広告代理店、フリーライター、大手通信会社と転職を重ねてきた中村知世さん。もともとオタク気質があるという中村さんは、20年前に旅先で美味しい餃子に出会い、以降、全国の餃子を食べ歩くようになります。コロナ禍では気になる餃子を取り寄せて家で食べ、美味しい焼き方を研究し、“餃子焼き師”としてイベントに呼ばれるようになりました。さらに会社員を続けながら、月に数回、当時住んでいた神奈川県辻堂で間借りで餃子店を営業するように。48歳のときに会社を辞めて餃子店を開くことを決意し、気に入った物件を見つけた徳島に移住。「辻堂餃子店」をオープンしました。未経験からの開業でお店を繁盛させている中村さんのライフシフトをうかがいました。

PROFILE

中村知世さん(NO.132)

■1975年東京生まれ。大学卒業後、広告代理店に就職後、外資系広告代理店を2社経験。32歳で退職し、沖縄へ移住。フリーライターとして5年経間働く。東京に戻った後、東日本大震災をきっかけに大手通信会社の宣伝部に転職。餃子愛が高じて、正社員として勤務しながら、餃子焼き師としても活動。2023年から月に数回、地元の神奈川県辻堂で間借りで餃子店を営業。2024年に退職し、徳島へ移住。辻堂餃子店をオープン。

■家族:ひとり暮らし

■座右の銘: 七転び八起き

広告代理店からフリーライター、そして通信会社へ

大学卒業後、通算で10年ほど広告業界で働きました。最初は小さな広告代理店でペットボトルのおまけなど販促物を担当していましたが、外資系広告代理店とのご縁ができて転職。CM制作や大手企業の広告全般を手がけていました。その後、別の外資系広告代理店に移りましたが、今度は広告制作に加えて、アジアリージョン代表という役職も加わり、ハードな働き方をしていました。ニューヨークのヘッドオフィスとの会議は、時差の関係で朝4時から始まります。それでも早く帰れるわけではなく、結局、過労がたたって休職することになりました。少しずつ体調は回復していきましたが、あの過酷な仕事の世界に戻るのはもう無理でした。

31歳のとき沖縄のゲストハウスの前で。このあと沖縄に移住。

20代で離婚して一人身に戻っていたこともあり、会社を辞めて、物書きをしようと横須賀、京都、沖縄を1ヶ月ごとに転々とし、名護に移住したのは32歳のときです。ご縁ができてライターの仕事をいただけるようになりましたが、バンドマネージャーをするようになったり、リーマンショックがあったりして、多忙な日々が続き、また過労で倒れることがしばしばありました。「このままだと前職の二の舞になる」と働き方を見直そうと思い、いったん実家のある東京に戻ることに。その数ヶ月後に、東日本大震災が発生したのです。

テレビを見ていると、ボランティアに駆け付ける人や、地震があっても会社に行こうと奮闘する人々が目に入りました。私もいてもたってもいられなくなり、「家でくすぶっているだけじゃダメだ」「復興のために何かできないか」と考えて、まずはボランティアに行くことにしたのです。でもそこで自分ができることは限られていたのでもどかしく、「会社員として再就職し、日本の経済を回すことに貢献しよう」という気持ちが生まれました。それから転職活動をして、ご縁があって大手通信会社に入社しました。これまでの広告の経験を活かせる宣伝部の仕事です。そこから12年間、再び会社員として勤めることになりました。

コロナ禍にイベント感覚で餃子店をスタート

餃子との出会いは、今から20年ほど前です。旅先の別府の餃子店「湖月」で食べた餃子が、それまでの私の餃子のイメージを覆すほど美味しく、衝撃を受けました。それからというもの、もともとオタク気質がある私は、旅先で餃子を探して食べるのがライフワークになりました。SNSが発展して餃子好きの人たちともつながることができ、ひたすら餃子の話が許される素敵な環境も楽しかったです。当時はまだ「食べる専門」でしたが、自分で焼くようになったのは、コロナ禍がきっかけです。多くの餃子店が通販を始め、取り寄せるようになりました。当時は「餃子店が困っているなら、私たちで餃子業界を守らなければ」という変な使命感に駆られていました。同じ餃子でも焼き方次第で美味しさがまったく変わってくるので、焼き方はとても大事です。餃子の美味しい焼き方を日夜研究し、餃子を焼いて出すと「すごく美味しい」という声をたくさんいただくようになりました。そこで誰かが「餃子焼き師」と名付けてくれたのですが、、その名に恥じぬよう餃活をしていたら、食のイベントに呼んでもらえる機会が増えていったのです。

