大学入学を機に山口から上京し、卒業後は複数の出版社でキャリアを積んできた可部さん。独身であまり先のことは考えずに生きてきましたが、40代後半からは、定年後の不安、更年期、山口に住む母親の介護などが重なり、かなり鬱々とした日々を送っていました。52歳のときに母親が亡くなり、山口の実家の処遇問題が浮上します。「地元に帰る気はなくても実家を売却するのは寂しい」と悩んでいたところ、友人から「リノベーションして民泊にする」というアイデアがもらえました。ちょうど地元では地域創生の活動が進んでおり、民泊の需要もあることが判明。そこで地元の建築会社に依頼し、昨年、実家をゲストハウスにリノベーションしました。現在はテレワークをしながら東京と山口を行き来していますが、地元の魅力にあらためて気づき、定年後は山口に戻る可能性が見えてきました。可部さんのライフシフトの軌跡をたどりました。
可部惠子さん(NO.139)
■1970年生まれ。お茶の水女子大学卒業後、リクルートに入社。住宅情報誌、ゲーム誌、就職情報誌の編集、出版子会社のメディアファクトリーへの出向を経て31歳で退職。業務委託などで働いた後、リクルートの制作子会社に”半出戻り”入社し、フリーマガジン「R25」、通販誌「eyeco」の立ち上げを担当。39歳で退職後、メディアファクトリー(現KADOKAWA)に入社し、Webメディアの立ち上げを経て経営管理業務に携わることに。現在はコーポレートマネジメント部に所属し、連結の予算策定・業績管理を担当。2025年に空き家だった山口の実家をゲストハウスにリノベーションして民泊運営をスタート。現在は東京と山口の2拠点生活を送る。
■座右の銘: 人間万事塞翁が馬
東京に憧れて山口から上京

故郷の山口・室積。実家からは瀬戸内海が一望できる。
私は山口県の東部、光市の南部に位置する室積(むろづみ)の出身です。瀬戸内海に面した穏やかな町ですが、10代の頃は「田舎には文化がない」「保守的な環境を飛び出したい」「とにかく東京に出たい」という思いしかありませんでした。兄たちも東京の大学に進学していたこともあり、高校卒業後は東京の大学に進学し、当時興味のあった服飾美学を専攻しました。就職活動では「デパートのバイヤーなんていいなぁ」と漠然とした憧れを持っていたものの、リクルートで単発のアルバイトをしたことが、結果的に就職のきっかけとなりました。じつは就職活動の途中で体調を崩してしまったときがあったのですが、そのときリクルートからお見舞いのお花が届いたんです。うれしかったですし、女性が活躍していて、のびのび働ける社風も気に入って、リクルートで働くことを決めました。内定者面談の際、「編集でも営業でもいいですが、経理だけはやめてください」と伝えました。当時は細かい数字を見るような計数系の仕事は向いていないと思っていたからです。それが今では経営管理の仕事をしているのですから、人生はわからないものです。
30代は自分探しに試行錯誤の日々
入社後の配属は住宅情報誌の編集部でした。ここで企画を立てて、取材をして制作する編集者としての基礎を学びました。その後、ゲーム誌、就職情報誌の編集部を経て、出版系子会社のメディアファクトリーに出向。このとき、のちにアカデミー賞を受賞された監督の書籍を担当し、本物のクリエイターの方々の仕事ぶりを間近で見て、彼らの圧倒的な熱量やこだわりが自分には欠けているなと衝撃を受けました。また、正直なところ編集の仕事に飽きてきている自分もいたのです。一方、ビジネスモデルやマーケティングの研修で、ロジカルに数字で定量的に考える思考法に興味を持ちました。「私は編集よりもこっちの方が向いているかもしれない」と感じ始めていました。
31歳の時、早期退職制度を使ってリクルートを辞めました。その後は友人のクリニックを手伝ったり、業務委託で働いたりしていたのですが、ツテを通じてリクルートの制作系の子会社に再就職することに。いわば”半出戻り”です。そこでは、『R25』というフリーマガジンと、『eyeco』という通販雑誌の2つの立ち上げを担当。編集というよりは、業務推進や進行管理などハード面、オペレーション面の仕事でした。その後、別の部署へ異動となり福岡へ転勤したのですが、支社では自分で考えて提案する余地が少なく、「東京が決めたことに従う」という立ち位置が自分に向いてないことを悟りました。折しもリーマンショックの影響で早期退職の募集があったため退職して帰京。結局、古巣であるメディアファクトリーにまた出戻ったのです。
振り返ると私の30代は自分の適性を見極めるための試行錯誤の時期だったように思います。同級生はみんなバリバリ働いているのに、私はフラフラしていて「何をやっているのだろう」と落ち込むこともありました。でも困った時にはいつも誰かが手を差し伸べてくれて、仕事が途絶えなかったのは幸運でした。
適職に気づいたもののミッドライフクライシスに
メディアファクトリーではデジタルメディアの部署を経て管理部門へ異動になりました。そこで計数管理を担当するようになったことが、今に繋がっています。メディアファクトリーは2013年、KADOKAWAに買収され、経営管理局の配属となりました。現在は連結の予算策定や業績管理を担当しています。もう10年以上この仕事をしていますが、経営に関する仕事はまったく飽きることがありません。同じことをやっているようで、会社の業績も変わり、市場環境も変わるので、毎回違う問題が出てきます。その都度、どう対応するかを考えることが性に合っているんだと思います。
一方で40歳を過ぎてからプライベートでは大変なことがありました。健康診断で要精密検査となり、大学病院で検査を受けたところ「腎臓がん」と診断されたのです。セカンドオピニオンでも同様の診断だったため、手術することになったのですが、「どうもがんではない気がする」と胸騒ぎがしました。手術の1週間前に知人を通して別の大学病院を受診してイチから検査をやり直したところ、腫瘍は良性で手術は不要、経過観察となりました。経過観察は10年間続いたものの、腫瘍が大きくなることはなく、今も健康で過ごせています。その前には東日本大震災があったので、「命があるうちにやりたいことをやろう」という気持ちが強くなっていました。

