起業から1年でのべ300名以上の海外ゲストをアテンドした通訳ガイドの牧貴子さん。外国人旅行客に日本の文化伝統、自然、食、人のすばらしさを伝え、日本のファンを増やすことに全力投球されています。これまで周りから請われる形で転職し、商社やIT企業で成果を出してきましたが、60歳という節目を機に初めて本当に自分がやりたかったことに挑戦したといいます。通訳ガイドは未経験でしたが、シニアならではの豊富な人生経験が強みとなり、いまやオファーが絶えない人気ガイドに。牧さんのライフシフトをうかがいました。

PROFILE

牧貴子さん(NO.130)

■1965年福岡生まれ。関西外国語短期大学卒業後、京セラに就職し、海外半導体営業部に5年勤務。その後、福岡の洋菓子店の立ち上げに携わり、2年間勤務ののち、東京の輸入専門商社で10年間勤務。2001年にIT企業の設立に共同経営者として関わり、中小企業の経営改善に携わる。2024年に訪日外国人向け旅行会社としてライジングサンアンバサダーズを設立。2001年からウイスキー文化研究所の顧問としても活動。総合旅行業務取扱管理者、旅程管理主任者。https://www.r-s-ambassadors.com/message

■家族:夫

■座右の銘:笑顔という名のパスポートで人のこころの国境を超える

大企業を辞めて地元・福岡の洋菓子店の立ち上げへ

私はもともとCA(キャビンアテンダント)を目指していました。地元の福岡から大阪の関西外国語短期大学に入学したのは、CAに採用される人が多かったからです。しかし、当時、CAになるための条件のひとつが「身長160㎝以上」でした。就職課に相談に行くと、身長158㎝の私は受験資格がないと言われ、泣く泣く夢をあきらめたのです。気持ちを切り替えて「得意の英語が活かせる商社を目指そう」と考えましたが、男女雇用機会均等法の施行前年です。実家通いではない女子学生は願書すら受け付けてもらえない時代でした。

一方、大学から近かった京セラは女子学生の応募を受け付けていることがわかりました。海外営業部を志望し、アシスタントとして入社することができたのです。当時の京セラはまだ今ほどの大企業ではなく、アットホームな雰囲気でした。先輩や上司もいい人ばかりで居心地のいい会社でした。一方で葛藤もありました。海外半導体営業部に配属され、英語を使える業務でしたが、同期の男性がどんどん海外に出ていく中、私はずっと国内での勤務だったからです。今となってはそれは実力がなかったからだとわかるのですが、当時は不満を抱えていました。

京セラで海外半導体営業部にいた頃。

入社5年目でモヤモヤしていた頃、実家のある福岡から思わぬ話が舞い込みました。地元のチョコレート会社の御子息が洋菓子店を開業することになり、お店の立ち上げを担当してくれる人を探しているという話でした。母の勤め先の社長夫人が、チョコレート会社の社長夫人に「貴子ちゃんがいいんじゃないの?」と推薦してくれたそうなのです。私のようにバリバリと働き、身軽にどこにでも行くような人材が地元にはおらず、私に声がかかったのでしょう。とはいえ、私は英語が使える仕事にこだわっていたので一度はお断りしました。しかし先方から「必要な費用は全額出す」と言われ、「お店を一から作れるチャンスなんてなかなかないかも」と考え直し、引き受けることにしたのです。24歳のときでした。

京セラの上司や同僚は私が辞めて福岡に戻ることに驚いていましたが、快く送り出してくれました。福岡では洋菓子部門のマネージャーという立場で、新しい店舗の立ち上げと既存の2店舗の管理を任されました。朝8時から夜10時までほとんど休みなく働きましたが、お店を作り上げていく過程が楽しく、きついと思ったことはありません。人材を育成したり、店舗のディスプレイといったことを考えるのも新鮮でした。

貿易会社からスカウトされ東京へ移住

立ち上げた洋菓子店は軌道に乗り、売上も順調でした。しかし、2年ほど経つと、また現状にモヤモヤし始めました。頑張っていたのに給料を上げてもらえない、小さな町なので活動の場が狭まってしまう、そして英語を使う機会が全くないという理由からでした。すると再び思わぬ形で転機が訪れます。私の仕事ぶりを見ていた方の紹介で、温泉旅館を経営していた社長が来店され、「東京で貿易会社を立ち上げるので、一緒にやってくれないか」と誘われたのです。主な商材は、社長が経営していた温泉旅館向けのアメニティの輸入でした。給料もアップし、英語が使える仕事です。私の決断は早く、軽やかに東京に移り住み、2回目の転職をしたのです。