本業のほうはコロナ禍でテレワークでの仕事が増えました。そこで、それまで住んでいた新宿から湘南エリアの辻堂に引っ越すことにしたのです。マンションを売却して戸建てを購入し、自宅兼シェアハウスと民宿の生活をスタート。入居者に餃子をふるまうことも多かったです。辻堂に引っ越してから半年が過ぎ、とある手術をして自宅療養をしていたときがあったのですが、近所のバーのオーナーと知り合いました。私の餃子焼き師としての活動を話すと、バーが休みの日曜と月曜にポップアップストアをさせてもらえることになったのです。

最初はイベント感覚で始めましたが、次第にお客さんが増えていき、気がつけば半年間も続けていました。餃子店を運営していることは会社には伝えていませんでした。するとある日、上司から呼び出されて、お店のことを聞かれました。SNSに私が店主として顔出ししている写真が載っていたそうです。私としては趣味やイベントの感覚でお店をしていましたが、会社からは禁止している副業とみなされたのだろうとのこと。こうして、お店は続けられなくなったのです。ちょうどコロナ禍が落ち着き、在宅勤務から出社モードへと変わった時期でもありました。すっかり在宅勤務に慣れ、餃子店の運営が楽しくなっていた私は、メンタル不調に陥り、休職することになりました。休職中は考える時間が山ほどあったので、会社を辞め、餃子店を開くことを決めました。48歳のときです。

辻堂で間借りして餃子店をしていたとき。

徳島へ移住し辻堂餃子店をオープン

最初は自宅に近い辻堂や茅ヶ崎で物件を探しましたが、なかなか見つかりませんでした。一度「ここがいい!」と思える物件に出会いましたが、不動産店からは飲食経験がないことを理由に断られてしまい、とてつもなく落ち込んでいたところ、餃子業界の人たちとの交流から地方の物件の話をいただくようになりました。香川にある物件がとてもよかったので見に行ったのですが、条件が変わって契約には至りませんでした。その時、車を運転してくれていた徳島の友人が「徳島に物件がたくさん空いているから見に来ない?」と誘ってくれたのです。

香川から徳島に移動し、到着した夜の22時から路地を歩いて、街の雰囲気や客層、空きテナントをチェックしました。そこで気になった物件があったので、翌日にさっそく問い合わせて内見。不動産店がリフォームをしてくれる建築事務所まで紹介してくれたのですが、そこのスタッフの方と意気投合したことが、ここでお店を開く決め手となりました。また、辻堂の自宅は友人が借りてくれることになり、家賃収入も得られる算段がつきました。

トントン拍子に進んだとはいえ、住んだことのない徳島への移住に私も少しは悩みました。ただ、悩んでいる時間がもったいないので、どうすれば悩みを打ち消せるかを考えるタイプです。徳島にお店を出すメリットを上げると、家賃は湘南エリアの半分程度。テナントは、10年以上空き物件でしたが、繁華街に向かう動線上にあり、路面店でガラス張りにできます。外からよく見えるお店にしたかったので、理想にぴったりでした。おしゃれな造りの人気店になれば、お客さんは来てくれるという確信もありました。徳島が移住者ウェルカムの雰囲気であることも後押ししてくれました。一方、移住することに東京に住む両親はびっくりして、賛成というわけではありませんでした。ただ両親は元気ですし、そこは気にせず突き進むことにしました。

2023年12月にテナントを契約し、リフォームをして、2024年4月に「辻堂餃子店」をオープンしました。開業資金は、金融公庫からの借入、徳島県の杉を使った建造物を作る補助金、そして自己資金でまかないました。施工会社の方も、補助金を調べてくれたり、壁塗りを手伝ってくれたりと、できるだけお金がかからないように考えてくれてありがたかったです。

