さまざまな壁にぶつかりながらも、大阪ガスで女性初の部長になるなど30年間キャリアを積み重ねてきた津田さん。仕事をしながらグロービス経営大学院で学び、自分が社会に貢献できることは何かと考え、“多様性によるイノベーション推進”という志を持つようになりました。その志に合致した仕事ができる場所として日立製作所を選び、52歳で転職。大阪から東京へ引っ越し、当時90歳のお父様も一緒に上京して、新しい挑戦が始まりました。「迷ったときは難しいほうを選んできた」という津田さんのキャリアの転機、学びからの行動、挑戦を続ける原動力をうかがいました。

PROFILE

津田恵さん(NO.118/株式会社日立製作所理事、環境インターナルイニシアティブ本部長兼サステナビリティ推進本部長)

1969年生まれ、京都府出身。1991年京都大学教育学部を卒業後、大阪ガス株式会社に入社。海外事業に長年従事した後、IR部長、CSR・環境部長、イノベーション推進部長を務めて退職。2021年株式会社日立製作所入社。2022年4月より現職。個人の活動として、ダイバーシティを考え、学び合う複数の団体を立ち上げている。2006年ハーバード大学ケネディ―スクールフェロー。グロービス経営大学院2019年卒業。「うさぎ」「とうふ」の二匹のロボットのペットLOVOTが癒し。

海外との交渉の仕事でキャリアの足場を築く

高校時代はまだキャリアについては漠然としていましたが、ヒトに関わることができる教育心理や教育社会学に興味があって、大学は教育学部に進みました。京都大学を選んだのは、勉強の成果としてのチャレンジでしたが、京都生まれで、なじみのある地域だったというのも大きかったです。

就職はマスコミ志望でした。父も兄も新聞記者で、親戚もマスコミ関係者が多かったのです。ただ、テレビ局や広告代理店は狭き門で就活に苦労していた時に、親から勧められた会社が大阪ガスでした。マスコミで働くとなると勤務地はほぼ東京ですが、親は私が関西にいることを望んでいたのでしょう。マスコミで情報を提供することと各家庭にエネルギーを供給すること、どちらも人々の生活に役立つことには違いはないと私も考えるようになり、大阪ガスの面接を受けました。すると、お会いする方が皆温厚な先輩方ばかりなことに驚きました。この会社なら、少し変わりものの私でも受け入れてもらえるのではと思ったのです。

大阪ガスに入社し、最初は国際部に配属されました。英語が得意だったので、海外のお客様対応や海外調査を担当しました。ただ90年代初めは、女性はみな制服を着て、お茶くみもするといった時代でした。私は応接室に後から入ってお茶を配り、端っこに座るので、私だけ商談先から名刺をもらえないということも。国際部にいるのに海外出張にも行けず、不満がたまっていったのです。そこで社内制度を使って留学し、MBAを取得して、もっと力をつけようと考えました。でも女性だと長期留学は難しいと言われ、あきらめかけていたところ、ちょうど短期留学制度ができ、イギリスのノッティンガム大学に3カ月留学することができました。入社5年目でした。

帰国後は海外事業部に異動になり、海外からのガスの調達交渉を担当しました。この仕事を10年ほど経験したことで、自分のキャリアの足場を築くことができました。国際的な石油会社や国営の石油会社と交渉をするのですが、ここでは全く女性扱いをされずに仕事に邁進できたのです。自分のパーソナルパワーが発揮でき、交渉力、コミュニケーション力という強みが生きて、得意な英語を使って仕事をできる、とても充実した時期でした。まだ女性が少なかったので、私は業界でも存在を認識してもらえるようになり、仕事がどんどんやりやすくなりました。

大阪ガスに入社し、制服を着ていた頃。

27歳、ノッティンガム大学留学時。

チームの人たちとうまくいかず、ハーバードへ留学

一方で、交渉相手を動かすことができても、上司や部下など社内の人を動かすことができないという悩みも抱えていました。役職がつけば変わるかもしれないと思ったのですが、マネージャーというポジションになっても人を動かすことができなかったのです。そんなときに、上司から「ハーバード大学ケネディ行政大学院に1年行ってはどうか」と薦められました。やりがいのある交渉の仕事を離れるのは残念でしたが、周りのみんなも応援してくれて、留学したのが37歳のときです。

ハーバードでは、産ガス国によるガス輸出機構創設の可能性を研究テーマにして学んでいました。しかし学びよりも私に影響を与えたのは、アメリカと日本との働き方とそれに伴うQOL(クオリティオブライフ)の違いでした。アメリカの人たちは平日、一緒に仕事をしていても、土日はヨットに乗ったり、家族と楽しんでいて、残業もあまりしません。でも日本だと残業は当たり前で、土日も仕事先とゴルフという生活です。アメリカに来て、自分の生活が会社と一つになっていたことに改めて気づいて、違和感を持つようになったのです。