2012年、車で10日間のアメリカ西南部旅行。がんの疑いや東日本大震災を経て「やれるときにやりたいことやっておこう」という気持ちに。
40代後半になるといわゆるミドルライフクライシスを経験。定年が見えてきて「この先どうするんだろう」という不安が募ってきました。同時に母のがんも発覚し、入退院と介護を繰り返すうち、課長としてメンバーのマネジメントをすることがだんだんと負担に感じられるようになってきました。ちょうどその頃、会社の大きな組織改編もあったため、役職をはずしてもらい、今は専門職という位置づけで働いています。当初は役職を離れることで自身の存在価値が揺らぎましたが、今となってはやりたいことに集中できるポジションに満足しています。

2022年、コロナ禍の中、介護用品を揃えて母親の自宅介護も本格的になる。
その後、母は緩和ケア病棟に入って3ヶ月に1回は自宅療養、そしてまた入院という生活に。自宅療養のたびに私が山口に帰って介護をする生活が続きました。ちょうどコロナ禍でリモートワークとなり、実家で仕事をしながら母の介護ができるようになると「そもそも東京にいる意味って何?」と思うように。定年後を東京で過ごすとしても、自分のルーツがあるわけではなく、友達はいてもそれぞれの人生があります。とはいえ山口に戻るという気持ちにはまだなれず、犬を飼い始めたこともあって、プチ移住感覚で都心からやや郊外の大きな川沿いへ引っ越しました。河川敷には大きな広場やビオトーブ、ドッグランなどがあり、犬と暮らすには最高の環境です。10代のころは田舎が嫌で嫌でしょうがなかった私ですが、次第に「田舎も悪くないな」という気持ちに変わっていったのです。

2023年、犬(新之助)を飼い始める。世話をする立場になって、これまでと生き方が180度変わった。
山口の実家をゲストハウスにして地域活性活動にも参加
2023年6月、母が亡くなって、実家をどうするかという問題が発生しました。父はすでに他界しており、空き家になってしまうので、最初は売ろうと思っていました。でも遺品整理をすると思い出の品がたくさんあり、あらためて両親や自分のルーツについて、深く考える時間にもなりました。リクルート時代の同僚に住まいの専門家がいたので相談すると「リノベーションして民泊活用すれば、ランニングコストも賄え、誰かが使ってくれれば家も傷まない。地域のためにもなる」とアドバイスをもらえました。地元の室積は、私が住んでいた頃と違って、地域創生が盛り上がってきており、新しいお店も増えてきました。ただ地元にはまだ民泊の文化がなく、管理してくれる業者もいません。そこで地域創生に力を入れている地元の会社に「民泊の管理事業をやってみませんか?」と提案したところ、実家が第1号管理物件になったのです。

