・ジョブスの言葉『もし今日が人生最後の日だったら、今日やることは本当にしたいことなのか? この問いに「NO」が何日も続くのなら、なにかを変えなくてはならない』が心に残っています」と高林さん。

■TKBrewing
神奈川県川崎市川崎区日進町3-4 unicoA 1階
http://tkbrewing.com/

 

大学卒業後、SEとして富士通に入社。モノづくりの仕事は面白かった

52歳の誕生日に地元・川崎市で約10坪の小さなブルワリーをオープンし、2020年12月末に3周年を迎えました。週末3日間限定の直売所には常時8種類のビールを揃え、定番3種類以外はなくなり次第終了というスタイル。毎週1回のペースで新作を作り、開業以来開発したレシピは150種類ほどになりました。卸売先は地元のビアバーを中心に数軒、直売所のお客さんも地元の常連が中心ですが、最近は遠くから足を運んでくれる方たちも少しずつ増えています。

ブルワリーを始めるまでは、会社員でした。大学の理学部を卒業後、富士通に入社。システムエンジニアとして金融系のシステム開発を担当し、仕事は面白かったです。もともとモノづくりが好きで、新しい技術を導入して深掘りしていくのは性に合いましたし、チームで何かを作り上げる達成感もモチベーションの源泉でした。「働き方改革」という言葉もないころのこと。月の残業時間が100時間にのぼる、仕事漬けの日々でしたが、それが普通だと思っていました。

若手の育成やマネジメントより、モノ作りがしたかった。50歳で大手企業を退職し、趣味を生かしてブルワリーを開業(高林亮一さん/ライフシフト年齢50歳)

30代初めに、会社で同僚と(中央)。珍しくスーツ姿の1枚。

ビールづくりとの出合いは、30代初めのトロント赴任がきっかけ

そうではないライフスタイルがあると実感したのは、33歳でカナダ・トロントのグループ会社に赴任した時です。外国人ばかりの職場にポンと身を置き、定時で仕事を終えて帰って行く同僚たちを見て、「本当に夕方5時にみんな帰るんだ!」とカルチャーショックを受けました。いきなりの生活の変化にプライベートの時間を持て余し、何かやってみようかなと思っていた時に、「ホームブルー(自家醸造)」に出合いました。

日本では、酒類製造免許を持たない人がアルコール度数1パーセント以上のお酒を作ることを禁じていますが、カナダではホームブルーが認められており、街に一軒は関連のお店があるほど日常に溶け込んでいます。一方で、当時はカナダでもクラフトビールがこれから注目されるという時期。物珍しさから興味を持ち、家で作ってみたのがきっかけでした

初めて作ったビールを、妻は「すごくおいしかった」と言ってくれますが、それほどでもなかった気がします(笑)。ただ、「家でお酒を作れるんだ」というD.I.Yの喜びみたいなものがあったんですよね。日本語の情報はほとんどなかったので、英語で書かれた本を読んだり、ホームブルーのお店のおじさんにアドバイスをもらったりしながら、月に1、2回、ビールづくりを楽しんでいました。

トロント赴任の2年間は、仕事も新たな発見の多い日々でした。カナダ大手ブックストアの在庫管理システムのデータベース構築などそれまでにない業務を経験できましたし、外国人の同僚たちの働き方も新鮮でした。勤務時間に対する考え方もそうですし、キャリアの積み方も日本人とはずいぶん違うなと思いましたね。当時の日本企業は社員に幅広い経験をさせてジェネラリストを育てる傾向にありましたが、カナダの企業はスペシャリストを求め、社員も自分の専門性を磨き続けていました。私自身も「技術者としてやっていきたい」という思いがあったので、彼らの姿に共感し、刺激を受けたりもしました。

若手の育成やマネジメントより、モノ作りがしたかった。50歳で大手企業を退職し、趣味を生かしてブルワリーを開業(高林亮一さん/ライフシフト年齢50歳)

