琉球大学の准教授として学生のキャリア支援を行いながら、週末は妻とゴルフやサップ、シュノーケリングを楽しんでいる武田和久さん。しかしそれまでは家庭を顧みないほど仕事に没頭し、ストレスから体重が120キロにまで増えたり、体を壊したこともありました。報酬の高い会社を渡り歩き、営業成績はトップクラスで、人生の成功=お金と考えていた武田さんですが、心理学に出会ったことで徐々に考え方が変わりました。55歳のときには東京から沖縄に移住し、家族や趣味を大切にしながら働く幸せをかみしめています。仕事一辺倒の人生を脱し、安息を手に入れた武田さんのライフシフトをうかがいました。
武田和久さん(NO.134)
■1967年石川県生まれ。大学卒業後、地元の上場企業へ入社し、26歳でキーエンスに転職。30歳のときにプルデンシャル生命保険に転職し、35歳で友人とコンサルティング会社を起業。マネジメント、リーダーシップ、モチベーションなどがテーマの企業研修・講演活動を行う。46歳のときに法政大学大学院政策創造研究科に入学。52歳からは文京学院大学での講師の仕事も始め、55歳で沖縄に移住。現在は琉球大学・グローバル教育支援機構 の准教授として勤務。著書に『先のばしがなくなる仕事術』 (青春出版社)ほか。
■家族:妻
■座右の銘: 失敗は進行中の成功である
トップセールスとしてがむしゃらに働く日々
私は石川県出身で、大学卒業後は地元の上場企業に就職しました。そこで設計の仕事をしていた時、取引先のキーエンスの方から「うちの会社に合っていると思う」と薦められ、中途採用に応募したのです。そのときは800人の応募に3人だけが合格という難関を突破することができました。この転職で石川から大阪に移り住んだのが26歳のときです。
担当するのは技術職の仕事だと思いこんでいたのですが、配属されると営業職でショックを受けました。私は大学時代は理系で研究室にこもっていたような人間で、コミュニケーションが今では考えられないくらい苦手だったんです。当然のことながら最初は1500人中、下から8番目くらいの成績で随分と悩みました。しかし、部下への指示の仕方を変えるなど、自分のリーダーとしての在り方を見直すと成績が上がっていき、2年連続でシーケンス部門で西日本のトップセールスとなりました。
30歳になるとプルデンシャル生命保険からスカウトされて、2度目の転職をしました。最初は転職するつもりはなかったのですが、そこで働いている大学時代の先輩から「年収は数億円を超えている」と聞いて決断したのです。当時の私は、恥ずかしながらお金をたくさん得ることが自分の価値を証明するものだと思っていました。父親が自営業で働いている姿を見てきたこともお金に執着する理由のひとつだったのでしょう。また、高校時代に吹奏楽コンクールのソロパートで失敗したことがずっとコンプレックスになっていました。「お金を稼ぐことで周りから認められたい」という気持ちも強かったのだと思います。
入社後、最初の営業成績は順調でした。キーエンス時代から経営者の知り合いが多かったので、1週間で20件の保険を売ったこともありました。当時、日中は営業活動で、夜中に支社に戻ってロールプレイングをし、朝3時ごろに帰宅して翌朝8時ごろには家を出ることもよくありました。成果報酬制度だったため、自分が休んでしまうと収入が減ってしまうという強い恐怖がありました。働いていないと安心できないという感覚が、この時期にかなり染みついてしまったと思います。
しかし、紹介にも限りがあり、途中で途切れたことから一気に転落が始まりました。売れなくなると、ストレスで生活習慣が乱れ、体重は120kgまで増えました。30歳のときに結婚していたので、妻には随分と心配をかけてしまいました。
そんな時、キーエンス時代にお世話になった経営者の方が「武田君、仕事は順調なのか?」と心配して、ある大学で行われる心理学のセミナーを紹介してくれたんです。全く乗り気ではなく、付き合いで仕方なく行ったセミナーでしたが、ある瞬間に衝撃を受けました。それは「人は理屈では動かない」「お金だけでは幸せになれない」という内容を聞いた時でした。また、同期に伝説のトップセールスマン、故・甲州賢さんがいたのですが、彼に教えを乞うと「武田さんはお客様のことをどこまで本気で考えられていますか?」と言われ、ドキッとしました。そこから心を入れ替えて、お客様のために何ができるかを考え、心理学を活用することでセールスの成績がどんどん上がっていったのです。どん底の私の姿を見ていた後輩たちからは「どうやって這い上がったのかを教えて欲しい」と言われようになり、コンサルティングのスキルも身に付いていきました。
35歳で独立し、研修講師として活動