リノベーションした実家のリビングルームとベッドルーム。
リノベーションは地元の工務店にお願いすることができました。東京でなくとも探せばセンスのよい工務店もありました。自分が帰った時に居心地がいいように、内装はホテルライクに仕上げてもらいました。浄化槽を入れたり、窓を全部二重サッシにしたり、予算は少しオーバーしましたが、仕上がりには大満足です。家具も自分で選び、庭ではバーベキューができるようにしています。犬連れでの滞在もOKです。管理会社とは定期的にWebミーティングをして、手探りで進めてきました。
私の場合、商業主義でやっているわけではないので、回転率を上げて人をどんどん入れることはしていません。ランニングコストとプラスアルファでリノベーション費用を多少回収できればいいという感覚です。高齢者が多い保守的な地域ですし、丁寧に、慎重に運営し、地域のためになることが一番です。ゲストハウスを始めたことで、地元の人たちとの繋がりも生まれました。移住してきたり、地域創生をやっている若者がいたのです。「山口に帰っても友達もいないなぁ」と思っていたのですが、若い人たちと繋がって「面白いことができそう!」とワクワクする気持ちがわいてきました。若い頃はあんなに出たかった地元ですが、もう一度向き合ってみると、自分が住みたい場所にしていけばいいのではないかという前向きな気持ちに。町をよくしようと思えば、政治や行政との繋がりも大事なので、ネットワークも築いている最中です。
室積は自然が豊かで、海があり、古い町並みも趣があるのですが、地元の人は「こんな田舎に誰が来るの?」「駅から遠いし、バス路線も廃止されたし、アクセスが悪いよ」と言います。でも魅力的な場所にすればわざわざ来てくれる人が増えるはずです。東京の感覚を知っている私だからこそ架け橋になれることがあると思っています。

県外からもお客さんが来る「室積市場ん」。築170年以上の商家を改装し、女性グループがマルシェを運営。
地元に帰るという選択肢が生まれ、すっきりした気持ちに
勤務先はリモートワークがOKなので、半年に1回は山口に1か月ほど滞在して仕事をしています。横須賀から山口まで東京九州フェリーがあるので、ペットを連れて帰りやすいのです。人生100年時代の計画は立てていません。健康第一で、ピンピンコロリを目指し、健康寿命を延ばすことだけは意識しています。将来的に山口に戻ることになった場合、ゲストハウスをやめて自分の家として住むか、あるいは近くに別の家を建てて住みながらゲストハウスを経営するかはまだ決めていません。どちらにしても、地域を盛り上げる活動をしながら、動物たちと暮らす生活になるのではないかと思います。定年後にやりたいことや住みたい場所の選択肢が広がって、今はすっきりした気持ちでいます。
思い起こせば40代後半からのミッドライフクライシスを経て、コロナ禍で「東京にいる意味」を問い直す時間があったからこそ、地元にたどりつきました。50歳前後から考え始めて、行動して、道筋が見えるまでは5年間かかりました。60歳間近になって「どうしよう」と考えていたら、「お金はどうする?」「自分の生活はどうする?」と迷って、地元に戻るという選択肢はなかったかもしれません。定年後の暮らしが決まっていない方は、できるだけ早めに自分の人生を考え直す時間を持ったほうがいいと思います。
自分のルーツにあらためて向き合ってみることも大事なのではないかと思います。10年前とは違って、コロナ禍で地方移住が注目され、リモートワークが普及して、価値観も変わってきています。生まれ育った場所に戻ったり、実家を活用するという選択肢が使えるかどうかは場所の特性や条件にもよるでしょう。自然が豊か、古い街並みがある、おいしい食材がある、地域を盛り上げようとしている仲間がいるかといったことがポイントになると思います。すべての人に当てはまるわけではありませんが、私の生き方が地方出身者や地方の実家問題を抱えている人のヒントになれば幸いです。
(取材・文/垣内栄)
*ライフシフト・ジャパンは、数多くのライフシフターのインタビューを通じて紡ぎだした「ライフシフトの法則」をフレームワークとして、一人ひとりが「100年ライフ」をポジティブに捉え、自分らしさを生かし、ワクワク楽しく生きていくためのワークショップ「LIFE SHIFT JOURNEY」(ライフシフト・ジャーニー)を個人の方及び企業研修として提供しています。詳細はこちらをご覧ください。
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