トロント赴任時代に在籍していたシステムコンサルティング会社の同僚と。

忙し過ぎる働き方に限界を感じ、SEの現場を離れた

帰国後は再び金融系システム開発を担当。赴任前と同様、忙しく過ごしていましたが、40歳を前に転機がありました。システムの入れ替えのために正月三ヶ日に出勤し、トラブル対応に追われて3日間ほぼ寝ずに働いた時、「この生活を続けたら、体が持たない」と強く感じました。異動を願い出ようとしていたところ、社内で業務改革プロジェクトが立ち上がることになり、自分自身の問題意識もあったことから、公募に応募して現場を離れました。

ビールづくりのことは帰国以来忘れていましたが、このころから少し余裕ができて、英書をひもといたり、気になるビアバーに行ってみるようになりました。そんな時に出合ったのが、アメリカのラジオ番組で当時始まったばかりの「Jamil Show(ジャミール・ショー)」です。ジャミールさんは後にカリフィルニア州北部に有名な「ヘレテック・ブルーイング」を創立しますが、当時はソフトウェア「アドビシステムズ」のシステムエンジニア。ホームブルワーのカリスマ的存在で、数々のコンペで受賞していました。

番組の内容は、ビール品評会の審査ガイドとして広く使われている「BJCPスタイルガイドライン」の中から毎回1種類を選んでそのビールスタイルを解説したり、典型的なレシピを紹介し、ある醸造テーマについてディスカッションするといった、昔ながらのビールづくりの生きた知識を学べるもの。日本でもポッドキャストで聞くことができたので、なけなしのヒアリング力で通勤中に繰り返し聞いて理解していきました。

同時に、ビアバーに通ったり、クラフトビールの研究会に参加するうち、愛好家仲間もできました。ビールフェスティバルで情報交換をしたり、みんなで全国各地のブルワリーを見学に行ったりと楽しかったですね。ブルワリーの方たちとの交流も生まれ、ビールの研究がどんどん面白くなりました。

若手の育成やマネジメントより、モノ作りがしたかった。50歳で大手企業を退職し、趣味を生かしてブルワリーを開業(高林亮一さん/ライフシフト年齢50歳)

心の師匠ジャミールさんが2017年に来日した時。「あなたのおかげでプロのブルワーを目指している」と伝えると、“You, bad guy”とニヤリと笑っていた。

会社員としてのキャリアに違和感を抱き、ブルワリー開業を目指す

ブルワリー開業を考えはじめたのは、45歳を過ぎたころ。キャリアの先行きを考えた時、会社が自分に期待する役割はごく限られていると感じていました。選べる道はマネジメントを目指すか、後進の育成といったところかなと思っていましたが、どちらも心が躍りませんでした。

まずいなと思ったのは、システム開発の仕事に対する自分自身の興味が薄れていたことです。ITの世界は変化が激しく、常にアップデートしなければ、若いころから積み上げた技術や知識もあっという間に陳腐化してしまいます。当時会社ではプロジェクトの監査・支援の役割を担当していましたが、若手にアドバイスをしながら、「年寄りが言っても、ね」という思いが心をよぎり、このままではよくないと感じていました。

一方、ビールづくりの知識や技術に対する興味は尽きませんでした。それに、自分が提供したレシピで千葉のブルワリー「ロコビア」が醸造したビールがビールフェスティバルの人気投票で入賞したりして、みんなから「おいしい」と言ってもらえたことがうれしかったんですよね。本格的なビールを自らの手で作りたい、ブルワリーをやりたいという気持ちが強まっていきました。

そんな時に会社が早期退職優遇制度の実施を発表し、退職金の割増額を見たところ、50歳が一番多かったんです。背中を押された気がして、50歳で退職しようと決めました。2014年にアメリカのブルワリーの視察旅行に出かけた経験も大きかったかもしれません。クラフトビールは世界各国にありますが、私自身はアメリカのビールの多様性や開拓精神に惹かれていたことから、自分の目指すビールの本場に向かいました。10日ほど各地のビールを飲み歩いたところ、さすがとうなるものもあれば、首を傾げるものもあり、この状況なら、自分もプロとしてやっていけるのではと勘違いしたんです。