35歳のとき同期から「そこまで人にいろんなこと教えられるんだったら、2人でコンサル会社作らないか」と誘われました。正直なところまだお金に未練があり、「独立したらもっと儲かるんじゃないか」という考えもあって、お客様にもしっかりと説明して会社を辞めたのです。当時まだ珍しかったメール配信サービスを構築すると、大手保険会社3社が使ってくれ、事業は軌道に乗りました。ところが個人情報保護法が制定され、セキュリティを強化する必要が出てきました。そのたには数千万円がかかることがわかり、配信サービスは断念することになったのです。同期だったパートナーは別の道を歩くことになり、私が1人で会社を続けていくことになりました。
自分一人でできることといえば、営業担当の方向けに教えることだけです。ちょうど時代が変わり、心理学に興味を持つ人事部が増えていました。そこで心理学を盛り込んだ研修を始めたところ、たくさん依頼をいただけるようになったのです。当時はスキルアップのため毎週、東京まで心理学の勉強に通っていました。そこで知り合った経営者の方から「武田君の研修を求めている人や企業は東京にもたくさんあるので、上京してみてはどうか?」とアドバイスをもらったのです。とはいえ、本当に拠点を移してやっていけるのか、まだ自信がなかったので、まずは単身赴任で1年間、東京で仕事をしてみることにしました。すると確かに大阪よりも依頼が多くあったので、妻も呼んで正式に東京での生活が始まったのです。妻の会社は東京にも本社があり、会社からの依頼で以前と同じ秘書職を続けられることになりました。
38歳から45歳くらいまでの間は、多い時で年間200本以上、講師として登壇していました。しかし、毎週同じことばかり話しているとマンネリ感も出てきます。そんな時、書店で見つけたのが『日本でいちばん大切にしたい会社』という、坂本光司教授の本でした。私はいろんな会社で研修をしてきましたが、この本に出てくるようなすごい会社はまだ見たことがなかったので衝撃を受けました。そこで「坂本教授のもとで学び、いろんな会社を見てみたい」と思い、教授がいる法政大学の大学院に入学することにしたのです。当時ゼミ生は70人くらいいて、半分以上が経営者でした。「世の中のために本気で貢献したい!」という高い志を持った方たちばかりで刺激を受けました。また、実際にたくさんの会社を見させてもらうなかで、人のために生きる、役立つということが本当に世の中に喜ばれることなんだと実感し、お金=幸せという自分の価値観がまた薄らいでいったのです。

講師として全国を飛び回っていた40代。
身体を壊して働き方を見直し、大学の准教授へ
そんなある日、研修中に背中に激痛が走り、病院に行くと、内蔵機能に異常が見られ「これはすぐに入院した方が良い」と言われ、安静にするように言われました。様々な精密検査を受けても原因がわからなかったのですが、大学院での勉強と研修講師の仕事の激務で、身体が悲鳴を上げたのでしょう。50歳を前に「このまま身体を痛めつけていたら、人のために役立てない」と気づき、働き方を見直すきっかけとなりました。ちょうどそのタイミングで、私の心理学の講座に来られていた大学教授から「大学でインターンシップを強化したいので、学生と企業の人事を繋ぐ人材を求めている」と問い合わせがありました。周りには募集条件に該当する人物がおらず、私が候補にあがったのです。そこで「研修の仕事も可能な範囲で続けられる」ことを聞き、52歳の時、文京学院大学の准教授の仕事を引き受けました。
ただ、実際は想像以上に忙しく、週に数回はは朝4時起き、帰宅は夜中という生活でした。そこにコロナ禍が始まり、すべての授業を録画配信しなければならなくなったのです。当時は最大12科目×15コマを全部録画し、休みは一切ありませんでした。研修講師の仕事から少し離れて身体を休めたかったのに、結局ライフスタイルはあまり変わらなかったのです。
沖縄へ移住し、ようやく人間らしい生活へ
4年間、文京学院大学で働き、また一つのタイミングが来ました。コロナ禍で「移住」というキーワードが世間で言われ始めた矢先、琉球大学の教員募集を見つけ、「ここなら自分の経歴が活かせるのでは」と思いました。妻も移住に賛成してくれて早期退職の道を選び、私は無事に採用されて、55歳のときに夫婦で沖縄に移住しました。
海がキレイでリゾートのイメージが強い沖縄での暮らしをうらやむ人も多いのですが、実際の生活は旅行とはまったく違う部分も多くあります。「内地」から来る人には沖縄在住の人が保証人でないと不動産を貸してくれないところも多く、最初はなかなか住居が見つかりませんでした。湿気の強烈さにも驚きました。1週間エアコンをかけずに旅行に出ると、家中のものが真っ白にカビたのです。今は1部屋に1台除湿機を置いて生活をしています。物価は東京より高いですし、車社会なので朝夕の渋滞も半端ありません。