肩書きは営業部長でしたが、立ち上げ当初は一人で営業をしていました。まだインターネットが普及していない時代です。毎日JETRO(日本貿易振興機構)に通って取引先を探し、ファックスを送るようなアナログな営業方法でした。ここには26歳から9年間勤務し、29歳のときに結婚もしました。

ITベンチャーで経営者として20年以上働く

35歳になると、またもや知人の紹介で、今度はITベンチャーへと移ることにしました。ITエンジニアだった知人が独立して会社を始めるにあたり、「自分はプログラミングしかできないから、人事や経理、営業などを一緒にやってくれないか」と頼まれたのです。最初はちょっとお手伝いするくらいの気持ちでしたが、だんだんそちらに軸足が移り、貿易会社を辞め、新しい会社に取締役として参画したのです。私は共同経営者として会社を運営していくことになり、こちらでは20年以上在籍しました。

会社を設立した2001年はITバブルの時期で、2000年問題の後ということもあり、仕事が山のようにありました。ピークの時は本当に忙しく、1ヶ月に何百時間働いたかわかりません。ゴールデンウィークも夏休みもなく、毎日終電を逃してタクシーで帰り、週何回も徹夜していました。あまりに疲れていて、タクシーの運転手さんに慰められ、泣いたこともありました。それでも仕事は楽しく、社員もどんどん増えて会社は大きくなっていきました。

60歳からは、自分が好きなことを仕事にしたい

会社を立ち上げたときから漠然と「60歳までには引退しよう」と考えていました。忙しく働いてきたので、60歳を過ぎたら、自分が好きなことを仕事にしたいと思っていました。60歳が目前に迫ってきた55歳を過ぎた頃から共同経営者と話し合い、1年後の引退に向けて準備を始めたのです。

私はやはり「英語を使う仕事がしたい」という思いが強く、当時増えていたインバウンド需要に着目し、富裕層向けの旅行業を立ち上げようと決意しました。京セラ時代、海外の支社や顧客の接待をし、貿易会社時代にはテレビ局の知人から頼まれて来日ゲストのアテンドをしたことがあります。この経験がとても楽しかったので、「この仕事ならできる」という自信がありました。幸いなことに、周囲には「立ち上げたら協力するよ」と言ってくれる人もたくさんいました。アートや歌舞伎といったカルチャーが大好きだったこともあり、旅行業のなかでも日本の文化を発信するアクティビティを提供する仕事を目指しました。調べていくうちに、旅行業を始めるには国家資格である旅行業の免許が必要だとわかり、猛勉強しました。ほかにも添乗員資格や、旅行業務取扱管理者という国家資格も取得し、準備万端で臨んでいたのです。

ところが引退目前にして経営していた会社で思いもかけないトラブルに見舞われました。その結果、私は大きな借金を抱えてしまうことになったのです。これまで順風満帆なキャリアでしたが、55歳にして人生最大の困難が降りかかってきました。自己破産すれば借金を払わずに済みますが、そうなると旅行業者の登録自体ができなくなってしまいます。決断をせまられていたときに窮地を救ってくれたのは夫でした。彼は自宅を担保に入れてお金を借り、私が自己破産せずに会社の借金を返済することをサポートしてくれたのです。また、開業資金はこころある方がポンとご用立てくださり、周りの人に恵まれました。

結果的に、新たに借金を背負うことにはなりましたが、昔から切り替えが早い私です。「落ち込んでも15センチ」と決めています。何があっても深いところまで落ち込まず、なんとかなると信じ込むんです。「自分はめちゃくちゃ運がいい」と思っていますし、大変なことがあっても、これまでなんとかなってきました。今回のことも、借金を背負ったことよりも、「強制終了」によって会社から自由になれたことのほうが自分にとっては大事なんだと思えました。このトラブルのおかげで「晴れて好きな仕事に挑戦できる」と旅行業に邁進していけたのです。

これまでの仕事は、スカウトや紹介という請われる形で受けてきました。しかし旅行業は、私が初めて自分から「これをやりたい」と行動を起こした仕事です。インバウンドの観光客が増えている今の時代に、日本のファンを増やすというミッションを持って、観光を通じて日本の文化を発信し、日本に貢献したいという強い思いもありました。