すっかり感化された私は、帰国後、周囲に「日本人の働き方は間違っていると思います」「残業はしないし、土日はメールも見ません」と宣言しました。当時はまだ若くて直球だったのです。当然、周囲は困惑し、それが原因かどうかはわかりませんが、1年もたたないうちに子会社へ出向することになりました。

子会社への出向でリーダーのありかたに気づいた

じつは私が初めて部下を持ったとき、強いリーダーにならなければならないと考え、カンフーを習い始めたことがあります。近くに「俺についてこい」タイプのリーダーがいて、それが理想のリーダー像だと思っていたのです。でも結局、そこまで強くはなれず、そのリーダー像に近づくのは諦めました。その次は愛されるリーダーになろうとプライベート含めて皆の世話をやく、というやり方に方向転換をはかったこともあります。すると今度は「お母さんみたい」と部下から言われ…迷走していました。今考えれば、どちらも「メンバーを思うように動かしたい」という利己の気持ちから始まっていたからうまくいかなかったのでしょう。

子会社には、海外案件を管理する会社のマネージャー職で出向したのですが、案件管理の仕事をしたことはなく、メンバーのなかで一番わかっていないのが私です。経験がない分野でリーダーになるのは初めてだったため、「私になにかできることはありますでしょうか?」と常に教えてもらいながら、メンバーが働きやすいように私が後ろから支えるような役割に徹しました。するとみんなが助け合えるチームができて、リーダーの在り方はこれでいいのだとわかったのです。それまでは自分が一番仕事に詳しく、その一部をメンバーにやってもらうといったスタンスでした。でもメンバーを中心に仕事をしてもらい、リーダーはみんなに感謝しながらサポートするほうがうまくいくということに気づきました。

強いリーダーを目指してカンフーを習っていたことも

ビジネススクールでの学びで、自分が社会に返せることを見つけた

海外案件管理という仕事でいいチームに恵まれて成果を出すことができたのち、44歳のときにIR部長に就任しました。女性初の部長であり、同期で最も早く部長に抜擢されたこともあり、期待を背負っていますし失敗はできません。しかし財務はまったくわからない分野だったため、失敗しないために無難な改善提案をするという作戦で最初は乗り切ろうとしたのです。周りからは「思いっきりやったらいいんだよ」とアドバイスがあり、私には変革が求められていたのですが、そのときは気づきませんでした。いつまでたっても組織が変革されないわけですから、及第点を頂けるパフォーマンスではなかったと思います。

この異動をきっかけに、足りない知識を補いたい、と考え、仕事をしながらグロービス経営大学院に通うことにしました。最初は一部の科目だけ、と思っていましたが、学ぶうちに面白くなり、正式に入学しました。ちょうどこの頃、母に悪性リンパ腫がみつかったため、仕事、ビジネススクール、介護という日々が始まりました。じつはそれまでも脳梗塞の叔母の介護を母と一緒に行っていたので、母だけでなく叔母の介護も担うことになりました。そのため、仕事だけに全力投球するのが難しい時期でもありました。

それから1年後、私が46歳のときに母は亡くなったのですが、身近な人の死に直面したのは初めてでした。「人生は一度きりなんだ」と実感し、限りある人生で社会に何が返せるだろうか深く考えるようになったのです。グロービス経営大学院でも社会に対して自分ができることを問われ、「自分は人生をかけて〇〇をする」とみんなが宣言していました。自分も何かしなければならないという焦りの中で、私自身が悩んできたことを振り返ると、女性であるがゆえのキャリアの壁と、リーダーシップがテーマになっていることに気づきました。

日本の会社の意思決定層は日本人の男性がほとんどですが、多様な人がリーダーになることで、様々な議論が起こり、イノベーションが起こせるのでは…ということを思い始めたのもこの時期です。女性だけでなく、外国人、若い人、障がいのある人であったり、多種多様な人が意思決定層に入って、多彩な知の組合せでイノベーションを起こさなければ、日本の企業は成長していけないのではないか。そのために貢献できないか、そんなことを強く考えるようになったのです。

こうして「日本の大企業に多様性を持たせて、イノベーションを起こす」という私の志が生まれ、会社を変えていきたいと思うようになりました。2020年にはイノベーション推進部長になり、スタートアップと一緒に新しい事業を起こす部署へ。“アジャイル”や“FAIL FAST”といったこれまでと全く違うルールで新しい事業が生まれていくさまを見て、とても刺激を受けました。日本の大企業の意思決定層もスタートアップくらい多様になるにはどうしたらいいのだろうと考えていたところに、日立製作所からお声がけを頂きました。