若手の育成やマネジメントより、モノ作りがしたかった。50歳で大手企業を退職し、趣味を生かしてブルワリーを開業(高林亮一さん/ライフシフト年齢50歳)

2014年、アメリカに視察旅行に出かけ、大小さまざまなブルワリーを多数見て回った。

妻に開業の意思を伝えた時、反対はされませんでした。「大きな会社で守られてやってきたあなたが、本当にやれるの? 迷惑をかけないなら、いいよ」みたいな感じでした。妻はシステム開発の仕事に対する私の熱が冷めていることに気づいていたはずですから、止めても仕方ないと思っていたのかもしれません。

当時は息子がまだ高校生でしたし、妻も内心は心配だったでしょうね。私自身も不安がなかったと言えば嘘になりますが、3年先までの事業計画を立て、退職金の範囲内でやれば算段がつくと考えていました。安心材料になれば、と事業計画書をまとめ、妻に見せたりもしました。

ブルワリー開業にこぎつけられたのは、仲間と家族のおかげ

2016年8月に富士通を退職。醸造技術は退職1年ほど前から米国・シーベル醸造科学研究所の通信教育を受講しており、2016年11月から旧知のブルワリーで研修を受けて学ばせてもらいました。並行してブルワリーの開設準備を進めていったわけですが、最初のちょっとしたハードルは物件探しでした。

もともと、ブルワリーをやるなら川崎市内、できれば地元の武蔵小杉で、と決めていました。武蔵小杉に「マッキャンズ」というなじみのビアバーがあり、ここを起点に縁が広がった地元の人たちが私のビールを待ってくれていたからです。

そこで、当初は武蔵小杉で物件を探したのですが、家賃の相場が高めで条件に合う物件が見つかりませんでした。そんな時に、「マッキャンズ」のお客さんが、川崎駅から徒歩圏の物件のテナントとしてブルワリーをやる人を探している、と連絡してきてくれたんです。

見に行くと、築50年の廃墟のようなビルでしたが、地域の再開発に合わせてリノベーションし、さまざまな人たちが集う複合施設として生まれ変わるという話。新たなスタートの場としていいと思いましたし、予算の条件も合い、すぐに契約を決めました。川崎駅はターミナル駅で人も多く、この物件に出合えたのはラッキーだったと感じています。

最終的に、退職から開業までは1年3カ月かかりました。酒類製造免許の取得に数カ月は必要と聞いていましたし、ビールの試作の時間も必要ですから、ある程度時間がかかると見積もってはいましたが、個人輸入した醸造設備の通関手続きに手間取ったり、物件の工期が遅れるなど想定外のことも……。

退路はないという覚悟でしたから、渦中は「一つひとつ解決していくしかない」と思っていましたが、もう少し短くてもよかったかもしれませんね(笑)。それなりにストレスはありました。オープンまでこぎつけることができたのは、その日を心待ちにしてくれていた方たちの存在があったからこそ、です。

精神面で支えられたのはもちろん、たくさんの方々がさまざまな場面で文字通り力を貸してくれました。例えば、今うちのブルワリーにある発酵タンクは都内のビアバーから譲り受けたもの。ビール仲間がみんなで川崎まで運んでくれました。オープン初日には、たくさんの友人・知人が駆けつけてくれ、言葉にできないほどうれしかったです。気恥ずかしくて口にはしませんが、家族のありがたさも感じました。

若手の育成やマネジメントより、モノ作りがしたかった。50歳で大手企業を退職し、趣味を生かしてブルワリーを開業(高林亮一さん/ライフシフト年齢50歳)

2017年、グランドオープンの日にビール仲間と。

「心の可処分所得」は会社員時代に勝るとも劣らない

おかげさまでオープン後の業績は順調に推移してきました。当初、直売所のお客さんは友人・知人が中心でしたが、口コミで興味を持って来てくださる方が次第に増え、「常連さん」が多いのが特徴です。1年目の収入は富士通時代の新入社員程度に減りましたが、最近は中堅社員くらいになりました。退職時の給与の6割ほどです。