還暦記念に赤い振袖を着て撮影。

富裕層向けの旅行企画・手配は収益性も高い

現在はおもに海外からの旅行者のガイディングと、富裕層向けの旅行企画・手配を行っています。私が担当するお客様はアメリカ、オーストラリア、ドイツ、チェコ、オランダなど、アジア以外の方がほとんどです。ガイディングは旅行エージェント経由の仕事が多く、大きな利益にはなりませんが、富裕層向けの企画は収益性が高いです。知人からの紹介で企業から提携の誘いもいくつか受けています。例えば、人工透析が必要な富裕層のお客様のために、ホテルで透析を受けられる体制を組んだり、刀鍛冶体験や寺の貸し切りといったラグジュアリーな文化体験を提供する企業との協業などです。

この仕事はお客様と直接触れ合い、喜んでいただけることが醍醐味です。ITの仕事では、社員が作ったものを取引先に間接的に喜んでもらう形でした。今はご案内後、「別れたくない」「次の旅行にもあなたを連れていきたい」と直接言っていただけるのがとてもうれしいです。旅行会社を評価するトリップアドバイザーに、お客様がたくさんの良いレビューを書いてくださっています。こうしてお客様に評価いただけるのも、新米ガイドゆえに準備にぬかりがないからだと思います。お客様のご希望ルートが決まっている場合は、最低でも3回は下見に行き、コースをすべて回り、時間を測り、ランチの手配やアレルギー対応まで頭に叩き込みます。最近では、ほとんど知識がなかった相撲のガイドを頼まれ、猛勉強した結果、今では得意分野になりました。大相撲の場所中は15日のうち14日も国技館に通うほどです。

忙しい毎日ですが社員は雇わず、外部スタッフ2人に「TEAM TAKAKO」としてお手伝いをしてもらっています。私だけしかできない仕事を作りすぎると、また仕事に縛られてしまうので、私に何かあっても他の旅行業者に穴埋めしてもらえるような形が理想です。IT会社のように事業を大きく成長させるつもりはなく、様々な会社と組んで人やモノ、お金を融通し合う「コンソーシアム」のような形でやっていきたいと考えています。

海外富裕層の方のアテンド。

人生経験が活かせるので若者には負けない

富裕層向けのインバウンド市場は非常に大きく、大手旅行会社がほとんど参入していないため、ライバルと競い合う必要を感じません。まさに個人が活躍できるフィールドです。この仕事は、体力だけでなく、お客様とのコミュニケーション力や人間力が非常に重要です。私は英語が流暢だとは思っていませんが、コミュニケーション力には自信があります。インターネットで調べられる情報だけでなく、ネットには載っていない裏側の情報や、私自身の体験談がお客様に求められていると感じています。だからこそ、これまでの人生経験を活かすことができ、そういう意味では若い方よりも年配の方のほうが向いていると思うのです。学生がバイトで通訳ガイドをしているケースもありますが、お客様の満足度が高くないという話も聞きます。私の周りでは、商社出身や海外勤務経験者、英語教師、子育てを終えた方など、様々な経験を持つ方がガイドとして活躍しており、皆、豊富な人生経験を活かしながら楽しんで仕事をしている印象です。

現在、旅行エージェントは常に人手不足で、自分の好みに合った会社を選べば、出勤日やツアーの長さ、内容なども選べるため、非常に柔軟に働けます。通訳ガイドの仕事は、定年後のセカンドキャリアとして非常に良い選択肢だと思います。以前はガイドをするには、通訳案内士という国家資格が必要でしたが今は不要です。まずは旅行エージェントに登録し、教育プログラムに参加して、自分が一番得意な地元や特定のスポットから始めるのも手です。東京に長く住んでいながら知らなかった場所を、この仕事を通して勉強していくのも楽しいです。

私の好きな言葉に、昔、社員が言ってくれた「笑顔という名のパスポートで人のこころの国境を超える」があります。まさにこれが私の行動の源です。これからも体が動く限り仕事を続け、可愛いおばあちゃんになって着物姿で案内するのも夢です。

取材・文/垣内栄

 

*ライフシフト・ジャパンは、数多くのライフシフターのインタビューを通じて紡ぎだした「ライフシフトの法則」をフレームワークとして、一人ひとりが「100年ライフ」をポジティブに捉え、自分らしさを生かし、ワクワク楽しく生きていくためのワークショップ「LIFE SHIFT JOURNEY」(ライフシフト・ジャーニー)を個人の方及び企業研修として提供しています。詳細はこちらをご覧ください。

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