一方、ゴルフ、サップ、シュノーケリング、スケートボードと、東京では気軽にできないスポーツを日常的に行えるのは沖縄ならではです。天気が悪く、外で活動できない時は、部屋でDJセットを使って遊ぶことも始めました。じつは大学時代からレコードDJにずっと憧れていて、ようやくそれを実現しているんです。東京では仕事99%で生きてきた人間が、こんな豊かな生活ができるようになるなんて、想像もしていませんでした。以前は妻と旅行に行っても、仕事から完全に離れることはできず、妻によく叱られていました。今は趣味の時間が本当に楽しく、妻に「もっと若いうちから遊んでおけばよかったね」と言われ、その通りだなあと後悔しています。ようやく妻と過ごす時間も増えて、夫婦の関係性が良いと人生は楽しいと実感しています。
また、沖縄に来て幸せの感覚が変わってきたことにも気づきました。以前はフェイスブックで「いいね」が来ることで喜んでいるような時もありました。仕事での活躍の様子を人に伝えたいという気持ちが強かったのですが、今は、青い空に浮かぶ雲を1時間ぐらいぼーっと眺めているだけで、幸せだなあと感じるようになりました。曇ってどんどん形を変わっていくんですよね。昔はそんなことに気づく時間や感覚が本当になくて、仕事で結果を出すのが一番の幸せだったんです。

那覇空港の近くで飛行機の離発着を見ながらSUP。

昔は「ゴルフで仕事を獲得したくない」という思いからやらないと決めていたゴルフを今は夫婦で楽しんでいる
今度はシニア世代の幸せをサポートしていきたい
父親は6年前に亡くなりましたが、私は一人息子で、石川に母親を一人で残しています。父の介護は母親に任せっぱなしで、「もっと親孝行しておけばよかった」という後悔もすごくあります。今は2ヶ月に1回は石川に帰ることを目標にしていて、母親との時間も昔に比べると大きく増えました。
振り返ると母親との関係が変わったことも、結果やお金を追求しなくなった理由のひとつだと思います。私は学生時代から母親に褒められた感覚を持った
ことがなかったのですが、大学教員になった時に母親との会話の中で、とても強く認められたという実感が得られました。それがすごくうれしくて、何かが手放された感じがしました。私が保険の仕事をすると言った時、親戚一同から「なぜキーエンスという良い会社を辞める必要があるんだ」と反対された過去があります。それ以来、いくら頑張っても「なんで転職したんだ」という空気があったのですが、大学教員になって、人生で初めて認めてもらった感覚が持てたことで、引っかかっていたことが吹っ切れました。
沖縄に来て3年目。ようやく自分が望む、自由が多い生活を手に入れたので、この暮らしを大切にしながら、大学での仕事以外にもやれることがあるという気持ちが芽生えています。何か沖縄社会に貢献できることを手掛けたいという想いもありますが、ずっと沖縄にいるかどうかはわかりません。人生100年時代のこれからのことを考えるために、ライフシフト・ジャパンの「LIFE SHIFT JOURNEY」を受講し、パートナーとしての活動も始めました。以前から企業の研修に行くと、これまで会社のために頑張ってきたのに、見放されたり、つらい思いをしている50代の方が多いことを実感する場面が多々ありました。研修をしても理屈では語れないところがあって、この人たちが研修だけで本当に元気になれるだろうかというモヤモヤがいつもあります。私たちの世代は仕事ばかりをやってきた人が多く、今、人生のバランスを失っている人も多いのではないかと感じています。シニア研修に行くと、皆もっと人生を語りたい、人と繋がりたいと思っていることがわかります。仕事だけではなく、自分の好きなことを見つける、そして人間関係を大切にする。自分と同年代の人たちに人生を楽しんでもらえるサポートが何かできないかと考えているところです。

琉球大学にて。学生に就業体験機会を提供している。
(取材・文/垣内栄)
*ライフシフト・ジャパンは、数多くのライフシフターのインタビューを通じて紡ぎだした「ライフシフトの法則」をフレームワークとして、一人ひとりが「100年ライフ」をポジティブに捉え、自分らしさを生かし、ワクワク楽しく生きていくためのワークショップ「LIFE SHIFT JOURNEY」(ライフシフト・ジャーニー)を個人の方及び企業研修として提供しています。詳細はこちらをご覧ください。
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