お店の壁は自分たちでペンキ塗り。

スタッフと。餃子型の帽子がトレードマーク。

根っからの旅人なので先のことは興味の赴くままに

カフェみたいな店構えの餃子店は珍しさも手伝って、オープンから3ヶ月はおかげさまで連日満席という状況でした。お店が軌道に乗ったのは、広告代理店時代に培ったマーケティング感覚がとても役立っていると思います。立地を把握する能力やPRは私の得意分野です。オープン前からSNSでお店の工事の進捗中継を行っていましたが、新しもの好きの徳島の人たちが反応してくれ、フォロワーがどんどん増えて、オープンを楽しみにしてくださっていました。

カフェのような店構え。

海外のお客様が来てくださったことも。

今のメニューは、お客さんの好き嫌いやアレルギーを聞いて、こちらで餃子を選んで提供するおまかせスタイルにしています。「まるで串カツ屋さんのよう」と好評です。お店は26人ほど座れるため、一人では到底回すことができません。アルバイトの大学生を中心にスタッフを雇っています。人を雇用することで、人を育てるという高いミッションを自分に課せられるのも面白いですね。最近は近隣のマルシェへの出店を増やしており、他の出店者から学んだり、人との繋がりを広げたりしています。

クラフト餃子の一部。

オープンから1年半、日によって売上が大きく変動するものの黒字経営を維持できています。一方で、去年の利益はほぼ店の改修に充て、私の手取りはほとんどありません。ミニマリストなので生活費はまかなえていますが、去年は店のこと以外何もしておらず、お金を使うヒマもありませんでした。趣味のダイビングなど、個人的な遊びのお金は株式投資から出すことにしているので、手取りが少なくても遊ぶお金は確保しています。

私は根っからの旅人で、一つの場所に留まれるタイプではありません。同じ場所に閉じこもっているだけでは、視野が狭くなり、面白くない人になってしまうことも危惧しています。面白いことをやっている私に興味を持って、「あなたに会いたいから」とお店に来てくださるお客さんも多いので、私自身が楽しんでいないとお店も繁盛しないのではと思うんです。定休日も気づけば仕込みや買い出しなどで、また仕事の虫になってしまっているので、ちゃんと休みを取って、外の世界で楽しいインプットを、そしてお店で面白いアウトプットを出せるようにしていきたいと思っています。きっとこの先のことは自分の興味の赴くままに決めることになるでしょう。

お店の経営という仕事は、やってみると自分に合っていると感じます。餃子を作るクリエイティブな面も、接客で人の心を動かすのも、広告時代に面白いと思った要素に似ています。自分が極めている餃子の世界で、人々を驚かせられていることが、何よりも楽しい日々です。もちろん不安もあります。従業員がいないために店を閉めざるを得なくなる夢を見て怖くなることも。それでも、自分が面白いと思うことをお客さんも喜んでくれるなら、この仕事をできるだけ続けていきたいです。

「会社を辞めてお店を始めたい」とアドバイスを求められることもあります。しかし、誰もが新しい土地に移住し、ゼロからコミュニティを形成できるとは思えません。徳島でも、同世代の飲食店経営者の多くは地元の友人がメインの顧客だったりします。私のように何のゆかりもない場所でお店を始めるのは、何かしら強力なセールスポイント(私の場合「餃子オタク」)がないと難しいのではないでしょうか。お店を始めたい方は、まずは小さなお店からスタートするのが良いと思います。自分の家の一部を改装して家賃がかからないようにするなど、できるだけ固定費をかけないスタイルでリスクを抑えられます。

振り返れば私の人生は、考えていた通りになった試しがありません。新卒で働き始めた頃に、まさかフリーライターになるなんて想像もつかず、通信会社に入るなんて思ってもいませんでした。徳島に来ることは2年前までは全く考えていなかったのはお話した通りです。だから、先のことをあれこれ考えても意味がないというのが持論で、10年先に何をしているかは全くわかりません。座右の銘は「七転び八起き」。転んで立ち上がったら、今まで見えなかった新しい道が見えて、そこからアクションを繰り返してきました。まだ安定は求めていないので、これからも七転び八起きの人生が続いていきそうです。

取材・文/垣内栄

 

*ライフシフト・ジャパンは、数多くのライフシフターのインタビューを通じて紡ぎだした「ライフシフトの法則」をフレームワークとして、一人ひとりが「100年ライフ」をポジティブに捉え、自分らしさを生かし、ワクワク楽しく生きていくためのワークショップ「LIFE SHIFT JOURNEY」(ライフシフト・ジャーニー)を個人の方及び企業研修として提供しています。詳細はこちらをご覧ください。

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