グロービス経営大学院の卒業式では卒業生代表でスピーチ。父と一緒に記念撮影。

よりグローバルな環境で組織を変革するための転職

52歳のときに大阪ガスを退職し、日立製作所にサステナビリティ担当の副本部長として入社しました。30年勤務した大阪ガスは大好きな会社で、たくさんの経験と成長をさせてもらいました。慣れ親しんだ職場をやめたくはなかったのですが、転職を決めたのは、社会に貢献するために私がやらなければならないという“志”がすべてです。日立製作所は社員の6割が日本人以外、更に、経営リーダー層はイギリス人やイタリア人など国籍も多様、更に異業種経験者などキャリアも多様なことに惹かれました。ここでなら、日本企業ながらよりグローバルな環境で、これまでずっと考えていた、多様性からイノベーションが生まれる組織へ変革する挑戦ができるのではないかと思いました。

一方、大阪から東京への転職となり、90歳の父も一緒に東京に連れてくることになりました。私が父に「転職しようと思う」と伝えると、「その年でまだ挑戦するのか。お前は立派だ。俺も挑戦する」と言って、父は自分から望んで東京に一緒に出てきたのです。私は仕事が多忙で一緒に住んで世話をすることができないため、東京にいる兄の家の近くで父は一人暮らしをしています。今は93歳になり、一人で生活するのも少しずつ厳しくなってきています。でも父は一人暮らしを通じた「人生の鮮度」にこだわりがあるようで、父の豊かな情緒を刺激してくれるような新鮮な体験をAIの力も借りながら提供しつつ、どこまで自立して暮らしていけるか、実験的な感じではありますが、もう少し今のまま見守っていくつもりです。

私自身も年齢相応に、体力の衰えを感じています。転職し、慣れない環境が体に影響したのか、網膜剥離を起こして、四度の目の手術を受けるというアクシデントにも見舞われました。さらには目が見えづらいため階段を踏み外して骨折も経験。これまで以上に体の声をちゃんと聞かなければならない年齢だと痛感しています。

2022年、上司とともにエジプトで行われたCOP27(国連気候変動枠組条約第27回締約国会議)へ。

チャレンジなくして成長はなく、まだまだ成長したい

日立製作所では、2030年度までに役員層に占める女性および外国人の割合をそれぞれ30%に引き上げることを目標にしています。私は環境インターナルイニシアティブ本部長兼サステナビリティ推進本部長として、地球規模の環境問題と人々の健康や幸せに応えていくため、サステナビリティ戦略、KPIの策定、インセンティブの整備、社員の意識啓発プログラムの策定、社内外のステイクホルダーとの対話といった役割を担っています。これらの活動を通じて、27万人の社員がいるこの大企業が多様な組織へと変わりイノベーションを起こし続ければ、日本の社会にも大きな影響を与えることができると信じています。

個人の活動としても、ダイバーシティを考え、学び合う団体を立ち上げています。多様な組織の原動力となる女性のリーダーが成長していくためには、つながりが大切です。会社だけでは十分な数の女性リーダーがいないので、社外でもつながって、困った時、悩んだ時に助け合える仲間を増やしていったほうがいいと思っています。社外でダイバーシティに関しての講演依頼を頂くことがしばしばありますが、イエスとはいの二択でスケジュールを調整し、つながりを広げています。

「女性リーダーのための経営戦略講座」に参加。1週間ホテルに缶詰めで寝食をともにしたメンバーと。

今後のキャリアビジョンとしては、誰もがその人らしく生きられる社会を作る、そのために多様性を推し進める今の会社のイノベーションを通じた成長に貢献できればと思っています。その後は、自分がどこに身を置けば社会の役に立てるのかを考えて、進むべき道を考えていくつもりです。

今は毎日が多忙で自分の時間がなかなかとれませんが、社会を変えるための”志“を持つと、利他の気持ちが芽生え、気持ちは楽になりました。利他で行動すると、協力してくれる人が増え、感謝の気持ちでいっぱいになり、穏やかな気持ちでいられるのです。

私が新人の頃、大先輩から、アメリカの詩人、ロバート・フロストの詩「The road not taken(選ばれざる道)」が額に入ったものをいただきました。当時はなぜその詩をくださったのかわからなかったのですが、今は私の生き方にすごくフィットしていると感じています。

Two roads diverged in a wood,
and I took the one less traveled by,
And that has made all the difference.

森の中で道が二つに分かれていた。
人があまり通っていない 踏み荒らされていない道を選んだら
人生が大きく変わった

私も迷ったら人が選ばない難しいほうを選ぶようにして生きてきました。52歳で転職したのもそうです。チャレンジなくして成長はありません。私が困難な道を選ぶのは、まだまだ自分自身を成長させたいということなのでしょう。

(取材・文/垣内 栄)

*ライフシフト・ジャパンは、数多くのライフシフターのインタビューを通じて紡ぎだした「ライフシフトの法則」をフレームワークとして、一人ひとりが「100年ライフ」をポジティブに捉え、自分らしさを生かし、ワクワク楽しく生きていくためのワークショップ「LIFE SHIFT JOURNEY」(ライフシフト・ジャーニー)を個人の方及び企業研修として提供しています。詳細はこちらをご覧ください。