半面、通勤時間は大幅に減りましたし、四六時中ビールのことを考えていても誰も怒らない。時間の使い方を自分で決められるので、目覚ましをかけて起きるということをしなくなりました。「心の可処分所得」は会社員時代に勝るとも劣らないと思っています。妻は「ボーナスがないのがつらいね」とボヤいていますが(笑)。

もちろん、うまくいっていることばかりではありません。コロナ渦も痛手です。うちの売り上げは卸販売と直売所が半々ですが、とくに卸販売への影響は大きく、1度目の緊急事態宣言が解除されてしばらくは好調だったものの、2度目の宣言発出後は、自然の理で注文がピタリと止まりました。

一方、常連さんに支えられて、直売所の売り上げは大きくは落ち込んでいません。以前と変わらず会社帰りに立ち寄ってくださるお客さんの顔を見ると、やはりうれしいですね。ビール好きの方が「こんな珍しいビールがあったよ」と持ってきてくださることもよくあるんですよ。ビールの持ち込みについてとくにルールを設けていないので、ビール愛好家の方々が品評会のようなことを始め、仕事をしているんだか何だかわからなくなってしまうことも(笑)。私自身、今はあまり飲み歩きに行けていけていませんが、お客さんのおかげで新しい風に触れることができ、ありがたいです。

コロナ渦を機に、瓶詰めの販売や量り売りなどこれまでやっていなかったことも始めました。そう言えば、一度目の緊急事態宣言下で休業していた時期は、川崎市内限定で個人のお客さんに瓶詰めの配達をしていましたが、普段あまり行かない場所にも行き、地元をより広く知ることができてなかなか楽しかったです。

若手の育成やマネジメントより、モノ作りがしたかった。50歳で大手企業を退職し、趣味を生かしてブルワリーを開業(高林亮一さん/ライフシフト年齢50歳)

2021年、最近のボトルビールのラインナップ。直売所で販売している。

ビールづくりへの探究心は薄れるどころか、濃くなっている

振り返ると、会社を辞めてブルワリーを始めることに私自身の迷いはありませんでした。結局のところ、自分の手でモノを作り続けたいということなんだと思います。よく「趣味を仕事にすると、嫌いになる」と言いますが、ビールについてもっと知りたい、もっとビールづくりを極めたいという探究心は開業から3年経った今も薄れるどころか、濃くなっています。

ただ、正直、体力的にはキツいですね。現在の設備では、貯蔵のキャパシティの問題で週1回のペースで仕込みをしなければ需要に追いつきません。手動の機器ということもあって、ひとりでやるには割とハードだったりします。ありがたことに地元以外のビアバーや飲食店からも問い合わせが増えているのですが、お応えできないことが多く、生産体制が課題です。

設備投資をしたり、人を採用して拡大を、という思いもありつつ、自分の手でビールを作り、自分で売っている今が一番楽しいという気持ちもあり…。悩ましいところですが、この先にまだまだ可能性がある、ということ自体は悪くないのかな、と思っています。

現在、私は55歳。富士通に勤め続けていたら、役職定年を迎える年齢です。同年代の方の多くにとって、ちょうど今がシフトチェンジを考える時かもしれませんが、私の場合は、この歳まで待たなくてよかった、と思います。少しでも早く新しいスタートを切って正解でした。

体力的にも余裕がありましたし、クラフトビールをめぐる状況も5年前と今では変化しています。開業当時、全国のブルワリーは250軒ほどでしたが、現在は400軒ほど。結果論ですが、5年前だから波に乗れたところもありました。年齢の話をしているのではありません。若手社員にアドバイスをしながら自分自身に対して感じた、あの違和感に蓋をせず、踏み切ってよかったと思っています。

(取材・文/泉彩子)

若手の育成やマネジメントより、モノ作りがしたかった。50歳で大手企業を退職し、趣味を生かしてブルワリーを開業(高林亮一さん/ライフシフト年齢50歳)

夫婦、時には息子の手も借りて家族で営んでいる。写真は開業3周年の時。